独歩の独り世界・旅世界

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『 hasta Nicaragua ニカラグアまで 』1,2024の旅概略

昨夜からの寒さは一体何だったんだろう?都内は雪だったようだ、千葉も朝方白いものが舞っていたし、3月にしては10℃に届かない真冬並みの寒さに、つくづく帰ってくるのが早すぎたと重ね着して震えていたのであった。そう、ちょうど一週間前の2月末日いつもの年なら3月の終わりに避寒先から帰ってくるところ、今回は2月末日を帰国日にしてしまっていたのだ。わたし達はその日日中は普通に40度を超えていた中米のニカラグアの首都マナグアから、飛行機を3回乗り継いで約30時間くらいかかって3週間の中米の旅から帰国したのだった。

その旅録をこの後書いていくつもりである。これは何回目かの最後の旅(コロナ後の旅は毎回毎回最後の旅と謳って旅立っていた)となるものであった。この旅の前半10日間はグアテマラを回っていて、後半の一週間はニカラグアまでの陸路の旅となった。で、いくつかお断りさせていただきたいのだが、グアテマラの旅は概略だけを、後半の旅は同伴者が一人いたのだが、以下に記す理由でほとんど登場することはないと思う(そう、これは<独歩の独り世界・旅世界>にはならなかったのであった)。

 

いかにも往生際が悪いというか、わたしはこれまで何回か最後の旅と謳って旅たってきたが、少なくともグアテマラに関しては去年が最後のつもりでいたのは確かで、何せ中米はやはり遠いので費用はかかるし、体力的にもしんどくなっていたのは事実だったから、今年まさかのuna vez mas(もう一度)は全く意図していなかったのである。それがどういう経緯でこういうことになったか?事の発端は昨年の世界一周旅のネパール篇辺りまで遡れるかもしれない・・どういうことかというと、ほんとに単なる知人で友人でしかない女性(Iさん 、単なる飲み友達です、このあとすぐにそれはわかる)、ネパールの旅をご一緒した彼女が、去年の秋ころ突然今度はグアテマラにいきたいと言い出したのでした。しかも彼氏同伴で・・と、、要はグアテマラ案内のリクエストでした。もちろん彼女はわたしのグアテマラ愛を知ってのことで、まず、決してわたしは断らないだろうということも想定内だったかもしれない。そう(わたしはフリーだったし暇をもてあましている身であることもわかっていて)わたしは逆にもう一度グアテに行ける口実ができたと喜んで引き受けたのでした。それから約3か月かけてルートと日程決め、航空券と宿の予約等全ての準備を整えて出発したのが我々2月12日、Iさんカップルは2月の13日でした。さて、この我々というのは、いや一人旅ならともかくグループでゆく旅の経験がほとんどないわたしは、さすがにカップルに当てられっ放しの旅には耐えられそうもないと急遽相棒探しをして、同年代のおっさんを誘い、まずはグアテマラ4人旅となったのでした。まだ現役の勤め人である若い彼らは10日間の休暇が限度(なのでいけるところは限られてしまった)、そして俄か相棒のおっさん(実はわたしの義兄で)年齢はわたしと同じ(二人合わせると152歳)、ただ体力・若さ・資力はわたしをはるかに凌駕していて好奇心も旺盛、ま、旅は道連れ世は情けなのだが、言葉もわからないところでは世の情けも通じないということがわかっていないおっさんだったので勝手ながらこの旅録にはあまり登場しないことをお断りしておきます。そんなんでグアテマラ4人旅はほとんどは同じ宿の別室で過ごすことになったが、近くの別宿に部屋をとることも何回かあったりで、基本的に行動はともにし食事もともにするという、わたしはあまり経験のない旅でしたが、それはそれで楽しい旅になったのでした。

で、グアテマラ10日間でどこを回ったかというと、概略ですが定番ルートというかすべてわたしが勝手に決めてしまったのだけれど、2/13,14はAntigua/P.Tashiro泊、Antigua街ブラ、2/15 Panajachelパナハチェル泊、2/16 San Antonio Palopo,San Pedro泊、2/17 San Juan ,San Pedro泊 2/18 Antiguaに戻る 2/18,19はP.Tashiro泊、2/20 Floresフローレスに飛ぶ、2/20,21はフローレス泊、2/21世界遺産 Tikal遺跡、2/22Guateに戻り、我々おっさん二人は若い二人をLa Aurora international airportで見送ってから、この『 hasta Nicaragua ニカラグアまで 』この旅の後半が始まることになります。ということでこれまでグアテマラの記事は何回も書いているので割愛させていたたき、中米陸路の旅録を何回かに分けてお届けしようと思ってます。乞うご期待と言いたいところですが、前から申し上げているように、文章も写真も年相応に呆けてますので、もう誰も期待はされていないでしょう、それで正解です ! ! 

お馴染みのLago Atitlan, San Antonio Palopoから

 

『独歩爺最後の旅』ネパール篇 3,カカニ Kakaniは最後のご褒美だったのか?(この旅録の最終回)

この旅の終わりが近づいてきました、ま、無事に帰ったのだからブログも書けたのだけれど、やはりいろいろあった旅だったなぁと改めて思う、で、いろいろあったけどやはり振り返ってみると楽しかったなぁ、という想いしかない。そうやってまた一年生かされた(長生きさせてもらった)ような想いです。

 

ポカラの悲劇は、そう思うとたいした悲劇ではなかった(大げさな言い方をしてしまった)ように思う、言い方を改めるべきかもしれません。ただ、いい薬にはなった、つまり正真正銘の爺さんなのだから分を弁えろ、とお𠮟りを受けたということだったのかも??しかしせっかくポカラまでいって残念だったことは、ま、何回もポカラからの比類ないヒマラヤの美しさは目にしていたから、初訪問者ほどではないにしろ、やはりヒマラヤを目にすることができなかったことであった。ただそれは発病・入院がためではなく、ただ単に天気が悪かっただけのことであった。ということは旅における運・不運とは天候以外はそれには該当しないのでないかという想いだった。こればっかりはどうすることもできないことであった(ま、よく言われることだが普段の行いの結果、ですね??)。

 

しかし、やはりネパールの最大の価値(魅力)はと問われればやはりヒマラヤと答えるしかない、それほど圧倒的あるいは絶対的な神々しささえ感じさせ、見るものを魅了し感動させる迫力は他では目にすることのできないものと確信的に言い切れるもののように思う。それを今回は五日ほど滞在したが目にすることができなかったのだった。やはりわたしの行いに問題があったのであろう・・?? 悔しい想いは残ったのであった。

 

だがしかし、わたしは諦めなかったのである。カトマンズに戻った翌朝、ちょうどIさんが日本に着いた頃、Hotel Madhubanの屋上から西の空を見つめていた。前日ポカラからの帰路では残念ながらヒマラヤの山影は目にできなかったが、確実に天気が回復しそうな明るさが蘇っていた。そして翌3/22の朝、確かに西の空は晴れていたのである。その時わたしは、幻だったかもしれないが遠くに白い塊を目にしたように思えた(カトマンズの高いビルの上から晴れていれば遠くに白い山影が見えることがあるのだ)。わたしは帰着したばかりのIさんに、相手の状況もお構いなしに(こういう時のラインの力は凄いと思う、相手にとってはいい迷惑だったと思うが)<お疲れのところ申し訳ないが、確か持っていたガイドブックにカカニの情報が載っていたと思うので、写メで送ってくれないか>とラインで頼んでいた。数時間後にその写メは届いたのであった。そして、すでに準備は整えてあったので、その時フロントにいたLaxman氏の息子さんにバイクタクシーの手配を頼んでいた。ちょうどお昼頃だったと思う、カカニ近くのバス停のある村を通るローカルバスの乗り場まで運んでもらうためであった(バイクタクシーは150NPRだったが、バス乗り場に到着したときバスの発車間際でドライバーに支払いする間がなく、Laxman氏にもらってくれといってバスに乗り込み、後で清算するというあわただしさであったが、ツキが戻ってきている兆しはあった)。

3/22の朝Madhubanの屋上からの日の出 6時半頃、天気は良くなりそうだった

カニについてはこれまでに訪れたことはなかったが、すでによく知っていた。一つはカトマンズ郊外からヒマラヤが見える数少ない場所としてガイドブックに載っていて、東(朝日)のナガルコット、西(夕陽)のカカニとして知られていた。前回ネパールに来た時(10年前、まだ歩けた頃)にナガルコットは訪れていたが、カカニにいくときに下車するカウレタナKaulethanaというバス停のある小さな村は、その時の主目的であったランタントレッキングのベースになる村シャプルベシ Syapru Besiまでいくときに、ガイドに連れられてローカルバスで通ったことがあったのである。辻になっていたバス停のある村はよく覚えていた。何よりそこまでのすさまじい道、まさにネパールの絶景が眼下に広がる悪路の素晴らしさは忘れようがない、これぞネパールの道、ネパールのバス(前回カトマンズ~ポカラ間の幹道を走るデラックスバスがせいぜい時速25kmくらいしか出せないだろうと書いたが、おそらくそのローカルバスの道では10kmも出せないような道だった。ちょっと油断したら谷底に真っ逆さま、しかもでこぼこの超悪路、<わたし的には>最高の道 !!)として称賛したいくらい思い出深いところであった。だからその朝、カカニにいってみるかと閃いたのであった。その道をもう一度通ってみたかったし、何よりバス代は知れており(100NPR=約100円)、それほど遠くなかったからであった。ま、これは賭けみたいなものだった。負けてもダメージ全くなしの・・、、

 

(Kaulethanaまで)20kmくらいの道のりを7~80分かかったか?(計算上は時速15kmくらいになるが、市街地はその速度で走れても山岳路は10km未満)13時半にバスを降りて歩き出す、軽い勾配の登り坂一本道、天気は悪くなかった、楽勝のハイキングである。途中出会ったのは地元民数名、観光客は皆無、我一人自然を満喫、ただこの時はまだ白い山塊は見えてなかった。1時間くらい山道というより車道を行くのだが、その理由はすぐにわかった。そこにarmy campがあったからである。道を挟んでかなり広大な軍事教練施設があって、その手前から歩哨が立ち、掛け声が聞こえ、そんな光景を眺めながら、ただ止まらずにその真ん中を突っ切っている道をいくとその先にカカニの村がでてきた。Hotel、宿、観光客相手の店ばかり、道沿いに10軒くらいあったか、しかしツーリストの姿は村の中にもなかった。眺めのよさそうな場所を探して一回り(30分くらい)、その時見つけた最高のview pointはどうやら建設中のタワー?あるいはホテルになるのか?ま、いずれにしろそこに腰を据えて西のかなたに目を凝らすのだが、その時は白い雲に覆われていて、雲だか山塊だか判別がつき難かったのである。そこにインド人ぽい二人の若者が現れた。彼らの言葉はよく理解できなかったのだが、この建設中のホテルだかタワーだかの建物の関係者のようだった(彼らはネパール人だといっていたが、どうも怪しい?)が、いずれにしろ地元の人ではないことは明らかだった。少し話したが、わたしの理解力ではついていけなかった。一旦別れて雲の晴れるのを待ったが、その日のうちはヒマラヤの全容は隠されたままだった。

バス停となっているKaulethana村の四辻 ↑ ↓

 

バスを降りて歩きだす、沿道からの眺め ↑↓ この上下の写真はカカニからすると南面、
つまりカトマンズ方面でヒマラヤはこの後ろ側(北面となる) 

どこから撮ったか覚えてないが、カトマンズの街が写っていた

カニに村の様子 ↑↓ この写真を撮った時は意識していなかったが、
この写真の正面に写っているHotelに泊まることになった

この辺が中央広場だったのか ↑そのすぐ後ろには公園あり ↓

 

村の様子 ↑↓ 

 

村に戻ってその日の宿を探す、どこでもよかったが、何軒か宿代を聞いてみるとだいたい1500NPRといってきた。ともかく何軒かあったのだが何の情報も持ってなかったからもう一軒だけ聞いてみると、なんと半額近い800NPRでOKとのこと、即決する。荷を置いて少し休んで夕飯をお願いして再び山の様子(というか雲の状態)を伺いに再び出かけてみる、わずかだが、頭を雲の上に出した山塊は確認できたのであった。日没の写真を撮って村に戻ると、先の二人にまた出会って一杯やらないかと誘われる。病み上がりでなかったら望むところだったが、昨日の今日である、手を出すわけにはいかず、正直にdoctor stopの身であることを話す、で何飲んでるのか聞いてみたら、イチゴのチャン(焼酎)とのことだった。チャンを舐めさせてもらい、つまみを一口いただく、水牛の臓物のようだった、まさに酒飲みには喉から手が出るところ我慢せざるを得ないこと、せっかくのご招待を辞退せざるを得ないことを理解してもらって宿に戻り、ホテルの食事Dhal Bhatをいただく、もちろんこれも悪くはなかった。夜半はかなり冷え込んだが(カカニは2100mくらい)それ以外このホテルは当たりであった。勝負は明日の朝ということで寝坊しないように目覚ましをかけて寝る。夜半は相変わらずトイレで起きるのだが、でなくなることはなかった。

Prince Hotelをその日の宿とした、安かったし良心的だった

ヒマラヤの巨魁が頭を出しているような?(日没前)

Lantangか?

