独歩の独り世界・旅世界

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『独歩爺最後の旅』ネパール篇 3,カカニ Kakaniは最後のご褒美だったのか?(この旅録の最終回)

この旅の終わりが近づいてきました、ま、無事に帰ったのだからブログも書けたのだけれど、やはりいろいろあった旅だったなぁと改めて思う、で、いろいろあったけどやはり振り返ってみると楽しかったなぁ、という想いしかない。そうやってまた一年生かされた(長生きさせてもらった)ような想いです。

 

ポカラの悲劇は、そう思うとたいした悲劇ではなかった(大げさな言い方をしてしまった)ように思う、言い方を改めるべきかもしれません。ただ、いい薬にはなった、つまり正真正銘の爺さんなのだから分を弁えろ、とお𠮟りを受けたということだったのかも??しかしせっかくポカラまでいって残念だったことは、ま、何回もポカラからの比類ないヒマラヤの美しさは目にしていたから、初訪問者ほどではないにしろ、やはりヒマラヤを目にすることができなかったことであった。ただそれは発病・入院がためではなく、ただ単に天気が悪かっただけのことであった。ということは旅における運・不運とは天候以外はそれには該当しないのでないかという想いだった。こればっかりはどうすることもできないことであった(ま、よく言われることだが普段の行いの結果、ですね??)。

 

しかし、やはりネパールの最大の価値(魅力)はと問われればやはりヒマラヤと答えるしかない、それほど圧倒的あるいは絶対的な神々しささえ感じさせ、見るものを魅了し感動させる迫力は他では目にすることのできないものと確信的に言い切れるもののように思う。それを今回は五日ほど滞在したが目にすることができなかったのだった。やはりわたしの行いに問題があったのであろう・・?? 悔しい想いは残ったのであった。

 

だがしかし、わたしは諦めなかったのである。カトマンズに戻った翌朝、ちょうどIさんが日本に着いた頃、Hotel Madhubanの屋上から西の空を見つめていた。前日ポカラからの帰路では残念ながらヒマラヤの山影は目にできなかったが、確実に天気が回復しそうな明るさが蘇っていた。そして翌3/22の朝、確かに西の空は晴れていたのである。その時わたしは、幻だったかもしれないが遠くに白い塊を目にしたように思えた(カトマンズの高いビルの上から晴れていれば遠くに白い山影が見えることがあるのだ)。わたしは帰着したばかりのIさんに、相手の状況もお構いなしに(こういう時のラインの力は凄いと思う、相手にとってはいい迷惑だったと思うが)<お疲れのところ申し訳ないが、確か持っていたガイドブックにカカニの情報が載っていたと思うので、写メで送ってくれないか>とラインで頼んでいた。数時間後にその写メは届いたのであった。そして、すでに準備は整えてあったので、その時フロントにいたLaxman氏の息子さんにバイクタクシーの手配を頼んでいた。ちょうどお昼頃だったと思う、カカニ近くのバス停のある村を通るローカルバスの乗り場まで運んでもらうためであった(バイクタクシーは150NPRだったが、バス乗り場に到着したときバスの発車間際でドライバーに支払いする間がなく、Laxman氏にもらってくれといってバスに乗り込み、後で清算するというあわただしさであったが、ツキが戻ってきている兆しはあった)。

3/22の朝Madhubanの屋上からの日の出 6時半頃、天気は良くなりそうだった

カニについてはこれまでに訪れたことはなかったが、すでによく知っていた。一つはカトマンズ郊外からヒマラヤが見える数少ない場所としてガイドブックに載っていて、東(朝日)のナガルコット、西(夕陽)のカカニとして知られていた。前回ネパールに来た時(10年前、まだ歩けた頃)にナガルコットは訪れていたが、カカニにいくときに下車するカウレタナKaulethanaというバス停のある小さな村は、その時の主目的であったランタントレッキングのベースになる村シャプルベシ Syapru Besiまでいくときに、ガイドに連れられてローカルバスで通ったことがあったのである。辻になっていたバス停のある村はよく覚えていた。何よりそこまでのすさまじい道、まさにネパールの絶景が眼下に広がる悪路の素晴らしさは忘れようがない、これぞネパールの道、ネパールのバス(前回カトマンズ~ポカラ間の幹道を走るデラックスバスがせいぜい時速25kmくらいしか出せないだろうと書いたが、おそらくそのローカルバスの道では10kmも出せないような道だった。ちょっと油断したら谷底に真っ逆さま、しかもでこぼこの超悪路、<わたし的には>最高の道 !!)として称賛したいくらい思い出深いところであった。だからその朝、カカニにいってみるかと閃いたのであった。その道をもう一度通ってみたかったし、何よりバス代は知れており(100NPR=約100円)、それほど遠くなかったからであった。ま、これは賭けみたいなものだった。負けてもダメージ全くなしの・・、、

