独歩の独り世界・旅世界

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チュニジア・イタリア紀行 4,エルジェムEl Djem~スースSousee~チュニス

 考えていたのは宿泊場所だった。スースまでは確実に行ける、なら、スース泊が一番よかったのだが、別案の可能性も探っていたのだ。それはエルジェムまでいけないか?というもので、もしその日のうちに行けたら、次の日もっと楽にならないか?、というのもそれがチュニス14時までという縛りで、エルジェム泊が可能なら、チュニスまで約200km戻るのがずっと楽になると思ったからであった。わたしにとってはどちらかというとスースよりエルジェムの方が重要だったし、エルジェムはチュニスからだとスースよりさらに遠方にあったからだ。問題はエルジェムに宿があるか、ということだった。少なくとも持っていたガイドブックにはエルジェムのホテルの情報はなかった(郊外にあると書かれてはいたが)。しかし、そんなことがあるだろうかと正直疑っていたのだ。エルジェムは鉄道駅もあり、小さいながらも街のように思われた、何より世界遺産の地であった。ホテルが一軒もないなどということがあるだろうか?と、、それともう一案としてのスース泊。ここも世界遺産の街で、世界遺産に指定されている旧市街メディナはとても興味深かったし、そこには何軒か安宿かありとそのガイドブックには載っていたのだ。そこに泊まった場合に考えられる問題は、スース~エルジェムはルアージュで1時間、エルジェム1時間の滞在として、果たして朝一番のルアージュが何時にでるのかわからなかったが、10~11時くらいの間にスースに戻れるか、という不確かさだった。もし、7時にルアージュがあれば楽勝に思えたが、その情報は持っていなかった。ま、だからどっちもその時点では賭けのようなものだった。そんなことをスースまでのルアージュの中でずっと考えていて、どちらかというとスース泊の方が確実だろうと思っていた。

 だが、その直観は当たっていたのだけど、実際にはそのようにことは進まなかったのであった。成り行きでエルジェムに行ってしまって大失敗したということになったのである。その経緯はこうだった。16時半にはそのルアージュは出発したのだけれど、座席がまだ完全に埋まってなかった。で、なんとそのドライバーは30分間その界隈を、しかも同じところ数周回して、3人くらいをなんとかキャッチして座席を埋め、ようやくスースに向かったときはすでに17時を回っていた。ま、そんなのはいつものことか、乗客からクレームはでなかったし、ドライバーは、ちゃんと2時間で19時にはスースのルアージュステーションにつけたのだから、、で、そこで起こったことが微妙であった。わたしはスース泊のつもりになっていた。が、このドライバは、わたしがチュニスで乗車するときに、エルジェムにいくルアージュはないか、と聞いたことを覚えていたのだ(たぶん自分が答えた内容も)。そして、スースに着くや否やエルジェム行きのルアージュドライバーを探してきてくれたのだった。もちろん親切心からだも断くなってしまった。で、一瞬どうしようかと迷ったので、一つだけ連れてこられたドライバーに聞いてみた。もちろん正確には伝わらなかったと思うが、わたしはエルジェムにホテルはあるか?と聞いたのだった(正確に伝わらなかったといったのはわたしが望んでいるような安宿、という意味で)。答えはある、といったのだ。やっぱりあるではないか ! ?、その時わたしはそう思って、そのルアージュの客になってしまったのだった。あとから、その時どうすればよかったかを振り返ったとき、わたしが聞くべきだったことは、次の日のエルジェム行き一番のルアージュは何時か?ということだっと反省したが、それは後の祭りというものだった。そのルアージュはちょうど8時ころにエルジェムのルアージュステーションではなく、彼のいっていたホテルの前に横付けしてくれたのだった。

