独歩の独り世界・旅世界

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Guatemala 国内の旅 4)メヒコへ④サンペドロに戻る

 自分で書いていてその矛盾に気がついてもよさそうなものの、昨日はまったくそれに気づかなかった、ここに改めて訂正をさせていただく、、即ち昨日記した、40年前にはもしかしたらタパチュラ、シウダヒダルゴ~グアテマラ・テクンウマンの間の国境はまだ開かれていなかったのでは?という憶測は、その後の記述、‘国境の橋を渡っているときに目にした鉄道’によって、その齟齬が明らかとなった、、、つまりそんなはずはなかったのだ、よってここに訂正させていただきます~

 さて、あくる日そのままサンペドロに戻るにはもったいない気がして、というか、もしかしたら最初からそのつもりであったのかもしれないのだが、帰り道トトニカパンという街に寄った、というのは、その日(3月1日 火曜日)がちょうどそこの市の日だったからである、つまり最初からそれに合わせて全体的なスケジュールを立てていたのかもしれない?今となっては定かでないのだが‥、が、トトニカパンにそれほど大きな魅力や是非行ってみたいという動機があったわけでもなかった、トトニカパンTotonicapanは小さいながらもそれでも一つの県でその県都が同名のトトニカパン(正確にはSan Miguel Totonicapanという、もうひとつクアトロカミノスの近くにSan Cristbal Totonicapanという街がある)通称トトと呼ばれていた、シェラと同じく先住民キチェの村(街?)で、夏の祭りと陶器で有名とのことであった、シェラからは直通バスがあったがグアテ市方面から来た場合はクアトロカミノスで乗り換える必要があった、そう3日前にスニルからシェラに戻った際バスを降りて歩いていたときに見つけたところがToto行きバスのターミナルだったのだ、だからそのバスターミナルはわかっていたはずだった、しかし ‥ 

 TハウスTさんに礼を言って別れをつげ、まず向かった先はシェラのスーパーマーケットだった、パナでもそうだったようにサンペドロにはスーパーがなく酒類が高かったので、それの買出し、そしてそのTotoのバスターミナルに向かったのだが、見つけられなかった、方向は間違ってなかったと思うが、地図もわたしのカン・記憶も当てにならなかったということだ、迷って人に聞いてようやくたどり着くことができた、なんか迷路のようであった、oto行きバスはその時間帯すいていたのだけれど、30分くらい走ったクアトロカミノスからは混みだした、そこからさらに30分山間の街トトニカパンのバスターミナルに着いた、そこからパルケセントラルまでミニバスやトゥクトゥクがあったが歩いてみた、10分くらい歩くと市の露店が現れだし、パルケセントラル周辺は露店で埋まっていた、ちょっと他と違っていたのはカテドラル(教会)がパルケセントラルに面しておらず、はす向かいのような位置にあってその前も立派に造られた公園('?広場)になっていたがそこには露店の出店はなかった、その立派に造られた広場の下はどうやら駐車場のようであった、結構規模の大きな市で(縦横4筋くらいが露店で埋まっていた)人混みも凄かった、しかし何か土産になりそうなものを探したが、めぼしいものは見つけられなかった、と、どう見ても日本人にしか見えない、ちょっと年齢不詳(若くもなく、かといって年寄りでもない)なオッサンorオニイサン?がやはり何か物色している風、そうそう日本人の来るようなところではなかったが日本語で話しかけてみると京都の人だった、簡単な自己紹介と情報交換、それによると彼は京都でお店を持っていて世界中の民芸品の類を扱っているとか、また言葉・写真・音楽などに関心を持っていて、そういったもの・ことの紹介をされていると話してくれた、とても当たりの柔らかな感じのいい人であった、てあるならば、商売・ビジネス(仕入れ)でここに来ていることになる、お邪魔をしてはいけないと思ってちょっと立ち話しただけで別れる、で1時間半くらいうろうろしていたが、結局土産になりそうなもの1個と珍しく日本の人形焼き風の菓子を見つけたので買って食べたに過ぎなかった、、トトニカパンからのバスはめちゃめちゃ混んでいた、シェラ~トトニカパンは5.5Qだったが、トトニカパン~クアトロカミノスは3Qだった、降りられないかと思ったくらい混んでいたが、クアトロカミノスは幹線上最も大きな交差点・乗り換え地点だったのでシェラ行きのバスの乗客の半分くらいはそこで降りた、、、

