独歩の独り世界・旅世界

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『独歩爺最後の旅』ネパール篇 2,ポカラPokharaで緊急入院

このつまらないブログもあと2回で終わりになります。ようやくゴールは見えてきました、それも悲惨なゴールが ! まぁ、おおよそ想像はつくことと思いますが、自分ひとり楽しんできたバチがあたった?しかし実際は楽しんでばかりいたわけでないことは、ほとんど正直なレポなのでわかっていただけるとは思いますが、もし誰かが呪いをかけていたとすれば、そんな力が働いた可能性も無きにしも非ず・・そんなことあるわけないか?ただ単に自業自得としかいいようがなかったのだった・・??

 

わたしはこのブログを小さなメモ帳に綴った箇条書きの記録をもとに書いているのだが、驚いたことに、その悲劇の前兆は前々日の3月16日の夜には出ていたことを後から知って愕然としたのであった。が、当然その意味するところは分かってない、そんなことが起ころうとは・・、しかし振り返ってみれば最初から万全の状態での旅立ちではなかった、ということも後からは言えた。奢り?甘え?未熟?無知?無謀?・・いろんな言葉が出てくるのだ。

 

3月17日は前夜遅くまで晩餐を繰り広げていたので、いつものように夜半起きることもなくよく眠れていたようだが、朝からちょっとした失敗が続いていた。それでもATMへ出かけてNPRを降ろしたり荷物を数日預かってもらう仕分けをしたりして、6時半ころには余分な荷を預け、とりあえず清算を済ませてチェックアウト、Iさんと手配してもらったタクシーでポカラ行のバス乗り場に向かう。カトマンズの場合未だ長距離バスのターミナルはなく、それでも公道の大通りの一画がその場となっていて、そこまで歩けば20分くらいだったが、そこに待機しているバスの数ときたら2~30台?いちいち聞いていく手間を考えればタクシーの利用価値はありだった。もっともタクシードライバーだって同じで、ある程度は知っていたであろうが、すべてのバス会社の駐車場所を覚えているわけではなかったであろう。そして多少のばらつきはあったがだいたい同時刻にバスは発車していくのであった。そしてまた、すでにだいぶ前からカトマンドゥの幹線道路の渋滞は激しく、街を離れるまでに相当時間がかかっていた。で、その状態は、ま、それをネパールに求めるのは酷であるが、インフラ整備の遅れているネパールの道路状況は10年前20年前とさほど変わっておらず、おまけにほとんど山岳地帯を走っているのでお世辞にも快適なバス旅とは程遠いものなのであった(もし道中ヒマラヤが眺められればこの限りではないのだが)。それでもわたしはポカラまでの風景や、村々・人々の暮らし・道路状況などが垣間見られたらとポカラは初めてだったIさんにはバス旅を勧めたのであったが、帰りもそうしたことの愚かさを数日後に改めて思い知らされるのであった。ま、richなIさんだったから、最もクラスの上のバスをLaxman氏にお願いしたので、道路は悪くてもシートは快適だったし途中のドライブインの食事も悪くはなかったのであった。しかしカトマンズKathmandu~ポカラPokhara間をこれまでわたしはすべてバスで移動をしていたが、今やDeluxeバスで1700NPR(1700円として) 8~10時間 : 飛行機だと15,000円(ま、いきなりその値段で航空券がとれたかどうかはわからないが)&30分を比較したら勝負にならないことを痛感させられたのであった。朝7時半に出発したバスはたかだか200kmを延々8時間もかかって(時速20~25kmである、その遅さがわかるというものである。もっともその間何回かトイレ休憩、3~40分の食事休憩があったが)15時半にその時の我々の目的地だったレクナス(Lekhnath ポカラはそこからさらに30分かかる)というところに着いたのだった。

Pokharaへの道中 ↑(昼食休憩) ↓ 何枚か

川にかかるつり橋を撮りたかった ↑

この場所はどこだったか?? ↑

  写真左手に見える川沿いの細い道一本しかないのである ↑

では、何でLekhnathレクナスというところだったのか、どうしてそこが今回の集合場所になったのかの経緯を述べておく必要があろうかと思う。ことの発端は(すでによく覚えていないので、違っているかもしれないが)レクナスの宿を予約したのはわたしで、すでに2,3回ポカラを訪れていたわたしは、世界一周の最後の滞在地としてネパール/ポカラに決めていた(それは、ネパールは好きな国であったしポカラもお気に入りの地であったからだが)。だが、俗化の激しいペワ湖<Lake Phewa>界隈でなく、もっと自然が美しく静かな場所を探していたのであった。その時見つけたのが、おそらく晴れていればアンナプルナ Annapurna(Ⅰ峰 8091m~Ⅲ峰あり)、マチャプチャレMachhapuchhre 6997mが目と鼻の先に眺められたはずの山上の宿だった。そこを見つけたのは2022年の11月頃のことで、その時最後の滞在地にはぴったりだと思って、期待を込めて4泊ほど予約していた、airbnbの宿で安かったからであった。