 

(Kaulethanaまで)20kmくらいの道のりを7~80分かかったか?(計算上は時速15kmくらいになるが、市街地はその速度で走れても山岳路は10km未満)13時半にバスを降りて歩き出す、軽い勾配の登り坂一本道、天気は悪くなかった、楽勝のハイキングである。途中出会ったのは地元民数名、観光客は皆無、我一人自然を満喫、ただこの時はまだ白い山塊は見えてなかった。1時間くらい山道というより車道を行くのだが、その理由はすぐにわかった。そこにarmy campがあったからである。道を挟んでかなり広大な軍事教練施設があって、その手前から歩哨が立ち、掛け声が聞こえ、そんな光景を眺めながら、ただ止まらずにその真ん中を突っ切っている道をいくとその先にカカニの村がでてきた。Hotel、宿、観光客相手の店ばかり、道沿いに10軒くらいあったか、しかしツーリストの姿は村の中にもなかった。眺めのよさそうな場所を探して一回り(30分くらい)、その時見つけた最高のview pointはどうやら建設中のタワー?あるいはホテルになるのか?ま、いずれにしろそこに腰を据えて西のかなたに目を凝らすのだが、その時は白い雲に覆われていて、雲だか山塊だか判別がつき難かったのである。そこにインド人ぽい二人の若者が現れた。彼らの言葉はよく理解できなかったのだが、この建設中のホテルだかタワーだかの建物の関係者のようだった(彼らはネパール人だといっていたが、どうも怪しい?)が、いずれにしろ地元の人ではないことは明らかだった。少し話したが、わたしの理解力ではついていけなかった。一旦別れて雲の晴れるのを待ったが、その日のうちはヒマラヤの全容は隠されたままだった。

バス停となっているKaulethana村の四辻 ↑ ↓

 

バスを降りて歩きだす、沿道からの眺め ↑↓ この上下の写真はカカニからすると南面、
つまりカトマンズ方面でヒマラヤはこの後ろ側(北面となる) 

どこから撮ったか覚えてないが、カトマンズの街が写っていた

カニに村の様子 ↑↓ この写真を撮った時は意識していなかったが、
この写真の正面に写っているHotelに泊まることになった

この辺が中央広場だったのか ↑そのすぐ後ろには公園あり ↓

 

村の様子 ↑↓ 

 

村に戻ってその日の宿を探す、どこでもよかったが、何軒か宿代を聞いてみるとだいたい1500NPRといってきた。ともかく何軒かあったのだが何の情報も持ってなかったからもう一軒だけ聞いてみると、なんと半額近い800NPRでOKとのこと、即決する。荷を置いて少し休んで夕飯をお願いして再び山の様子(というか雲の状態)を伺いに再び出かけてみる、わずかだが、頭を雲の上に出した山塊は確認できたのであった。日没の写真を撮って村に戻ると、先の二人にまた出会って一杯やらないかと誘われる。病み上がりでなかったら望むところだったが、昨日の今日である、手を出すわけにはいかず、正直にdoctor stopの身であることを話す、で何飲んでるのか聞いてみたら、イチゴのチャン(焼酎)とのことだった。チャンを舐めさせてもらい、つまみを一口いただく、水牛の臓物のようだった、まさに酒飲みには喉から手が出るところ我慢せざるを得ないこと、せっかくのご招待を辞退せざるを得ないことを理解してもらって宿に戻り、ホテルの食事Dhal Bhatをいただく、もちろんこれも悪くはなかった。夜半はかなり冷え込んだが(カカニは2100mくらい)それ以外このホテルは当たりであった。勝負は明日の朝ということで寝坊しないように目覚ましをかけて寝る。夜半は相変わらずトイレで起きるのだが、でなくなることはなかった。

Prince Hotelをその日の宿とした、安かったし良心的だった

ヒマラヤの巨魁が頭を出しているような?(日没前)

Lantangか?

18時ころ日没

インド人ぽいビジネスマン風の二人は何者だったのか?