 クアトロカミノスCuatro Caminos(直訳は4つの道)は文字通り四辻(十字路)を意味していた、そこは前に述べたことのあるロスエンクエントロスがサンタクルスデキチェやチチカステナンゴへ行く道の分岐点として重要なポイントであったのと同じく、いやそれ以上に要衝の地だったと思われる、即ちグアテ市方面から来た道CA1はそのまままっすぐ行くとウエウエHuehuetenango、そしてメキシコへ、左に曲がるとケツェルテナンゴ(シェラ)へ、右に曲がるとトトニカパンへ行く道の交差点であったのである、だからアンティグアからチマルテナンゴに出たときに初めて目にする信号を、その後この国道1号線CA1上ここにいたるまで見ることはない(その間約2時間半くらい?)、この国においてそこに信号があること自体にその重要性が現れているように思われる、:けだしその信号があっても常にそこは発着のバスが何台も停車していて混雑混乱しているのであった、逆に言えばそこでバス待ちしていればあらゆる方向へ行くバスがあらゆる方向から来るから最も効率とよく目的のバスに乗れる場所でもあったのだ、ただし座れるかどうかは別にして~

 ひとつ不思議なことがあってその後何回かそこで乗降車することになったが、その時間がいつも12時頃だった、そのときもちょうど昼時で周りに食べ物屋もたくさんあったが、わたしはパンを買ってバス待ちをしていた、サンペドロ行きのバスは待つこと20分くらいできた、車掌が降りてきて呼び込みをはじめたから、来た時のことを思い出して念のためいくらか聞いてみた、25Qと言ってきた、まともだった、それなら納得、しかしわたしは20Qにしてくれと言ってみた、そしたらOKといってくれるではないか、いかに人によっていい値が違うかのいい例だった、だから面白いのだ、この国は ! そのいい加減さが !

 サンペドロには15時ころ着いた、その前にせっかく通るのならついでにと思って、手前のサンフアンでバスを降りていた、S君宅へ寄ってみたが不在だったのでビールだけ買ってサンフアンからはピックアップでサンペドロに戻った、街のネットやさんでS君にmailを入れてからカーサアンドレアCasa Andreaに行った、アンドレアおばさん(年が77歳とのことだったので、ばあさんといったほうがより実際に近いのかもしれない?以下Sra.アンドレアと書くことにしよう)は上機嫌で迎えてくれ部屋代の交渉になった、母屋とは別棟に木造の建物があって部屋が4つ、そのうちの3つは平屋でバスなしが2つ、バスつきは後で紹介する米国人Joln氏がすでに使用していた、バスつきで残るは一番端の2階建て上下に一部屋づつついてる部屋しかなかった、2階のベランダ(?部屋の前のちょっとしたスペース)は眺めがよくて気持ち良さそうだった、高いかな?空き部屋のバスなし平屋は一日20Qといっている、それは高いと思った、2階建ての2間を一日20Qでどうかと聞いてみるとそれでOKがでた、食事はどうするか聞いてくる?えっ?食事作ってくれるの?という話になった、それはありがたい話だった、後でわかったことだがほとんど現金収入のないSra.(セニョーラ)にとっては金になることならなんでもしますよ、ということらしかったし、それはある程度わかっていたからこちらもそれに応えるべく値段によると答えた、失敗だったのは内容によると言わなかったことだ、で、最終的に朝と晩飯つき宿代込みで一日50Q(約500円)で決着した、Sra.にとってそれで十分だったのかはわからないがいが、わたしは満足であったので、当初予定は1週間だったのを12日間にしてその場で600Q払った、そこはわたしが通っていたスパニッシュスクールArco Irisに隣接して建っていた、いや、正確に言うとArco IrisはSra,アンドレアが所有する敷地にあったのである~

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