独歩の独り世界・旅世界

他のサイトに書いていた'独歩の独り世界・旅世界'を移転しました

杖つき爺さん マレーシア・インドネシア避寒行

まだ生きてます ! 久しぶりに戻ってきました。以下はまだ生きている(それもかなり元気に)証しの旅録です。いや昨年は、身内を含む同年代が何人か早い<お迎え>を迎えてます。いや、それはもうちっとも早すぎない年齢になってきているということを実感させられる年齢になってきているということだったのかもしれません。いつお迎えが来てもおかしくない年頃ということです。周りはその予備軍ばかり、かくいうわたしも耳は聞こえない、目は点眼の毎日、記憶力の衰えでかけている眼鏡を探し回っている毎日で、もうとっくにそれなりの覚悟はできているつもりです(先日遺書のような覚書の書き直しもしました)。最近は歩行に杖が必要になってきました、が、それでも生かされているのではなくまだ自分で生きている、生きれてるという意識は衰えてはいない、せめてもう少し、生きれる限り生きたいように生きていこう、わたしがひそかに拍手を送っている和田秀樹さん(ご存じの方も多いと思いますが、我々より一回り近く若い、老人専門の精神科の医師)の教えを実践していこうと思っています。

 

で、たぶんにわたし流の解釈ですが、和田先生の後期高齢者の生き方の実践とは、動けるうちはやりたいこと、好きなことを我慢せずにやる、といった当たり前といえば当たり前の生き方、だんだんそれがおぼつかなくなってきているのも目の当たりにしてますが、とりあえずは身体的経済的にできる限り、ということでの実践ということになります。で、そのための今のわたしにとっての第一関門として、わたしは旅屋さんですから、まずパスポートをどうするかという問題があったのです。わたしの何冊目かの10年パスポートは本年(2026)の7月が期限切れ、ただ、今はパスポートの残存日数6か月以上を条件としている国が多く、それだと本年1月以降はどこにも出かけられなくなる。和田秀樹氏の著作を読む前は、60年間世界を旅してきたのだから、もういいかっ?そろそろ卒業するか?という考えもよぎったのですが、和田先生だけでなく、大御所の養老孟司御大や池田清彦氏らの著作に接していると、(旅に関してだけだけど)いやまだまだやれる、やらなくてはという心の声が聞こえてきます。もちろんこれまでの旅のスタイル(バックパッカーひとり旅)は難しくなるだろうけど、スタイルはどうあれ旅は続けられるだろうと今年の一月に申請に行ってきました。実はそこでも迷いが生じました、5年用にするか10年用にするか、もう一つはその時はじめて知ったのですが、本年夏にパスポートの申請手数料が改正になってだいぶ安くなるらしいことを知ったのです。では夏まで待つかという選択肢もあったのですが、まだ元気な今年前半にどこにも行けないのは何とも惜しいではないかと感じて、では、とりあえずで5年用でとパスポートを申請したのでした。今は10日くらいで発行され(驚いたのは申請者の少なさでしたが)新しいパスポートを手にすると、では手始めにどこへ行くかと早速検討に入ったのでした。もとよりこの時期、日本の冬場の寒さに耐えられないわたしは民泊の閑散期でもあったのでこの十数年、毎年南の暖かいところへの脱出を恒例としていましたから、場所探しと航空券探しに移り、避寒以外に特に目的があったわけではなかったので、航空券の手ごろさと赤道直下なら寒いことはないだろうと、それだけの理由で2月の11日にマレーシア・インドネシアを目指して旅発ったのでした。以下は<独歩のひとり旅>何回目かの最後の旅とうたった記録です。

 


まず目指したのはマレーシアの首都クアラルンプール、結構焦ってticketを探したので、超安の往復航空券(5万円台)は見つけることができず、ま、6万円台前半ならいいか、でticketをget、が、この時慎重さを欠いたため後で重要な失敗には気づくのでした。いや、ある意味この旅は失敗の連続で、ある程度は予測していたというか、ま、それが78歳のじいさん旅の宿命だろうと最初から覚悟はしていましたが・・、、で、最初の失敗(というか悔しい思い)は、偶々その日は雨だった。おまけにそれほど寒くはなかった、これがわたしにとっては好都合だったのは、傘を杖代わりにできたからで、そのままその傘をずっと杖として持ち歩こうと思って成田までいけたのはよかったのだが、あとから思えば当然のことsecurityは通らなかったのだった。で没収となり(参考のために申し上げておくと¥1600で手荷物扱いにしてくれるとのことだったが、最初から捨てるつもりだったビニール傘に¥1600も払う気にはなれなかった)、それで雨具を他に持参してこなかったことに気づき、心配の種を一つ抱えたのであった。

 

Batic Airという初めて乗るLCCは日本人は少なく7割がたの乗車率、ほとんど若い人ばかり、うーん乗ろうと思えばflag airかビジネスも可能だったかもしれないが、もう貧乏旅が常態になっているのでレベルを上げられない、ま、LCCだからサービスはそれなりで安さが取り柄に甘んじた。機内販売のランチBoxも買わず乗る前に買ったカレーパンとペットボトルのコーヒーで済ます、このコーヒーも空港の搭乗待ちロビーで買ったのだが、家から持ってきたコーヒーはやはりsecurityを通過できなかった(これもボケの証拠でもう何回もというか毎回没収されている)のだ。たぶん離陸時点で1時間くらい遅発になっていたと思う(10:25→11:15)クアラルンブール着も日本時間18時半着は30分遅れのマレーシア時間17時半だった。

 

マレーシアは、たぶん今回で3回目だったと思うがよく覚えてない。というのも最初は1990年頃、2回目は1995年頃(記録をたどれば正確な年も明らかになるがあまり意味はないのでそこまではしないが)いずれも前世紀の話である。よって極端に記憶力の悪いわたしにとっては覚えていることはほとんどない、ましてや当時から東南アジアの優等生は、著しい発展を続けてきておりその変わりようからすれば、初めてに等しい訪問であった。全く勝手知らない入管順路に戸惑いながら人々の後についていくしかなかったのである。ともかく相当な混雑であった、電車に乗って降りたところがイミグレのあるフロアで、長蛇の列の後ろにつく、が、これが案外早く進んで自分の番が来たときそれが自動入国審査機?(auto immigration?ついでに申し上げておくと、マレーシアは入国前にMDAC<Malaysia Digital Arrival Card>というon lineによる入国カードの登録が義務付けられている)だったことがわかる。passportのチェックと指紋の撮影だけでイミグレ通過、よって入国のスタンプは押されずじまい、これが数日後の出国の時に少々ややこしいことになった。

 

さて、そこからがまた大変で、でかすぎる空港でどこへどう行ったらいいかがまるっきりわからない、というか今時は何と、こんなどでかい空港にinformatioなるものを見つけられなくて、こちらはインフォメーションの場所を聞くインフォメーションを探すことになった。結局それはサインボード(案内板)しかなかったのだが、ようやくそこにLimousin bus 乗り場を見つけ、それはLEVEL2になっていたが、ではどうやってそこに行けばいいのか、そうやって右往左往するのが78歳の旅人の実態なのであった。

 

