独歩の独り世界・旅世界

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Guatemala 国内の旅 4)メヒコへ③タパチュラTapachula

 メキシコの最果ての町タパチュラは日本人にとってゆかりのある街でもあった、ここは明治30年110年位前の榎本殖民の上陸地であった、榎本殖民とは榎本武揚(幕末から明治にかけて活躍したとてつもなくスケールが大きく、ものすごい才能を持ったわたしの大好きな偉人)が組織して送り出した日本人初のメキシコ移民のことである、その一行は当初チアパス州エスクエントラ(この地が現在のどこなのかはわからない)に入植する予定でタパチュラに上陸したとあるが、その後この移民事業は失敗したようである、しかしほとんどはその地に残り艱難辛苦を経てこのタパチュラを永住の地にされたとか、そしてそのご子孫が今でも住まわれていると聞いていた、実際訊ねることはしなかったが日本姓の家・商店および日本人会館などがあるとのことであった、、、わたしが以前訪れたのは40年前の1970年だった、恥ずかしながらそのときの記憶はまったくない、しかしその頃からこんな大きな街だったであろうか?ともかくグアテマラから来ると、メキシコの最果ての田舎街でも、いかにその国力が違うかを見せつけられる想い、そこはグアテマラ第2の町ケツェルテナンゴ(シェラ)に優るとも劣らない繁栄振りであった、たまたまその日が日曜日であったからかもしれないが中米のどこの街とも同じ構造のセントラルパルケ(中央公園)と教会を中心としたエリアは人で溢れていた、わたしはそのパルケセントラル・イダルゴ公園を確認してからホテル探しにかかった、その周辺に安宿があると聞いていたからだ、確かに何軒かはあったがいずれも200ペソ(1ペソ7円くらいとすると1400円?)くらい、もしくは満室であった、そうやって1時間もその周辺をうろうろしていたが結局適当なところを見つけることができなかった、何しろ地図とかガイドブックの類が何もないのだからカンだけが頼り、パルケセントラル界隈をはずれてみるしかなかった、そうやって歩き回っていたところホスペダという看板が目にとまった、ホスペダhospedaとかポサダPosadaとかは安宿の代名詞のようなもの(英語でいうboarding house、lodge,、guest houseの類で下宿屋?、ま、安宿)すぐに訪ねてみると空き部屋はあり一泊80ペソとのことだったので即決した、もちろんバストイレつき扇風機もついていた、暑いところだったのでシャワーが気持ちよかった、そして次に夕食の買出しに出かけた、パルケセントラルまではそれでも10分くらいのところだったので再びその界隈まで行ってみることにした、その辺りは商店が軒を連ね露店、屋台がひしめいて車も人も混みあっていた、まず最初に探したのはビール、しかしこれが意外にもなかなか見つからず、すでにロスモチスのときそうだったようにコンビニでそれを仕入れた、通りのショーケースのパンがあまりにもうまそうだったのでパン屋さんでパンを、屋台の朱に染まった塩茹での海老がこれまたたまらなくうまそうだったのでちょっと高かったけどそれも買ってしまった、そしていわゆる屋台のタコス屋でタコス1ヶ5ペソのを3ヶ買ってたぶんそれで夕飯には十分そうであった、あと生野菜でもあればと思いながら宿に戻るとそのホスペダのラウンジ?(飲食スペース)にトマトが山盛りになっているではないか ! オーナーのおばさんに聞いたら分けてくれるという、2個3ペソで買ってトータル45ペソ350円くらいであった、しかしホテル代(80ペソ600円)を払うと残りもあと40ペソ300円くらいになってしまった、、、もちろん両替すれば問題はないのだけれど、できればそれであげたかった、で念のため明日の国境までのコレクティボの料金はあらかじめ確認してあった、国境の街シウダー イダルゴ Ciudad Hidalgoはタリスマンより少し遠くて20ペソとのことであった、、、その夜暑さのためか、あるいは塩茹での海老があまりにもしょっぱかったせいか(ずいぶん水洗いしたけど)喉が渇いて眠れなかった、普段水分はほとんどとらずに済んでいたが(たとえば山に行くときでもペットボトルの500ml2本で余った)、その夜はたまらずホスペダの冷蔵庫から清涼飲料1本(500ml)を買わざるをえなかった(前にも書いたことだけど自販機などはない、それはとても健全だと思っている)しかし、それは1本ですまなかった、しばらくしてもう1本、計16ペソ残り24ペソになった‥