18時ころ日没

インド人ぽいビジネスマン風の二人は何者だったのか?

一口いただいたが酒のつまみにピッタリであった

夕食のDhal Bhatもとてもおいしかったが、やはり酒(ビール)がないのがちと寂しかった

 

朝はやはりトイレ問題を抱えていたので目覚まし前に起き、明るくなり始めた6時前には、まず建設中のタワーのところへ行ってみる、外は意外にそれほどの冷え込みはなく、ともかくむやみやたらにシャッターを押していた。一番近場に見えていたのはLantang(最高峰7234m)ランタン山群だと思う。その左がGanesh Himal (最高峰7422m)ガネッシュヒマール山群、それからHimal Chuli(7893m)ヒマルチュリ、その左にManaslu(8163m)マナスル、Annapurnaまで見えるとのことだったので、たぶん左手の奥がAnnapurna(最高峰8091m)アンナプルナ山群、Machhapuchhre(6997m)マチャプチャレも見えていた可能性もあった。そう、カトマンズを真ん中にして西方のヒマラヤ山群が一望に見渡せたのであった。個々の山名はわからなかったが、ともかく見えた、見たという事実とその証拠写真が重要だった。いや、満足だった、来た甲斐あったというものだった。朝焼けから朝日があたり始める変化もたっぷり楽しめた、しかも観客は我唯一人であったのだ。

日の出前 6時頃 ↑↓

夕陽のカカニだったから日の出は見えない(北を向いている)

位置からしてLangtang山群だと思う ↑↓

朝日があたり始める、山名不明だが以下何枚か ↑↓  

ここまで約1時間くらい撮り続けていた(もういい加減にしてくれという声が
聞こえそうなのでこの辺にするが時がたつのを忘れていた) ↑↓

7時頃一旦ホテルに戻って朝食を外でいただく、朝の陽光の中すがすかしい外気が気持ちよく、このホテルに満足していた、ホテル代800NPRと食事代二食で300NPRだったのもその理由の一つとなっていた。8時半ころ会計を済ませチェックアウトして、きた道を戻る、帰路はほぼ全線下り坂なので至って気楽な山歩きであった。ところが、army camp(正式にはAPF army police forcesとでていた)を過ぎたあたりで目を疑うことになった。そこはカカニ村から2kmも離れてなかったし、数十mしか下ってなかったと思う。ただ角度は少し違っていたかもしれないが、カカニ村以上にクリアなヒマラヤが迫力をもって迫っている場所にでたのであった。来るときは雲がかかっていてその場からは何も目にすることはなかったから素通りした場所だったのだが、その時そこからのヒマラヤはカカニ以上に迫力があったのである。しかも足元は芝地であった。こんないい場所があったとは ! 寝転んでヒマラヤを堪能できるではないか ! ちょうどそこにはホテルも建っていた。おそらく高級ホテルで、カカニの価格では泊まれそうになかったが、ホテルの立地としてはこれ以上のところは望めないほどのところに一軒ホテルが建っていたのだ。いや、そんなところに泊まれなくても、人っ子一人いないこんな贅沢な場所を独り占めにできた、そういう場所に巡り合えたというだけでわたしは満足だったし、内心この賭けに勝ったではないかと喜んでいたのであった。

外で朝食をいただいて、パッキングそしてチェックアウトする

村のストゥーパ

帰り道army campを過ぎたあたりで、あれ、何だここはと驚くことになる ↑↓
左手の山群が果たしてマナスルだったのか、アンナプルナも見えるとのことだったので、
わたしにはわからなかったのであるが??

 

 

その地に建つこのホテルからは前4枚の写真にある風景が部屋から眺められたに違いない

このホテルから下の下り坂からは随所にこんな風景が見えていた ↑↓

 

そこからは30分くらいでバス停のある辻に着くのだが、なんとそこを10時にでる始発のバスが待機していたのである。そこの屋台ではイチゴが山積みになって売られていて(だからイチゴのチャンであったことがこの時判明)Laxman氏へのお土産に一袋買って、右側の(写真を撮るのに)特等席に座して出発を待つ、15分後にバスはけっこうな人と荷物を積んで出発し、カメラとスマホのビデオをずっと構えてこの道中を撮ろうとしたのだが、なんとバスの揺れがひどすぎてほとんどまともには撮れてなかったのである(来る時は座れなかったのでなおさらであった)。それほどわたしにとっては魅力的なバス路線だったのだが、ヒマラヤは見えなくてもこれぞネパールらしさを満喫できるローカル路線としてお勧めで、それを写真でお伝えできないのを残念に思う。70分でカトマンズの発着場所に着いてモトドライバーと交渉して、くるときと同じ150NPRでホテルに戻った、11時半着でちょうど24hourの小旅行であった。

Kaulethanaのバス停に9:45に着くと10:00発のバスが待っていた
(全く知らずに来たのでluckyに思えた)その界隈4枚 ↓ 

そのバス停からも白い山塊は見えていたのだ

超悪路を行く路線バス(故に超面白い) ↑と道中の山岳風景 ↓ 3枚

 

 

 

Laxman父子がほんとによくしてくれて、その日(3/23)の夜便でカトマンズを発つことになっており、それまでの間時間貸しの形で半額くらいで部屋を使わせてくれ、シャワーの使用と仮眠をとることができた。いつでもどこでもそうだがドル以外の小銭は残したくなかったので、それをきっちり通う算段をし空港までのタクシー代を差し引いて、残りを夕食とわずかな土産等に使い切って20時ころに空港に向かう。いろいろあった世界一周券だったが、わたしの失敗も多々あって必ずしも満足してなかったし、この時も怒りに近い不満を覚えつつ(詳細は控える)シンガポール航空でまずはシンガポールへ飛んだ。シンガポールまでは5時間のフライトでネパール時間4:15はシンガポール時間朝の6時半だった。


世界一周のルート組段階でカトマンズシンガポール~成田はわたしにとっては一択しかなく(組み方はいろいろあったが)、つまりたとえネパールで発病しなかったとしてもカトマンズ~成田はシンガポールを経由するしかなかったので、はっきり言ってシンガポールには滞在するつもりはなかったのであったが(要するに米国、ヨーロッパの国々と同様の国としてわたしの好みからは外れていたので)、当初は、ま、せっかくだからシンガポールに着いたら即刻マレーシアにでてインドネシアに足を延ばして数日滞在し、またシンガポールに戻って帰国する予定でいた。が、この時はすでに発病後で、ネパールのDocとは一日も早く帰国して日本の病院に行くことを約束していたし、わたし自身そうすべきだと思っていた。なのでダメもとでシンガポール入国早々、ANAのカウンターに赴いて空席があったら寄り道せずに帰るつもりになっていた。ANAカウンターには朝早すぎて職員はおらずしばらく待ったが、やってきた日本人の女性職員に事情を話し相談してみると誠に親切ですぐに調べてくれて、その日の夜行便に空席を見つけてくれ、無料でticketの変更をしてくれたのであった(実際問題として世界一周券のルート変更は有料だが、日程変更は空席がある限り無料でできるとうたわれていたにもかかわらず、これまで数度の変更に関していえば、現地での場合はそう簡単ではなかったのでon lineで有料で日本のagentにやってもらっていた)。なので、それは有難かったし空席があったのは幸運だったといえた。その時点で予約してあったマレーシアの宿等をすべてキャンセルし、日本への帰国便が見つかった旨を知らせた。ただそれは深夜便だったので、数時間はシンガポールで過ごさねばならなかった。もちろんチャンギ空港でじっとしていてもよかったが、どうでもいい国だったとはいえ30年ぶりのシンガポールだったので、ちょっと街に出てみようかという気にはなっていた。しかし、デカすぎて何がなんだか、どこがどうなっているか皆目わからないチャンギで地下鉄の切符を買うだけでもうウロウロし、あっちへ行ったりこっちへ行ったりする始末(それは予測できたことだったので、最初からこういう国は敬遠したかったのであったが)、それでも人に聞いて何とか地下鉄で街にでることはできたのだった。で、あてずっぼで下車したところは(おおよその見当はつけてあったが)よく写真で見る建物(マリーナベイのこと)が建っているようなところだったので、その界隈をウロウロしコンビニで昼食になるようなものをゲットし、ま、公園とかも結構あったので、暑いところだったがそんなところで休憩&食事し写真を撮って数時間を潰すのであった。

 

ネパールの写真群からすると全くつまらない写真だが、確かに寄りましたという
証拠写真的な意味で3枚載せておきます ↑↓

無事といっていいのかどうか、そういうことで帰国は2023,03,25の朝の5時半、当初の成田でなく羽田であった。予定より一週間くらい短くなった73日間のわたしの世界一周旅であった。

 

帰国後の話を簡単にしておくと、3/27に近くの病院で検診してもらうと、即入院とはならなかったが要手術の宣告を受ける。が、これが結構順番待ちのようで、最終的に手術日は一か月後の5月2日となる。2023年のGWの5月1日入院、手術が5月2日で手術後一週間は予後の経過観察、幸い経過順調で一週間後の5月7日に退院、1か月後の検診でも異常はみられず、帰国後2ヶ月にして晴れて飲酒OKの許可がおりたのだった。まだアルコール中毒にはなってなかったが、これが最もうれしい日となったのであった。

 

<その後も順調にきてますので、これをもって独歩爺最後の旅を了とさせていただきます。2024年2月3日>

『独歩爺最後の旅』ネパール篇 2,ポカラPokharaで緊急入院

このつまらないブログもあと2回で終わりになります。ようやくゴールは見えてきました、それも悲惨なゴールが ! まぁ、おおよそ想像はつくことと思いますが、自分ひとり楽しんできたバチがあたった?しかし実際は楽しんでばかりいたわけでないことは、ほとんど正直なレポなのでわかっていただけるとは思いますが、もし誰かが呪いをかけていたとすれば、そんな力が働いた可能性も無きにしも非ず・・そんなことあるわけないか?ただ単に自業自得としかいいようがなかったのだった・・??

 

わたしはこのブログを小さなメモ帳に綴った箇条書きの記録をもとに書いているのだが、驚いたことに、その悲劇の前兆は前々日の3月16日の夜には出ていたことを後から知って愕然としたのであった。が、当然その意味するところは分かってない、そんなことが起ころうとは・・、しかし振り返ってみれば最初から万全の状態での旅立ちではなかった、ということも後からは言えた。奢り?甘え?未熟?無知?無謀?・・いろんな言葉が出てくるのだ。

 

3月17日は前夜遅くまで晩餐を繰り広げていたので、いつものように夜半起きることもなくよく眠れていたようだが、朝からちょっとした失敗が続いていた。それでもATMへ出かけてNPRを降ろしたり荷物を数日預かってもらう仕分けをしたりして、6時半ころには余分な荷を預け、とりあえず清算を済ませてチェックアウト、Iさんと手配してもらったタクシーでポカラ行のバス乗り場に向かう。カトマンズの場合未だ長距離バスのターミナルはなく、それでも公道の大通りの一画がその場となっていて、そこまで歩けば20分くらいだったが、そこに待機しているバスの数ときたら2~30台?いちいち聞いていく手間を考えればタクシーの利用価値はありだった。もっともタクシードライバーだって同じで、ある程度は知っていたであろうが、すべてのバス会社の駐車場所を覚えているわけではなかったであろう。そして多少のばらつきはあったがだいたい同時刻にバスは発車していくのであった。そしてまた、すでにだいぶ前からカトマンドゥの幹線道路の渋滞は激しく、街を離れるまでに相当時間がかかっていた。で、その状態は、ま、それをネパールに求めるのは酷であるが、インフラ整備の遅れているネパールの道路状況は10年前20年前とさほど変わっておらず、おまけにほとんど山岳地帯を走っているのでお世辞にも快適なバス旅とは程遠いものなのであった(もし道中ヒマラヤが眺められればこの限りではないのだが)。それでもわたしはポカラまでの風景や、村々・人々の暮らし・道路状況などが垣間見られたらとポカラは初めてだったIさんにはバス旅を勧めたのであったが、帰りもそうしたことの愚かさを数日後に改めて思い知らされるのであった。ま、richなIさんだったから、最もクラスの上のバスをLaxman氏にお願いしたので、道路は悪くてもシートは快適だったし途中のドライブインの食事も悪くはなかったのであった。しかしカトマンズKathmandu~ポカラPokhara間をこれまでわたしはすべてバスで移動をしていたが、今やDeluxeバスで1700NPR(1700円として) 8~10時間 : 飛行機だと15,000円(ま、いきなりその値段で航空券がとれたかどうかはわからないが)&30分を比較したら勝負にならないことを痛感させられたのであった。朝7時半に出発したバスはたかだか200kmを延々8時間もかかって(時速20~25kmである、その遅さがわかるというものである。もっともその間何回かトイレ休憩、3~40分の食事休憩があったが)15時半にその時の我々の目的地だったレクナス(Lekhnath ポカラはそこからさらに30分かかる)というところに着いたのだった。