 そう、彼に偽りはなかったし、かといってガイドブックが間違っていたわけではなかった。うーん、これにはまいってしまった。そのホテルがいけなかったのである。それはそのホテルを見た瞬間にわかったので、中に入る前に、ちょっとこのホテルはわたし向きでないから他にホテルないかとそのドライバーに聞いてみた。が、その答えは、エルジェムにはここしかホテルはない、というものだった。他に一軒もない?、どうもそれは事実のようだった。えー?、ではこのホテルしかないのか、と仕方なくフロントにいってみた。まだ新しくて、キンキラキンの俗悪趣味のこのホテルはいったいいくらなのかと恐る恐る聞いてみると、見るからにマフィアといった感じの一人しかいないフロントマン(ドアマンの手下がいたが)は信じられない額をいってきたのだ。どこにも宿泊代は表示されていなかった。一泊70D。普通だったらまずこんなホテルは最初から入らないだろうが、もし入ったとしてもその時点で退散したと思う。だが、他にないのである。腹が立って、ならここの駅のベンチで寝た方がましではないか、とさえ思ったくらいだ(もちろんその時は駅がどこで、どんな駅かも知らなかったが)。どう考えても承服しかねた、なぜなら、もしスースだったら一泊20Dの宿に泊まるつもりだったし、それがわたしの知っていた(わたし向きの宿の)相場だった。そんな宿はほかのところならいくらでもあった。しかし、ここは事情が違った、というか、確かにもともと宿はなかったのである、どうやらそこは新築のホテルのようだった(実際そのホテルは今年の3月のオープンと後で知る、だからガイドブックは間違いではなかったのだ)。そして、あまりにも場違いな高級ホテルに客は全然入っていなかったのである。だから、もうひとつ考えられたことは70Dというのはダブルの料金で(それなら極端に高いわけではなかった)普通はシングル料金を半額くらいで設定してあるのだけれど、たぶん足元を見られて強気に出られてしまった可能性があったのだ。いや、この時ばかりは百戦錬磨を自認するわたしも参ってしまったのだった。他の選択肢無し、そして誰も悪くない、悪いのはここに来ることを選択したわたしでしかなかった。この選択ミスは悔やんでも悔やみきれなかったが、それでも少し粘ってみた、、バカみたいな繰り言だったが、金がないから負けろ、といってみたのだ。と、くだんのマフィア氏は、渋い顔をしながらも10D負けてくれたのだった。ならばと、その場で60D払ってドアマン氏に部屋まで案内してもらった。が、ことはそれで済まなかった。いや、そのあとのことは全面的にわたしの過失であったと思うが、部屋に入って、残り僅かになってしまったチュニジアマネーをチェックしてみたら、何度数えても20D札が一枚足りなくなっていた。それまで奥の奥にしまっていた100D(20D×5)を取り出して、そこから60D払って残りは20D札が2枚なければおかしかった。が、1枚しかない、おかしい、おかしい、とポケットから何から洗いざらいしたが、出てこなかった。と考えると支払いの時に?、ま、これまでにもそんなことをしょっちゅうやってきたからありえないことではなかった。どうやらわたしは結果的に10D負けさせて10D多く払ってしまった可能性があった、あるいはその時落とした?いずれにしろ大バカやってしまったようだった。そう、歯車は一度狂いだすと災いは続いて起こるようであった。(今だから言えることだが、最近旅に出るとしょっちゅうそんなことをやってて、必ず多額な損失を出してきたが、今回はその後に大きなミスをすることがなかった。だから結果的には、そのときの損失だけで済んだので<20Dは実質1000円、ま、ボラレタのを入れてもせいぜい2千円ほど?>、全体としては上出来だったといえたのであるが‥)

 が、現実的にはそれはたいへんなことだったのである。その結果手持ちの残金は40Dになってしまったからだ。+20Dあれば計60D、それだけあれば明日まで何とかなるだろうという見通しがあった。その夜の食事、明日の交通費と食費、それまでもせいぜいかかったとして一日30Dで何とかなっていたから60Dあれば余裕とまではいかなくても安心できる額ではあった。それが-20Dで残金40Dとなると相当厳しくなったということだった。現実にその夜の夕食をまずどうするか、ということになっていた。自己嫌悪に苛まれながらも、まず、シャワーを浴びて外出した。まず、フロントのマフィア氏にこのホテルから近いという円形闘技場の場所を聞く。今は真っ暗だ、といわれたが、もとより承知のうえ、そこまでの距離を知りたかっただけなのだ。で、そこにいってみる前にまず駅を見に行く、確かそれも近いと思われたからだ。が、とんでもないことがすぐに判明した。なんとそのホテルは駅に隣接して、ほんとにちっぽけな駅を威圧するかのように建てられていたからだった。もちろん小さな駅舎にはまた発着する列車はあったが、駅員の姿はなかった。そもそも無人駅のようだった。ベンチはなかったが数脚の椅子が列車待ちの人のためにか置かれてあったが、そこで寝るのは無理のようだった。駅前は(つまりホテルの前は)通りの向こうに数件の茶店、すでに9時近かったと思うが、数件あった茶店はおそらく昼間から居座り続けるこの国のリタイアした年寄りたちの集団が、なすことなくたむろしている異様な光景があった。もちろんおしゃべりはしているから賑やかではあったが、、しかしこれはモロッコでもそうであったが、その中に女性は一人も含まれてはいないのであった。この辺の(アラブ社会の)社会構造と社会現象は非常に興味あるところだが安易な推測・言説は控えよう、、

コロッセオを模してデザインされた?新築のホテル、が、この地には明らかに場違いに感じた;3枚(次の日の朝写す)Img_3849_640x480_2Img_3852_640x480_2Img_3834_640x480_2わたしには立派過ぎた部屋