 あくる朝朝食はGuateに入ってからとるしかないと決めていたから、シャワー浴びるとすぐにチェックアウトした、とても親切にしてくれたおばさんに礼を言って別れ際にこんな質問をしていた、‘わたしは40年前に一度この街に来たことがある、たしかその時はメキシコシティから汽車できた記憶があるのだけれど今は鉄道は廃線になっていると聞いている、が、もし駅舎あとでも残っているなら訪れてみたいのだが、それはどの辺にあるのか?’と、今思ったことだが、そのときの旅はたぶんほとんど下手ながらスペイン語で通していたことに気づいた、もうすっかり忘れかけているが‥??その時それは通じたようだった、と、そのおばさんの旦那さんが出てきて詳しく説明してくれるのだった、が、実はそれはよくわからなかったのである、なんでもパルケの1本か2本東の道をまっすぐ南に下れと言っているようだった、わかった振りをしてあらためて礼を言ってそこを出た、、、で、その言われた方角を目指した、が、どのくらいの距離かわからない、でも歩いていけるようにもとれた、途中心配になって年配のおじさんに同じ質問をしてみた、そしたら、そこの道の角からコレクティボに乗れば4ペソで連れて行ってくれると言っている、えっ?コレクティボ?ということは遠いのかしら?まして今4ペソ払う余裕はない‥ただし方角は間違ってはいないようだったのでまた歩きだす、タパチュラの闘牛場とか墓地とかがあったが線路の跡はない、、、かれこれ1時間近く歩いたであろうか?そんなに遠いのだろうか?結局わからず戻ろうかと思ったその時、目に飛び込んできたものがあった、X印の標識といったらわかるであろうか?昔の踏み切りには日本でもX印の木製の標識が立っていたのだ、それだった、朽ちかけたようにそれは立っていた、踏み切りだ ! ということは‥? ! 諦めないでよかった、奇跡か、とも思った、そこに線路があった、昔の踏み切り跡に立った、で駅舎跡はどっちだ?それらしいものは見えなかったのでとりあえず廃線になった鉄路を右に行ってみた、しばらくいくと大きな川にでて線路は途切れていた、昔ここに橋がかかっていたのであろうか?その姿は跡形もなかった、来た道を先ほどの踏み切りに向かって戻る、道沿いの民家に人影があったので聞いてみた、昔この辺に駅舎はなかったのだろうか?と、この先にあるよと教えてくれた、それは先ほどの踏切を左のほうへ行ったところに確かにあった、信号塔?とか給水タンク?ホームのあとも残っているではないか ! まったく覚えていないのだけれど涙がでそうになった、草ぼうぼうのあとに残されている廃線・駅舎跡、数枚の写真を撮って当時を偲び、そのときの仲間たちのことを思い浮かべていた、その一人は昨年の秋62歳の若さで病死していた、もしかしたらその彼がわたしをここに導いてくれたのかもしれなかった‥

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 昔の駅舎前からは一本の大きな通りが延びていてパルケセントラルのほうに向かっていたが、行き当たったところにあったのは別の公園であった、まだ新しい公共の建物が建っていたが中には入らなかった、そのあたり一帯はパルケセントラルから下ったあたりの下町の雰囲気とはがらっと代わって近代的なショッピングゾーン?銀行や大きな会社のビルが建ち並んでいた、改めてタパチュラはでかい街だと認識させられる、が、こちらはその日の朝飯にも事欠く貧乏人、その周辺には縁がなくまたパルケセントラルに戻り昨日のコレクティボ乗り場に向かった、その乗り場につく前にその方向から1台のコレクティボが走ってきて助手がイダルゴイダルゴと叫んでいる、いくら?と聞いてみると18ペソだという、昨日の話しより安いではないか ! ?すぐにそれに乗る(何社か会社があって料金もそれぞれだったのかもしれない)、まだ座席に余裕があったのでそのあともその助手はイダルゴイダルゴと叫び続けていた、昨日通った道を途中まで戻り右折、南に向かった、道路の造りもグアテマラに比べるとぜんぜん比較にならない、つくづく国力の差を感じながら国境の町シウダ イダルゴに向かうのであった~

 昨日の国境の町タリスマンより少し遠く、そしてずっとでかい街であった、コレクティボが着いたイダルゴのパルケセントラルから歩いて国境まで行けた、昨日もそうだったがここも国境越えをする人は少なく役人は暇そうであった、ここでももしかしたら多少金がかかるか思いきや1ペソ(7円)払えといってきた、それは何代だかわからなかったが小銭が6ペソ残っていた、1ペソで済んでほっとして昨日より長い(国境の)橋を渡った、その橋の片側に線路が通っているではないか !そう今は使われていないがタパチュラまで敷かれていた鉄道はその後この橋を渡ってグアテマラシティまで通じていたのである、そのグアテマラシティの駅舎がわたしが昨年の12月に初めてグアテ市に泊まった宿の近くにあった鉄道博物館になっていたのだ、鉄道の時代は終わったのか?今ではグアテマラでも鉄道は走っていない‥

