独歩の独り世界・旅世界

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タイ・ラオスの旅 8,再びタイへ、ウボンラチャターニ→シーサケート Si Sa Ket

   6月の27日になっていた。余すとこあと3日、予定通りのルートを経てではなかったが(そもそもきっちりした予定は組んでなかった)一応最後に目指した地へは、予定の日時に着けそうだった。このパクセーからタイ/シーサケートは、けっこう近そうだったからだ。それとタイ→ラオス入国時に経験した煩瑣な国境越えの教訓があったから、この時は最初から国際バスの利用を決めており、前日にバスの時間も調べてあった。そしてそれは確かに楽だったのである。

 その日の朝はいつものように5時には目覚めおり、6時にはシャワーを浴びていた。近くのコーヒーショップは開いているのではないかと6時半ころいってみたが、13号線にでる角に2件あったツーリストがよく溜まっていたカフェは確かに2件とも開いていたがコーヒーは7時からといわれてしまった。仕方なく近くをうろついてみると、地元の人向けの屋台風な店があって、ラオスの朝食を出す店のようだったので、一応コーヒーありますかと聞いてみた。そしたらルアンプラバンで最初に泊まったホテルで気の良いオヤジが、自由に飲んで構わないといってくれたスティック状のインスタントコーヒーをだしてきて、これならあるといってくれた。わたしはそれが結構気に入っていたので、それで十分、お湯ももらえるかと聞いてみた。ガラスのコップに開けてお湯を入れてくれ1000kp、通りのカフェだったら一杯10000kpだったのだから、得した思いで朝の貴重な一杯をいただいた。それでも7時半まで時間を持て余し気味で7:15にはチェックアウトしてそのゲストハウスの前でウロウロしてドライバーを待った。しかし彼は、7時半には来なかった。せっかちな日本人は5分待ってもこないので動き出す、、13号線まで出ればトゥクトゥクを捉まえられるだろうと歩きだして、13号線にでる手前辺りで客を乗せた彼のドライバー氏がやってきた。ここへ来る途中で客が見つかったので乗せてきたようで、そのための5分遅れのようだった。それでも時間は十分あったのだから慌てる必要はなかったのだけれど、7:45にはターミナルに着いてしまい、彼には20000ks+多少のtipを添えた。そのとき残ったキープを全部渡してしまえばよかったかと思ったが、若干のキープは残しておいた。こういう時の判断は難しい、トイレとか水とか(水はいつもホテル等で飲み水の補充ができたが、その時は持っていなかった)いつ必要になるかわからないからだ。そして実際に必要とする状況になったのだった。ちょっと考えられないことだったが、8時半発予定のバスは定刻通りには出なかった。何やら数人がかりで車の修理に取り掛かっていた。エンジンか、メカのどこかが不調だったらしく、その修理に1時間ほどを要した。結局出発は9:40になってしまったが、その間にトイレにいったし、お茶も買うことになった。それでも若干残ってしまったが、その額はtipとしても失礼になる額だった。

ホテル前の道、左がゲストハウスでこの突き当り辺りを13号線が走っているImg_6607

ターミナルには7:45に着いて、このバスは8:15に来た、が、出発は大幅に遅れて9:40になった、、
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 国境の街ワンタオVang Tao着は10:20で、前日通ったLao-Nippon Bridgeを通ってタイ国境までの道は、平坦かつなかなか立派な道だった。このバスには欧米系ツーリストが二組、あとは地元の人(タイ人/ラオス人、マレー系?中国系?を含む)我々ツーリストを入れて15人くらいだったか、で、我々ツーリストはよくわからないから、いずれも地元の人の後について、最初はラオス・イミグレで出国スタンプをもらい、それから少し歩いて地下道をくぐってタイのイミグレに、、タイのイミグレはツーリストと地元民用に別れていたが結構時間がかかって、全員がそろって出発したのは11時ころだった。そこから道はさらに良くなって、12時半にはウボンラチャターニーのバスターミナルに着いた。従ってパクセ~ウボンラチャターニ間は国際バスを利用したから、時間にして3時間(200B or 60000kp)で至って楽であったが、ひねくれていえば国境後えの面白さはほとんどなかった。

