独歩の独り世界・旅世界

他のサイトに書いていた'独歩の独り世界・旅世界'を移転しました

『独歩爺最後の旅』アフリカ篇 <ルワンダ> その3,ルワンダ (におけるわたし) の悲劇

ルワンダの悲劇ではありません(もちろんGenocideは悲劇でした、それは30年前の話です、今は見事に復興したアフリカの希望の星になってます)、以下はルワンダにおいてわたしが遭遇した悲劇の話となります。

このつかみどころのない街Kigaliは当初より情報が不足しており何も期待はしていなかった。なのでそもそもルワンダ滞在は3泊4日くらいしか考えていなかった。つまり2月21日にはKigali~Addis Ababaへ飛ぶつもりでいたから20日が最終日となるのだが、その日も特に予定はなく行ってみたいところがあったわけではなかった。いや、それより問題は、そのつもりで降ろしていたRWFが尽きかけていて、ATMの手数料を考えると再引き出しはしたくなかったので、いかに持たせるかで苦心惨憺していたのである。例えば朝、朝食をもってきてくれた例の使い走りくんに、今日は夕食を昼食にしてくれないか(夕食分を昼に出してくれないか)と頼んだのだが、彼にはそのへんのこみいった話が通じたかどうか、でladyは来ているの?と聞いたが、まだとのこと、とりあえず彼にはこちらの希望は伝え、後でもう一度ladyに話すからとは言っておいた。要はこういうことだった、食事つきにしてもらってきちんとそれは用意してくれていたが、ともかくわたしには量が多かったのだ。で食費を浮かせるために昼食として出してもらえば、半分を残して夕食とすることができると考えたのだ。そして出かける際にladyがいたので正直にもうrwfが尽きたことから話し始め了解してもらった。10時ころに出かける、出かけた先は前日最後にいったキミロンコマーケットKimironko Marketだった。というのも前日は場所がわからなかったので、そこからバイクタクシーを使って最初のバスパーク(Remera Bus Parkという名称だった)まで戻ったのだが、意外に近いと思ったからそのあとGoogleで調べてみたら、なんと歩いて行けそうなことがわかったからであった(その時そのbus parkの名称も知る)。わたしの宿泊していたホテルをA点とすると、そのRemera Bus Park(B点とする)まではたぶん西に1km強(ただしホテルからは登り)で、キミロンコマーケットをC点とするとB~Cは2kmくらい、B~Cの中間をD点とするとA~D間が1.5kmで、ABDの三角形ができる。で、A<ホテル>~D<中間点>~C<キミロンコマーケット>は約2.5kmで、つまりA~DにKK13アベニューという道があり、その道を見つけたのが大きかった。ただその道はけっこうなアップダウンがあったので、A~D~Cは2.5kmくらいだったと思うが45分くらいかかった。前日Bus Parkを確認しただけだったが、その後ろにあったほんとにないものはないほど雑多の商品を取り扱っている超でかいキミロンコマーケットを小一時間かけてうろついていた。が、いかんせんに単なる時間潰し、そう、お土産になりそうなものを探してみたもののrwfが尽きていたので冷やかしで終わってしまった。そこから大通りKG11アベニューに沿った一本東側の道KG208ストリートをRemera Bus Parkに向かって歩いていったら30分で着いてしまったから前日のバイクタクシー10分(もかかってなかったかも)500rwfに納得がいったのであった。そこからは通いなれたホテルまでの下り坂15分で12時半ころホテルに戻る。シャワーを浴びて着替えしてlady自ら持ってきてくれた昼食をいただきながら少し雑談したが何を話したかもう覚えていない。このladyにうまく乗せられて結局ここに3泊してしまって、挙句残金2500rwf(300円ほど)残すのみとなっていたが、果たしてそれが正解だったかどうか?ま、あまりいい流れではなかったようにも思うのだった。ただ、やはりそれは事前情報をしっかりし取得してなかった己の失敗に起因するものであることは明らかというか身に染みて感じていた。