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  再びグアテマラ入国、昨年の12月にホンデュラスに行ったときもそうだったが、このときも10Qとられた、ホンデュラスに行ったときは出るときに今回は入国時に、だからそれが出国税なのか入国税だったのかは未だにわからない??が、手続きはいたって簡単、何の問題もなかった、グアテマラ側の町はテクンウマンTecun Umanといって、その昔スペイン人と勇敢に戦ったキチェの英雄の名がつけられた結構大きな街だった、国境事務所を出たところに珍しくシクロ(自転車リキシャ)が待機していて乗らないかと声をかけられたのだけれど、歩いていけるだろうと思って断ってしまった、ところが街を見物がてらバスターミナルを探すが見つからない、パルケセントラルで少し休んで暇そうなオッサンに聞いてみると数ブロックいったところを左に行けという、このときもはっきり理解できたわけではなかったが言われた方向にまた歩いてみた、しかしなかなかそれらしい建物はなかった、後でわかったことだが道を一本手前で曲がっていたこと、そしてそのバスターミナルは実は新築されたばかりで、断片的にメモしていた富永mapの情報はすでに更新されていたのだった、結局流しの別のシクロを使わざるを得なかった、そのシクロに乗ったところからはバスターミナルはそんなに遠くなかったが、同じ5Qなら最初に声をかけられたときに乗るべきだったと悔やんだ、何故ならそこもタパチュラと同じくかなり暑いところだったからである、まだ新しいバスターミナルには今までにあまり目にしたことがない比較的新しいモデルのデラックスバスが何台か停まっていてグアテマラシティ行き直行バスとのことであった、だんだんわかってきた、そうか、メキシコから陸路でグアテマラシテイに向かう場合、このルートが最も早く便利で楽そうなことがわかってきたのである、理由はこのルートはメキシコから中米にかけて連なる南シェラマドレ山脈の太平洋側の山すそを通っていて、そこはほとんど平地に近い、それはその山脈の山間を通る全線山道といった感じのCA1に比べるとどれだけ走りやすくスピードが出せるかわからない、そこはCA2といって今やメキシコとグアテマラを結ぶ主動脈となっていたのだ、たぶんテクウマン~グアテマラ間のバスは5~6時間くらいしかかからなかったはずだ、グアテシティ行きのバスがデラックスなのも肯けた、がシェラ行きの直通・直行バスはないとのことだった(その時間帯になかっただけかもしれない?)、コアテペケCoatepequeまでコレクティボで行ってそこで乗り換えろ、とのことであった、そのバスターミナルでもう11時を過ぎていたが朝飯代わりのパンを買ってコレクティボに乗った、11時半に出発したコレクティボでまもなく異常な光景を目撃することになる、左手、右側通行のこの国の道路の反対車線(つまりメキシコに向かう車線)に国境通過のために待機している大型トラックの列、その距離延々十数キロ?にも及んでいたのである ! !、それはこの道がいまやいかに重要な幹線道路になっているかを裏付けていた、そのトラックの大きさもさることながら(それは日本の大型トラックの比ではない)たぶん最後尾に着いたトラックはもしかしたら国境通過に数日を要すのではないかと思われた、もちろんドライバーは承知の上で、それでも山道よりは平坦な道を選んでいるのだろうと想像できた、たぶんそのトラックはグアテマラだけでなく遠くパナマから通じているCA1、,CA2を通ってきたエルサルバドルコスタリカパナマのトラックだったかもしれない、そう思うと国境越えは大変であっても、そんな国際トラックドライバーは結構面白い仕事?それでなくとも仕事のないこれらの国においては楽で割のいい仕事なのかもしれないと元トラックドライバーは思うのであった、、、