その場所が集合場所になった経緯を述べるには、その前に我々の関係性も述べておく必要があろうかと思う。まぁ、簡単に述べると奇縁ともいえるが、そもそもはわたしとIさんは仕事上の繋がりで知り合った?わたしはIさんのお客さんだったのである。その後公私共々の友人となるが、旅好きなわたしに彼女の学生時代からの友人で同じく旅好きのHさんを紹介してくれ、ま、グループの付き合いとなった(7~8年の付き合いか?)。そのHさんは(うら若き女性ながら)わたしと同様の旅をしていたので意気投合し旅の情報交換等が始まり、今回のわたしの旅のサポーターのような存在になってくれていた(歳の差はほぼ親子くらい、それというのもわたしの息子と彼女らは同世代だったので、その後息子とも友人関係になってくれていた)。今回のわたしの旅立ちにあたって、わたしと彼女らのグループラインを作ってくれ(そもそもそれまでわたしはラインなどを利用したことがなくそのやり方も知らなかったので教えてもらう)、そしてすでに世界一周旅を経験していたHさんからはそのアドバイスも受けるほど彼女は旅のエキスパートでもあったのであるが、地域的にどうやらインドは未訪だったようで、わたしが旅立ってからインド行き決断したことを告げられる。もちろんインドに関してはわたしが多少のアドバイスをしたが、そんなものは不要なほど彼女は一人で旅をできる達人の域に達していたから、普通の旅人には勧めないバラナシ~ネパール国境~ポカラまでの困難な陸路に挑戦するように勧めてはいた。そうしてムンバイあたりからはお互いの動向をチェックしつつポカラ集合の目標は二人の間では自然の成り行きとなったように思う。ただその時点ではIさんがまさか一週間の休暇を取ってネパールに飛んでくるなどとは思ってもいなかったが、グルーブラインだったから彼女なりに刺激になっていたかも知れなかった。カトマンズまでくればわたしが出迎えて一緒にポカラまで連れて行くから、休みが取れてticketが取れたら飛んで来なさい、と言っていたらほんとに飛んできた、ということだったのである(いや、細かいことまで話すときりがなくなるので、こんなところでご理解いただけただろうか)・・??

 

で、3/15にカトマンズの空港に出迎えて、3/16にカトマンズ市内を見物して3/17にポカラに向かったのであったが、その日にHさんもレクナスの宿に到着することになっていたのだ。わたしとIさんはドライバー助手にいってあったレクナスのTal ChowkというT字路交差点で下車し、買い物したりタクシーを探して交渉したりして(バスもあったことを後でHさんが教えてくれた)結局タクシーでairbnbの宿に向かった。が、これが大変わかりにくいところで(看板もなし)最終的にはドライバーから電話してもらってそこへの登り口にたどり着き、そこからしばしの山道を登りようやくたどり着くといった按配、こんなところにHさんは一人でたどり着けるだろうかと心配しつつ我らは17時ころチェックインし、晴れていれば下界に湖があってアンナプルナ山群が目の前であったであろうその山上の宿はあいにく曇っててその素晴らしさは堪能できず、仕方なく視界は悪かったが山の上を部落を1時間ほど散策して戻ってくると、まさにモサ(猛女には縁遠い美女だったが)はそこにいたのであった。しかもタクシーは使わずバスで来たとのことだった。感動のご対面 !! 凄い女だ !と改めて感心させられたのであった。

 