隣接しているEl Djemの鉄道駅(これも翌朝撮影)Img_3850_640x480_2


 さて、で、食事ができそうなところを探す。まず、その駅から円形闘技場(コロッセオ)に続く数百mがこの街のメインストリートで、いわゆる商店なるものはその道沿いにしかなかったが、適当な食事のできそうなところを見つけることはできなかった(どうやらホテル客はホテルの食堂で食事するしかないようだった、いったいいくらくらいとられたのだろう、メニュウを見ておけばよかったと後から思った)。ものの5分くらいでライトアップされていたわけでないから、黒い塊のような大きな建造物のところに到着した。そこまでの距離と輪郭はつかめた。朝一番に来て、3~40分で見学を終えれば、早ければ8時から8時半ころのルアージュに乗れるのではないかという見通しが立てた。それは何とかなりそうだったが、食事は?思えばその日は、朝から何も口にしていなかったのだ ! !、いや、そもそも空腹感は感じていなかった。感じている暇がなかったというべきか?ところがここにはロクな店がないではないか !、で、その時改めて、当所の予定通りスースに宿をとっていれば、その宿の隣に旅行者に評判のレストランがあるという情報を本で見ていたことが思い出され、口惜しさを新たにするのであった。もう一度、どこか適当な店を探しながら戻ろうとした時、コロッセオ前の広場に一軒お店が開いていたのを見つける。安食堂?チュニスで何回か利用させてもらったようなお店だった、、例によって注文が難しく、しばらく様子を見ながら他の人が来て注文していったものをそれと同じものといった感じで、またケバブサンドかぁ、と思いながら注文したが、その場で作ってくれたものは、中身はそれほど変わらなかったと思うが、いわゆるクレープ状のもので、take outしてホテルで食したそれは(残念ながらアルコールはなし、コーラしか手に入らなかったが)それまでに食べたフランスパンサンド、丸パンのサンドよりけた違いにうまいものだった(もしかしたら、それは本にあったブリックBrikとよばれるものだったかもしれない?)。ちなみにその食べ物は2.5D、コーラは1Dだった。そして、改めてそのホテルのひどさを知ったのは、少し暑いな、と思ったが設置されているエアコンが元電源が切られていてonしなかったこと、WiFiもつながらなかったのである。もう寝るしかなかった、、同朋が決して同じ目に合わないためにそのホテルの名を明かして疑問符をつけておきたい。エルジェムの駅前ホテルhotel Julius ?? です ! !

 朝は例によって4時半の目覚め、5時の拡声器から流れるコーラン朗誦より早かったのだが、いつもならそれなりの作業ができるところ為す術なしで、明るくなるのを待つしかなかった。日の出前、6時には屋上にでていた(普通客はでてはいけないところのようであったが、鍵がかかっていなかったので)。すで目標のコロッセオは姿を現していた。そして真下に鉄道駅、折から6:20発のチュニス行きの列車の発着を、そんな高いところから眺められたのはせめてもの償いだったと思う。7時半からと聞いていた朝食を7時から取れたのもありがたかった。たいしたメニュウは並んでおらず、パンとハムとゆで卵とチーズくらい、しかし飲み放題のコーヒーと牛乳とジュースをこの時とばかり何杯お替りしたことか?、そして7:20にはチェックアウトして、7:30の入場に一番乗りする。ローマを凌ぐといわれるコロッセオを(規模は多少ローマの方が大きいようだが保存状態の良さで)最初誰もいなかったが、すぐにどこからか現れた団体さんとともに堪能することになる(一緒に見て回ったわけではない)。いや、その後訪れることになるローマのコロッセオと比べたら、20:20000=1:1000倍(つまりその時訪れていた観光客の数)の比でこちらのコロッセオのほうがよかった。ま、先にあげたように世界遺産としての環境が整っていなかったとしても、だ(だからこそ、ともいえたが)。わたしは、思わぬ犠牲を伴いながらも、それなりに満足して8:20のルアージュでエルジェムを発った。

El Djemの円形闘技場<世界遺産>;日の出前に屋上からImg_3848_640x480

日の出は6:20頃Img_3846_640x480

ちょうど6:20発のチュニス行き列車が入ってきた;2枚Img_3844_640x480Img_3847_640x480

7時頃朝食;内容はいまいち
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7:20にcheck out;駅前広場にあったシンボルタワー?
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7時半に一番乗りする、以下円形闘技場<コロッセオ>;7枚
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Img_3862_480x640Img_3864_640x480Img_3869_640x480Img_3868_480x640地下の部分、かなり細かい造りになっていたのがわかる、またこのコロッセオも他の古代劇場跡と同様に現在もフェスティバル等で使われているとのこと、、