知っていればすぐに行きつけたであろうリムジンバスのticket counterに行って、その時は18時を過ぎていたと思うが、一番早いMalacca(現地表示はMelakaという表記が普通)行きのバスticketを要求したところ、カウンターのおばさんは22時半のバスしかないとのことだった。その日の宿はKLIA(kuala Lumpur International Airport)からリムジンバスで2時間と聞いていたからMelakaのAirbnbに予約してあった。宿のオーナー(ホスト)からは空港→Melakaのバスは結構出ていること、2時間でMelakaのバスターミナルに着くがそこから連絡くれれば迎えに行くという返事をもらっていた。確かにバスは何本も出ていたようだがすべて満席だったのである。いや、そのバスだとMelaka着は0時を過ぎてしまう、それはいかにも遅すぎるだろうと思ったので躊躇したが、それ以外にその日のうちにMelakaにたどり着ける手段はなかったのである、やむを得ない、そのバスしかないのならそれでいくしかないかとticketを買おうとしたらクレジットカードは受け付けないといわれる。急いでATMの場所を聞いて一階上のレベル3に急ぐ、それはすぐに見つかったのでマレーシア通貨のMYRリンギットをとりあえず500MYRを引き出せたのまではよかったのだが、すぐに引き返したticket counterで、もう売り切れたといわれたときは、真っ白にはならなかったがどうすりゃいいんだと頭を抱えてしまった。なんとそのticketは最後の一枚だったようで、そのおばさんにkeepしておいてといったのにといってみたが、そればおばさんの言うとおり、マレーシアのbus ticketはすべてon lineシステムだからそんなこと言われてもどうすることもできない、とのことだった。で、次のバスはと聞いてみたがそれは明朝とのことであった。その日の到着は諦めて、ではどこで寝られるか、あるいはカプセルホテルのようなところはないのか、とインフォメーションでも何でもないそのおばさんに聞いてみたところ、何と素晴らしい返事が返ってきたのだった。全く思いもしなかった情報だった、そしてその情報は当たっていたのだ。そういう意味では誠に親切なticket売り場のおばさんだったのだ。彼女はそのKLIAバスterminalから北方向、Malaccaとは逆方向に1時間くらいのところにクアラルンプールのバスターミナルがある。そこまでのいくバスがもうすぐ出るからそれに乗ってTBS <Terminal Bus KL Sentral>バターミナルまでいけばもしかしたらMelaka行きのバスがまだあるかもしれない、と言ってくれたのだった。その時はすでに19時を回っていたが半信半疑でそれにかけてみたのだ。Melakaまで2時間のところを逆方向に北に1時間も戻るのがなんとも心もとなかったのだが、19時20分に出たシャトルバスは高速を1時間10分かかってクアラルンプールのバカでかいバスターミナルに20時半に着いたのだった。ですぐに、そこのticketカウンターに行くとなんと21時発のバスがあるとのことだった、しかも不思議なことに距離が半分のKLIA~Melakaのバス代が35.0MYRだったのに、距離的には倍以上あったTBS~Melakaが16.1MYRだったことの不思議(時間帯によって価格が変わる?)だからKLIA~TBSのバス代13.0MYR入れてもその方が安かった、しかも買い損ねた最後の一枚のticketより1時間半も早く着くという不思議、これを奇跡といわずなんといえよう !!??

KLIA<Kuala Lumpur 国際空港>第一ターミンナルからTBS<Kuala Lumpur バスterminal>へ行く途中で車窓から見たKLIA第2ターミナル



 

2026 新年のご挨拶 hirotakaさん メルアド違ってたよ?

2026が明けて早一週間がたたんとしています。改めて、

//新年あけましておめでとうございます、、って誰に言っているかというと、ま、片手に至らない時々ここを訪れてくれている奇特な方に、最近は思い出したようにしかこのブログのことに気を留めてないわたしが、去年だけでなく積年の御礼として<ほんとにその節はお世話になっております、いつもありがとうございます>と申し上げ、それでも思い出したように書く気持ちはあって、もしかしたら時々読んでくれているかもしれない奇特な方への新年のメッセージとなります。なのでこれからどうなるかわからないこのブログを、ま、今年もよろしくお願いします、というご挨拶をさせていただきました(ま、実際はほとんど詰んでいるのですが‥)。

 

ではまた何故にその気になったかという話から始めます。そう、かなり私的な話ですが、すでに数年前に(昨今の年寄りはその傾向にあるようですが)わたしも年賀状仕舞いをさせてもらっていました。ただ、わたしの友人知人にも奇特な方がいて、数名の方が今年も年賀状を送ってくださいました。で、性分としていただいた方にお礼は言いたい、が、改めて年賀状を買ってきて礼状を書く気にはならない(根っからのめんどくさがりで、それゆえに年賀状仕舞いをしたのだし)ので、ほとんどはmailで返信させていただきました。が、二人はメルアドもわからない、ところがそのうちの一人はメルアドはXXXXXXXと書かれていた。で、そこに送ったけど送信エラーとなって、なーんだ、ダメだったかということになった。が、その時その文面に、嘘かほんとか<ブログは見てます>と書かれていたのを思い出したのです。ならば、ブログに書いてみようということになって、嘘かほんとか確かめられることになったわけでした。ということでhirotakaさん、あなたの年賀状が何か月ぶりかでわたしを<はてなブログ>に戻してくれることなったのでした。ありがとうございました。

 

さて、せっかく何か月ぶりかで戻った<はてなブログ>、他に書くことはないのかと、お叱りを受けそうですが、去年から今年にかけて身辺は大変なことになっていて、身内の不幸や友人の訃報、相続問題、(娘の)離婚騒ぎ他詐欺まがいに出会ったりで、明るい話題は全くないので、それらを報告する気にはなれません。それでもおかげさまでわたしの民泊稼業は順調で、それこそ去年あたり民泊仕舞いも考えていたのだけど、今年になっても予約は入り続けているので、もう一年やってみるかという気にはなってます。で、思うにその好調の原因は、これは前にも申し上げたかも知りれないが決してインバウンドの影響とは思ってなくて(もちろん多少はあるでしょう)、こういう稼業あるいは飲食業等も含めて、今の時代は口コミの力が大きい、その点はわたしがお願いしているプラットフォーマーのAirbnbはそれを大変重視していて、そのシステムも完璧なので特にありがたいことだと思ってます。で、せっかくだから、今年最初のレビュー、ま、お世辞も含んでると思いますが、わたしを感激させた(わたしにとって)特上のレビューを、以下に披露させていただきます。去年の暮れから年初数日間滞在された中国からの若いカップルのレビューです、最高の賛辞でした ! !

 

//独歩亭でとても素敵な新年を過ごすことができました。 オーナーさんはとても親切で、設備の使い方を日本語と英語の両方で丁寧に説明してくださいました。 客中にはモノレールに乗って港まで行き、きれいな夕日を見ることができ、千葉神社で初詣もしました。お香の香りがとても印象的でした。 リビングのこたつは、私たちが一番お気に入りで、自然と長く過ごしてしまう場所でした。 また、他国から来た宿泊者の方々と交流できたのも、とても良い思い出です。 帰る前には、オーナーさんがこれまでの宿泊者の方々からの特産品を分けてくださり、心が温かくなりました。 これらすべてが合わさって、忘れられない2026年の素晴らしいスタートになりました。

 

個人あてのメッセージもありましたが略します。こういうレビューが生き甲斐となり、やりがいとなってます。もう少し頑張るか、という気にさせてくれます。

慧娟さん ありがとう ! !