ネパールの山岳地帯の場合、尾根上に道が走っていてその両脇のわずかばかりの平地に家々が建っており、特に宿名もなかったDinesh氏の家は3,4つの部屋はすでに満室で、ま、いきなり2名追加の飛び込みでもなんとかなるだろうと連絡せずにいったしまったが、偶々その日は難しいと知らされ、村の散策時に近隣の宿に問い合わせたら一軒に空きありで、わたしは一人別宿に泊まることになったが、そこは一泊1000NPRでDinesh houseより安くて立派な建物であった。が、夕食はDinesh houseで3人分を注文し、早18時半ころから、あいにく曇り空だったので星空の下というわけにはいかなかったが、夜空の下ロウソクの灯りを頼りにIさんがTal Chowkで仕入れてくれたワインとビールを飲み始める、そうこうするうちに夕食のターリThali(だったか、ダルバートDhal Bhatだったかもはや記憶があいまい)が運ばれてきて宴は最高潮に達し、別室のアメリカ人がびっくりするほどの大騒ぎをしてしまったのであった。そして22時過ぎに二人に送られてわたしは別宿に移り、もしかしたらDinesh houseより快適なベッドに横になったのである。その部屋にはトイレもついていたのだった(Dinesh houseはトイレは外だった)。

 

最初に異常に気づいたのは2時頃だったか?結構飲んで酔っ払っていたから数時間は眠ったようだった、が、いつもずっと夜半に何回か起きる習慣になってしまっていて、その時の最初は2時頃だったと思う。出が悪くなっていた、要は出したいにもかかわらず小用が足せなかったのである。どうしてだかわからず、そのあと何度も何度もトイレに行くのだがほとんど出ないのである、完全に途切れたのは4時頃でいかんともする術がなかった。明らかに異常事態であることはわかったが、どうしていいかわからず、つらく苦しい時間を過ごすことになった。悶々として何回もトイレに行くのだが虚しく戻る繰り返しで朝が明けるのを待つようになる、ベッドの上で悶え苦しみながら朝が早く明けてくれるのだけが希望となった。で、明けたらどうするか?これは迷いがなかった、日本にいたなら救急車を呼んでもらう事態だと思ったが、ここはネパールポカラの山の中であった。が、いくらかの運は残っていたのだ、ポカラまでタクシーを呼んでもらって駆けつけることのできる距離だった。緊急病院もスマホでチェックできた。何よりも二人の助っ人が隣の宿にいてくれるではないか ! 何という幸運 ! ! なので早く夜が明けてほしかったのである。早すぎて迷惑をかけることはわかっていたが、6時になると荷をまとめて宿のお母さんに事情をいって代金を払ってチェックアウトさせてもらい、すぐにDinesh houseに戻る。オーナーDinesh氏には正直に体調不良を告げて、病院にいきたいのでタクシーを呼んでくれるようお願いする。起きだしてきた二人にも、申し訳ないがこれから病院に行く旨告げる。そしてDinesh氏には一泊しかできなかったが、たぶん戻れないだろうと詫びて、前日の食事代等々の清算をお願いする(airbnbの場合当日のキャンセルは返金されなかったし、されたとしても返金を受け取るつもりはなかった)、そうやって清算を済ますとわたしの持ち金は尽きてしまった。何より彼女たちがいてくれて助かったことは、それ以降の支払いをすべて立て替えてもらえたことであった。そして8時にはやってきたタクシーのドライバーにPokharaの緊急病院にいってくれるようお願いする。ずっと二人が付き添っていてくれたのは本当に心強く、有難かった。

為すすべなく、一人起きだして日の出の写真を山の上から撮った?

同じ時間に山は雲がかかっていたのでDinesh houseを撮ったのかも?

そう、幸いその時調べた緊急病院international medical centerには9時前には到着したと思う、小さな町医者(clinic?)で待っている患者もおらずドクターはすぐに診察してくれた。症状も英語で説明できたので、このDocはすぐに適切な処置を施してくれたが、症状が改善することはなかった、が、このDocは正確に状態を診断され、自分のところでは無理だが、すぐに行くべき病院を教えてくれ、かつ、その病院に連絡してくれ、わたしの診断結果を伝えて今からそちらにタクシーで向かわせる旨手配をしてくれたのだった。こうした善意のリレーによって10分後にはタクシーでその病院に到着し(もちろん彼女ら二人も同行してくれていた)緊急診断、緊急処置、緊急検査ののち(75年間入院した経験のなかった)わたしは晴れて?生涯初の入院をネパール/ポカラで経験することになったのであった(まったく自慢にならないことをのうのうと書いてますが、その結果がよかったからである)。その時の診断結果は、日本語では前立腺肥大症というもので、それを聞いてわたしは、そういうことだったのかと初めて納得がいったのであった。

 