Pokharaへの道中 ↑(昼食休憩) ↓ 何枚か

川にかかるつり橋を撮りたかった ↑

この場所はどこだったか?? ↑

  写真左手に見える川沿いの細い道一本しかないのである ↑

では、何でLekhnathレクナスというところだったのか、どうしてそこが今回の集合場所になったのかの経緯を述べておく必要があろうかと思う。ことの発端は(すでによく覚えていないので、違っているかもしれないが)レクナスの宿を予約したのはわたしで、すでに2,3回ポカラを訪れていたわたしは、世界一周の最後の滞在地としてネパール/ポカラに決めていた(それは、ネパールは好きな国であったしポカラもお気に入りの地であったからだが)。だが、俗化の激しいペワ湖<Lake Phewa>界隈でなく、もっと自然が美しく静かな場所を探していたのであった。その時見つけたのが、おそらく晴れていればアンナプルナ Annapurna(Ⅰ峰 8091m~Ⅲ峰あり)、マチャプチャレMachhapuchhre 6997mが目と鼻の先に眺められたはずの山上の宿だった。そこを見つけたのは2022年の11月頃のことで、その時最後の滞在地にはぴったりだと思って、期待を込めて4泊ほど予約していた、airbnbの宿で安かったからであった。

その場所が集合場所になった経緯を述べるには、その前に我々の関係性も述べておく必要があろうかと思う。まぁ、簡単に述べると奇縁ともいえるが、そもそもはわたしとIさんは仕事上の繋がりで知り合った?わたしはIさんのお客さんだったのである。その後公私共々の友人となるが、旅好きなわたしに彼女の学生時代からの友人で同じく旅好きのHさんを紹介してくれ、ま、グループの付き合いとなった(7~8年の付き合いか?)。そのHさんは(うら若き女性ながら)わたしと同様の旅をしていたので意気投合し旅の情報交換等が始まり、今回のわたしの旅のサポーターのような存在になってくれていた(歳の差はほぼ親子くらい、それというのもわたしの息子と彼女らは同世代だったので、その後息子とも友人関係になってくれていた)。今回のわたしの旅立ちにあたって、わたしと彼女らのグループラインを作ってくれ(そもそもそれまでわたしはラインなどを利用したことがなくそのやり方も知らなかったので教えてもらう)、そしてすでに世界一周旅を経験していたHさんからはそのアドバイスも受けるほど彼女は旅のエキスパートでもあったのであるが、地域的にどうやらインドは未訪だったようで、わたしが旅立ってからインド行き決断したことを告げられる。もちろんインドに関してはわたしが多少のアドバイスをしたが、そんなものは不要なほど彼女は一人で旅をできる達人の域に達していたから、普通の旅人には勧めないバラナシ~ネパール国境~ポカラまでの困難な陸路に挑戦するように勧めてはいた。そうしてムンバイあたりからはお互いの動向をチェックしつつポカラ集合の目標は二人の間では自然の成り行きとなったように思う。ただその時点ではIさんがまさか一週間の休暇を取ってネパールに飛んでくるなどとは思ってもいなかったが、グルーブラインだったから彼女なりに刺激になっていたかも知れなかった。カトマンズまでくればわたしが出迎えて一緒にポカラまで連れて行くから、休みが取れてticketが取れたら飛んで来なさい、と言っていたらほんとに飛んできた、ということだったのである(いや、細かいことまで話すときりがなくなるので、こんなところでご理解いただけただろうか)・・??

 

で、3/15にカトマンズの空港に出迎えて、3/16にカトマンズ市内を見物して3/17にポカラに向かったのであったが、その日にHさんもレクナスの宿に到着することになっていたのだ。わたしとIさんはドライバー助手にいってあったレクナスのTal ChowkというT字路交差点で下車し、買い物したりタクシーを探して交渉したりして(バスもあったことを後でHさんが教えてくれた)結局タクシーでairbnbの宿に向かった。が、これが大変わかりにくいところで(看板もなし)最終的にはドライバーから電話してもらってそこへの登り口にたどり着き、そこからしばしの山道を登りようやくたどり着くといった按配、こんなところにHさんは一人でたどり着けるだろうかと心配しつつ我らは17時ころチェックインし、晴れていれば下界に湖があってアンナプルナ山群が目の前であったであろうその山上の宿はあいにく曇っててその素晴らしさは堪能できず、仕方なく視界は悪かったが山の上を部落を1時間ほど散策して戻ってくると、まさにモサ(猛女には縁遠い美女だったが)はそこにいたのであった。しかもタクシーは使わずバスで来たとのことだった。感動のご対面 !! 凄い女だ !と改めて感心させられたのであった。

 

ネパールの山岳地帯の場合、尾根上に道が走っていてその両脇のわずかばかりの平地に家々が建っており、特に宿名もなかったDinesh氏の家は3,4つの部屋はすでに満室で、ま、いきなり2名追加の飛び込みでもなんとかなるだろうと連絡せずにいったしまったが、偶々その日は難しいと知らされ、村の散策時に近隣の宿に問い合わせたら一軒に空きありで、わたしは一人別宿に泊まることになったが、そこは一泊1000NPRでDinesh houseより安くて立派な建物であった。が、夕食はDinesh houseで3人分を注文し、早18時半ころから、あいにく曇り空だったので星空の下というわけにはいかなかったが、夜空の下ロウソクの灯りを頼りにIさんがTal Chowkで仕入れてくれたワインとビールを飲み始める、そうこうするうちに夕食のターリThali(だったか、ダルバートDhal Bhatだったかもはや記憶があいまい)が運ばれてきて宴は最高潮に達し、別室のアメリカ人がびっくりするほどの大騒ぎをしてしまったのであった。そして22時過ぎに二人に送られてわたしは別宿に移り、もしかしたらDinesh houseより快適なベッドに横になったのである。その部屋にはトイレもついていたのだった(Dinesh houseはトイレは外だった)。

 

最初に異常に気づいたのは2時頃だったか?結構飲んで酔っ払っていたから数時間は眠ったようだった、が、いつもずっと夜半に何回か起きる習慣になってしまっていて、その時の最初は2時頃だったと思う。出が悪くなっていた、要は出したいにもかかわらず小用が足せなかったのである。どうしてだかわからず、そのあと何度も何度もトイレに行くのだがほとんど出ないのである、完全に途切れたのは4時頃でいかんともする術がなかった。明らかに異常事態であることはわかったが、どうしていいかわからず、つらく苦しい時間を過ごすことになった。悶々として何回もトイレに行くのだが虚しく戻る繰り返しで朝が明けるのを待つようになる、ベッドの上で悶え苦しみながら朝が早く明けてくれるのだけが希望となった。で、明けたらどうするか?これは迷いがなかった、日本にいたなら救急車を呼んでもらう事態だと思ったが、ここはネパールポカラの山の中であった。が、いくらかの運は残っていたのだ、ポカラまでタクシーを呼んでもらって駆けつけることのできる距離だった。緊急病院もスマホでチェックできた。何よりも二人の助っ人が隣の宿にいてくれるではないか ! 何という幸運 ! ! なので早く夜が明けてほしかったのである。早すぎて迷惑をかけることはわかっていたが、6時になると荷をまとめて宿のお母さんに事情をいって代金を払ってチェックアウトさせてもらい、すぐにDinesh houseに戻る。オーナーDinesh氏には正直に体調不良を告げて、病院にいきたいのでタクシーを呼んでくれるようお願いする。起きだしてきた二人にも、申し訳ないがこれから病院に行く旨告げる。そしてDinesh氏には一泊しかできなかったが、たぶん戻れないだろうと詫びて、前日の食事代等々の清算をお願いする(airbnbの場合当日のキャンセルは返金されなかったし、されたとしても返金を受け取るつもりはなかった)、そうやって清算を済ますとわたしの持ち金は尽きてしまった。何より彼女たちがいてくれて助かったことは、それ以降の支払いをすべて立て替えてもらえたことであった。そして8時にはやってきたタクシーのドライバーにPokharaの緊急病院にいってくれるようお願いする。ずっと二人が付き添っていてくれたのは本当に心強く、有難かった。

為すすべなく、一人起きだして日の出の写真を山の上から撮った?

同じ時間に山は雲がかかっていたのでDinesh houseを撮ったのかも?

そう、幸いその時調べた緊急病院international medical centerには9時前には到着したと思う、小さな町医者(clinic?)で待っている患者もおらずドクターはすぐに診察してくれた。症状も英語で説明できたので、このDocはすぐに適切な処置を施してくれたが、症状が改善することはなかった、が、このDocは正確に状態を診断され、自分のところでは無理だが、すぐに行くべき病院を教えてくれ、かつ、その病院に連絡してくれ、わたしの診断結果を伝えて今からそちらにタクシーで向かわせる旨手配をしてくれたのだった。こうした善意のリレーによって10分後にはタクシーでその病院に到着し(もちろん彼女ら二人も同行してくれていた)緊急診断、緊急処置、緊急検査ののち(75年間入院した経験のなかった)わたしは晴れて?生涯初の入院をネパール/ポカラで経験することになったのであった(まったく自慢にならないことをのうのうと書いてますが、その結果がよかったからである)。その時の診断結果は、日本語では前立腺肥大症というもので、それを聞いてわたしは、そういうことだったのかと初めて納得がいったのであった。

 

いや、もちろんそれなら数年前から自覚があって、ずっと通院していたし処方された薬を飲み続けてはいたのだった。が、その薬を途中で切らしてしまった結果だったのか?あるいはその結果を日本にラインで報告したときに知らされた、お酒の飲み過ぎの結果だったのか?つまり、わたしが日本で通院していた時に、薬を切らすと今回のような排尿困難になることや、飲酒はいけないなどということをドクターからは聞いておらず、まったくそういう知識のないまま旅を続けていたし、旅の期間分の飲み薬ももらってきていなかったのがそもそも事態を重くしてしまった原因だったということに初めて気づかされたのだった。ネパールのドクターの診断を聞いた時、わたしは正直にそのような経緯があったことを告げ、わたしの無知によるそれまでの飲酒が排尿困難になるまで病状を悪化させていたことを知ったのであった。そしてわたしは感心したのだけれど、そのイケメンの若いネパールのDocの出した診断が即入院ということだったので、それには素直に、というか納得して従う気持ちになったのであった。その時はすでに施術してくれていて、溜まっていたものはすべて放出できていたから、カテーテルに繋がれた状態であったが苦しみからは解放されていた。なので一日二日の入院なら致し方ない、むしろネパールでの入院を楽しんでみるか、という気になっていたのだ。その状態と診断結果は彼女らにも知らされたので、午前中ずっと付き添ってくれていた彼女らと相談して、このあとどうするかについて次のようにしてくれるようお願いした。

①まず、二人はPhewa湖湖畔に宿を見つけ、二人の目的(トレッキング等)を完遂させるように②いずれにしろ二人とも自分たちの予定・日程を優先させてほしいこと③何かお願いしたいことがあったらラインするので、ともかくせっかくのポカラを楽しんでくれるようお願いし、昼頃にやっと彼女たちを解放させてあげることができたのだった。

入院初日の昼食、注文の仕方を教わり最初に頼んだのがモモMomo(餃子)&
ツクパThukpa(味は日本そばに似ている)は140NPRでうまかったのである

先にいったように、一番の幸運は彼女たちがそばにいてくれたことであったが、その他にもまずその地がネパール第二の都会ポカラだったこと、そこには設備の整った病院があって優秀な医師と親切な看護婦を含むスタッフが揃っていたことは大きかったと思う。だから、もちろんカテーテルに繋がれた不自由な身となったが、思っていた以上にネパールの入院生活は快適だったといえた。投薬だけで治療はなく、特に痛みも伴ってなかったから苦痛はなかった。大部屋生活もたぶん8人部屋だったと思うが満床ではなく、若い看護婦さんがてきぱきと業務をこなしているのを見ながら、たまに会話できるのはそれなりに楽しかったのである。なにより今の時代、ここでもWiFiが繋がっていたので即刻日本に報告し反応はすぐに返ってきて暇することもなかったのであった。そんな状況をDinesh氏にも伝え再度お詫びを入れることもできた。床についたままであったが、いろいろ観察しながら病院生活の仕方を学び、食事の注文の仕方も看護婦さんに教えてもらった、というか、要は病院直属?のcanteen(食事を提供するところ、売店も兼ねていた)があって、そこの人を呼んできてくれ、メニュウをもらい注文の仕方を教えてもらったのであった。そうして一日にして病院生活にも慣れるのであったが、少々楽観し過ぎたのは、わたしは入院は一日で済むだろうと思っていたことで、次の日(3/19)の朝二人が寄ってくれた時にちょうど定時検診があって、一緒にDocの説明をきき、いつ退院できるかと聞いてみたのだが、その日の退院は無理と言われてしまったのであった。なんとしてでも明日には退院させてもらえないと日本に帰れなくなると強くお願いしたが、Docの立場からすれば、やはりまだまだ不安要素があるとのことで、容易に結論は出しがたかったのかもしれなかった。その日は二人は近場のトレッキングに出かけるといっていた(たしかPhewa湖湖畔から登る日本寺妙法寺にいったといっていたような)、そんな二人に宿の近くにランドリーがあったら、といって洗濯物も預けてしまう、まったく手のかかるワガママ爺さんなのであった。その日午後に亀頭の先に取り付けられていたディブキャップ?を若い看護婦が何事でもないという風に外してくれ、自分でトイレにいって排尿することができるようになった。この時の晴れやかさは例えようがなかった、ようやく自由に動き回れるようになって早速院内徘徊、屋上から街の様子や山の気配を伺うがマチャプチャレの姿は雲に隠れたままだった。1Fに降りてcanteenに顔をだし、コーヒーと菓子を買って自由の味を噛みしめていた。