一口いただいたが酒のつまみにピッタリであった

夕食のDhal Bhatもとてもおいしかったが、やはり酒(ビール)がないのがちと寂しかった

 

朝はやはりトイレ問題を抱えていたので目覚まし前に起き、明るくなり始めた6時前には、まず建設中のタワーのところへ行ってみる、外は意外にそれほどの冷え込みはなく、ともかくむやみやたらにシャッターを押していた。一番近場に見えていたのはLantang(最高峰7234m)ランタン山群だと思う。その左がGanesh Himal (最高峰7422m)ガネッシュヒマール山群、それからHimal Chuli(7893m)ヒマルチュリ、その左にManaslu(8163m)マナスル、Annapurnaまで見えるとのことだったので、たぶん左手の奥がAnnapurna(最高峰8091m)アンナプルナ山群、Machhapuchhre(6997m)マチャプチャレも見えていた可能性もあった。そう、カトマンズを真ん中にして西方のヒマラヤ山群が一望に見渡せたのであった。個々の山名はわからなかったが、ともかく見えた、見たという事実とその証拠写真が重要だった。いや、満足だった、来た甲斐あったというものだった。朝焼けから朝日があたり始める変化もたっぷり楽しめた、しかも観客は我唯一人であったのだ。

日の出前 6時頃 ↑↓

夕陽のカカニだったから日の出は見えない(北を向いている)

位置からしてLangtang山群だと思う ↑↓

朝日があたり始める、山名不明だが以下何枚か ↑↓  

ここまで約1時間くらい撮り続けていた(もういい加減にしてくれという声が
聞こえそうなのでこの辺にするが時がたつのを忘れていた) ↑↓

7時頃一旦ホテルに戻って朝食を外でいただく、朝の陽光の中すがすかしい外気が気持ちよく、このホテルに満足していた、ホテル代800NPRと食事代二食で300NPRだったのもその理由の一つとなっていた。8時半ころ会計を済ませチェックアウトして、きた道を戻る、帰路はほぼ全線下り坂なので至って気楽な山歩きであった。ところが、army camp(正式にはAPF army police forcesとでていた)を過ぎたあたりで目を疑うことになった。そこはカカニ村から2kmも離れてなかったし、数十mしか下ってなかったと思う。ただ角度は少し違っていたかもしれないが、カカニ村以上にクリアなヒマラヤが迫力をもって迫っている場所にでたのであった。来るときは雲がかかっていてその場からは何も目にすることはなかったから素通りした場所だったのだが、その時そこからのヒマラヤはカカニ以上に迫力があったのである。しかも足元は芝地であった。こんないい場所があったとは ! 寝転んでヒマラヤを堪能できるではないか ! ちょうどそこにはホテルも建っていた。おそらく高級ホテルで、カカニの価格では泊まれそうになかったが、ホテルの立地としてはこれ以上のところは望めないほどのところに一軒ホテルが建っていたのだ。いや、そんなところに泊まれなくても、人っ子一人いないこんな贅沢な場所を独り占めにできた、そういう場所に巡り合えたというだけでわたしは満足だったし、内心この賭けに勝ったではないかと喜んでいたのであった。

外で朝食をいただいて、パッキングそしてチェックアウトする

村のストゥーパ

帰り道army campを過ぎたあたりで、あれ、何だここはと驚くことになる ↑↓
左手の山群が果たしてマナスルだったのか、アンナプルナも見えるとのことだったので、
わたしにはわからなかったのであるが??

 

 

その地に建つこのホテルからは前4枚の写真にある風景が部屋から眺められたに違いない

このホテルから下の下り坂からは随所にこんな風景が見えていた ↑↓

 

そこからは30分くらいでバス停のある辻に着くのだが、なんとそこを10時にでる始発のバスが待機していたのである。そこの屋台ではイチゴが山積みになって売られていて(だからイチゴのチャンであったことがこの時判明)Laxman氏へのお土産に一袋買って、右側の(写真を撮るのに)特等席に座して出発を待つ、15分後にバスはけっこうな人と荷物を積んで出発し、カメラとスマホのビデオをずっと構えてこの道中を撮ろうとしたのだが、なんとバスの揺れがひどすぎてほとんどまともには撮れてなかったのである(来る時は座れなかったのでなおさらであった)。それほどわたしにとっては魅力的なバス路線だったのだが、ヒマラヤは見えなくてもこれぞネパールらしさを満喫できるローカル路線としてお勧めで、それを写真でお伝えできないのを残念に思う。70分でカトマンズの発着場所に着いてモトドライバーと交渉して、くるときと同じ150NPRでホテルに戻った、11時半着でちょうど24hourの小旅行であった。

Kaulethanaのバス停に9:45に着くと10:00発のバスが待っていた
(全く知らずに来たのでluckyに思えた)その界隈4枚 ↓ 

そのバス停からも白い山塊は見えていたのだ

超悪路を行く路線バス(故に超面白い) ↑と道中の山岳風景 ↓ 3枚

 