その日の午後はいつものように少し仮眠(昼寝)をとってから、Rwanda情報としてタケダ ノリヒロさんというルワンダ在住の日本人の方が発信しているRwand NoteというYou Tubeチャンネルを発見し拝見した。遅ればせながらRwanda Genocide &諸々について少し学ばせてもらったし、いろいろ得るところは大であった。ま、そんなんでルワンダの数日を振り返っていたのだが、どうもあまりパっとしたよい印象は甦ってこなかった。そして夜、なけなしの2500rwfを持ってビールを買いにでたら、冷えてないから30分後に来いといわれ、残り1500rwfになる。昼の残りの冷や飯とビールで最後の晩餐となるのであった。

A~D地点はいったん坂を下るのだが窪地の湿地帯? ↑ ↓ ある意味市街地の中の緑地は驚き

 

Kimironko Market  ↑ ↓

Kimironko Marketの土産物屋で ↑ ↓

 

KG208ストリート

KG208ストリートには小洒落たお店が結構あってその一軒の看板メニュー

やはりKG208ストリート沿いにあった邸宅

翌21日、この日のフライトは17時ころだった。朝はいつものように朝食をいただいて、そんなに急ぐ必要はなかったのだが、何となく早くそこは出たかったのだと思う、10時半にはチェックアウトしてしまった。なけなし1500rwfは最後のボダボダ用に残しておいたのであったが、交渉の結果500rwfでいってくれたから最終的には1000rwfは残ったのだった。下見をしていたから11:00には歩行者用ゲートでチェックを受けていた。そして早すぎるのはわかっていたが、チェックインできないものかと、どこへ行けばよいものかわからないままウロウロしていた。いや、まず小さなlocal airportでおそらく発着便もそれほど多くなかったと思う。利用客はままばらにしか目にすることがなかった。そしてカウンターに通じる入り口のところにはセキュリティの軍人さんが乗客をチェックしている。まず何航空のどこどこへ行くのか聞かれ、エチオピア航空Addis Ababa行きと答えると、13時までは外で待つようにとのことであった。つまり建物内には入れませんということで1時間半も早すぎた、ということであった。あとでわかったこととしてエチオピア航空の最初のチェックインカウンター(ブースは二つ、最初の検問所のようなもの)はそこからすぐのところにあったのだが、そこの職員が来るのは13時ということのようだった。為すすべなく、そのへんに屯するしかなく、かといってそんな場所もない、しかしその脇にコーヒーショップみたいなのがあって、そのテラスがはみ出していて、お客さん用の椅子とテーブルが置いてあったのでそこを無断借用する、しばらくはそこの従業員も見て見ぬふりをしてくれていた。しかしその1時間半はほんとうに為すすべなく途方もなく長く感じられたのであった。で、13時前に職員が来たので最初の乗客として入館許可がそのセキュリティの軍人さんからでた。中年の男性の職員だった、パスポートとE-ticketを提出、しばし書類・パスポートと搭乗リストを確認し、VISAは?と聞いてきたのだ。え、どういうこと?もちろんエチオピアもビザが必要なことは知っていた、しかしわたしが出国前に調べた限りでは、エチオピアはインドやネパールと同じくarriving visaを空港で取得できると、少なくとも外務省情報でチェックしていたのだった。なのでその旨その職員に伝えた。が、しかしこんな答えが返ってきたのであった。確かに以前はそうであった、が、今はアフリカ国籍を除いてそれはできなくなった、というのだ。そんな馬鹿な ! ? それっていつからと聞いたと思うが、その時はもう動転していて、相手のいうことは耳に入ってこなかった、必死に食い下がる、もっとよく調べてくれ、と。そして彼もいろいろ調べたり問い合わせたりしてくれたのだった。数十分粘ったと思う、ではどうすればいい?と聞いてもvisaを取ってくるしかないとの一点張り、まさにその場では為すすべはなかったのであった。幸い最初の客で後ろに並んでいた人がいなかったのは少し救われた。他の人に醜態を晒したり迷惑をかけることはなかったと思う。意気消沈してその場を去るしかなかったのであった。