ラオス側のイミグレ<左>Img_6611

ラオスとタイのイミグレの中間地帯、奥がタイImg_6612

タイ側のイミグレ<右>からでたところ
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  ウボンラチャターニは、タイ東部の大都市であった。ま、それはある程度はわかっていて、あまり見どころもなさそうだったので、初めからスルーするつもりでいた。そのバスターミナルがあった場所が街の中心からも、鉄道駅からも遠く離れているようだったので(チェンマイかチェンライのところでいったと思うが、タイのいくつかの都市の地図はコピーしてもってきていた)そこから直接にシーサケート Si Sa Ket までいくバスがあれば好都合と思っていた。大きい街だけあってバスターミナルも大きく、しっかりしたインフォメーションがあった。そこでシーサケートまでのバスを聞くと、すぐに出るバスがあるとのこと。いわれたところにいってみるとミニバン(ゴールデントライアングルにいくとき乗った14~5人乗りのワゴン車)だったが、すでに満席に近い状態だった。もちろんそれに乗れたが、この間のバスは頻繁にでているようだった。タイは本当に道がよくて、12:45にでたワゴン車は高速道のような道を1時間くらい走って13:50シーサケートのバスターミナルに着いた(43B)。なんかそこまであまりにも順調に来てしまって少し拍子抜けだった、、ま、今ではタイはどこでもそうとう近代化・都会化していたから、それはチェンマイでも感じたことであり、すでに述べていたと思うが、特にラオスから戻ってみると楽=面白みに欠ける(国境越えも)という式が成り立ちそうな気がした。

ウボンラチャターニバスターミナル;3枚Img_6618
Img_6617Img_6616そこでノンカーイからのバスを目撃、このバスがあるかどうかわからなかったのも間接的にパクセー経由とした理由であった

 シーサケートのバスターミナルも規模こそウボンラチャターニには劣っていたか、ツーリストを安心させる程度には整っていて20ほどのゲートがあったか、ただし英語の表記がほとんどないので、出ている案内板はわたしには意味をなさなかった。なので人に聞くしかなかった。ツーリストを見かけて寄ってきたモーターサイ(昔はバイクタクシーと呼んでいたが、今ではこういうらしい)のドライバーは仕事柄たいてい少々の英語を話したが、この時のジイさんはかなり英語がうまかった。これ幸いと、ここからカンターララックKantharalakというところへ行くバスが出ているか聞いてみた。すると我々が話していた目の前に停まっていたバスがそうだとのこと、しかしすぐにわたしは、今日行くわけでなく明日朝のバスの時間が知りたいのだというと、朝6時から一時間おきにでていると親切に教えてくれた。そして今はどこに行きたいのかと聞いてきたから、今着いたばかりでホテルを探しているというと、待ってましたとばかりついてこいいって、わたしを彼のバイクのあるところまで連れていった。その間料金の交渉と、ホテルはできるだけ安めのところと念を押した。料金は30B(約100円)とのことだった。わたしはチェンマイソンテウが20Bで乗れた記憶があったから高いのではないかと思ったが、直近のパクセのトゥクトゥク20000kp(280円?)と比べたら全然安いことに気づいて文句はいわずにバイクの後ろにまたがった。いや、それをきっかけに、その後諸物価は悉くタイのほうが安いことに気づかされていく‥、、