いや、もちろんそれなら数年前から自覚があって、ずっと通院していたし処方された薬を飲み続けてはいたのだった。が、その薬を途中で切らしてしまった結果だったのか?あるいはその結果を日本にラインで報告したときに知らされた、お酒の飲み過ぎの結果だったのか?つまり、わたしが日本で通院していた時に、薬を切らすと今回のような排尿困難になることや、飲酒はいけないなどということをドクターからは聞いておらず、まったくそういう知識のないまま旅を続けていたし、旅の期間分の飲み薬ももらってきていなかったのがそもそも事態を重くしてしまった原因だったということに初めて気づかされたのだった。ネパールのドクターの診断を聞いた時、わたしは正直にそのような経緯があったことを告げ、わたしの無知によるそれまでの飲酒が排尿困難になるまで病状を悪化させていたことを知ったのであった。そしてわたしは感心したのだけれど、そのイケメンの若いネパールのDocの出した診断が即入院ということだったので、それには素直に、というか納得して従う気持ちになったのであった。その時はすでに施術してくれていて、溜まっていたものはすべて放出できていたから、カテーテルに繋がれた状態であったが苦しみからは解放されていた。なので一日二日の入院なら致し方ない、むしろネパールでの入院を楽しんでみるか、という気になっていたのだ。その状態と診断結果は彼女らにも知らされたので、午前中ずっと付き添ってくれていた彼女らと相談して、このあとどうするかについて次のようにしてくれるようお願いした。

①まず、二人はPhewa湖湖畔に宿を見つけ、二人の目的(トレッキング等)を完遂させるように②いずれにしろ二人とも自分たちの予定・日程を優先させてほしいこと③何かお願いしたいことがあったらラインするので、ともかくせっかくのポカラを楽しんでくれるようお願いし、昼頃にやっと彼女たちを解放させてあげることができたのだった。

入院初日の昼食、注文の仕方を教わり最初に頼んだのがモモMomo(餃子)&
ツクパThukpa(味は日本そばに似ている)は140NPRでうまかったのである

先にいったように、一番の幸運は彼女たちがそばにいてくれたことであったが、その他にもまずその地がネパール第二の都会ポカラだったこと、そこには設備の整った病院があって優秀な医師と親切な看護婦を含むスタッフが揃っていたことは大きかったと思う。だから、もちろんカテーテルに繋がれた不自由な身となったが、思っていた以上にネパールの入院生活は快適だったといえた。投薬だけで治療はなく、特に痛みも伴ってなかったから苦痛はなかった。大部屋生活もたぶん8人部屋だったと思うが満床ではなく、若い看護婦さんがてきぱきと業務をこなしているのを見ながら、たまに会話できるのはそれなりに楽しかったのである。なにより今の時代、ここでもWiFiが繋がっていたので即刻日本に報告し反応はすぐに返ってきて暇することもなかったのであった。そんな状況をDinesh氏にも伝え再度お詫びを入れることもできた。床についたままであったが、いろいろ観察しながら病院生活の仕方を学び、食事の注文の仕方も看護婦さんに教えてもらった、というか、要は病院直属?のcanteen(食事を提供するところ、売店も兼ねていた)があって、そこの人を呼んできてくれ、メニュウをもらい注文の仕方を教えてもらったのであった。そうして一日にして病院生活にも慣れるのであったが、少々楽観し過ぎたのは、わたしは入院は一日で済むだろうと思っていたことで、次の日(3/19)の朝二人が寄ってくれた時にちょうど定時検診があって、一緒にDocの説明をきき、いつ退院できるかと聞いてみたのだが、その日の退院は無理と言われてしまったのであった。なんとしてでも明日には退院させてもらえないと日本に帰れなくなると強くお願いしたが、Docの立場からすれば、やはりまだまだ不安要素があるとのことで、容易に結論は出しがたかったのかもしれなかった。その日は二人は近場のトレッキングに出かけるといっていた(たしかPhewa湖湖畔から登る日本寺妙法寺にいったといっていたような)、そんな二人に宿の近くにランドリーがあったら、といって洗濯物も預けてしまう、まったく手のかかるワガママ爺さんなのであった。その日午後に亀頭の先に取り付けられていたディブキャップ?を若い看護婦が何事でもないという風に外してくれ、自分でトイレにいって排尿することができるようになった。この時の晴れやかさは例えようがなかった、ようやく自由に動き回れるようになって早速院内徘徊、屋上から街の様子や山の気配を伺うがマチャプチャレの姿は雲に隠れたままだった。1Fに降りてcanteenに顔をだし、コーヒーと菓子を買って自由の味を噛みしめていた。

 