 

 

Laxman父子がほんとによくしてくれて、その日(3/23)の夜便でカトマンズを発つことになっており、それまでの間時間貸しの形で半額くらいで部屋を使わせてくれ、シャワーの使用と仮眠をとることができた。いつでもどこでもそうだがドル以外の小銭は残したくなかったので、それをきっちり通う算段をし空港までのタクシー代を差し引いて、残りを夕食とわずかな土産等に使い切って20時ころに空港に向かう。いろいろあった世界一周券だったが、わたしの失敗も多々あって必ずしも満足してなかったし、この時も怒りに近い不満を覚えつつ(詳細は控える)シンガポール航空でまずはシンガポールへ飛んだ。シンガポールまでは5時間のフライトでネパール時間4:15はシンガポール時間朝の6時半だった。


世界一周のルート組段階でカトマンズシンガポール~成田はわたしにとっては一択しかなく(組み方はいろいろあったが)、つまりたとえネパールで発病しなかったとしてもカトマンズ~成田はシンガポールを経由するしかなかったので、はっきり言ってシンガポールには滞在するつもりはなかったのであったが(要するに米国、ヨーロッパの国々と同様の国としてわたしの好みからは外れていたので)、当初は、ま、せっかくだからシンガポールに着いたら即刻マレーシアにでてインドネシアに足を延ばして数日滞在し、またシンガポールに戻って帰国する予定でいた。が、この時はすでに発病後で、ネパールのDocとは一日も早く帰国して日本の病院に行くことを約束していたし、わたし自身そうすべきだと思っていた。なのでダメもとでシンガポール入国早々、ANAのカウンターに赴いて空席があったら寄り道せずに帰るつもりになっていた。ANAカウンターには朝早すぎて職員はおらずしばらく待ったが、やってきた日本人の女性職員に事情を話し相談してみると誠に親切ですぐに調べてくれて、その日の夜行便に空席を見つけてくれ、無料でticketの変更をしてくれたのであった(実際問題として世界一周券のルート変更は有料だが、日程変更は空席がある限り無料でできるとうたわれていたにもかかわらず、これまで数度の変更に関していえば、現地での場合はそう簡単ではなかったのでon lineで有料で日本のagentにやってもらっていた)。なので、それは有難かったし空席があったのは幸運だったといえた。その時点で予約してあったマレーシアの宿等をすべてキャンセルし、日本への帰国便が見つかった旨を知らせた。ただそれは深夜便だったので、数時間はシンガポールで過ごさねばならなかった。もちろんチャンギ空港でじっとしていてもよかったが、どうでもいい国だったとはいえ30年ぶりのシンガポールだったので、ちょっと街に出てみようかという気にはなっていた。しかし、デカすぎて何がなんだか、どこがどうなっているか皆目わからないチャンギで地下鉄の切符を買うだけでもうウロウロし、あっちへ行ったりこっちへ行ったりする始末(それは予測できたことだったので、最初からこういう国は敬遠したかったのであったが)、それでも人に聞いて何とか地下鉄で街にでることはできたのだった。で、あてずっぼで下車したところは(おおよその見当はつけてあったが)よく写真で見る建物(マリーナベイのこと)が建っているようなところだったので、その界隈をウロウロしコンビニで昼食になるようなものをゲットし、ま、公園とかも結構あったので、暑いところだったがそんなところで休憩&食事し写真を撮って数時間を潰すのであった。

 

ネパールの写真群からすると全くつまらない写真だが、確かに寄りましたという
証拠写真的な意味で3枚載せておきます ↑↓

無事といっていいのかどうか、そういうことで帰国は2023,03,25の朝の5時半、当初の成田でなく羽田であった。予定より一週間くらい短くなった73日間のわたしの世界一周旅であった。

 

帰国後の話を簡単にしておくと、3/27に近くの病院で検診してもらうと、即入院とはならなかったが要手術の宣告を受ける。が、これが結構順番待ちのようで、最終的に手術日は一か月後の5月2日となる。2023年のGWの5月1日入院、手術が5月2日で手術後一週間は予後の経過観察、幸い経過順調で一週間後の5月7日に退院、1か月後の検診でも異常はみられず、帰国後2ヶ月にして晴れて飲酒OKの許可がおりたのだった。まだアルコール中毒にはなってなかったが、これが最もうれしい日となったのであった。

 

<その後も順調にきてますので、これをもって独歩爺最後の旅を了とさせていただきます。2024年2月3日>