 

さて、もう一人ついでに登場してもらいましょう。そう今日の話題にあった、わたしの年賀mailのお相手で、彼とは最近はmailだけの交流ですが、彼こそ毎年日本時間の1月1日、0時1分に欠かさず年賀mailを送ってくれている50年来の友人です。その都度お互いの近況をmailで報告しあってて、この後掲載するのは、その(今年の)何通目かの文面です。ま、彼とは日本人の友人より深いつながり?その交友関係は半世紀に及びますが、その出会いも興味深いstory(思い出)が詰まっています。が、それはまた別の機会にしましょう、文面は内輪話(単なる近況報告)ですが、その内容から我々の交友関係は想像できるかもしれません。ということで今回はこの辺で、、

 

//It was very nice to read your message! Man Har and I celebrated our 40th wedding anniversary 20th December! When I am sitting here and write to you, it suddenly struck me, that we have known each other for a much longer time than so! From 1977! Nearly from the Meiji era! Ha Ha! Such a friendship is quite rare and has to be nortured as carefully as your famous Ban Sais! That is why you get a message from me every New Years Eve! I want to know, that you and your family are feeling well. It was interesting to read, that you compared me to Lafcadio Hearn. Hej was actually my role model during my visits to Japan. Hej represented the perfect blend between Japanese and Western culture. I used to be very envious at his fluent Japanese, whereas my own Japanese was so poor. For a number of years Japan was very much part of my existence. Nowadays I am split in between a number of existences! Ha Ha! Matsue, Izumo and Oki sounds familiar to me, but it was such a long time ago, so I have forgotten if I ever visited those places. It was nice to read that Akane San and you went there together. Akane San is a very smart girl, because she chosed you as a husband! Ha Ha! About this Swedish man, Nick Bostrom, I had not heard about him, but now I am curious to learn more about him, so I am trying to find some information, when I come back to Sweden. At the moment Man Har and I have rented a flat in Shenzhen next to Hong Kong. We will stay there until 15th January when we fly back to Sweden for Man Har's further treatment for her cancer. She is still not fully recovered and need my assistance with different things, so it will be difficult for me to come and visit you this time. However, even if you will not run your Bnb, I could still stay at a youth hostel or hotel, when I come to visit you. We will only manage to stay alive long enough to make it happen! Ha Ha! We are both going to be 80 so there should still be some time left in us. Let's all have a good time and enjoy life! 

『hasta Nicaragua』6,番外編 中米の歴史、あるいは革命(家)の世紀?

もとより、わたしは(何度もこのブログでは言い訳気味にいっていることですが)老い先短い爺(じじい)でしかなくて、結局何者にもなれなかった人生の最後を忸怩たる想いでを過ごしている、今や老害or老醜しかもたらさない迷惑人間でしかありません。わたしが人生で他人に少しだけ得意になれることがあるとすれば、ま、比較的多くの国を放浪に近い旅をしてきたことくらいなので、そんなのは大きな声で自慢できることではないのです。そんな旅もさすがに(体力勝負なので)無理がきており、自重せざるを得ない、つまり唯一の楽しみもすでに奪われて久しいといったところです。そこで以下は、わたしのやってきた旅の総括?みたいなものを書き残しておけたらという意味でどこまで書けるか、暗中模索でとりかかりました。まぁ、数だけ言えば有名旅屋(プロ級のタビヤさんは何人かいます、タビヤは旅行家ではありません)さんにははるかに劣りますが、一応全世界-国数200として1/3くらいに足跡を残してきたかな?といった感じで、そのなかでも多少なりとも縁の深かった場所というのはあって、それが今回のタイトルにも出てきている中米ということになります。ただ、わたしは学者ではないので歴史といっても、全く素人の浅い歴史認識でしかないことをお断りしておきます。と言いつつ、その歴史記述は人類誕生から始まります(ただ最初だけ)。つまり中米・南米の先住民はどこから来たのかという初歩的な話を、わたしは最初に中南米を訪れた55年前に教わったのでした。その時教えてもらった説が変わってなければベーリング海峡が凍った時期(15,000年程前?)にアジアから渡ってきたというもので、なので先住民の祖先はモンゴロイドだったというものです。その後1000年の間に人類(新大陸の先住民)は南米最南端まで到達したそうです。そしてベーリング海峡の氷が解けて新大陸は再び閉ざされた世界になったのでした。で、その時代から一気に時を駆けのぼって再び新大陸として発見されて世界が大きく変わるきっかけになったのが1492年のコロンブスによる所謂(いわゆる)新大陸発見でした。この世界史上の大事件以来、人類の歴史は二分されました。それは新大陸を発見した側の歴史と発見された側の歴史です。そしてその後の世界史は大方発見した側の歴史として書かれてきたわけですが、むしろその裏面史こそ重要で、かつ問われなければならない多くのことが一般には知らされずに今日に至っています。それは1992年の発見500年祭のだいぶ前から問われていたことにもかかわらず、依然として大勢は発見した側というか、その後それによって発展をもたらし現代にいたっている西洋世界の文脈で歴史的必然のだったように語られてきたのです。その経緯・論理(わたしには全く理解できない発見した側の先住民の虐殺と抹殺の歴史の論理?倫理?なのだけれど)は誰もが教科書的には教わってきたかもしれませんが、意外と知られていない発見された側(先住民)の歴史は、それが史上最大のホロコーストであったにもかかわらず伝えられてきていない(ホロコースト;大方虐殺されてしまったので証言者がいなくなったという意味で)、ということでわたしの希望としては、そこまでは役不足で書ききれないので、できれば専門家の著述(今では相当数出ていいます、<現代企画室発刊の著書>がお勧め)で、ぜひ確かめていただきたいと思っています。

 

その中南米史の一部をなす若干のことを今回の『hasta Nicaragua』関連で補足しておきたいと思ってこの章を追加しましたが、うまくまとめられません。中南米の歴史は当初はスペインによって植民地化され、その後支配はアメリカ移り、『hasta Nicaragua』にも書いたと思いますが、19世紀には各々の国が独立を果たします。しかし、そのころにはすでに中米はアメリカの裏庭と呼ばれ、ほとんど独立したばかりの小国は一様にアメリカの干渉を受け傀儡と化した独裁政権となっていきます。そして民衆はその圧政に耐えられずどこでも内戦を経験していく、反米・反政府闘争の起らなかった国はない(コスタリカは少々事情を異にし、またパナマも元コロンビア領だったりで多少事情を異にしますが、南米の諸国も大同小異)。そんな中で20世紀になってもアメリカの支配、傀儡政権が続いていたニカラグアにおいて一人反政府闘争を開始したのが、1885年生まれのインディオの血をひく農民アウグスト・セサル・サンディーノでした。彼は仕事を求めてメキシコに滞在していたことがあり(1926年30歳ころ?)たぶんそこでメキシコ革命(1910~1917)の残り火を目の当たりにしたか、あるいは伝説化した英雄エミリアーノ・サパタ(とパンチョ・ビリャ)の物語は耳にしていたでしょう、この天才的革命家がエミリアーノ・サパタの伝説を引き継ぐことになります。サパタが20世紀の中米の(いや彼は世界の、といえるかもしれないが)最初の英雄だったとすると、それに続く革命の闘士としてソモサ独裁政権に対して反政府活動を開始したのがサンディノで、彼も最終的には8年後にソモサの仕掛けた陰謀にはまり暗殺されてしまうのですが、その志を継いだ若きカルロス・フォンセカがキューバ革命の影響を受けて、アナスタシオ・ガルシア・ソモサの息子たちか継いでいたソモサ一族の独裁に対して反政府組織FSLN(Frente de Sandinista Liberacion Nacional サンディニスタ民族解放戦線 )を結成したのが1961年でした。その戦いは1979年7月19日、FSLNニカラグア民衆の勝利をもたらしましたが、サンディノが最初の戦いを挑んでから半世紀の時が経っていたのでした。今から思えば史上最後の革命の成就だったといえるかもしれません‥??

