独歩の独り世界・旅世界

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帰国の途 1) タパチュラTapachula

 その朝わたしは4時に目覚め、といってもそれほど深い眠りについていたわけではなく、いつものようにアラームよりは先に起きて身支度を整えていた、わたしの部屋の明かりに気づいたのか、そんな朝早くアンドレアがドアを叩く、わざわざそんな時間に起きてこなくてもいい様に、昨日のうちに支払いも挨拶も済ませていたのだけれど、ちゃんと起きているかどうか心配してくれたのかもしれない、そんな年寄りの気遣いからか、この婆さんの優しさがうれしかった、、なんか、アンドレアはわたしをもう身内のように思っててくれたことはそれまでにも何度も感じていたことだった、また来るからと礼をいって彼女に見送られてブリキの戸をひいた、、外は街灯はあったものの人の気配はまったくなし、ちょっと物騒な、といってもきわめて安全な街であることは知っていたから、人通りのない路地も何ら恐れることはない、、前に乗ったことのある一日一本の朝の5時発のマサテナンゴMasatenango行きのバスはパルケセントラル脇に停まっていた、、

 さて、3月6日のタパチュラ発のアエロメヒコのticketを持っていたことは前に書いたが、当初はそれに乗るためには、サンペドロからならタパチュラまで一日でいける(シェラからでもグアテからでも一日でいける)のはわかっていたから、3月5日にサンペドロを発つつもりでいた、それを一日早めたのには理由があった、、それが、Antigua/Atabalでであった一冊の本によるものだった、、その本は‘メキシコ榎本殖民’(1994, 上野 久 氏著)という中公新書だった、、榎本武揚はわたしの好きな歴史上の人物で、今から120年前のメキシコ榎本殖民についても承知していたので、去年タパチュラに寄った際もそのことについて少し触れたが(詳しく知っていたわけでない、だから彼らが上陸して最初に落ち着いたとされるエスクィント村の場所もどこだかわからないと、確か去年記していたと思う)、不覚にもその時点で、というかアタバルでその本に出会うまで、そのことについて書かれた本があったということを知らなかったのだ(知ってて読んでいなかったのではない)、、だからアタバルで見つけたとき、なんとしてでも読みたかったので片桐さんに無理いって借り出し一日で読みきったのであった(前々回でその本とのであいについては少し触れた)、ということで去年は詳しく知らなかったのでそのゆかりの地は訪ねられなかった、、が、今年は違った、その本のおかげですべては詳らかになっていた、、どういうわけか今年もタパチュラによることになっていたのだからそこへ行かないわけには行かなくなった、、史跡を訪ねるだけなら一日で十分と思われた、サンペドロの一日よりもタパチュラの一日のほうがどれほど重くなったことか ! ?、、よってサンペドロを一日早く発つことにしたということであった、、

 マサテナンゴへのバスは前回同様快適であったが、順調にバスターミナルへ着くと思われた矢先にアクシデント(?突発事態)が起こる、どういうわけその日のバスは(ドライバーは前回と同じだった、というか彼がその路線の専属なのだろうと思われた)ターミナル直前、マサテナンゴのどこかの街角で、今日はここまででターミナルまで行かないと突然全員降ろされてしまったのだ、、(何らかの説明があったのかもしれなかったが、わからなかった)その時点では乗客もかなり減っていて、ターミナルまで行く客はわたしも入れて3人だった、、歩いていけるならそうしたと思うが、そんな距離ではなさそうだった、、残りの2人(別に知り合いどうしではない)がトゥクトゥクをつかまえターミナルに行くなら乗りなさいといってくれた、そこからトゥクトゥクで5分はかかったから歩ける距離ではなかった、、つまりターミナルまで行くのに前回より5Q出費が嵩んだということであった、、が、その分というか、そこで待っていたテクンウマンTecun Uman行きのバスが前回ここに来て調べたときには確か40Qといっていたはずが35Qだったから結局は同じ、、?? これだから前にも書いたがグアテのバスはどうなっているかよくわからないのである、、そういう意味ではこんなこともあった、それは前にフティアパJutiapaからハラパJalapaに向かうとき途中で違うバスに乗り換えさせられ、それまで快適に座っていたのにその後は立ちっぱなしという状態になったことがあったが、ちょうどその逆のことがそのあとに起こる、、テクンウマン行きのバスは8時40分にマサテナンゴを出発し(このときこのバスはマサテナンゴ始発のようであった)、30分弱でレタルレウRetalhuleuの県都レタルレウに着き、そこでしばらく停車、で、やっとバスが動き出したと思ったらものの5分もたたないうちに国道2号線(CA2)にでる分岐でまたしばらく停まってしまった、、事情がよく飲み込めなかったのだが、しばらくすると後続のバスがやってきてその乗客がこちらのバスに移ってきた、ほとんど満席に近かったのであとから来たバスの乗客にほとんど席はなかった、、口々に不満の声が聞かれたが、ま、それでも何らかの説明はあったと思われる、、説明されても聞き取れないわたしにはまったく不可解なことであった、、