3月20日の朝の定時検診では確かDocはその日の退院を許可してくれたはずだが(言葉の問題で明らかではないが)、午後退院の準備をして清算をお願いすると今日の退院は無理と言われてしまった。もしかしたら事務方だったのかもしれないがDocも何人かいたのでわたしは男性スタッフの顔は覚えきれず、どういうことか確認するとしばらくして夕方までに清算できるようにするといってくれたのであった(たぶん経理上のコンピューター処理や投薬の準備が間に合わずに明日にしてくれといったきたのではないかと思われた)。やっと退院確実になって二人にラインを入れた。

 

彼女らがPhewa湖湖畔に見つけたホテルは3ベッドだったから、その夜のホテルを探す必要はなかった。16時ころには全てCC決済で清算を終了し(旅行保険には入っていなかったが、CC付帯の保険が利くかどうかは微妙であった、いずれにしろそれでも日本円でトータル7万円弱で済んだので、保険が利くかどうかはどちらでもよかった)大量の薬を頂戴し、病院前で客待ちしていたタクシーで湖畔のホテルにいくのだが、途中二日前に最初に世話になったクリニックに寄ってもらって院長に退院できた旨報告し、世話になった礼を述べてホテルに向かった。わたしが着くと、たった今戻ったばかりという二人がお茶を飲みながら待っていてくれたのであった。

 

これらの薬をきちんと飲むという約束で退院の許可が出たのだが、いつどれを飲むのか
覚えるのに苦労する

本当によくしてくれた病院の写真が一枚もなかったので、退院時にいただいた診断書並びに検査報告書の表紙を病院紹介の意味で載せておくことにした

そんなんで漸くというか、何とかというか、当初の予定通りLaxman氏の手配してくれたバスでIさんと一緒にカトマンズに戻れる目処はついたのであった。せめてもの償いというか感謝のしるしとしてその夜の夕食はわたしもちにさせてもらって、チペッタンモモの店に繰り出し別れの晩餐とした、もちろん酒なしであった‥(その後2ヶ月は禁酒したのだが、これがつらかったのだった)

チペッタンモモの店で別れの宴(ただし酒抜き)

翌3月21日はIさんの帰国の日で、Hさんは当初の目的の本格的なトレッキング、ゴレパニGorepani 2853m プーンヒルPoon Hill 3198mまでの一泊二日のトレッキングの手配を済ませていた(このルートのトレッキングは45年前のまだ若かりし頃行っているが、そのころと比べると車でかなり奥まで行けるので今は一泊二日で往復できるようになったいた)。だいたい皆6時j前には起きだしてHさんにはいろいろ世話になった礼とトレッキングへの健闘を祈るエールを捧げて、我々は6時半に先に出発しポカラバスパークまで歩く。時間は十分あったので簡単な朝食をいただく時間はあったが、7時半発だと思っていたバスは8時になっても出発せず、いったい何時にでるのか、最終的に何時にカトマンズに着くのか気を揉むことになった。まさにこの時であった、わたしがバスに固執した己の愚かさに気づくのは。翌々日(3/23)に帰国予定だったHさんはすで3/23のPokhara~Kathmanduのフライトを予約済みだったのである。この時点で(わたしの)ネパールガイド役は失格していた、が、それでも有難いことに何とか夕方にはそのバスはカトマンズに着いてくれたのだった。そしてタクシーでホテルに戻り、わたしの部屋のシャワーを使ってもらい、土産を買ったり軽食を食す時間を持てたので何とか救われた気分になった。20時半にHotel MadhubanのLaxman氏が手配してくれたタクシーで彼女を空港へ送り出すことができ、次の朝には無事日本帰着のラインでもらい、至らぬ指南役であったが胸をなでおろすのであった。そしてtough ladyのHさんもきついGorepani トレッキングを見事に走破しPoon Hillからの間近に迫ったヒマラヤの絶景写真を送ってくれていた。そして次の日には相当お疲れのようだったが無事Pokharaまで戻り、23日にはカトマンズ経由、ムンバイで乗継で3/24に無事日本に帰国したのだった。残る厄介爺さんのその後はどうなったかというと・・次回最終回です ! !

Phewa湖湖畔 3/20 18時頃 ↑と 3/21 朝7時頃 ↓

帰りのバスから何枚か ↑↓

少し天気が良くなりつつあるようだった

行きも帰りも同じところが食事場所だったが、ここのロケーションも
食事内容も悪くはなかった(Iさんと一緒に)

すでにカトマンズ市内だがこの地は不明