今や対立概念も変わって、全体主義国家と独裁政権はいまだ存在しているが革命(武装闘争、反政府ゲリラ)といった形での変革はもうありえないのではないかという想いもあり、21世紀はすでに革命の世紀が遠い昔の物語になってしまったという印象は拭えません。わたしが大げさに<中米の歴史、あるいは革命(家)の世紀?>とタイトルにうたったのは、特に中南米の土壌が独裁政権を生みやすくなっているのと、その独裁はアメリカの手先(傀儡)だったりするので民衆は反米感情が著しい、またインディヘナ、メスチソ(混血)が少数の白人支配層から虐げられ搾取され殺されてきた歴史があるので骨の髄まで反米・反白人感情は根強い、だからそれらに反抗する英雄が出てくる確率も高くなるのかもしれないが、いっとき民衆の心が静まっても、一向にこの傾向(支配構造)が変わる様子はない、そこに中米を他では見られない特殊地域にしている構造的な問題があるような気がしてなりません。

 

前にも言ったかもしれませんが、わたしの最初の旅は1970~1971年(マナグア地震が次の年に起こっている)の中南米放浪でしたが、政治意識も世界事情もまるで知らない学生でしたから、上記の状況にもまったく無知でした。が、たまたまその地が中南米だったということで30年後に一度、その10年後にもう一回中米を訪れました。その時は正直言うとサパタは知っていたがサンデイノは知らなかった、それが今回のニカラグア行きの遠因になってたことをこの場で申し上げておきます。また、20世紀末には、これも有名なキューバ革命(1959年)の地にゲバラの面影を追って二度ほど訪れています。わたしにとっては縁(ゆかり)の地になった感はあります。

 

そんな先住民にとっての変わらぬ現実と諦めしかない状況を目の当たりにして、いくばくかの希望の灯をお伝えして、この章(あるいはわたしのブログも)締めくくりたいと思います。わたしの知りえている一縷の望みは、先のメキシコの英雄エミリアーノ・サパタの志を継いだEZLN(Ejercito Zapata Libaracion National サバティスタ民族解放軍)が新たな組織として、副司令官マルコスの指揮のもと1994のサンクリストバルにおけるNAFTA(北米自由貿易協定)発効に抗議するために蜂起し、同時に今後の方針として必ずしも武装闘争に頼らずインターネットを用いた対話・会話路線で活動していくという宣言をし、その支持者が世界中に増えていることがあげられます。特にインディヘナに限らず世界の少数者、差別的扱いを受けている全てのマイノリティと共闘していくという宣言は大変重要なもので、多くの少数弱者にいくばくかの希望をもたらしてくれました。ただ、わたしのような高齢者にはその扱いは難しく、まだアクセスしてその動向のチェックまではしていません。それでも一度チアパス州サンクリストバルのEZLNの本部を訪れたことのあるものとして、それは確かな手応えと先住民にとってのささやかな希望を与えるものと期待しています。いまだに回復されることのない先住民インディヘナの名誉と尊厳と地位と財産の回復を願って、また中米の政情の安定と発展を副司令官マルコスの采配に期待したいと思っております。

 

『hasta Nicaragua』5, Leon (つつぎ),Granada ~ Masaya (最終回 帰国まで)

前回は不本意な終わり方で誠に失礼しました。また、それから早2週間がたってしまい、ま、読んでくれてる方はいらっしゃらないとは言え、何とお粗末な書き手かと我ながら呆れてしまいます。とりあえず猛暑は理由になりませんので、あと2回ほど何とかまとめねばと思っております。

で、前回はLeonの街ブラで尻切れトンボになってしまいました。あの後Leonの帰り道、特に記すべきものはそんなにないのですが、その辺から話を再開します。着いたときはいわゆるバスターミナルからは必要もないのにタクシーを使ってしまったけれど、帰りは少し歩き疲れたのと暑い盛りで義兄氏も同様とみて、前日同様流しの輪タクをつかまえて、わたしが粋がって値段の交渉し、まだ少年のような相手に、街ブラしながらバスターミナルまで行ってくれと頼み、了解されたと思って乗り込みました。しかし、ま、よくあることですが話は通じてなかったのでした。なんか同じようなところをぐるぐる回っていて、一向にターミナルにつきません。わたしもはっきりターミナルの場所と方向を把握してたわけでなかったので、それでも2~30分黙っていたのですが、もうついてもいいころと思ってターミナルはどこか質してみたのです。ところが要領を得ない返事、つまり話は(わたしのスペイン語は)通じてなかったようでした。わたしは怒る立場にはなかったのですが、怒りを爆発させてその場で降りて、一応約束の料金100C$(コルドバ¥400)は払ったがtipも上げずバスターミナルの方向だけ聞いて歩きだしたのでした。そこからは歩いて10分くらいのところにターミナルはあって、周辺は市場のようなところで、なかなか楽しいところ、おいしそうなパン屋を見つけて昼食代わりの腹ごしらえしてManagua行きのバスを探しました。来たときはミニバスだったけど帰りは公共のバスを使ってみようと人に聞いて、ちょうど12時発のバスに間に合ったようでした。勿論座れたので問題はなかったのですが、行きのミニバスは一人78C$約100分、帰りの公共のバスは一人50C$、約3時間かかってました。通った道も違ったようで行きはなんか新しい道、ところどころにManagua湖を望む快適な道で(もしかしたら日本の援助か?)帰りはTicaバスで通ったCA1のようでした。午後の3時に戻ったManaguaのバスターミナルは同名の市場の隣接するIsrael Lewites Terminalで、だだっびろくて流石に混雑してましたが、市場内は割と閑散としててあまり活気があるようには見えなかった(偶々その日は日曜だったからかもしれない?)、それとやはりそこからホテルまでは結構距離があったのと足はタクシーしかないようで、これも交渉して乗ったのですが、ま、一ヶ所寄り道してもらって250C$(¥1000)は妥当なところだったのでしょう、そんなんでManaguaの繁華街というか中心街らしきところも通ってるのですが、どこが中心で賑わっているのか、ともかく高い建物のほとんどないこの街は、しかも緑に覆われてて、忙しさを感じさせるような要素が全くないところだったので、むしろわたしには好ましく思えたのでした。なのでその夜も繁華街て出かけるわけでもなく、ホテル近くに食堂兼飲み屋のような店が数件あって、そこのJuke Boxの喧騒はけたたましかったが、いずれにしろその界隈は危険エリアということもあって、爺さん二人はせいぜい缶ビールToña(トーニャ)を飲みながら早めに寝るしかなかったのでした。

Leonの市場界隈、数枚 ↑ ↓

 

 