 

3月20日の朝の定時検診では確かDocはその日の退院を許可してくれたはずだが(言葉の問題で明らかではないが)、午後退院の準備をして清算をお願いすると今日の退院は無理と言われてしまった。もしかしたら事務方だったのかもしれないがDocも何人かいたのでわたしは男性スタッフの顔は覚えきれず、どういうことか確認するとしばらくして夕方までに清算できるようにするといってくれたのであった(たぶん経理上のコンピューター処理や投薬の準備が間に合わずに明日にしてくれといったきたのではないかと思われた)。やっと退院確実になって二人にラインを入れた。

 

彼女らがPhewa湖湖畔に見つけたホテルは3ベッドだったから、その夜のホテルを探す必要はなかった。16時ころには全てCC決済で清算を終了し(旅行保険には入っていなかったが、CC付帯の保険が利くかどうかは微妙であった、いずれにしろそれでも日本円でトータル7万円弱で済んだので、保険が利くかどうかはどちらでもよかった)大量の薬を頂戴し、病院前で客待ちしていたタクシーで湖畔のホテルにいくのだが、途中二日前に最初に世話になったクリニックに寄ってもらって院長に退院できた旨報告し、世話になった礼を述べてホテルに向かった。わたしが着くと、たった今戻ったばかりという二人がお茶を飲みながら待っていてくれたのであった。

 

これらの薬をきちんと飲むという約束で退院の許可が出たのだが、いつどれを飲むのか
覚えるのに苦労する

本当によくしてくれた病院の写真が一枚もなかったので、退院時にいただいた診断書並びに検査報告書の表紙を病院紹介の意味で載せておくことにした

そんなんで漸くというか、何とかというか、当初の予定通りLaxman氏の手配してくれたバスでIさんと一緒にカトマンズに戻れる目処はついたのであった。せめてもの償いというか感謝のしるしとしてその夜の夕食はわたしもちにさせてもらって、チペッタンモモの店に繰り出し別れの晩餐とした、もちろん酒なしであった‥(その後2ヶ月は禁酒したのだが、これがつらかったのだった)

チペッタンモモの店で別れの宴(ただし酒抜き)

翌3月21日はIさんの帰国の日で、Hさんは当初の目的の本格的なトレッキング、ゴレパニGorepani 2853m プーンヒルPoon Hill 3198mまでの一泊二日のトレッキングの手配を済ませていた(このルートのトレッキングは45年前のまだ若かりし頃行っているが、そのころと比べると車でかなり奥まで行けるので今は一泊二日で往復できるようになったいた)。だいたい皆6時j前には起きだしてHさんにはいろいろ世話になった礼とトレッキングへの健闘を祈るエールを捧げて、我々は6時半に先に出発しポカラバスパークまで歩く。時間は十分あったので簡単な朝食をいただく時間はあったが、7時半発だと思っていたバスは8時になっても出発せず、いったい何時にでるのか、最終的に何時にカトマンズに着くのか気を揉むことになった。まさにこの時であった、わたしがバスに固執した己の愚かさに気づくのは。翌々日(3/23)に帰国予定だったHさんはすで3/23のPokhara~Kathmanduのフライトを予約済みだったのである。この時点で(わたしの)ネパールガイド役は失格していた、が、それでも有難いことに何とか夕方にはそのバスはカトマンズに着いてくれたのだった。そしてタクシーでホテルに戻り、わたしの部屋のシャワーを使ってもらい、土産を買ったり軽食を食す時間を持てたので何とか救われた気分になった。20時半にHotel MadhubanのLaxman氏が手配してくれたタクシーで彼女を空港へ送り出すことができ、次の朝には無事日本帰着のラインでもらい、至らぬ指南役であったが胸をなでおろすのであった。そしてtough ladyのHさんもきついGorepani トレッキングを見事に走破しPoon Hillからの間近に迫ったヒマラヤの絶景写真を送ってくれていた。そして次の日には相当お疲れのようだったが無事Pokharaまで戻り、23日にはカトマンズ経由、ムンバイで乗継で3/24に無事日本に帰国したのだった。残る厄介爺さんのその後はどうなったかというと・・次回最終回です ! !

Phewa湖湖畔 3/20 18時頃 ↑と 3/21 朝7時頃 ↓

帰りのバスから何枚か ↑↓

少し天気が良くなりつつあるようだった

行きも帰りも同じところが食事場所だったが、ここのロケーションも
食事内容も悪くはなかった(Iさんと一緒に)

すでにカトマンズ市内だがこの地は不明

 

『独歩爺最後の旅』ネパール篇 1,オーランガバード~デリー~カトマンズへ

またまた言い訳から始まる世界一周最後の旅<ネパール篇>というのも我ながら呆れるというか恥ずかしさいっぱいである。その言い訳というのは例によって気力・体力・視力(&資力)の衰えに始まるボヤキである。正月元旦早々に飲み過ぎて自宅の階段で転倒し家族や宿泊客にに迷惑をかけてしまい、幸先悪い今年の出だしであった。これらは、すでに後期高齢者の仲間入りをしてしまった同世代が、いずれもみんな元気に活躍している姿を見せつけられるにつけ、己の不甲斐なさを嘆きたくもなるというものであった。ま、そんなことで2023年の<独歩爺最後の旅>の結着を同年度中に片づけられなかった不甲斐なさとも直結していて、もうインド篇の終了をもってこの旅録へこだわりも捨て去ろうかと思い悩む今日この頃で、残るネパールでの悲惨は書いても誰も楽しくもうれしくもない、ましてや楽しみにしている人ゼロのこのブログの終焉も間近になっているのであった‥

 

で、少々思い直して再挑戦である、時は一年前の3月14日がオーランガバドからデリーを経由してネパール/カトマンズへ発つ日であった。その朝はちょっと悲劇であった、朝はいつも通り早く起きていたが、その朝初めて断水しており間の悪いことに歯磨きして口を漱ぐ段になって気づき、口は漱げない洗顔はできない、mailでRachnaを呼んでも返信がなかったのである(どう乗り切ったのか覚えていない、ミネラルウォーターがあったのか?)。そのうちRachnaが起きてきて朝食をlunch boxに入れて持ってきてくれた、誠にありがたかったのだがわたしの不機嫌は収まらず、おまけに約束の6時になっても頼んでおいたTukTukは現れずで、それまで良くしてもらっていただけに修行の足りないわたしは怒りをあらわにした別れとなってしまっことを、後から悔やむことになった(もちろんレビューでは最高点をつけたが、Rachnaには申し訳なかったと思っている)。そのTukTukドライバーがこれまた年配者で、飛行場までの道中気を揉みっぱなしであった。ま、それでも何とか離陸1時間前には空港についたが(230Rp+tip20Rp)、そのあともセキュリティでなんかいろいろ引っかかったりして、どうもインド最後の印象を悪くしっぱなしとなった(この時水を買う時間がなくそれもあとあと響くのだった)。7:40に離陸したAI444はデリーまで約2時間のフライトで、デカすぎるデリーの空港は同じAir Indiaだったからか乗継便とターミナルが一緒で、Transitの手続きは比較的簡単に済んだが、搭乗待ちgateでRachnaの作ってくれたlunch boxを開いて食事をとろうとして売店にいってみると水70Rpコーラ100Rpに驚かされるのであった(4~5倍の価格)。デリー~カトマンドゥも2時間のフライトとなっていたが、これは時差15分を含んでおり、実際は1時間45分のフライトでカトマンドゥ着は14時半だった(残念ながらヒマラヤは雲の中だった)。そこまではまぁまぁ順調、が、この後爺さんは苦労することになる、つまりarriving visa これがまずどこで何をしてどういう順序でどこへ行けばいいのか全く分からず、また操作が全てタッチパネルというか、パネル操作で写真を撮ったりする手段等皆目わからずでウロウロして1時間以上かかったと思う(もっと係の人を増やして親切に教えてくれてもいいと思うのだが??)。ま、それでも最後は15日間30ドルの支払いを済ませて、エチオピアの二の舞を踏まずに無事入国することができたのだった。

デリーの飛行場か?

カトマンドゥTribhuvan国際空港のタクシーブース

カトマンズの宿は数か月前からコンタクトを取っていたところがあって(常宿ではなかったが、今後があればそうしたいと思う当たりの宿だった)そこは以前日本人社員も駐在していてネパール観光、トレッキング・登山の手配をしてくれるトラベルエージェンシーも兼ねたホテルで、数か月前に情報を聞いた縁で予約を入れてあった。良心的な価格で空港送迎もしてくれるとのことだったので、出迎えも頼んであった。そこの社長さんが自ら出迎えに来てくれて何年ぶりかのカトマンドゥThamel地区に投宿した。すでにカトマンドゥも4~5回に来ており、また今回はそこの人の良すぎる社長Laxman氏が全て仕切ってくれていたので何の心配もなかった。その日は懐かしき街、相変わらずツーリストや地元民でごったがえすThamelの路地を歩き回り、ATMでNepal Rpをおろし、酒(ロン)ビールを仕入れ、つまみを探して、lunch boxの残りとAir Indiaの機内食にでたパンで夕食とする、カトマンドゥはいつ来ても寛げる街なのであった。

Thamelの一画 カトマンドゥの路地の風景

さて、次の日(3/15)は日本からとある女性が訪ねてくることになっていた。ま、誤解のないよう説明するのが難しいかもしれないが、誤解されたいくらいの美しい人だった、彼女とはこの旅に出るときからラインで連絡は取り合っていた。というのも、インドで先発隊の役を担ってくれた女性(この方はHさんといってこちらも魅力たっびりな美人でかつ旅人でもあった)の友人だったから、この3人のグルーブラインができていたのだ。そのムンバイからの先発女性Hさんは、この時バラナシにいてネパールに向かっていたのである。次の日カトマンドゥの空港に出迎えるIさんを連れてポカラまでいき、そこで3人は落ち合うことになっていたのだった。

その3月15日、昼間は日本との連絡、街ブラ、日本人旅行者の多いカトマンドゥ(特にThamel地区)には日本食レストランやカフェが多く、その一軒で久しぶりに日本食をいただく(かつ丼460Nrp,1Nrp=1円?)。そう、ネパールルピーは日本円とほとんど同額だったのでわかりやすく、買い物や飲食時に計算不要であった。で、日本食は少し安く感じ、他のものは総じて安かったのだが、以前に比べるとその格差はなくなってきているように感じるのだった。そして夕方からLaxman氏と空港へ出かける。彼女の到着は16時半となっていたが、少し出発が遅れているようだったし、彼女もarriving visa(やり方をラインに入りておいたが)だったから18時前に姿を現すことは考えられなかった。我々は17時半に空港着、そのころから同じ便と思われる乗客が次々と出てくるも彼女の姿はなし、18時頃日本人の若い女性がでてきたので聞いてみる。やはり同じ便だった、彼女も一人旅でホテルは予約済みのようだったが、そこまでの足はないとのことだったので(そのホテルは我々のホテルに近くLaxman氏も知っているところだったので)我々の車に乗るように勧める。しかし我々の待ち人は18時半過ぎても現れず流石に焦ってくる(あとから気づいたことだけど、空港のWiFiにつなげられなくてわたしとのラインができなかったことがうまく出会えなかった原因の一つ、わたしの落ち度であった)。出迎え人は空港ビルに入れないのだけれど、それに気づいて出迎えエリアから少々越境して館内入り口近くにいったときに、彼女はわたしを見つけてくれたのだった。1時間半待ちで19時に無事落ち合えて出迎えの車でThamelに戻る。その縁で偶々出会ったLisaさんもチェックイン後に一緒にご飯を食べよう、ということになり、Iさんの無事到着、無事合流を祝してわたしにとっても久しぶりの宴となったのであった。

Laxman氏の宿は経済的なホテルだったが(一泊1400Rp)朝食がついていた

その流れで日程的に問題がなかったので、次の日(3/16)も行動を共にすることになった。というのもカトマンドゥ観光には車があれば効率的かつ楽に廻れることはわかっていたので、3人なら割り勘で負担は軽くなる、で半日観光というか4時間くらいの観光にLaxman氏に頼んで車をチャーターしてもらったのだ(4時間40ドル、一人13ドルは安上がりであった)。その時廻ってもらったのは①Boudahnath ボダナート (中心部から東に7kmのところにある巨大なストゥーパ、巡礼者が絶えない) ②Patan パタン(カトマンドゥの南に位置するネパールの古都) ③Swayambhnathスワヤムブナート寺院(目玉寺として有名な中心から西方の丘の上にあるストゥーパ、ここからカトマンドゥ市街の展望がよい)の3ヶ所で、わたしは何回か訪れていたが、すでにだいぶ時がたっていたし、いずれもカトマンドゥのシンボル的場所だったから同行させてもらう。9時半からスタートして最後の(カトマンドゥの目玉)目玉寺の頂上まで車で運んでもらって13時半、そこからは見物して市街展望を楽しんでから歩いて帰った。その夜もこの3人で、この時はチキンほかをtake outしてワインをボトルで購入してきて、部屋での宴会となった。こうして旅先で知りあったLisaさんとはそこでお別れとなる、で、次の日(3/17)これもLaxman氏にticketをお願いしたDeluxeバスでPokharaポカラに向かったのであった。

 

Boudahanath ↑↓

 

Boudahanath前の通りの賑わい ↑

古都Patan ↑↓ 10枚くらい?