 

しかし動揺は激しかった。少し落ち着くために先ほども借りていたコーヒーショップのテラス席をまた無断借用した。そこは空港のwifiが繋がっていた。まずやったことはその日から予約してあったAddis Ababaの宿のキャンセルで、これはぎりぎり間に合ったようだった(数十分遅れたら没収、これだけでも数万円の損害を免れていた)。次は世界一周券を発券してくれた日本のエージェントに、ことの報告とどうすればいいかのお伺いmailを送る。そして少し落ち着きを取り戻し、ではどうすればいいだろう、と考えをめぐらす。しかしわたしの経験上、この事態はわたしの力、あるいは金銭の力では打開できそうにないと悟る。ルワンダでの度重なる失敗は、これをもって最大となり、おそらく今回の旅の最大のものだろうということもはっきり自覚できたのであった。問題は少なくともその日は飛べないことがはっきりしたのだから次善策をどうかするかにあった。その時点ではっきりしていた次善策は2点、1,はこの際ルワンダエチオピアのビザを取得すること、それに何日くらい日数を要するかは不明、2,先のエチオピア航空の人の言によれば、エチオピア滞在を飛ばして、乗継ぎならvisaなしでも次の目的地に飛ぶ飛行機に乗ることはできる、ということであった。

 

どうしていいかわからず、1時間以上空港内にいたと思う、wifiが繋がっていたのでそれまでラインでわたしの旅を見守っていてくれた人たちにも報告する。しかし誰もこの事態を打開する妙案を知っている人はいなかったのである。いずれにしても滞在延期が確定したということなので宿探しをしなければならなかった。それには何日か前に近くの宿探しをしていたことが少し役に立った、何軒かの候補が空港近くにあったからだ・・、だが実際は意外な展開になったのであった。

 

実は今ではその時のことをよく覚えていないのだが、また、どうしてその人と知り合えたのか記憶から落ちてしまっているのだけれど、その時一人の紳士に出会う。まるでどん底に落ちた人に手を指しのべるように(つまりわたしがどん底に落とされたことを知っている、あるいは見ていたかのように)一人の紳士が現れてその人の車で、その人の知り合いがやっているというHotelに連れてってくれたのであった。可能性としては以下が考えられた。空港gateの真ん前にあった高そうなホテルに情報だけでももらえないかと入ってみたような気がする。で、事情を話してこの辺りに安宿はないかと尋ねたのではなかったか?ところがそこのオーナーさん(この人が紳士だった)は、わたしの話を聞いて、自分のところがホテルだったにもかかわらず、その人の知り合いのやってるもっと安いホテルに案内してくれた、というストーリーだったのではないかとあいまいな記憶から推測するのみなのだが、それにしても親切な人に出会った、いや、その彼だけでなく、彼が連れてってくれたHotelのオーナーがまたとんでもなく鷹揚というか、わたしには救いの神のように思えたのだあった。たぶん近くに住む知り合い同士でどちらも成功者で大邸宅の持ち主だったのである。どうも彼らがこれまでのわたしのルワンダでの悪い流れを変えてくれた、そしてルワンダの芳しくなかった印象も変えざるを得なくなったと、その時も今も彼らへの感謝の気持ちは変わることなくつづいている。おそらくその辺りは成功者の住む別荘地であったように思う、とんでもなく立派な大邸宅であったが、その数部屋をホテルとして30ドルで貸し出していて、このHotelのオーナーはわたしの話を聞いて30ドルをさらに25ドルに減額してくれたのであった。部屋は5スター級、建物は金持ちの大邸宅、朝食もついてだ。価値的にいえばそれまで宿泊していた宿の3倍以上の価値があって、それでなおかつ安くなったのである。結局そこに3泊させてもらうことになったのであった。