Managua Islael Lewites バスターミナル ↑ と隣接する市場 ↓ 

独裁者Somozaの本営のあった(この左手丘の上) laguna de Tiscapa
この写真を撮りたくてタクシードライバーに寄ってらった

    ソモサ独裁政権の中枢があった建物の前あたりからManagua湖方面を見下ろす

我々の愛飲したニカラグアビールToña

あくる日(2024/2/26)は残された最後の一日、もう一つの歴史の街Granadaと帰りに途中にあるMasayaによってみようということで、その日はタクシーを使って前日のミニバス乗り場まで行く(100C$)。もうミニバス乗り場と利用の仕方もわかったので、乗客待ちの時間(満席になり次第ミニバスは出発する)、前の屋台でパンとコーヒーの朝食をとった。

7時発のTica Busはどこ行きだったのか?我々もこの時間にUCAに向かった ↑

UCA前のMini Busターミナル付近

前方がGranada行きミニバス乗り場 ↑ その前の屋台で朝食をとる相棒 ↓

ミニバス乗り場界隈

ミニバスは7:40出発(37C$)、グラナダ着は9時頃だったか?確かにレオンとは街の雰囲気はだいぶ違っていて、建物も街全体の雰囲気も落ちつきを感じさせる、しっとりとした感じが中央公園(Parque Colon)&カテドラルあたりには漂っていた。観光客の姿も多く見かけたのだった。例によって中央公園界隈をぶらぶら歩きまわって写真を撮ったり、遠くに山影が望めるのがまた良かった。中央公園から2ブロックいったふあたりに市場があって、そのあたりの賑わいはマナグアでは見られない光景で、人通りも多かった。その界隈をぶらついてから我々は、グラナダの街に隣接するニカラグア湖を目指す。歩いて行けそうだったので、方向を確認して歩いていった。30分くらいかかったか?しかしそこまで来ると街の喧騒も、観光客も皆無で、湖の全景は素晴らしいものがあった。今でも使われているのかニカラグア湖に浮かぶオメテペ島という観光地に向かうフェリーの桟橋があって(どうやら今はフェリーはここから出てはいないようだった)、そこの2階に展望を兼ねたレストランがあった。そこからの眺め、というかそこで飲むToñaは格別で我々の旅の最高の場だったかもしれない。ま、リゾート気分満載でしばらくその場で過ごす。そこからはGranadaの街まではタクシーで戻った、Masayaに行くバス乗り場を知らなかったからで、それはタクシーを使った甲斐があったというか、裏通りの知らない人には見つけづらいところにあったからだ。そのバス乗り場周辺も市場のようなところで賑わっていた、その辺の庶民的な雰囲気もこのグラナダの良さだったかもしれない。

Granadaまでの沿道から ↑↓ 数枚 

GranadaのCatedralと中央公園(Parque Colon)9時頃着  ↑

Parque Colon 界隈 ↑↓ 数枚 

二人が写っている珍しい写真

 

遠くに山影を望む ↑ ↓ 数枚

 

市場付近 ↑↓

 

ニカラグア湖に向かう

静かな湖岸、地元の人も観光客もいなかった、この後桟橋へ

桟橋の起点に建物が、ここにも人はいなかったが2階がレストランになっていた ↑↓

かなり大型船が停泊できる桟橋だった ↑↓ 数枚

 

2階に上がってビールで乾杯

2階からの眺め ↑↓ 数枚

 

 

往時の桟橋の写真が展示されていた ↑↓

 

GranadaのMasaya行きバスターミナル

問題はMasayaだつた、ここも歴史的な街で、今は民芸品の街としても有名だったので、ほとんど土産物を買ってなかったので何か探そうと必死だった。が、Masayaはグラナダから3~40分(20C$)のところだったが、グラナダの小さなバスターミナルから出たバスはMasayaのかなり大きなターミナルに着いたのだけれど、どうもそこはMasayaの中心部ではなかったようだった。地図もなく、何回か人に聞いて探すことになった。そのためわたしは必至だったから苦にならなかったけれど、付き合わされた義兄はいいかげんにしてくれ、と思っていたことだろう。わたしは焦って歩き回り、ようやくそれらしきmercado(market)を見つけたが、その間義兄には近くの公園(たぶんParque San Miguel)で待っててもらった。どうも地理が全く分からず、土地勘もなく義兄には苦労かけてしまったという想いが残る。それでもいかにも民芸の街、と思われる市場 (el Mercado Viejo Craft  )で土産になりそうなものを2,3見つけられたのが救いとなった。で、その近くにManagua行きのバスターミナル(Managua Uca~Masayaのミニバス)があることを教わり(Masayaのバスターミナルはいくつあって、最初に降りたターミナルがどこだったのかいまだにわかってないが)不幸中の幸い、Managuaまでは(25C$)すんなり帰れたのであった。ManaguaはUCA(University of Central America?)前のミニバスターミナルにつき、そこからはTica bus officeまでタクシーで(100C$)17時半頃ホテルに戻る。若干C$(ニカラグアコルド)も余っていて、例によってtake outのPakete Comida(何種類かの総菜をお肉、野菜、ご飯等)とビール(Toña)で最後の晩餐、明日のチェックアウトは昼頃だったので慌てることもなく眠りにつく。次の日午前中は近くのスーパーPali 27 De Mayo(何度も出かけた)で土産になりそうなものを物色、昼食もしっかり食べて12時ころ空港に向かった。

 

そのあとは以下のルートで日本に戻るのだが、安い航空券だったから、ちょっと想像がつかないような長旅だった。ちなみにManagua発は現地時間2024/2/27 16:50, El Sal 着17:30 発 22:00,  Guate 着 22:45 発 2/28 5:00am,  LA着 2/28 10:15(LA時間 8:15) 発 12:45で成田着は日本時間2024/2/29 17時だった、、時差があるので何時間かかったのかは(計算すれはわかるだろうが)わからない・・・    『hasta Nicaragua』 // the end

 

Masayaのバスターミナル(降ろされたところ)?

Masayaの街の風景、ここに限らず(LeonもGranadaも)馬車が現役だったのがうれしくて何枚か撮る  ↑↓

義兄に待っててもらったParque San Miguel ↑↓ 

結局MasayaのParque Centralにはいきつけなかった

やっと見つけた民芸品マーケット El Mercado Viejo Craft market  ↑ ↓

 

Managuaへの帰路 車窓から何枚か ↓

UCA ミニバス乗り場に戻る  ↑

最後の晩餐?

check out(10:00)後12時まで滞在させてもらった2Fベランダ ↑と2Fからの街路風景 ↓




 







『hasta Nicaragua』4,Managua, Leon

Managuaが現在のNicaraguaの首都である。ただ、この首都形成の由来は少々異例なようで、知っている人はどうってことない話だと思うが一応記しておこうかと思う。

普通中米の歴史を語るときは、まずは旧主国スペインから独立した19世紀初めあたり(1821年)から語られるのだけれど、その時はまだ今のグアテマラエルサルバドルホンデュラスニカラグア、コカタリカは分離独立しておらず、地域的にまとまった形で1821年に中米連邦共和国として独立を果たした。しかしその後、それぞれの地域的利害の衝突等もあって1835年頃から離脱していく国が出てきて1840年には分裂解体してしまう。その後はグアテマラ1847、エルサルバドル1859、ホンデュラス1865、ニカラグア1854、コカタリカ1848年にそれぞれ独立を果たしていくのである。