ここにお仲間二人が写っていた

ここから出たのだが、ここがPatanの入り口だったのかもしれない

Swayambhnath 目玉寺 ↑

目玉寺からカトマンドゥ市街 ↑↓ 2枚

急階段を下るわれらが仲間二人

Swayambhnathの長い階段を下ったあたりの食堂で昼食をとったがどちらかというと
無国籍料理っぽかった

我らがお仲間紹介 左が Iさん 右Lisaさん 無断掲載なのである日突然消される可能性あり

 

『独歩爺最後の旅』インド篇 その 4,オーランガバード Aurangabad エローラ Ellora、アジャンタ Ajanta 石窟群

ブログで新年のご挨拶というのもおかしい気がするし、ほとんど読者のいないブログなので余計に違和感を感じるが、まずはともかく2024年最初のブログ、謹賀新年、本年もよろしく ! 良いお年をお迎えください ! ! というメッセージをまずはお伝えしてと思って書き始めてみたものの、今年においては、そんなご挨拶そのものが、虚しく響くというか、悲しさをもって迎えられれしまう新年も珍しい気がしてくるのはわたしばかりではないと思う。

元旦の地震に見舞われた被災地の方々は何と申し上げてよいかわからない、謹んでお見舞い申しあげます、ということしかいえない己の無力感を禁じえません。

 

すでに新年も5日が経ってしまって、それでなくとも今年一年の先行きどころか、こんなどうでもよいブログの先行きも見えなくなってきて、何とかカッコだけでもつけたいと思っているのだけれど、いろいろあって誠に心もとなく、まずはこれまで何度かはてな☆をお送りいただいた方々(特にKatupitiさん)にはお詫びしなければならない状態になってます。なのでせめてオーランガバドのエローラ、アジャンタ遺跡巡りだけでも残せたらと思っている次第、かなり概略になりますが、申し訳ありません、よろしくです。

 

Aurangabad着は2023/3/9  Mumbaiからは45分のフライトで午前8時半には、地方都市といっても世界的な遺跡の街として有名なオーランガバドに着いていたと思う。そこではまず空港ビル前の駐車場付近でのTukTukとの交渉から始まる。ここでの宿は何か月も前にairbnbで予約してあって、ここの宿はかなり期待が持てていた。というのは実はGoaの先発隊だった友人が、その後Aurangabadにいくとのことでこの宿を紹介して、わたしより先に数日滞在して高評価の連絡をもらっていたのだ。しかしこの時、その住所がはっきりせずに、よってTukTukとの交渉もなかなか決まらずにいたところに、その交渉をまわりで見ていたタクシードライバーが、その場所なら知っているから俺が連れて行くといってくれて200Rpで話がついたのだ。半信半疑だったがまともなドライバーで正確にその場に届けてくれたのだった。そこではわたしの到着を待つスーパーホストのRachnaのお嬢さんMinnieが待っててくれて、母Rachnaは仕事で帰宅が午後になる、彼女がこの街についていろいろ案内してくれるとのことで、家の中のこと、わたしの部屋のことについていろいろ説明してくれたのだった。後にRachna、そしてご主人のShekherさん(この方はこの地方の観光行政のお偉いさんだった、日本にも仕事で行ったことがあるといっていた)にも会うのだが、皆親切にしてくれ、ここオーランガバドの滞在は素晴らしいものになったのであった。その日の午後Rachnaが帰ってきて、近くのお勧めレストランやバスターミナル(ここではbus standといっていた)への道を彼女の運転するバイクで案内してくれたのだった。もちろんその後にいくエローラ、アジャンタへのいき方、パンフレット類も揃っていて旅のサポートは完璧だったし、さらに素晴らしかったのは、ここは一泊2000円くらいだったと思うが、朝食付きだったのである。わたしはインドのairbnbのピンとキリ(Goa Panaji)を経験することになったのだった。その日は早速街ブラし、バス スタンドまでいってみた。バス スタンドはRachnaにはバイクで連れてってもらって結構遠く感じられたが、裏道を行くことによってショートカットできることを知り、大通りを通っていくと3~40分はかかるところ、車の通れない裏道を行くことによって10分くらいでバス スタンドまで行けることがわかった。そしてストリートフードも何軒かみつけ、近くの雑貨屋兼食料品店のような商店もすぐに馴染みになる。だいたいの環境は初日でわかったのであったが、いかんともしがたかったのはその暑さと、ここでもビールを売っている店が初日には見つけられなかったことであった。

 

二日目には早速エローラにいってみた。8時頃朝食をいただいて8時半頃Rachna邸を出、バススタンドでエローラ行のバスを聞いて乗り込む、何とか座れてバスは9時ころ出発、10時にはエローラに着いていた。途中のデカン高原の景色は素晴らしく、またダウラターバドDaulatabadという砦も見事で、帰りに寄れたら寄ろうと思った。バス代はエローラまで45Rp、エローラ入場料、600Rpだった。

エローラへの途上 バスの車窓より

Daulatabadの要塞 ↑ ↓

 

エローラ石窟入り口付近 ↑ ↓ 2枚

 

正面向かって右側 仏教石窟群 ↑ ↓

たぶん第2窟 ↑ ↓ 2枚

第4窟 ?

第5窟 ?

第1窟から中央を振り返る

第10窟 ↑ ↓ 3枚

第12窟 ↑ ↓ ここまでが仏教石窟群 

ヒンズー教石窟群 (13~15窟のどこか) 

エローラ最大の寺院 第16窟 カイラーサナータヒンズー教寺院 ↑ ↓ 数枚

本殿内のシヴァ神 ↑ ↓ 

女神パールヴァティー ?

ヒンズー教石窟だが何窟だったか記録なし ↑↓

以下数枚はヒンズー教石窟群最後の第29石窟だったはず ↑↓

ヒンズー教石窟群全景 この先左手1kmのところにジャイナ教石窟群があったがパスする

ジャイナ教石窟群はパスしたが、2時間半くらい歩きまわって疲れ切ってエローラ石窟群を振り返る、ここから出口に向かう(正面が第16窟)

エローラ、アジャンタ石窟群は聞きしに勝るというか、見たものでないとわからない迫力があって圧倒される。まさに世界遺産にふさわしい、インドでも第一級の世界遺産であり、最大の観光名所といって差し支えあるまい、遺跡ファンとしては今まで訪れてなかったのが恥ずかしいくらい価値のあるものと思えた。ともかく感動させられる遺跡であることは間違いなしで、故に炎天下にもかかわらず多くの観光客が訪れていたのだ。凄いものを造った人たちがいたものだと感心させられ、インドの(歴史の偉大さの)凄さを見せつけられた思いだった。こういうものは個々も素晴らしいのだが、全体的にそのスケール感と共にとらえていただけたらと思う。

<とりあえずわたしは写真を載せるだけで解説はできないことをお断りしておきます(アジャンタも)。エローラ(5世紀~11世紀?)は仏教石窟が多かったが、ヒンドゥ教、ジャイナ教の石窟もあった。これは併存していたのか、あるいは時代と共に修行者が変わっていったのか?アジャンタ遺跡(紀元前2,3世紀~6世紀ころ?)も、専門的なことはわたしはわかってなかったが、それでもその芸術性、技術力の素晴らしさには驚嘆させられっぱなしだった>

ただエローラもアジャンタもそうだったけど、結構広くで炎天下の見学は結構きつくて、驚きの連続であったが、体力勝負でもあった。エローラでは有料のカートも利用でき一回使ったが、10時~12時半まで29窟巡って、もっとも遠くにあったジャイナ教の石窟群5ヶ所は飛ばすことにした。暑さと疲れで降参だった。

遺跡を後にし帰りのバスの乗り場がよくわからず、そしてバスはなかなか来なかった。やっと来たバスは途中でトラブルが生じてエンストしてしまい、さらに次のバスを待つことになったが、そのへんはどうしようもないというか、インドらしいということか?次のバスで行きに見たダウラターバードDaulatabadの砦でバスを降り、その砦の要塞に登ろうとしたが二つの理由でやめにした。一は入場料が高かったこと、二は暑すぎてその要塞に登っていく気力をなくしたこと、そしてのその街で少しぶらぶらして次のオーランガバト行のバスを待った。オーランガバドbus standには15時ころ帰着、そのバス スタンドの隣がシッダルータ公園(Siddarth Garden and Zoo)になっていて、休むにはもってこいだったので20Rpかかったが払って入園(これはわたし的にはかなり珍しい)、木陰で休憩しながら昼食(パンとバナナとコーラ)。戻ってシャワー、Rachnaがお茶をご馳走してくれ少し話。夜はRachnaお勧めのレストランにいってみたが、わたしには高級店(200Rp越え)だった。

途中下車してDaulatabad Fortにいこうとしたが、入場料が高かったのと
暑つさと疲れで気力・体力的に断念する

市民の憩いの場シッダールタ公園 ↑↓

 

次の日はアジャンタ Ajantaへ、7時ごろ出かけたいと前の日に話したら、何と朝食をお弁当として用意してくれていたのだ。いかにホスピタリティに富んだホストだったかよくわかるのである(わたしにはそこまではできない)。7時にでて7:10にbus standに、 バスは7:15にでた。何とか座れたのは2時間半の道のりを思うと幸運だった(165Rp)。二つの大きな街を通り過ぎデカンの高原をいったバスは、前方遥かに下界を見渡せた辺りから下り続けて渓谷沿いのアジャンタのバス スタンドに着いた。お土産屋や飲食店の建ち並ぶちょっとした街(センター)のようになっているところで入場料として15Rp取られ、そこからはバスを乗り換えて入場券売り場の建物の立つアジャンタの入り口まで25Rp、入場料は同じく600Rp、入場するといきなり石窟回廊の造られているワグハー川段丘までの急登な石段が出現(そこを担いで登る駕籠かきがいた)、これがまずきつそうだったので階段下で会場の作業員らに混じって朝食をとる。そして体力整えて10時半出発、最初の第一窟辺りから段丘越しに全体が見渡せて眺め最高、そして石窟が延々前方に続いていたのである。ここも暑かったが、気持ちの良いところでもあった。ここは第1から28窟までが公開されているようで、手前から順番に見ていって、最後までいったら同じ道を戻ってくるような感じであった(帰り道は下段の川沿いの道もあり)。たぶんエローラにもいたかもしれないが、ここでわたしは多くの日本人、アジア人を目にすることになった(それまでこの旅ではわたしはほとんど日本人と遭遇していなかったのだ。そのころはだいぶコロナ解禁になってきたのと学校が春休みになっていたからか?)。約3時間の滞在(見学)で疲れてしまったので、きた道を戻り、オーランガバードへのバスはいったん国道へ出て通りのバス停で待つ、オーランガバード着は16:15、Rachna邸には16時半に帰り着く。その日は3月11日の土曜日で、Mumbaiの政府機関にお勤めのご主人が戻る日で、夜にお会いして挨拶することができた。

 

アジャンタへの道(オーランガバドから約100km)の車窓から ↑↓ 数枚

 