 思ったより早く、2時間くらいでテクンウマンに着いてしまった、、レタルレウからの道は一度通っていたがアップダウンが少なく遠くにメキシコから延びる南シェラマドレの山並みが美しい(車窓右手)景色のいい道であった、前回下車していたコアテペケCoatepequeを過ぎ、そこから30分テクンウマンはバスから降りると暑いところであった(テクンウマン行きのバスはチキンでなくエアコンつきのプルマンだった)、意外と早かったので余裕があった、、メヒコよりグアテのほうが安いかもしれないと思ったのでそのターミナルで朝食兼昼食をとり、暑いし結構遠かったので国境まではシクロ(自転車リキシャ)を使った、、ちょうどきりのいい100Q札3枚を残し(最後はそれを計算して使っていた)次回もあるので両替はするつもりなかったところ、まさかの出国税?10Qを最後に払わされる目にあった、、グアテ国境では場所によってとられたりとられなかったりしたから、もしかしたらイミグレ役人の気まぐれ?手数料のような意味合いかもしれなかった(ここでは前回入国時にも10Qとられている)、、その辺のところも不可解なまま国境となっている長い橋を去年とは逆方向に渡って昼前にはグアテ出国、メヒコに入国した、、出入国手続きは両国とも簡単であった、、

 河ひとつ隔てただけだったからメキシコ側の街シウダ・イダルゴCiudad Hidaigoも暑いところだった、、が、ここはパルケセントラルまでは近かったから歩いた、、その日は市の日だったのか結構屋台が出ててにぎわっており、パルケセントラルに待機しているはずのコレクティボがいない、人に聞いたらもうすぐ来るとのことだった、、確かにしばらくするとタパチュラからのコレクティボがやってきてここで折り返しになった、、珍しかったのはそのときの助手が女性だったこと、今までグアテもメヒコでも女性の助手は見たことがなかった、助手というのは結構重労働だから女性向きの仕事とは思われなかったが、その子(そんなに若くはなかったが30前後くらい?)はよくがんばっていた、、タパチュラまでいくらと聞くと21ベソとのこと、、助かった、そのとき小銭は22ペソしかもっていなかったのだ、、かれこれ1時間くらいかかってタパチュラのコレクティボセンター(?orミニバスターミナル?)に着いた、、タパチュラのダウンタウンには大型(普通の)バスのターミナルはADOの専用?ターミナルが一ヶ所あっただけであとは各地に行くコレクティボ乗り場が会社別にそこら中にたくさんあった、、それが去年のこと、ところが今年シウダイダルゴから乗ったコレクティボが到着したところはなんとまだ新しくてでかいコレクティボ専用ターミナルであった、、ほぼ去年たくさんあったコレクティボの乗り場(各社が集まっていたところ)あたりだったから、たぶん新しくターミナルを造って統合されたのであろう、最近のメキシコの繁栄振りが窺えるできことであった、、それはほんとにまだ開業したばかりといった風でプラットフォームは30くらいあったがオフィスのほうはまだオープンしておらずインフォメーションもなかった、、だからすぐに問いただそうとしたバス・コレクティボ情報も一ヶ所ですべて聞けたわけでなかった、、知りたかったのは数ヶ所あって、いずれもコレクティボでいけると思ってたから、どこから出ているかだけでも聞いておきたかったのだ、それは大きく分けて二方向あった、一方向は西の方、次の日に予定していた榎本殖民にまつわる記念碑等のあるところ、即ちウィストラHuixtla、エスクィントラEscuintla、アカコヤグアAcacoyagua、アカペタウアAcapetahua方面、もう一方向は南のほう、プエルトマデロPuerto Maderoとタパチュラエアポートへ行くコレクティボの情報がほしかったのだ、まとめて聞けるインフォメーションがなかったからプラットフォームの行き先表示を見ながら、そこに停まっていたコレクティボのドライバーにいちいち聞いてみるしかなかった、、その結果一ヶ所を除いてすべてそのターミナルから、しかも15~30分おきくらいに出ていることがわかった、、どうもはっきりわからなかったのはエアポートに行くコレクティボがなさそうだったこと、これだけが少々心配の種として残った、、それでも一応明日のワゴン車情報をつかんだのであとはホテル探しとなった、、ならばできるだけこのターミナルに近いほうがよい、その上安ければ安いほうがよい、、去年泊まった安宿もそれほど遠くはなかったから最悪そこでもいいかと思っていたので足はそっちに向いた、そこに行くまでに適当なのが見つからなければそのつもりでいた、、が、2、3ブロック歩いても適当なものが見つからない、あと1ブロック行くと去年の安宿があると地理はわかっていた、、そのとき一軒のホテルが目に入る、去年の安宿はオスペダヘHospedajeだったからホテルよりランクが下だ、そこはホテルと表示されているが場所柄いかにも安宿である、早速値段確認に入ってみる、100ペソと150ペソの部屋があるという、150ペソを薦めるといってきた、100ペソでもバス・トイレつきでファンがついている、去年のオスペダヘが確か80くらいだったからホテルで100はそれほど高くなかったし、バス・トイレつきなのだからそれでいいかと思って100のほうを見せてくれといってみた、、通りに面した窓のでかい部屋だった、、思えばそれまではるかにひどい部屋に泊まってきていたのだ、そんなわたしにしてみれば上等だった、で、150のほうは見ずにそこに決めてしまった、、暑いところだったので早速シャワーを浴びて程なくして街に出かけた、、