 バイクで5分、街のど真ん中のちょっと高そうなホテルに連れていかれた。値段を聞くj前にここは立派すぎてわたし向きではないと思ったが、一応料金を聞いてみた。ま、この程度のホテルならエアコン、バス・トイレ、ホットシャワーは当たり前だったが、それで300Bには逆に驚かされたのだった。中級ホテルに300B(1000円)で泊まれるなんて ! ! 、、今回の旅で宿泊したホテルの中では最も高級そうなホテルが最も低額だったなんて信じられない思いだった。即決で2泊分払った。ドライバーにも当初この近さならやはり20Bが妥当と思ったが、こういうところに連れてきてくれた能力(わたしの希望を察してくれて喜ばせてくれた)にわたしは感心させられたのだ。だからこの時も素直に30B渡して、いいホテルに連れてきてくれたと感謝を述べた(+tipは渡さなかった)。そこはちょっと変わったホテルで、おそらく近年に建てられた街の最高級ホテルのKessiri(それは持っていた地図にでていた、そこからワンブロックのところにあったこのホテルはその地図には載ってなかった)が建つ前はおそらくこのホテルが街一番のホテルだったことがうかがえた。たぶんその当時(そう4~50年前か)のレコードや楽器、バンドの写真、それと調度品の類がコレクションのように館内の壁に掲げてあったのだ。そしてこれも想像だが、その写真に写っていたバンドのリーダーがここのオーナーだったかもしれなかった。ちょうど年齢的にそのくらい、つまりわたしと同年代の紳士が向こうのソファに寛いでいて、フロントの女性とわたしとの会話の通訳をしてくれ、その女性にあれこれ指示を出していた。わたしはちょっと気兼ねして直接顔を拝見することも話をすることもなかったが(あとでできるかもしれないと思って)、結局そのあとでフロントに寄ったときにはその紳士はもう見かけになかった。ただ、そういう70年代的な雰囲気のあるホテルだったのだ。が、大きなホテルだったがあまり客の気配はなかった、オフシーズンだったからか?それともシーサケートは観光地ではなかったからか‥??、、

このホテルは普通そなえている英語のホテルカードがなく、看板にも英語名がみられなかったので、ホテル名は不明となった、、Img_6619

壁には珍しいものがたくさんかかっていた;2枚Img_6626Img_6625この写真はボケてしまったが‥

部屋の写真;2枚Img_6622_3Img_6624_3どうでもいい写真だが、実はこの冷蔵庫が今わたしのゲストハウスで使っているものと同じものだったので、面白くて撮ってしまった


 14時のチェックインでシャワーを浴びて着替えて14時半には街に出た。その前にフロントの女の子に以下のことを尋ねた。1.市内の地図はあるか、2,両替屋はどこにあるか、3,洗濯屋はどこにあるか、1,の答えは地図はない(どこで手に入るかもわからないとの答えだった)、2,は通りの向こうに銀行があってまだ開いてるとのこと、3,はホテルでそれは引き受けるが1枚につき10Bとのことだった。これに関しては論外で洗濯屋は自分で探すといってホテルをでると確かに通りの向こうに銀行があった。警備員にexchange money?と聞いたが通じなかったようで、それでも中に入れてくれた。どこへいけばよいか、どうすればよいのかわからずまごついていると、呼んでくれる人があってそこへいってみると、その女性だけが英語を話せたようで、わたしのフロアの行くべき場所を教えてくれ、その担当者にこちらの希望を伝えてくれた。そこへいくと両替はすぐにできた(このとき5000円を両替したのだけれどレートはチェンマイより少し悪くて10000円=2994Bだったから5000円は1497Bだった)。けっこう混んでいて他の窓口では順番待ちで並んでいる人がたくさんいたのに、この優遇はありがたかった。そのあと駅に行ってみた、ホテルもその銀行も、ま、いってみれば街のど真ん中にあって、そこから北に3ブロック15分の距離だった。そこではバンコク行き列車の時刻や料金を確かめた。そこでも暇そうな駅員が親切に教えてくれ、その中の2本シーサケート発8:04が一番よさそうだったが次の10:38でも間に合うことがわかった。帰り際にstate railway of Thailandと英語で書かれた時刻表をくれた。それにはタイ全土を網羅した時刻表が載っていた。また、街の中心に戻りながら今度は洗濯屋を探した。チェンマイであれほど多く見かけた洗濯屋(正確にいうと洗濯機がおいてある店)は30分の街ブラで目にすることがなかった。うろうろしているとしょっちゅう犬に吠えられた。犬は正確に異邦人を嗅ぎ分けているようだ。ようやく大通りに面して洗濯機を並べている店(家?)を見つけて、言葉は通じなかったが、こういう場合説明の要なしだったから身振りでOKか尋ねると、手を横に振って、ここではやってないが向こうの路地を入ったところにあると、相手も身振りで答えてくれた。仕方なくいわれた路地にいってみると、確かに大通りから一本入ったところにそれはあった。そこのお母さんは少し英語が通じて、すぐにどこかにいって一回分の洗濯用粉石鹸の袋をもってきて洗濯代20B+5Bといってくれた。洗濯機に洗濯物を全部入れて25B渡すと後は全部やってくれた。30分後に来るようにといったのもわかった。一件落着である。それからまた30分の街ブラ、せっかくだから数時間前に着いたバスターミナルにいってみることにした。そこからは歩いて10分だった(たぶんホテルからだと15分?)。バスターミナル周辺には屋台がたくさん出ていたが、その時間(15時半すぎ)にやってるところは少なく、開いていた一軒で遅い昼食としてラーメンを一杯頼む。いつものバミーナムは35Bだった。バスターミナルまでも歩いてこられることがわかって来た道を戻る。洗濯はまだ終わっておらず、少し待つことになったが、それは適度な休憩となった(が、その間そこの犬にずっと吠えられていた)。そこからホテルまでの帰り道に7-11があったので、そこでビールを仕入れて戻る。2時間半の街ブラでシーサケートの中心街は一応歩きまわれたのではないかと思う。戻って洗濯物を部屋干しにしていると、窓越しに信じられないくらいの大雨が降っていた。雨期には日に一度やってくるシャワーに間一髪で免れたようだった。そしてしばらく昼寝‥、、