公共交通機関のバスの場合まずこのバスパーク辺りで降ろされる

前のバスパーク辺りからアジャンタ遺跡入り口まで専用のバスが
専用道路を走って運んでくれる;25Rp

突きあたりが入場券売り場;600Rp

アジャンタ遺跡入り口オフィス脇で朝食を食す

最初の石段が難所 駕籠かきも待機していた ↑ ↓

石段を登りきるとアジャンタ石窟群の全貌が見えてくる ↑↓

第1窟 アジャンタを有名にした素晴らしい壁画が数多く残されている最重要窟 ↑↓

壁画の数々 ↑ ↓ 数枚

天井画のある第2窟 ↑↓ 数枚

何窟だったか不明 ↑ ↓

ワグハー渓谷の感じがつかめるところ、どんなところに石窟が築かれたかがわかる

何窟だったか不明 ↑ ↓

<上のチャイティヤが9窟で下が10窟か?>

<17窟だったか?>

 

<以下は19窟、最も完璧な形のチャイティヤ窟(ストゥーパを祀るために造られた部屋?塔院?建築様式?写真にあるような部屋)>

 

<以下は涅槃像を含む26窟及びその周辺、この辺りで行き止まりとなる>

以上未確定、未確認の石窟多々あれど、先にいったように個々の石窟がどうのこうのより、全体としてこの古代遺跡の凄さ、素晴らしさがわかっていただけたらと思う。写真の写りも説明も不完全な点はご容赦ください。

 

同じ道を戻ってゲートへ、約3時間の見学で疲れてしまった。この写真は石段手前の
回廊から撮っているので入り口の建物とバス乗り場が見えている。

予備日も入れてRachna邸は5泊の予定でいたから、12日、13日は特に予定なく、12日日曜はShekher氏の日曜日の日課になっている朝の運動に付き合う、というか、出かけた先はSonari Mahalというところで、運動公園があったり考古学博物館のあるところだった。そこの一帯が自然環境の良い運動公園のようになっていて、日曜の朝多くの市民が集まってそれぞれがジョギングしたりクリケットをしたりしてスポーツに汗を流すところのようであった。わたしはそこで所在なくブラブラしていたのであるが、実はその先にAulangabad 石窟群があったことを知らず、午後Aurangabad石窟群にいってみたいと頼んだら、それがその朝いったところだったことを知って申し訳ないことをしてしまったことに気づく、午後いったときはそこで降ろしてもらって(そこからは自分で帰るといってあった)その石窟を見学してから、そこから30分くらいのところにあったBibi-ka-Maqbara ビビ・カ・マクバラという偽タジ・マハールのような霊廟があるというので歩いていってみた。そこはインド人の憩いの場のようにところだったようで、おりしも日曜だったのですごい人、もともとお金を払ってでも見てみようとは思ってなかったので、外から写真だけ撮って戻ることにした。が、すでにそこから歩いて帰るには遠くに来過ぎていたので、少しその場から遠ざかってからTukTukを探す、Bibi-ka-Maqbaraの人込みでTuktukを探したときは最高250Rpとまで言われた料金は100→50まで下がったのであった。バス スタンドで降り、バス タンド周辺の屋台でストリートフードを仕入れ、ビールを買えるところを聞いて、この日はビール付きの食事を味わうことができたのだった。夜はデリーで学生生活を送っているMinnieも戻っていてチャイとお菓子を御馳走になった。

 

Sonari Mahal 入口

Sonari Mahal (考古学博物館?)

街ブラしてて見つけたヒンズーテンプル

夕方送ってもらったAurangabad cavesは朝ご主人に連れてきてもらったところだった。
よく見ると石窟が見えていた。

Aurangabad石窟群 5枚 ↑

実際はそこの石窟よりもそこからの眺めに期待していた。Aurangabadの街が一望にできたが、それより偽タジマハールのBibi-ka-Maqbaraが見えるかもしれないという期待もあった。望遠で3枚撮る

Aurangabad石窟群から実際のBibi-ka-Maqbaraまで歩いていく

最終日は、もうだいぶ行動半径も広がっていたので、あちこち歩き回って何か土産になりそうなものを探していた。わたしはサンダルを探していたのだが、大通り(ミル・コーナー・ロード)を行ったり来たりして、何軒かストリートショップの覗いてみたりしたが、これといったものを見つけられなかった。午後Rachnaが戻つたときに聞いてみると、まだ行ったことのなかったエリア(ティラックロード、Paitan Gate 付近)に何軒か靴屋があることを教えてくれ、再び出かけてみた。そこは街の中心、ショッピングゾーンとでも呼べそうな通りで、庶民的な店が多く並んでいた。その一軒で、ま、デザイン・価格とも納得のゆくものを見つけ、まず土産を買うことはないのだが、実用的な自分の買い物という形で珍しく大枚をはたく(かなり大げさな言い方をしてしまったが、日本円で1000円くらい、旅をしていると1000円以上は大金となる)。帰りに夕食のネタとビールを仕入れて帰るのだった。そんなんでAurangabadは少々暑いところ、物価も少々高いところという印象が残ったが、素晴らしいairbの宿とホストに恵まれ、エローラ・アジャンタというとてつもない遺跡を見学することができた感動を胸にしまい、わたしにとってインド最後の地Aurangabadも無事終了の運びとなったのだった。

3/13の朝食、ここの朝食はいつも美味しかった。

街の真ん中で(Rachna邸からすぐ近くの大通り)牛を飼っている人がいて、
インドらしくてつい写真に撮ってしまった ↑↓

Paithan gate付近の靴屋でサンダルを見つける

Paithan gate付近 2枚 ↑↓







『独歩爺最後の旅』インド篇 その 3, Mumbai 再び、Vile Parle; Locomo Hostel

前回の最後は、Puneに降り立つことができなかった・・だったが、これも負の連鎖の後遺症のようなもの、失敗の延長であったのだ。どういうことかというと、ま、想像はつくと思うが、要は寝過ごして、気が付いた時はすでにMumbaiらしい大都会をバスは疾駆していた、ということだった。意図的にやったわけではないが、意図的かと疑われたとしても反論はできなかったと思う。もうそれならそれでもいいか、とすぐに諦められたからであった。Goaがそうだったように、Puneもどうしても何が何でも行ってみたかったわけではなかったからだ。寝過ごすくらいだから疲れていたのかも知れなかったし、逆にいうとよく眠れていたということでもあった、Puneでどうしても降りなければという緊張感は、もしかしたら最初からなかった?ともいえたかもしれない。ただそのあともまだ問題はあった。気づいた時は何時頃だったのか、外は明るくなり始めていたから、窓外の様相からすると都会の大通り(あるいは高速道路)を走っているのは明らかだった。そういえばその時気づいたのはPuneには何時ころ着で、Mumbaiには何時着ということも聞いてなかったこと、そしてMumbaiはどのあたりに着くのかも当然知らなかったのだった。しかし、その時の窓外の感じと明るさからPuneは過ぎてしまっただろうと感じていたから、わたしは余計なことを聞かないことにし(今更どうしようもなかったであろうし、下手すると追加料金を請求されかねなかったから、しかしそれはある意味いかにこのバス会社の乗客管理がいい加減かという証左でもあったように思う)、ともかくそのまま黙って終着地までいってしまうことにしていた。しかしその終着地がどの辺かということは、全く想像すらできなかったし、聞いてもわからなかったと思う。それでもかれこれ2時間近くは大都会の街中(あるいは高速道だったか?)を走り続け、どんどん中心から離れていっているようにも感じていた。そしててっきり大きなターミナルに着くと思っていた予想は見事に裏切られ、とある大通りの道端に停車し、ここが終着地なので皆さん降りてくださいと告げられる。4~50人乗りのバスにそこまで乗車していたのは4~5人だけだった。そこがどこかもわからず時間もわからず聞くに聞けずにいると(スマホはバッテリー切れだったと思う、場所については聞いてもどこかわからなかったと思うから)逆にそこに待機していたTukTukドライバーが大挙押し寄せてきてどこにいきたいのか聞いてくる。仕方なく出まかせで、というか、以前からMumbaiで時間が余ったら行ってみようと思っていたところの地名をいってみた。その場所はMumbaiの真北にあったSuratという街で、ゾロアスター教徒のパールシーが多く住む街と聞いていた。たぶん列車で4~5時間でいけるのではないかと推測し一泊二日で戻ることができるのではと考えていたところだった。するとそのTukTukドライバーの一人が、バス乗り場まで送る、20Rpといってきた。やはりそこがどこだかわからなかったのが致命的だった、その案に乗ってみるしかなかったからである。そして騙されたと思って乗ったら、やはり騙されてしまったのだった。ほんの数百m先にあったTravel Agencyに連れていかれ、そこから出ている乗り合いタクシーを紹介されたのだ。確かにSuratへ行くという乗り合いタクシーであったが、その料金はわたしの想定外のものであった(700Rpといってきた)。もちろん断ると同時にそのモトドライバーには悔しいけど10Rpは払った、完全なぼったくりであった。そして少し冷静になって、この近くに鉄道の駅はないのか聞いてみた。そこの前を通る幹道に交差している道を西方向に少し行くと鉄道駅があるとのことだった。先にそれを聞けばよかったと思う、とりあえず多くの人が歩いていく方向にわたしも歩きだした。思ったより近かったのである、1kmくらいだったか、15分くらいで着いた。初めてその辺りの場所をその駅名で確認することができたのだった。かなり大きな駅でBorivaliとでていた。そこから電車に乗ればAndheriやVile Parleが数駅先だったので、だいたいの場所がわかったのであった。が、自ら招いている受難 - ちょっと大げさに言ってみただけでたいしたことではなかったのだが - は、まだまだ続くのだった。

浜辺からではなかったが、内陸の高速道路からアラビア海に沈んだであろう日没

Borivali駅 たぶん来ない急行列車を待っていた時に撮ったもの(失礼、10番線だったから
写真に残されていた時間からするとこの駅に到着したときに撮ったもののようだった)

その時余計なことを考えなければよかったのだ。が、Puneで下車しそこなった失態を取り戻そうと、その時大きな駅舎でインド全国への長距離列車のticketを扱っていそうな窓口があったので、Suratへ行く列車があればticketを購入したいといってみたのだ。すぐ調べてくれて9:40の急行があると教えてくれたのだった(ということはその駅に着いたのは9時頃だったことがこのことからわかった)。lucky ! いくらですか?103Rp、もちろんその場で購入してしまったのであった。そしてプラットホームナンバーを聞いて、6番ホームに駆けつけたのだった。しかし結論を先にいうとその列車は来なかったのである。遅れているのかもしれないとかなり待ってみたが、それらしい列車は来なかった。いや、この辺はインドの列車のわかりにくさである。特に途中駅から乗る場合に混乱させられることが多いのだ、もちろんそれらしきアナウンスはあったのかもしれないが、ほとんどは聞き取れなかったのである。(列車が来るはずの時間から)1時間ほど待ってみて諦めて先ほどの窓口にいってみた。会話になっていたかどうかわからないが、少なくともわたしのいっていることはわかってくれたようだった。が、わたしが相手のいうことが聞き取れず、どうしてこうなったのか、列車はきたのか来なかったのかもわからなかった。わたしの返金要求は聞き入れらず、なんと手書きで次の列車を教えてくれたのだった。今手元にある、窓口の駅員さんが書いてくれた手書きの文字には(スペルが何文字も判読不明だが)最初の9:40 Sayvastra? Expを棒線で消してその下にPaschim? Expの文字があって、11:55と書かれているのである。つまりこの列車が1時間後に来るからそれに乗るように、ということのようだった。もちろんそれも待ってみたが、結果は同じだったのだ ! ! どうなっているんだインドの鉄道は ! ? あるいはもっと突っ込んでちゃんと確認できなかったわたしの語学力の問題だったのか !? が、 この時もこの時点で諦めが先に来た、もう一度窓口に行くことはしなかったのであった。

Borivali駅発行のticket 表 ↑ 裏 ↓ 



まさに、これがインドだ ! では済まされないように思うのだが、もうわたしの能力・気力・体力を越えていて、諦めを選ぶ年齢になっていた。100Rp?it's okだった。その次の問いは、ではどうするか?であった。最初に解決すべき課題は、まずその日の宿をどうするかであって、そうすると自然にVile ParleにあるLocomo Hostelにいってみるしかないかということで、当然持っていたticketは有効だろうからと別にticketは買わずにVile Parleに向かうのだが、この時も快速、鈍行の複々線であることを忘れており、快速の停まるBorivaliから快速に乗ってしまってなかなかVile Parleに行き着けないのであった。荷物を預けてあったLocomo HostelのあるVile Parleに着いたのは14時ころになっていたか?幸いドミは空いていたが一泊1400Rpになっていた。が、他に安く泊まれるあてがなかったから追加で三日分(3/7~9の間は予約済みだった)を支払った。こうしてAurangabadオウランガバードへ出発の日まで、部屋の移動はあったが都合五日間、二回目のMumbai数日をこのVile Parleのドミで過ごすことになったのであった。ただほとんどすることもなくグダグダ過ごしてしまったが、それらの日々を以下簡単に・・

 