それぞれの国ではそれまでに地域的なまとまりはあって、スペイン人の支配のもと地方の豪族の力も強くなっており、特にニカラグアの場合は北のレオンと南のグラナダの二大都市がスペイン人の統治以来ニカラグア内の勢力を二分していたらしい。革新的なレオンと保守的なグラナダと気風も政治的風土も経済的基盤も性格を異にして、独立を達成するまでは各々が自らを首都として覇権を争ってきたとのことであった。その覇権争いは中米共和国の崩壊後も続き、弱体化した政治的空白期間にアメリカ人ウィリアムウォーカー William Walkerに乗っ取られるという信じられないような出来事も起こっている(1856年大統領に選出される)。たぶん政治的混乱の激し時代だったのであろうから、ニカラグアの独立(1854)時の模様もマナグアが首都に選ばれた(1852)背景も詳らかではないのだが、はっきりしていることは二大都市の争いがあまりにも熾烈だったことで、独立にあたってその中間に位置した、当時はマナグア湖湖畔の寒村だったに過ぎない場所が、この国の首都として選出されたという説は信憑性が高い。事実それから170年たった今でも、マナグアという街はあまり歴史性を感じられず、また首都らしい繁栄、商業の中心といった面影もあまり見られなかったからである。わたしには却ってそれが新鮮に思えたのだが、かって55年前の旅で唯一記憶に残っていることが、この湖畔には立ったことがあったというそれだけであった。もしかしたらその背後の街の様子もその当時からあまり変わってなかったかもしれないと一瞬は思ったのだけれど、進歩史観のないわたしにはなんか素晴らしい街にさえ思えたのだった。

ま、それでも今では人口的にはニカラグア最大の都市であることには変わりはない。義兄氏とわたしはあくる日(2/24)さっそくマナグアの街ブラに出かけ、翌2月25日にはバスでレオンに出かけたのだった。

バスターミナルから3軒隣の愛すべき安宿

宿前の通り、車も人通りもほとんどなし(後で注意を受けたがこの辺りは一人で歩くのは危険なところとのことだった)

Tica Busとは別会社のバスターミナル

商店街といったところを目にすることはなく、緑多き街のmain street 緩い坂を下った先      にLago Managuaマナグア湖が見えている

   

    歩道橋の上から↑の交差点付近を写す、遠くに火山の山影が見えている

 

       マナグアの最高級ホテルの一つ Crown Plaza Hotel

 

今もテイスカパ湖Laguna de Tiscapaの丘にそびえたつSandino像 サンディニスタ民族解放戦線FSLNについては後述するが、個人的にはこの像と立っている場所が畏怖の念を呼び起こしてしまうのである。勿論Sandinoはニカラグアの英雄だが、その立ってる場所はSomozaの本営だったTiscapa宮のあった丘の上だったからである。威風堂々と立つ英雄像はSandinoが悪者の象徴のように見えてしまうのである。↑ ↓

 

Parque Luis Alfonso Velasques Floresから先が歴史地区になっている ↑

国立文化宮殿 Palacio Nacional

                      旧マナグア大聖堂 Antigua Catedral de Santiago Apostol  ↑↓

共和国広場Plaza de la RepublicaとHouse of People(正面の建物)付近を散策する義兄  ↑

 

                               Placio Nacional 国立文化宮殿内部   ↑

 

ニカラグアが生んだ世界的詩人 ルベン ダリオの名を冠した国立ルベンダリオ劇場 ↑↓

マナグア湖 Lago de Managua 2枚 ↑上は遠くに火山が、↓下は写真を撮る義兄

Monument to the Unknown Soldier 無名戦士像

広々とした大通りに交通量は全く少ない、宿からこの湖畔沿いまでは約3km、ここまでは歩いてきたが暑くなった帰路は歩く気になれず、やってきた輪タクだったかバイクタクシーだったかをつかまえて交渉、100C(Cordoba 100C=400円)だったからそれに乗って帰った


こんな感じでマナグア初日は、半日をマナグア湖畔の歴史的かつ重要建造物の立ち並ぶあたりをマナグア湖からの心地よい風に吹かれて散策するも、午後になるとさすがに北緯12~3度の日差しはきつくなって、宿に戻って近くのお店で昼食をtake outしスーパーでビールを仕入れての宿のリビングで食事、これがパターン化していった。食べ物屋さんは数件あったのと、ニカラグア料理は焼肉系料理が多かったが結構バラエティに富んでいて、お店によっても日によっても多少アレンジが違っていて飽きることはなかった、もちろんarroz(米)ご飯は欠かさなかった。だいたい一食(ボリュームがあったので二人で200C、ビール×2で100C)300C=1200円くらいであがっていたではないか?

実はその日の朝出かける前にオーナーのAngel氏に、今キャッシュで3泊分払うから少し負けられない?と交渉してみたが、気の良いAngel氏はにこにこしながら、それはできないが、もっといい部屋を提供するよ、といってくれた。そこは2階の広い部屋で風通しがよく展望が良かった。とりあえず3泊の延泊料金を払い、戻ったら移動する旨伝えて出かけたのだった。で、その日の午後は部屋の移動と洗濯と昼寝で終わる。夜は特にすることなかったが、特にこの界隈は昼間でも危険地帯だから一人歩きはするなと注意されていたので、タクシーを使ってでも出かける先を知らなかったのと、貧乏人の年寄りは遊びに行くより寝不足解消に早寝するしかなかったのである(特にわたしはそのころ不眠症気味だったのと相棒の義兄氏はどこでもすぐに寝られる特技の持ち主と知って、この人にはかなわないと早寝に徹していたのだった)。

 

あくる25日はレオンLeonに行ってみるということで義兄氏の了解もとってあった。レオンへのいき方はとしては、バスしかないようだったが、そのバスターミナルが結構遠かったのとAngel氏(宿のオーナー)がミニバス(10数人乗りのワゴン車)でも行ける、その乗り場はそれほど遠くなくてタクシーで100C、何なら100Cで自分が白タクやってもいいとのことだったのでお願いした。その場所はまさにミニバスのターミナルのようなところで(ニカラグア各地へいくミニバスの拠点)、客が集まり次第どんどんミニバスは発着していた(このシステムは中米に限らず、発展途上国ではどこでも一般的だった)。レオンまではミニバスで片道100分78C=300円、安くて早くて快適だった。ただレオンのミニバスターミナルからセントロまでは歩けたと思うが道もわからず、結構遠いよとタクシードライーに声をかけられ乗ってしまったのは失敗だった。こういうところはわたしの甘さである、年とともにいたるところで後悔することが多くなっていた。さて、セントロ、パルケセントラルParque Central中央公園あたりで下車してそこから約2時間(ご存じの方も多いと思うが、スペインの植民地はどこでも街の作り方がこの中央公園とそれに面したカテドラルCatedralを中心に街は作られているので)そこを中心に2時間ほどど歩き回ったのであった。

レオンは保守的なグラナダに対して革新的な風土とのことで、ここはニカラグアの文化、宗教、軍事の中心地ともいわれていて、前日マナグアを歩いたときにみたルベン ダリオ劇場が国立劇場だったように、ニカラグアが生んだ大芸術家ルベンダリオは、このレオンが生誕の地だったのである。また中米最大規模のカテドラルだけではなくメルセー、レコレクション、ガルバリオといった有名宗派のキリスト教教会も多く、またFSLNの拠点だったところとしても有名で、街路にはFSLNの革命に命をささげた闘士のパネル写真やいわれのある建物、彫像、FSLN関連のものが至る所に展示されていた、見どころの多い街であった。

中米最大規模といわれるCatedral

Catedral内部 2枚 ↑↓

 

カテドラル前が中央公園で、正面の建物は市庁舎、赤と黒FSLNのシンボル旗がたなびいていた

ガルバリオ教会 2枚 ↑↓

FSLNの殉教者のパネル 1~4  殉教という言い方が正しいかどうか?またその数は
何十(何百?)枚とあってその一部

FSLN パネル その2

FSLN パネル その3

FSLN パネル その4

革命記念碑

ルベンダリオ公園

ルベンダリオ博物館

↑↓ 数枚の写真が記念的な建物だったのだが、記録してなかったので、何だったのかわからずじまいになってしまった、誠に失礼 !