 スース着は9:20で、この時間なら1時間くらいスースの街を見て回れる余裕があった。ここも一応世界遺産に登録されているところだったから、そこまできていて寄らない手はないだろう、そもそもここに泊まる予定であったのだからと、、しかし、それもせいぜい1時間ほど?、ということでこのルアージュステーションから、その旧市街まで2kmあるからタクシーを使った方がいいという本のアドバイスには従った。2Dで、その旧市街メディナの入り口ファルハットハシェド広場Place Farhat Hachedというところまで運んでもらって、どうやら城壁で囲まれているメディナの見どころも、その入り口付近に集中していたので、その界隈をうろつく。有料だったグランドモスクの中は入らず、シンボルタワーであるそのメディナ最古の建造物だというリバトRibatという要塞兼監視塔?にも金銭的かつ時間的理由で登らなかった(結果的にはそのくらいの余裕はあったのだが)。その代わり、もしあそこで間違わなかったら、つまりifの世界を体現するべく、もう一つの選択肢にあったホテルとレストランを(中には入らなかったが)訪れて所在の確認はした。それはその界隈にあったからだ。世界遺産たるスースもそれで十分とした(余談だが、そして初めていうことだけれど、わたしは地理学徒であったので、その位置・場所が、つまり内容がどうで、どうあったかより、それがどこにあったかを重要視していて、それを確認することで事足れりとするところが昔からあった)。

スース、ファルハットハシェド広場Img_3882_640x480

メディナ;5枚Img_3875_640x480グランドモスクImg_3877_640x480

リバトImg_3876_640x480

メディナ内にあったホテル(当初ここに宿泊しようと思っていたところ)とその隣のレストランImg_3879_640x480Img_3881_640x480

 そのまま、またタクシーで戻ったわたしは、10:00発のチュニス行きルアージュに間に合っていた。それにしてもここのルアージュステーションは、他では見られない合理化を果たしていたので一筆加えておきたい。スースのルアージュステーションは大屋根に覆われたガレージで、行き先表示はきちんとなされ、なおかつ事前に行き先別にticketを販売する窓口があって、我々にも非常にわかりやすいようにシステム化されたステーションになっていた。多くを見てないが、他に例のない進歩性を感じたのである。だからその発着も、たぶん30分(チュニスは15~20分?)おきにきちんとなされていた思う。ならば、確認はしなかったけれど、改めてスース泊、早朝発のルアージュでエルジェム往復は可能だったと悔やみつつも確信したのだった(そのルアージュステーションの窓口で購入しているので間違いないと思うが、2016/10/6時点でチュニス~スースは約2時間9.5D、スース~エルジェムは約1時間4.75Dであった)。

スース/ルアージュステーション:2枚Img_3885_640x480Img_3886_640x480


 10時発のルアージュは、11:50にチュニスに着いた。同乗のおっさんが、バルセロナにいくならとついてきなさいといって、近道を通ってバルセロナ駅まで導いてくれた。途中で水を買うならここが安いと教えてくれ、それまで1リットル1Dだった水のペットボトルを0.65D仕入れ、バルセロナ駅で別れてからはフランス門近くで、もうケバブサンドはいらないと思ってフリカッセ0.75Dを一個昼食用に購入して12時半にFlora宅に帰りついた。

バルセロナの駅から帰る途中、チュニスのシンボル的存在の大聖堂とその前に立つ有名なイブン・ハルドゥーンの写すImg_3887_480x640

 それまで意識的に浪費を抑えて、なんとか最後の10Dを残しての帰着だった。幸いOussema君は在宅で、暖かく迎えてくれ、しばし経過報告をしながら、買ってきたパンの昼食をとらせてもらう。残りが10Dになってしまったことも告げ、もしタクシーで港まで行ったとしても10Dはかからないであろうことを確認した。預けた荷物を再パッキングして、14時ころ、いえるだけの礼をいって、例えば今度は日本への旅を計画して是非来るように、というような話をしてFlora宅を辞した。そして結局は荷物はあったけどタクシーは使わずにバルセロナからTGMチュニスマリンまでメトロを使い、そこから郊外電車でLa Gouleete Villeilleまでいき、歩いて港入りした。その間に多少の飲み物を仕入れ、港でチェックインした後でコーヒーを飲んだが、それでも最終6.2Dのチャニジアンマネー(dinarディナール)を残すことになった。それで何か食べればよかったが、その気になれず(もうパン類は飽き飽きしていたのに、そんなものしかなかったので)、そのまま15:50から始まったパスポートコントロールを終え16時半に乗船した。使えるかと期待したその残った6.2ディナールは船内で使えないことを知り、わたしのチュニジアの旅は多少の空腹感(その他のことは概ね満足だったが、食に関することは失敗もあったりして)を抱えてまま終わりを告げたのだった。

<チュニジアの旅 了>