いや、その間の日々はドミという制限はあったものの、それなりに快適に過ごせたといえた。まず、このドミ一泊1400Rp(2500円くらい?)には朝食がついたのだった。しかしどんな内容だったか、写真が残ってないし記憶も薄れており、ただ悪くはなかったということは、ま、それでなくとも満足な食事をしていないわたしのようなBudget Travelerにとっては、有難かったし美味しく感じられたのであった(そこのキッチンでは朝食以外の時間帯用のメニュウも揃っていたので、必要に応じてそこで食事やお茶をいただくことができた)。いずれにしろ空港近くのホテルは軒並み日本円で1万円以上したから、ドミトリーとはいえその1/4~1/5で泊まれて朝食付きのこの宿は、若者にはよく知られた存在だったかもしれない、なのでその日飛び込みで空きがあったのはかなり幸運だったのと、その次の日からの状況も確認してもらって、移動はあるが予約はできるということですぐに抑えてもらったのは正解だったと思う。そのドミも4人用、6人用、8人用があったりして若干値段が違った。それも上か下かは同じ価格だったが、早いもん勝ちで下があくとそこに移れたりした。わたしは年が年だったからもちろん安く泊まれるなら個室に越したことがなかったのだが、わたしなりの上限を決めていたので、その範囲内で個室がなければドミの選択も厭わなかった。要は他人への気遣いだけが面倒だったのだが、それは日本人だからのようにも思う。旅をしていると、日本人の他人に対する気遣いは大いなる美徳(特性)で、そんな習性を持っている人たちは本当に少ないとつくづく思うのだった(そういうことに気づかされるのも旅すればこそ、だとも思う)。

 

他にもこのHostelの良いところはいくつかあった、まず若者向けの宿だったから、スタッフも皆若く旅心を知る人たちばかり、必然的に建物全体に自由の雰囲気が漂っていた。わたしの場合例外的な年寄りだったから、特に友達をつくろうとは思わなかったが、ほんと皆親切にしてくれた。それと屋上のスペースに椅子・テーブル・ソファが置かれ(日中は暑すぎたが)自由に過ごすことができた、そこにマットを敷いてヨガのexerciseをやっている女性も多く見かけた。日中の暑い時間にはエアコンのきいたcommon roomもあって、そこでも自由に過ごすことができた。わたしはそこの本棚で<地球の歩き方インド>を見つけ(すでに遅しではあったが)この後にいくエローラ、アジャンタの情報を得ることができたので、その部屋にいることが多くなった。

 

さて次に、そのHostelのあったVile Parl駅界隈についての感じ、印象を少し付け加えておこうかと思う。駅から5分の好立地にあったこのHostelは商店街のど真ん中にあって、その界隈は路上商いが所狭しと店開きしていた。主に青果・果物類が多かったか、あとは日用品の類、いずれにしろ庶民の街、下町の感じがよく出ている、とても住みやすい街だったと思う。とても活気があって東京でいえば中央線沿線の街とか、ターミナル駅近隣の私鉄の駅前といった感じ?あとは学生が多く、学園町でもあったかもしれない。なので一日中人通り(電車の行き来も多かった)が絶えず、ありとあらゆる商店が軒を連ねていた。建物は近代化していたがそれほど高いビルはなく、空にはいつも鳥(カラス類?名前わからず)が舞っていた。そんなんで物価も安く、少なくともほとんどストリートフード好みのわたしにとっては、とても経済的で住み心地良し、あるいは長期滞在者向きとでもいえたかもしれない。総じて他ではいろいろあったものの、この街・このHostel滞在は、今回のインドでは当たりだったように思うのであった(すべてのことは、あまり期待しない、あるいは事前に予定しない方がいい結果を生む、ということなのかもしれなかった)。写りは良くないが何枚かの写真を以下に・・

夜の屋上からのVile Parleの街並み 2枚 ↑↓

こちらは同じ場所の朝の様子 ↑と日の出 ↓ 



さて、それらの日々でちょっと特別なことがあった日のことをもう少し、まず3月4日にチェックインし、3月5日は時間はたっぷり、しかし暇つぶしの方法が思いつかず、これまで何度も乗り降りしていた郊外電車の終点までいってみることにした、確かVirarビラーというところが終点だったようでVile Parleから北に1時間くらい乗っていたか?どこかで海が見えるところはないかと左側を注目していたが、列車が混みすぎていて収穫は何もなかった。

 

因みにインドの郊外電車は列車内検札なく、時々駅で抜き打ちの検札をやっているのは目にしたことはあった。わたしはこの時もし検札が来たら、前日のSurat行のticketを持っていたので言い訳はできるのではないかと乗車券は買わずに無賃乗車したことになる。駅舎での改札はなくほとんど無賃乗車し放題だから、切符を買って乗車している人の率はどのくらいなのか興味深いことではある。次の日(3/6)は最初に滞在した場所CSTにいってみた。一つは、暇つぶしに日本で世話になっている友人に絵葉書を送ろうと思い立ったのだが、近くに絵葉書なんぞ売っているところがなかったのである。そのときMumbai初日にCSTの駅舎の写真を撮りに行ったとき、観光客用に写真撮影のためのViewing Stageというのが駅前に造られていて、そこから写真を撮っていた時に観光客相手に絵葉書や土産物を売り歩いている男がいたことを思い出した。いや実際絵葉書を買わないかと声を掛けられていたのだ。その時はその写真がかなり古かったのを理由に断ったのだが、それを思い出してもう一度行ってみたらいるかもしれないと思って出かけてみたのであった。すぐにその男を見つけることはできなかったが、しばらくウロウロしていたら同じような身分(下級カースト?)と思われる女性がやはり観光客に土産物を売り歩いているのを目撃、しばらく様子を見てから声をかけてみた。絵葉書持ってない?と、そしたらしばらく待てと言ってどこかに姿を消した。ものの10分か15分のちに、もしかしたら夫婦であったかもしれない、わたしの方では見覚えのある男が現れて、最初に見せてもらったのと同じものを持ってきたのだ。値段を聞くと300Rpとのことだった。もちろん相手は覚えてなかったであろうが、わたしは前に彼が150Rpでいいといったのを覚えていた、が、それは言わずに200Rpなら買うといったら彼はokしてくれたのだった。ま、これが時の運(タイミング)というやつで、それでもとりあえず同じ古い写真の絵葉書であったが、10枚つづりの絵葉書は手に入ったのであった(それを書くのは次の日になった)。再び電車に乗って(無賃乗車で)Vile Parleに戻るのだが、その日はやけに電車がすいていたのである。もしかしたら次の日のHoliの祭日前でその前の3/4の土曜日のSurat行の電車に乗れなかったのもその影響だったかもしれず、この数日間がhiliday weekだったのかもしれなかった。例によってVile Parle駅からはすでにroutine routeになっていた揚げ物屋(玉ねぎ揚げとサモサが抜群)、Kingfisherを売っている酒屋、露天の八百屋で瓜を何本か買って(計180Rpくらい)宿に戻り、シャワーを浴びて屋上での昼食のひと時は、そのころの至福の時であった。その日は偶々下段のベッドがあいたとのことで、下段に移動してそこで昼寝、またその日がcommon roomで地球の歩き方を見つけた日で、そのあとはずっとそれをチェックして過ごすこととなった。そして問題の3/7はある意味インドでの(ヒンドゥ教の)最大の祭りの一つHoliの日で、朝はみんな遅かったのだが、そのうち大騒ぎが始まった。このホテルでも屋上に舞台が設えられて、特別の催しが行われたようだが、こういう時は静かにしているに限るとわたしは自室に引き籠って過ごす、やたら嬌声が聞こえ、音楽が鳴り響き、色水?色粉?の掛け合いが始まったようだ。色水色粉を掛け合った男女でホステル内だけでなく路上でも、街中・インド中がどこも乱痴気状態、その間わたしは自室またはcommon roomで絵葉書書き、色水と色粉の被害は免れたのだった。あくる3/8は世間は正常に戻っていて、朝一で調べてあった近くの郵便局を訪ねる。そこで思いもよらぬことが起こる。これもインドらしいといえばインドらしい珍事であった。絵葉書を日本に送りたいというと、一通30Rpとのことであった。7通分210Rpを払うが、当然30Rp切手7枚くれるものと思っていたところ、なんと3Rp切手70枚渡されたのであった。それしかないとのこと、絵葉書だったから貼る場所がないではないかというと、ともかく空いているところ全部使って貼るようにとのことだった。そんな作業その狭い郵便局ではできないと思い、一旦宿に持って帰ってcommon roomでそれをやった。いや少々はみ出したのもあったが、それでも一枚の絵ハガキに10枚の切手を貼って、これでいいかと確かめてもらうためにもう一度郵便局にもっていく、一応受け取ってはくれたが、あれで届くのだろうかと半信半疑だった。数週間後に日本に戻った時、それらはすべて無事に届いていたことを知って、送った相手と笑ってしまったのであった。

絵葉書売りの仲間か?路上販売のおっさんは突然ヒンズーの神様のポスターを掲げ、
それに向かって祈祷の儀式を始めたのだった

その日は最終日だったので、そのあとホテルで見つけた地球の歩き方で知ることになったMumbaiで行こうと思えば行けるかもと思ったところを訪ねてみた。そこはマハトマ・ガンディの住居跡でマニバワンMani Bhavanというガンディ博物館だった。そこへは電車でGrand Road駅までいって、歩いて15分くらいだと思ったが、道を一本間違えていきつけず(Nana Chowkという六差路で南に行くべきところを西にいってしまった)相当苦労して、1時間以上歩き回って何とか探し当てることができた。そこからは近かったChowpatty Beachという浜辺にでて、何日か前に見たMarine Driveを反対方向から写真に収めることができた。炎天下さらに歩いてRoyal Opera House前を通ってCharni Road 駅からVile Parleに戻るのだが、この時も快速と鈍行が混乱し、なかなか一筋縄では戻れなかったのである。しかしVile Parleに着いてからはいつもの<routine route>を通って食料とビールを仕入れてホテルに戻り、シャワーを浴びて遅い昼食となったのである。ま、そんな感じでそれなりに、そしてそれほどコストをかけずに数日間を過ごし、旅立ちの朝(3/9)は、後に詳しく述べるが病状が進んでいて、それ以前からずっと夜半に起きることがしばしばだったから3時ころには目が覚めて、そのまま寝ずにいて4時前には周りの迷惑にならぬようにと一旦すべての荷物を廊下に持ち出し、廊下で着替え洗面、最終パッキングをしているところに、一人のおっさん(スタッフでなく客だった)が起きてきてairport?と聞くからそうだと答えると、自分も飛行場へ行くのだがウーバーで車の予約をしてる、何なら一緒にどうぞといってくれたのだった。もちろんシェアは歓迎、わたしはTukTukでいくつもりだったが、割り勘で100Rpは有難かった。その車の中でいろいろ聞いてみると、わたしほど年寄りでなかったがそれでも中年一人旅でスペイン人とのことだった、多少スペイン語を交えての会話ができたのだった。5時にはターミナル2に着いて、行先は別だったので空港ロビーで日本に来ることがあったらぜひ来てくれと、この旅で初めてわたしの名刺を渡して別れた。そのあとセキュリティで少々問題がなくもなかったが、7時半頃漸くにしてAir India AI499便はAurangabadへ向けて飛び立ってくれたのだった。

Grand Road駅近くのNana Chowk(六差路)で道を間違える ↑ ↓

Mani Bhavan 6枚 ↑↓

 

Chowpatty Beach から 4枚 Marine Drive方面2枚 ↑ ↓

逆方向 西側

 

『独歩爺最後の旅』インド篇 その 2, ゴア 2, Beach他、Old Goa再び

はっきり言って、Beachには無縁の男だった。どういうことか?もう黄昏れ迫る爺さんだから恥も外聞もなくわたしの(生涯の)コンプレックスを晒してしまうと、人によってはどうでもいいことと思われるかもしれないが、普通の人にできてわたしができなかったことが三つあって、その一つが泳げなかったことだった(あとの二つは折を見て・・)。だから海辺のそばで生まれながら、ついぞ海を目的地(あるいはマリンスポーツor海洋レジャーを目的)として出かけたことは一度もなかったのであった。が、負け惜しみでいうが、それこそ世界の素晴らしい海は、もしかしたら普通の人以上に目にしてきたかもしれない、それはどこといわれると困ってしまうくらいの数になると思うが、ただ目にしただけでその場を体験するということはなかったのである(その分山は思い入れが強くなって、素人登山のレベルだが、その意味での実体験・経験は少しは積んでいた)。さて、そこでGoaである。で、ゴアといえばやはり海なのであった。ポルトガルとの関係をいまさら言いだすつもりはないが、ザビエルもガマも、また同時代の先駆者コロンブスもそういう意味では海を制覇した男たちであった。そしてゴアはその後アラビア海に沈む夕陽と素晴らしいビーチが欧米の若者たち・旅人たちを惹きつけた街として有名になっていった。そうゴアといえばビーチが代名詞のようになっていたのだ。もちろんそれはわたしも知っていた、が、先にいったような理由で、それでゴアにいってみたいと思ったわけではなかった。ただ、来てしまったからには一度もアラビア海を見ずに帰る手はないだろうな、とは思っていたのだ。そして偶々先発隊的役割を果たしてくれていた友人から - 彼女は海も山もこなす人だった - 数日前にそのBeachのホテルに滞在しているという報告をもらっていた。beachはPanajiに近いところからSinquerim Beach,Candolim Beach,Calangute Beach,さらにBaga Beachと北に向かって延々と続いていて、それらのビーチへ向かうバスはKTCバススタンドから出ているというガイダンスをもらっていた。