 

・・・ということでレオンのmapも手に入れてなかったので(あったかどうかも未確認だが)残念ながらというか勝手ながら、急遽この辺でManagua,Leonを仮了とさせていたたきます。後日修正補足を考えております。おやすみなさい、です、、、

 

『 hasta Nicaragua 』3,El Salvador~Houduras~Managua/Nicaragua

翌現地時間2月23日、我々は他の数人の乗客とともに4時半に起こされ4:50には出発するという慌ただしさだった。が、そのバスはいったんCristbal Colon社(Tica Busを運営するメキシコのバス会社の一つ)のオフィスによって、そこに30分ほど停車したのち5時半San Salvadorを出発となった。El Salvadorも20世紀末に内戦を経験していたが今はだいぶ落ち着いてきて近代化が進み、インフラも整備されて見違えるような発展を遂げていた。朝の5時にはもう庶民は動き出していて活気が感じられた。しばらくは高速道のような快適な道を行く、車窓を楽しみながら、うとうとしながらのバス旅がつつく、El Salは比較的国土の狭い国だったからHondurasとの国境までは4時間ほどで着いた。ここの国境でも出国は簡単、Honduras入国には$3の入国税を取られる。そのあとバスはなかなか出発せず(説明はあったのかもしれないが聞き取れず)、もしかしたら朝食or昼食休憩を兼ねていたのかもしれなかった。周りの人の行動をまねて我々も食事したがここの焼肉弁当?(二人分で$5くらいだったか?)は安くてかなりうまかった。

 

   San Salをでて1時間ほど左手(東)に山が現れる、地図は持ってなかったので

            山名不明 Mt.San Juanか?

             El Salの原野を行く

              別の山が見えてくる 23日7時頃 ↑ ↓

El Sal 8時頃 ↑ ↓ 

 

             Frontera国境間近の看板

El Sal/Honduras国境 El Sal側イミグレ9時半頃着

 

国境の河 2枚 ↑↓ 

国境の街Honduras側 2枚 ↑↓ 

焼肉弁当を二人て食う

                             10時半頃バスは出発した

 

 

確かこの後10時半ころバスは出発した。これまでずっとCA1(Centrral American highways 1号線、場所によってはCA2も通ったかも)を来ていたが、Hondurasの大きな街は首都のテグシガルパTegucigalpaも含めてCA1上になく、この先ニカラグア国境までは荒野というか原野を行くのだけれど、途中一箇所トイレ休憩(トイレ付きのバスだったからたぶん他の理由で)かドライバー交代のためか、大きなバスターミナルのようなショッピングモールのようなところで、ちょうどお昼頃休憩となった(場所名は確認できなかった)。そこからニカラグア国境までは1時間半くらい、だからHonduras国内通過は休憩いれても3時間~3時間半くらいだったか?

14時にはHonduras側の国境について簡単に出国できたように覚えているが国境の河を渡ってNicaraguaに入った途端、なんだかやたらめんどくさいことになって、しかも相当長時間費やしたように記憶している。おまけに余計な出費(わたしは黄熱病予防注射をしていたから事なきを得たが、義兄氏及びほとんどの乗客は$15徴収される)もあったりで踏んだり蹴ったりであった。ちょうどもっとも暑い時間帯でこの関門を越えるのにみんなうんざりであった。なんか怖くなって写真も撮っていない。

 

                                  Honduras 12時頃 ↓の写真の近く

場所不明だが、お昼頃15分ほど休憩したところ、バスターミナルのような
ショッピングモールのようなところだった。およびその付近からの写真  ↓

                 上のターミナル付近 ↑↓

Nicaragua国境付近の渋滞 ↑↓ 

 

13:44国境の河を渡る

Nicaragua側の国境事務所 この奥 入国手続きに1時間半くらいかかった

国境からしばらく走ったところにあった沿道のお店 ↑↓

 

                                Nicaraguaに入って風景も様変わり??

 

またまた秀麗なコニーデ型火山が現れた ↑↓

同じ火山、かの有名なモモトンボ火山か?バスはこの火山の周りをまわりこむように進む

Managua近し、日没も近し

ピンぼけだが日没の太陽2枚 ↑↓


日没がだいたい18時で、日も暮れて街の明かりが煌々と煌めきだした首都マナグアを一応は想像てみたけど着いた先は、これが首都のバスターミナル?一応は街の真ん中にあると思っていたのだけれど、この街には街の真ん中の目貫通りは存在しないことを次の日に知ることになった。いや、むしろそれはそれでよかったというか、そういう街があっていいし、むしろその個性を見極めたいという楽しみがわいてくるのであった。とはいえ、まずは宿探し、ターミナル付近に安宿がないはずはないと確信に近い思いで歩き出すと(マナグアの情報を事前チェックしてはいなかった、行けば何とかなる、何とでもなるというのはわたしの信念の一つである)もうバス停の隣が安宿の一つでその周辺には3~4件の安宿があることがわかった。最初の一件目は何となくすっきりしなかったのでその隣の隣へ、これも直観なのだがこちらの方が数段勝ってて一泊一人$10はまさにわたし向きの宿で、相棒もぜいたくを言う人でなかったからすんなり決まって、とりあえずの一泊としたが、次の日には残りの三泊分の支払いも済ませたのだった。こうしてとりあえず<hasta Nicaraguaまで>(はっきり言って誰でも来られる簡単なルートなのだが)当初のブログ予定は書き終えたが、もちろんこれでThe endにするわけにはいかないだろう、一応この後2回ほど、ニカラグアのどこへ行ってどうしたかといったどうでもいい話を書いていきます。

実は、これまでのわたしの(独断と偏見の)中米経験からすると、わたしにとって面白い国は、ま、はっきりいってGuatemalaとNicaraguaしかないと思っていて(その理由も次回伝えられるかもしれない)それは歴史重要な街が3箇所あって、それらにはぜひ訪れたいと思っていたからであった。即ちLeon、Granada、Masayaの訪問記を次回以降2回ほどでまとめてみたいと思ってます。

突然ですが最後に、おそらく知人が数人読んでくれているかどうかというこのブログを2回ほど読んでくれて☆をいただいたKotajiさんにこの場を借りて御礼申し上げたいと思います。ほんとに読者一人でも励みになります、いつもありがとうございます、、