 

そのHotelの名は大いに宣伝させてもらおうと思っている、まさに空港からそれまで滞在していたホテルの前の道KK3ロードに下っていく細いでこぼこ道沿いにあってホテル名を<Airport hill motel>といった(写真参照)。それまで滞在していたホテルの隣といっていいくらいの近さであった。そこで巻き返しの策を練ることができたのだった。その日はそこで、まずginger teaをいただき、これが超美味しくて心を落ち着かせてくれた。もちろんwifiは繋がっていたので、ラインとmailのチェック、その中にはagentの返信もあって、ANAに連絡を取ればルート変更は可能とか言ってくる。日本国内でさえANAのカスタマーセンターとの連絡は不可能に近いのに、どうやって連絡を取れということなのだろうと思う。16時ころ再び空港にいってみることにした。再度エチオピア航空と折衝してみたが、どうにもならないという回答しか得られず、帰りにATMで若干のRWFを引き出して、食料(パン類)と飲み物(コーラ)を買って帰る。帰り道に土砂降りの雨に見舞われ、まさに泣きっ面に蜂とはこのことだと逆に笑ってしまう。帰るとバスであった若者の一人写真家でない方、ジャーナリストのBenjamin君からのmailが入っていて、一部始終表現できる範囲で現状をしたため、あなたがたが連れてってくれたひどいホテルから漸く抜け出して、今凄いホテルにいるから可能なら尋ねてこないかと追記した。そして日本のagentの直接の担当者に改めて窮状を訴えるmailを入れて床についた(ちなみに夕食にしたパンは結構うまかったし、ベッドの違いか前日よりよく眠れたのだった)。

Airport Hill Motelの入り口

2月22日~この後の顛末はさらっと流していきます。

心身を落ち着ける宿だったおかげで少しづつ冷静さを取り戻し、しかしのんびりしているわけにもいかず、日本のagentからの情報をもとに最終判断を迫られていた。1,2,どちらにすべきだったか、今でもわからないのだが苦渋の選択は2,にしてしまったのである。せっかくエチオピア入国直前まで来ていて、しかもエチオピアは持っていたガイドブックにも詳しい情報が載っていたので、十数日の滞在を予定しホテルも予約し、国内線の予約も取ってあったりで、それを放棄する悔しさは自分の落ち度とはいえ耐えられないことであった。ただ、ルワンダKigaliのエチオピア大使館を探し、そこまで赴いての手続きも、すんなりいくとも思えず、ともかく早くルワンダを出てしまいたいという想いが勝っていたのかも知れなかった。それまでの旅の疲れと、その時は自覚していない病状の悪化で体調は万全でなかったようにも思えたし、もうエチオピアは飛ばしてもいいかという想いも芽生えていた。それで多少の手数料がかかってしまうこと承知で(ペナルティも含むと安くなかったが)、今のticketで飛べる便を探してもらっていたのだが、午前中に2/24なら飛べそうだという連絡が入り、それが決め手となったのであった。この日(2/22)は午前中日本とのそんなやり取りで過ぎ、2/24のKigali~Addis Ababa(乗継)~Munbai(2/25 AM7:00着)の座席を確保したという知らせでやっと安どのため息をついたのだった。

ただそのあとも、結構忙しかった。ムンバイの日程が早まり、それまで確保してあったホテルの予約のキャンセルとか、新たに2/25からの宿を探さねばならなくなった。が、それは何とでもなることだったし、次の日(2/23)もう一日余裕があったのだ。ともかく2/24に発てることが決まって肩の荷が降りたというか、心は晴れ晴れしてきた。そこで午後にはそのホテルの周りをうろついてみた、大邸宅ばかりhigh classの住人のエリアであることはすぐにわかる、そして赤道直下のはずだが、比較的標高があるからルワンダはそれほど暑いところとは感じなかったのである。何回もいうようにごちゃごちゃした下町風のところを目にしていなかったし、比較的民度も経済も豊かなのところだということに改めて気づくのであった。ダートの細い道を歩いているともうもうと煙を立てて香ばしい匂いがしてくる。どうやらバーベキューの屋台のような店を見つける。もちろん早速一本(けっこう大きな串だった。一串1000rwf 超安 ! )仕入れてホテルに戻ってビール2本(1000×2)もらって昼食とした。ルワンダで食べたものの中で最高(超美味)の食事となった。