その日、宿泊していたairbnbの宿では何の情報も得られないことがわかったので、最初に出かけたのはそのバスターミナル(KTCバススタンド)だった。結局Goaはホテルの失敗だけでなく、どうもわたしにとってはあまり興味深いところではないような気がしてきて、ま、いずれゴアから離れることになるのだからと、バスターミナル周辺にいくつもあったトラベルエージェンシーの一つに寄って、どこへと決めていたわけではなかったが、ゴアから出ているバス情報をいくつか聞いて回っていた。その行先はマンガロールMangaloreであったりコーチンCochinであったり、あるいはいずれ戻ることになるMumbaiその途中にあるプネPune、果ては彼女がGoaから向かったハンピHampiだったりした。そのいずれへも今は昔と違ってバス網の発達が著しく、夜行バスが出ていることをまず知ることができた。そのあとはそのまま街ブラしてて、少し坂を登ったあたりの切通しのようなところを通っていたら、その左側の山壁に上へ登る階段が造られているところがあった。そういうところは性分として登らずにはすまない質なので、上はどんなところなのかと登りだす、登った先にあったのは裁判所や政府機関の建物が建つ一画だった。そこからの眺めは悪くなかったのだが、その寄り道のため、その切通しをそのまま進めばPanajiの中心、シンボル的建物のPanaji Churchを見逃すことになってしまったことを後で知るのだった。これも地図も何も持ってなかったことの失敗の一つと言えた。ただ来た道をそのまま引き返すか、あるいは西側の道を下ればよかったものの東側の道を下ったため、そこに点在する瀟洒な住宅の数々とリスボン風の坂の道と降りきった辺りがリスボン風の面影を残す一画だったので、それはそれなりに楽しい道とはいえたのだった。そこからは最初の日に泊まったホテル&レストランが近かったので、今一度そこまで歩いていって朝食兼昼食というか、休憩を兼ねて簡単なスナックとチャイをいただく、その店の前がバス停になっていたのでそこからはバスで再びターミナルへ戻った。ターミナルに戻ったのは、そこからまたバスを乗り継いでビーチへ行ってみようと思ったからだった。

小高い丘の上にあったPanajiの裁判所?

その政府機関があった高台からの眺め ↑↓ この下に見える道を下ってしまった 

途中で通り過ぎた家々 ↑ ↓

降り立ったあたりの街並み ↑ ↓

バスターミナルにはインフォメーションもあったので、彼女が滞在したというカンドリン Candolimという街へ行くバスの乗り場を聞いて、それはすぐにわかったので乗り込んで発車を待つ。ただ、そのバスがどこ行きでどこで降りればいいのかは確かめなかった。発車後に車掌にCandolimといって、言われた30Rp払ったはずだからバスは間違いなかったはずだが、どこがCandolimかはわからず(そこまで気を遣ってくれるグアテマラのような車掌ではなかった)結局終点までいってしまったのだった。ただ終点はさらに先のビーチCalanguteというところで、どこのビーチでもよかったわたしにとっては、それは大きな問題ではなかった。むしろそこはビーチからさほど離れていないところ、ビーチの入り口といったところだったので却って好都合であった。降りるときにPanajiに戻るにはここからバスが出ることを確かめて海に向かった。もうすでにほとんどインド人・地元民だったと思うが凄い数の人込みとなっていた。ま、それはどこも変わらぬ浜辺の光景だった。海辺までは5分くらいだったか、浜辺にでると左右延々と南北に続く砂浜と海水浴客たちの喧騒は、これまたどこも変わらぬ風景のように見えた。わたしはその写真を2,3枚とって、アラビア海を見るには見た、確認したとして長居はしなかった。街へ戻る途中に観光案内所のような建物があったので、入ってみると若い女性が暇そうにしていたので、2,3質問してみた。しかし要領を得ない答えに(言葉の問題で)地図はないのですかと聞くと15Rpとのこと。それにわたしの質問の答えがあるのかと買ってしまったが、それはわたしの欲しかったタウンマップ・タウン情報ではなくてゴア全体の州マップのようなもので、結局あまり役に立つことはなかった、わたしはそこの後にいってみたかったAguada Fortという灯台のあるらしいところまでいきたかったのだが、そこへのいき方も要領を得なかった。おかげでそのあとエライ苦労することになった。先ほど乗ってきたバスはまだ発車しておらず、同じ車掌の同じバスでAguda Fortへの道の分岐点までそのバスで折り返す、そこがSiquerim Beachの入り口だった。そこまでの途中に通った街がCandolimという街だったようだが、インドらしい喧騒とツーリストの賑わいは確認できたものの、どこの海辺の街もそうであるように俗化しており魅力的な街のようには思えなかった。Aguada Fortにいきたいといってその分岐点(Siquerim Beachの入り口)で降ろしてもらい、そこからAguada Fortまでどのくらいの距離だったのか、少なくとも公共の交通手段はないと聞いていたから、まずTukTukかモトが待機していないかと探すのだが、間が悪かったのだと思う。この時見つけられず、少し待てばよかったかもしれないが歩き出してしまった。そしてTukTukかモトが来ないか、しょっちゅう後ろを振り返りながら歩き続け、だんだん交通量も人通りも少なくなって、とうとう1時間半くらい炎天下歩き続けてしまい、もちろん途中途中で休みながら、ときにヒッチを試みたりしたものの、それでも目的地には到達できなかったのであった。この時も運の悪さタイミングの悪さを嘆かずにはいられなかった。そして道が分岐しているところまできて、おそらく直進が半島の突端、右が登りの道、どちらがFortへの道かわからずそこで断念することにしたのだった。しかし相当疲れていて1時間半の道を帰りも歩いて戻る気は失せていた。それでも人も車もほとんど通らない炎天下の道を歩くしかなく、同じ道を戻っていると向こうからTukTukがやってきた。合図をすると止まってくれたが客が乗っていた、で、もしこの道を帰ってくるなら帰りに拾ってくれるよう頼む、ものの15分くらいで戻ってきて交渉となった。足元を見られているから200Rpといってきた、こちらは100を主張したが、150までしか下がらなかった。TukTukだと1時間くらい歩いた道は15分もかからなかった、なので距離からしたら50Rpほどのものだったであろうが、約束は約束である。先ほど降りたバス停まで運んでもらって150Rpを払った。その時そこには何台かTukTukは待機していたから、最初に降りたときにそこにいてくれたら、おそらく300Rpで目的地まで往復できたであろうことが容易に想像できた。ま、旅は人生と同じで当たりハズレ(順調・不調)があって運次第、タラレバをいっても始まらないのだが・・。

CalanguteのバスターミナルからCalangute Beachに向かう ↑ ↓ 

 

Calangute Beach 5枚 ↑ ↓

右、北方向 ↑↓

 

左、南方向 ↑↓

Aguada Fortには結局いきつけなかったのだが途中から見えた(だいぶ遠くに)建物が
Aguada Fortもしくは監獄と呼ばれたものだったかもしれない

 

ま、そんなんで再びバスターミナルまで戻って、そこでまた何らかの食べ物やら飲み物を仕入れて、帰り道にビールを買って帰るのだが、昔ならともかく、旅の不調は体力的な問題もさることながら(後に発病することになるが)、好奇心・気力の衰えも関係しているかもしれないと思うようになっていた。一応次の日airbnbの宿はチェックアウト日だったから、最初は別のホテルに移ろうと思って何軒かあたっていたが、それも面倒になってきて、早、Goaももういいか ! となっていたのだった。昔はわたしとインド(人)との感性はもっとfitしていたと思う、が今回はどこかでズレが生じて来ていたように思う、そんなところに結果としてのちぐはぐさが生じ、物事が円滑に進まなくなっているのを感じていたのであった。なので失敗が多くなって嘆息がでてくる。そもそもが(この旅自体が)無謀であったか?とか・・、それを支えてくれていたのがline友?日本からのmailや先発隊を買って出てくれたline友であった。しかし、この時はもう彼女の追っかけ旅はやめることにしていた。いい歳して何やってるんだ !? それが自分の旅なのか・・??

 

次の日朝一番で出かけた先は椅子一つテーブル一つのオフィス、すでに顔なじみになっていたTravel Agencyの若い社員の出社を待っていた。やってきた彼に今夜のバスでPuneに向かうからと発券をお願いし(600Rpだった)、そのあともう一度Old Goaに向かったのだった。先発隊の彼女の何日か前のlineに<Old Goaのお勧めはAugustinian Convent>とあったのがずっと気になっていて、確かにOld Goaは中途半端にしか見てなかったので、できればもう一回行ってみるかと思っていたのと(あとは夕方まで、その時いってみたいところも特にやらなければやらなければならないこともなかったのとバス代は20R=35円だったし)、更にこの時は今一度Old Goaの土産物屋兼レストランでWiFiチェックをしなければ、というのが大きかったのであった。すでにOld Goaに着いた時はゆっくり歩き回るには暑い時間になっていて、最初に前日外から写真だけは撮ってあったChurch of St. Assisi 聖フランシス教会の内部とその周りを徘徊してから、その存在を知らずにいた土産物屋兼レストランのわきの道を探りあて、少し登り気味の道を登っていった。その道を10分ほどたどると左側にまずChurch and Convent of St. John of God教会があって、その背後の丘にはSt.Augustine Tower 聖オーガスティン教会の廃墟跡、道路を挟んだ向かいにはConvent of Santa Monica 現役の修道院があって、さらにその奥にはChurch of Our Lady of the Rosaryという廃墟に近い教会だが、それはそれは素晴らしい立地に建てられた昔の教会が建っていたのだった。いや、わたしがお粗末すぎたのだった、いくらガイドブックも情報も持っていなかったとはいえ、この辺りがOld GoaのOld Goaたる所以、Basilica Bon Jesusを含めての世界遺産たる所以だったのだと思う。それに気づかずに、暑さを理由にはしたくないが、これで世界遺産?と勘違いして帰ってしまった初日が我ながら情けなかった。この時もその反省を交えて、前回の土産物屋兼レストランに赴いて、そこには二日前の若いお兄ちゃんもいて何も注文せずWiFiだけのチェックだけでもいいといってくれたが、再びビールと某かの食べ物とを注文して、小一時間休憩とラインのチェックをさせてもらったのであった。

前回撮ったChurch of St. Francis of Assis聖フランシス教会の写真ももう一度撮りにいった↑↓

聖フランシス教会の裏側にあったArchaeological Museum ↑↓

St. Augustine Tower 付近 右がSanta Monica 修道院、奥にSt. Augustine Tower

St. Augustine Tower 2枚 ↑ ↓

Agustinian Conventの廃虚の一画 ↑ ↓

最奥にあったChurch of Our Lady of the Rosary 5枚 ↑ ↓ 

 

Church of Our Lady of the Rosary からの眺め 下の川はMandovi River 2枚 ↑↓ 

 

午後にはairbのホテルに戻りパッキングをして、話し相手にならない使用人に鍵を返却して、しばらく誰も使ってない応接間兼事務所のソファで時間潰しをさせてもらった。夕方近くになって、見つけてあった定食100Rpの店で早めの腹ごしらえをして、Agentに向かうのだが、そのレストランでの出来事は印象的だった。客のいない時間帯だったが、そこでFish Thali 魚定食を頼んで隠し持ってきた缶ビールで食事をしようとしたところ、缶ビールを開けた音に気付いた店主が飛んできて、それは法律で禁じられているから、ここでは飲まないでくれと咎められたのであった。ま、あり得ることだったのでそれには従ったが、せっかく安いビールをレストランでは飲めない不条理には何ともインドらしいというか、腹立たしくもあり、口惜しいことのようにも思われた。事程左様にインドは州によってさまざまな法律が施行されていて昔はそれを面白いと思える余裕があったが、このときはむしろ非合理?不合理?とさえ感じていたのだった。

airbの宿の事務所兼応接間 誰もいないのでしばらくここで時間潰し

100Rpのfish thali ここでビールは飲めなかった

親切なAgentの若者は、まったくどこがどうなっていて、どのバスに乗ればいいか皆目見当のつかない長距離バスの発着場所までついてきてくれて、そのおかげでticketに書かれていたバスに乗ることができ、17時半にはバスは発車し、途中何回か停まって休憩タイム食事タイムがあったりして、けっこう眠れたようだったのだが、しかし結局わたしはPuneに降り立つことができなかったのであった・・、、

 

KTCバススタンドの長距離バス発着場所