102_640x480タパチュラ、コレクティボターミナル 100_640x480ホテル前の通り、左の赤い車の向こうが浜田家?

  ホテルから坂を2ブロック上って右へ3ブロックいったあたりがパルケセントラルだということは去年その周辺をうろついていたからわかっていた、、それでも地図を持っていなかったから地図と両替屋、エアポートバス等の情報が知りたくてまずインフォメーション(観光案内所)を探す、が、その場所を知っていたわけでなく、このときは人にも聞かなかったから結局それは見つけられなかった、、一通り市場の雑踏を歩き回り食べ物屋の下調べだけでいったん宿に戻った、そして部屋のドアを開けるとドアの下の隙間から差し入れたらしい一枚の紙片が目に入った、、その紙切れを見たときのわたしの驚きをどう表現したらいいのだろう‥?? えっ、どうして、!? どういうこと、??ちょっと信じられないことが起こったのだ、狐につままれた、といったようなことが !! なんとそれは一枚の地図だった、、しかも日本語で書かれたタパチュラの地図だったのだ、そして確かにそれは見覚えがあるものだった、そう、去年シェラのタカハウスに貼ってあった富永省三さん作成のタパチュラの詳細きわまる地図だったのだ、だが、どうしてそれがここに‥??、それもそのために今出歩いて探して結局手に入れられなかった地図がどうして今ここに‥!?、、どう考えてもその答えは見出せなかった、考えつきもしなかった、、神業としか思えなかったのだ、、もちろん100ペソ払って鍵をもらうときに一応パスポートは提示していたから、わたしが日本人であることは宿の人は知っていた、が、こんな宿にそんな地図を置いてるわけはないし、そんな話もそのときしていなかったのだから‥??

 しかし偶然というのはあるものだ、旅しているとよくそういう目に遭遇するのだけれど、まさにこのときも偶然のなせる業としかいいようがない、、それはこういうことだったのである、、それは宿の人に聞いてはじめて知ったことだけれど(あとからその地図を見れば納得できたことでもあるけれど)たまたまそのホテルの向かいの家に住まわれていた方が日系の浜田さんという方だったのだ、、このタパチュラに多くの日系の方が住まわれているのは当然知ってはいた、またその地図を見ればその浜田家もそこに載ってはいた、、が、その家の目の前のホテルにわたしが投宿したこと、またその姿をたまたま浜田さんが見かけたらしかったこと、そしてどうやら日本人らしいと思ったらしかったこと、それで浜田さんはその地図(浜田家ほか日系人クラブのことも記載されているので日系の方はコピーしてみんなが持っているのかもしれない??)を持って訪ねてこられたがそのときわたしが留守だったことをホテルの人に聞くまでわたしは知る由がない、、いや、それを聞いてびっくりするやら感激するやら納得するやら‥、唸ってしまった、、そんなことってある‥??

  それを知って早速向かいの家を訪ねてみた、、表札はなかった、応答もなかった、、たぶん出かけているのだろうとホテルの人にいわれ、そこに住まわれているのだから明日でもいいかと、そのときは諦めた、が、それ以来向かいの家がずっと気になってしまった、何しろそこはわたしの部屋の通りをはさんだ向かいでもあったのだから、、しかし中の様子はもちろんうかがい知れず、その夜はカーテンを閉めて寝る(その前に夕食を食べに一度外に出てビールを買って帰る、ここでも食・酒一緒はままならなかった)、そしてその夜ホテルの人が150ペソの部屋を勧めた理由がわかった、、カーテンを閉めただけでフアンだけの部屋の窓は閉め切れなかった、、もちろん防蚊対策として日本から携帯用を持ってきていたけれどまったく効かなかったのだ、、その夜ほとんど眠ることができなかった、、

007_640x480富永マップと中公新書‘メキシコ榎本殖民’、帰国後撮影