『hasta Nicaragua ニカラグアまで‥(次回以降日本語省略)』2,Tica BusでEl Salvadorへ

なんと『hasta Nicaragua ニカラグアまで』1,を書いたのは去年の3月だったことをさっき確認して知ることになった。今や、最後のグァテ旅がいつだったかも定かでなくなっていて、去年だったのか一昨年だったのか覚束なくて調べてみてもう一年半が経っていたことを知るのであった。そう、時間の流れがぼやけてきているのはボケの証し(というか老い先短し)である。なので今更再現を試みるのは無理な話だが、記録をみながらできる範囲で経過を追ってみたい、ただ何故この旅にこだわったのかは、少々の補足はお許し願いたい、、

どこで手に入れたか覚えてないが中米map

 

中米陸路横断旅は、実は遡ること55年前にわたしが一度辿ったルートだったことに由来する。しかしながら昨日のことも朧げになりつつある今日、その当時の記憶はとうに失せてしまっていたし、その時はただそこ(中米諸国)を通過するだけに終わっていたから、何も見ていなかったに等しかった。覚えていることといえば、確かその時すでに、たぶんグアテマラからだったと思うが(メキシコからだったかもしれない)Tica busという国際バスが走っていて、それを利用してPanamaまでいったことは確かに記憶に残っていた。そして何十年か後に再びグァテマラを再訪した時、利用はしなかったがTica busが健在であることは目にしていた。いや、懐かしくてまた乗りたくなったのだけれど、それからもすでに10数年が経ってしまっていたのだ。

現在のTica Busのルート、料金、スケジュール等は以下で確認してください。

https://ticabus.com/

グアテマラシティのTica Busオフィスでバスを待つ相棒

その日 El Salvadorまで乗車したTica Bus

ま、無理やり同行を願った今回の中米の旅に関して、お義兄(にい)さんは突如&初めての中米だったから、そもそも関心も興味もなくただついていくというスタンスをずっと守ってくれていて、どこへ行ってみたいという希望も一切なく、ひたすらわたしのプランに従ってくれたことは、これ以上の同行者は願いようないほどありがたいことだった。なのでこのTica Busでニカラグアまでというプランも、むしろどんな風景が現前に飛び出しいてくるのかわからないといった面白さを覚えてくれたようで、渡航前にすんなり了承されていた。わたしの興味としても、ま、昔たどった道とはいえ、その記憶はほとんど失せていたから、果たして今の中米事情、旅事情はどんな感じかということだけに絞られていた、日程も一週間程度のものだったから‥。

で、最初のアプローチは、この旅で最初にグアテに到着した日に遡る、それは2025年現地時間2月13日朝のことだった(我々は日本時間2/12の18時頃成田を発っていた)。我々は

年金生活者だったので、時間はあるが懐に余裕はなしで少し不便だがLA乗り継ぎでグァテを目指していた、一方現役の若い友人たちは高給取りだったから、少しでも楽なルート、一日遅れて成田発メキシコ経由を勧めてこの日Antiguaで落ち合う予定であった(往復料金で10万円以上違っていたと思う)。我々はLAの空港で乗り継ぎ便待ちで半日を費やし、次の日の朝(現地時間2/13の6時頃)グアテ着、若者組は日本時間2/13 12時頃成田発、メキシコ経由で現地時間2/1315頃Guate着で、その日の夕方無事P/Tashiroで落ち合うのだが、我々はP/TashiroのあるAntiguaにいく前に空港から比較的近かったTica BusのGuatemalaオフィスを訪れて、そこで2/22発のSan Salvador/El Salvador経由Managua/Nicaraguaまでのticketを購入する予定でいた。ただ基本的に今でも旅はBudgetを旨とするわたしは、タクシーまたはUberしか移動手段のない空港→Tica Bus Officeに行くのに、まずタクシー料金を調べ、Uberも聞いてみたのだけれど、いずれも納得がいかなかったので($10~$15だったか)、昔取った杵柄、市バスとメトロバスを使って行ってみることにする。それだと多少時間はかかるが、他に特に予定があったわけでないでないからそんな選択もできたのだ。ただ昔のルートでバスは走っているのか、料金は1Qで変わってないか多少の不安はあったが、少なくともバス停は以前と同じところにあって、バス待ち客のいないバス停で果たしてバスは来るのか不安のまましばらく待った(15年くらい前に40年ぶりに訪れたときは83番のバスで1Qでセントロまで行けた、大昔のブログにその頃の記事が残っていると思う)。84番のバスは15~20分くらいでやってきて、ドライバーにTrebol?と確認して乗り込む、料金は一人5Qだった。そこからメトロバス(15年前はなかったが、10年位前から大幅に整備されたメトロバス、専用レーンを走る今はGuate市のメインの交通機関)の主要乗換駅であるTrebolまで混雑の激しい街中を通って15分ほど、義兄氏は初めてのグアテマラ発展途上国のおんぼろバス及び粗末な建物や商店群を興味深く眺めたことだろう、終点で下車、メトロバスの乗り場に向かう。そこで一つのハプニング、確かメトロバスは今でも1Qだったと思うが、そこにいた係員は料金を受け取らなかった。わたしは前にも同じような経験をしたことがあったが、もしかしたら高齢者は無料だったのかもしれない。そしてTica Busは2つ目で降りろと教えてくれたのだった。空港から二人で10Q(1Q=約20円)約200円で来られたことに満足し、ビールで乾杯しようとしたが近くにお店を見つけることができなかった。それでも余裕をもって2/22発のTica busのticketを気のいいおじさんから購入することができたのは幸先の良いスタートだったと思う。そのあとこれも馴染みのチキンバスでAntiguaまで、お昼頃にはP/Tashiroにチェックインできたのであった。

ちなみにNicaraguaまでのTica Busの料金はGuate→El Sal→Managuaまで$83で、スケジュールは以下のようになっていた、というかこれは結果からの報告である。Guate発2/22 14:30 Guate/El Sal国境17:30着/18:30発 El Salオフィス兼簡易宿着20:30 翌朝5:00発 El Sal/Hoduras国境 9:30着/10:30発 Hoduras/Nicaragua国境 14:00着/15:30発 Managua着2/23 18:30だった。

ということで、この日に辿った空港→Trebol→Tica Busオフィスルートは、10日後にTikal/Floresから戻った時に、そのまま同じルート辿ることによって、まごつかずに13時にはTica Busオフィスに着いており、14時半発のバスには楽勝で間に合っていた。

そんなんで中米陸路の旅は2月22日、若い二人をグアテマラLa Aurora International Airportで送ったあと14時半、Tica Bus Guatemalacity officeからスタートしたのだった。

 

車窓から Guate市内の渋滞

少し郊外に出る

二車線道路になっている

わたしの好きなチキンバスに出会うとシャッターを切っていた

どこかの街 現地時間17時頃 出発して2時間半

国境着は17時半ころ?Guate側からEl Salを望む

国境になっている河川

ようこそEl Salvadorへ、のboard

El Sal入国手続きのため3~40分停車、ここの入国手続きは比較的簡単だった
バス前にたたずむ相棒

El Salからは少し道が良くなったような‥しかしこの後日没で写真は撮れていない、国境から快適な道を行くも首都San Salvadorの営業所まで2時間半、そこは簡易ホテル付でホテル代一人$15,0 隣の食堂で夕飯とビールをtake outして$5,0 22時には寝てしまう

簡易宿泊所のみすぼらしい部屋でtake outの飯を食う

とりあえず、<El Salまで>を了とします     2025,08,17 22:20