 コアテペケへはテクンウマンから約1時間5Qだった、最初の印象はいやに学性の多い街だな、というものであった、たまたま学校帰りの時間帯に出くわしたのかもしれないが、やたら街にもバスにも学生が目立ったのである、しかしここも結構大きな街で、コレクティボの終着はバスターミナルでもパルケセントラルでもなかったのだけれど降ろされたところは人々で賑わっていた、ターミナルではなかったがバスの発着場のようでもあった、なので屋台や露店が多くここでもカルネデレスの定食を昼飯に食べることができたが、ここの定食は安くてうまかった(飲み物つきで15Q)、言われるままコレクティボを降りたあたりで待っているとチキンバスが来た、行き先表示はReuとなっている、ReuとはレタルレウRetalhuleu県の県都、同名のレタルレウ市のことであることは知っていたが、だとするとシェラとは逆方向になる、つまり地図によるとここコアテペケから東へCA2をしばらく行くと道は二手に分かれる、左がシェラでレウは右だ、ということはこのバスはシェラには行かない?が念のために車掌に聞いてみた、シェラに行きたいんだがシェラ行きのバスは何時来るんだ?そしたらこのバスに乗れと言っている‥??よくわからない、どういうことだろう??バスの表示と車掌の言ってることが違う、どっちが正しいのだろう?どうしようかとほんとに迷ったが、騙されたと思って乗るしかなかった、最初のチェックポイントはそのCA2の分岐点だった、右に行った、レウに向かっている、どうなってるんだ?そのバスは予想通り比較的平坦な道を飛ばしに飛ばす、そしてコアテペケから約1時間14時ころレウに着いた、乗客のほとんどはそこで降りた、しかしそこは終点ではなかったのだ、そこからバスは山道をシェラに向かった、わたしが気がつかなかっただけでそのバスの行き先表示にはシェラも書かれてあったのかもしれない、何故ならそのバスの最終的な行き先はなんとウエウエテナンゴ(Huehuetenango シェラからさらに北上すること3、4時間)だったのだから‥たぶんこういうことだったのだと思う、わたしが勝手に思い込んでいたコアテペケ~シェラのルートは距離からすると近いようだが実際はほとんど険しい山道で当然乗客も少ない、一方レウ経由の道は幹線だしレウ市自体グアテマラ南西部最大の町だからバスルートとしてはこれ以外は考えられないということではなかったのか?たしかにレウからの山道はほとんど登りとなったがそれほどの険しさは感じられなかったし交通量も多い道だった、ということでレウを過ぎた辺りでは納得していたのだが、こんどはその日の天気をうらんでいた、せっかくの山道、天気がよければさぞ美しいところであろうことは想像できたのだけれどあいにくの天気だったからだ、しかしだいぶ高くまで登ったあたりであることに気づくのであった、あれっ ! ? この道通ったことがある ! !、そんなはずは‥あった、、、気づくのが遅すぎたかもしれない、たしか富永mapには その先しばらく行くとこの国には珍しいトンネルがあると記されていた、どうやらそのトンネルをくぐったようであった、とするとこの先はスニル!?間違いなかった、たった2日前に歩いた道をバスは走り抜けた、そうして川を渡ってスニルの街を抜け同じ道をシェラまで行った、シェラ着15時45分レウから1時間半だった、コアテペケからの料金は18Qだった、こうして一泊二日のメキシコビザ(滞在期間)延長の旅を終えた、交通費のトータルは途中多少ぼられたりもしたが通貨が異なるので日本円になおすとだいたい1000円弱、ホテル代と食事代が1000円強くらい?だった、シェラから往復2000円の旅であった、シェラとレテルレウは標高差2000mくらい?下は熱帯の暑さであったが途中から涼しくなり、だんだん寒くなった、しかしその時は最初に来たときのきれるような厳しい寒さではなくなっていた‥

 さて、最後にこの旅の目的のひとつだったことの結果を書いておきたいと思う、わたしが40年前に通った国境はどこだったか?それは④のタパチュラ、タリスマン~エルカルメンだったようだ、調べたわけではないので確証はないがその頃まだ①②⑤の国境は開かれてなかったのではないかと思う、太平洋側のCA2の道が開発されたのもそれより後のことではなかったか?少なくとも当時Tikalへは陸路は通じてなかった、飛行機でしか行けなかったので諦めた記憶はある、そしてかすかにしか覚えてないのだけどメキシコからグアテマラに入ったとき、たぶんおんぼろのバスはあったのだと思うが、いきなり大カーブを曲がってそれから延々山道を行った記憶があった、その大カーブがたしかにエルカルメンの手前にあった、その前まではずっと険しい山道だった、だからそこしか考えられない‥、そうだとするとその時たぶんシェラ(ケツェルテナンゴ)に寄ったことになる、、シェラのどこに泊まってその後どうしたのだろう‥??今のところその先のことはわかっていない、古い資料を探せばでてくるかもしれないけれど~