22日の朝食

飛行場の近くをうろつく、丘からの遠景

 

2月23日は主にムンバイの宿探しと、日本とのラインのやり取り、Benjamin、Kevin君から今日こちらへくるというmailをもらったので宿の若い従業員の男の子に電話してもらって場所の説明をしてもらった。夕方にやってくるとのことだった。午後は丘の中腹にあったこのmotelから下の方へ下ってみた。すぐにKK3roadにでたが、やはり商店のようなものは一軒もなくGSがあってそこにショップが併設されていて、ケーキとパンを売っていた。他には何もなく仕方なく、ケーキのようなパンとコーラを買って帰って昼食とするのだが、その帰り道の登りがきつかったこと、その傾斜は半端ではなかった。夕方頃Benjamin君とKevin君登場、ま奇縁なのだが懐かしの再会となった。わたしの拙い英語でしばしの会話(これまでの経緯とか、次の日去ることになるといった)、オーナーやその奥さんたちも顔を出してくれた。ここでも昨日食べた串焼きのべーぺキューが食べられるとのことだったので、注文してビールも何本かもらった。有難いことに彼らは割り勘にしてくれたのでしばし楽しいひと時を過ごせたのと、ここの串焼き料理セットもかなり美味しいものだった。その料理名を聞いたがニャマチョマといったか?あっているかどうか定かな記憶ではない。これで彼らともメルアド交換もしたしお礼と別れを告げることができ、心残りなくルワンダを去れそうな気になった。これも流れを変えてくれた二人のルワンダ人のおじさんたちのおかげだったように思う。久ふりに酔いが回っていい気分で床についた。

ホテルのわき道のダートロードの急坂

出かけて戻ったとき邸の全景を撮る

 

last day 2月24日 この時点で前日の飲食代を払っても(宿泊代はCCで済ませていた)5000rwf残っていた。その日のフライトは2/21と同じフライトだったから17時でカウンターが開くのも前日の経験で13時ということがわかっていた。なので午前中は時間があった。実はこのmotelからもキミロンコマーケットへ行く近道をみつけてあったので、8時半ころ歩いて出かける。この道もアップダウンのある道だったが、前のホテルからより近くて3,40分で到着、前回と違って若干の余裕があったので土産になりそうなものを探し、値切って2個で2200rwf、さらに奥へ進んでairport hill motelで味を覚えてしまったginger teaを探す。これも市場ではかなり安く手に入れることができた。その帰り道には道沿いの商店で1パック500rwf(60円?)のginger cokkieを数個と昼食用のサモサ×2とチャパティで500rwf+コーラ900rwfで(もちろんその場で計算しながら)ぴったり使い切ったのであった。11時にホテルに戻りパッキングして、サモサ&チャパティとコーラで昼食をとって、12時半にオーナーにお礼と別れを告げて空港へ向かった。この日も一番乗り、少し待たされたが13時半に第一関門は突破、第二関門(荷預けのカウンター)でインドのビザ、イエローカードのチェックを受けそれもクリアして荷物を預け、ようやくKigali空港のラウンジに到着できた。そこでそれまでのうっ憤を晴らすようにお酒をいただいて16時には1Fのgateからよろける足取りで駐機していたエチオピア航空ET806便に歩いて向かったのであった。

最終日に出かけたKimironko Marketの野菜市場

Kigali Airport ↑ ↓