バスターミナルの周りにはいろんな店や、屋台が並んでいたImg_6633

 雨は外が暗くなりかけた19時ころには上がっていた。さて、夕飯はどうするか、ともかく雨は止んだようだったので外に出た。道路はそこらじゅう水溜まりになっていた。ほんとは駅周辺が夜は屋台街になるとのことでそこまで行きたかったが、足元が悪すぎた。仕方なく周辺の食堂を探す。2~3軒あって迷うが、いつも麺ばかりだったので一度くらいご飯ものをと思って入ったところで、みんなが頼んでいたものを同じものといって注文する。言葉が通じなかったし、写真を見てもなんだかわからなかったので、そうしたのだけれど、わたしの苦手な鶏肉にライスといった感じのものがでてきて、これはビールがないと無理と思って、ビールも注文したけれどそこはビールがおいてなかった。この時はちょっと失敗だったので、帰りに先に寄った近くの7-11でビールと飲み物とつまみを、そして通りの屋台で揚げ物(なんだかわからなかったが食べてみて春巻きだったことがわかる、これはうまかった)を売っていたのでそれを買って、ホテルに戻って飲みなおし?、それでやっと一息ついたのであった、、

蒸し鶏ライス?35BImg_6623_2

 だいたい旅に出ているときは、そうやって一杯部屋酒して早めに寝るというのが一つのパターンになっていた。そのときも寝る前に寛ぎながら、この街はなかなかいい感じだなと思っていた。その理由を探っていて思い当たることがいくつかあった。まず①この街はツーリストが全くいなかった(先にも述べたがそれがオフシーズンのせいなのか、そもそもツーリストはあまり来ない街だったのかは不明)。だからだと思うが、そのため②英語がほとんど通じなかったのだ。③ツーリストが来なければ両替屋もなく、洗濯屋もなく、ゲストハウスもないことになる。④これもその関連?だが、犬によく吠えらたのだ。そして⑤タイ式マッサージ屋も目にすることはなかった。これらすべてがわたしにとっては好感度となったようだ。たぶんだから余計人々が素朴で親切に感じられたのだと思う。こういう街にこそタイの良さがあるのではないか?、何年か前にカンボジアから国境を越えて入った街、アランヤプラテートもこんな感じだったのを思いだしていた。さらに付け加えるなら、⑥ここはそれほど暑くなかったし、⑦街の規模が大きすぎなかったし、⑧少し遠かったが有名な遺跡があった。⑨物価がラオスより安かったし、⑩なにより安くていいホテルにめぐり合ったという非常に個人的な嗜好・経験が、わたしに満足感を与えていたのだと思う。不便なくらいが、そして少し苦労したほうが却っていい印象として残るような気がしていた‥、、