独歩の独り世界・旅世界

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『独歩爺最後の旅』アフリカ篇 <ルワンダ> その1, ウガンダの奇跡、ルワンダの衝撃

少々大げさに、奇跡が起こったと表現してしまったが、実際わたしの生涯で、あるいはわたしの旅でこんな経験をしたことがなかったのだから、あり得ないこと ! 奇跡的なこと ! に思えたのだったが、それで一件落着したわけではなかった。二台のバスはその先30分くらいは前後して走っていった。乗り換えたバスの方は比較的すいており、後ろの方の空いてた席に転がり込むと、ほどなくして車掌がやってきて支払いを請求される。もちろんその地点からKigali(ルワンダの首都キガリ)までのバス代であるが、それは先のバス会社に払ったといっても当然通用しない、で、いくら? と聞くと50000ushとのこと、騙されて80000ush払わされた身としては何とも悔しい通告で、高すぎると抗議しても始まらない話であった。が、それよりそのときわたしはすでにUSH(ウガンダシリング)を持ち合わせていなかったのだ。手元にあったのは10000ush残すのみで、ドルしかないというと、車掌はドライバーに確認する、ドライバーとしては有難迷惑な珍客としか見ておらずnoの返事、ないものはないの押し問答しているうちに、今度はこのドライバーが後ろを走っていた元のバスを止めて、さっさと降りろと、わたしに告げる。いやはや、わたしも困り果ててしまう、そしてもう一度車掌を通して国境で両替すれば払えるといってみたが、ドライバーは了承せず降りろの一点張り。荷物を放り出されそうになった時、再度後ろの方にいる乗客にも聞こえるような大きな声で、『 国境で両替する、それまでドルを預ける』と叫んでみた。そのとき、わたしとドライバーとのやり取りをずっと見守っていたバスの乗客がなんとわたしに加勢してくれたのだった。わたしは今一度後部座席に戻ることができ、車掌に30ドルを預けたのだった。

 

最初にKigali行のTrinityのバスに乗り移ってから30分くらい走ったあたりで、二台のバスは別々の道を行くことになった。最初のKabale行のバスは直進し、Kigali行のバスは左折した。その場所は後からgoogleで調べてみると、Ntungamoというところではないかと思う。Kabaleへはそこから2時間半から3時間くらいかかると聞いていた。左に折れた我々のバスは30分くらい走って、ルワンダとの国境に着いた、ウガンダ時間14時半ころだった。山の中の何もないところ、街でも村でもない、静かなところだった(Mirama hillsとスタンプにあった)。国境を行き来する人はほとんどおらず、両替人だけ何人かいた。早速車掌から30ドル取り戻し、まずウガンタシリング40000ushに14ドル、そして手持ちの10000ushを足して、車掌に50000ush払い清算を無事済ませることができた。が、ここルワンダ入国には考えられないような問題が残されていたのだ。その情報はガイドブック等から得ていた、即ち、ルワンダという国は何やらビニール袋(&プラスチック袋?)の持ち込みが一切禁じられているということだった。なのでもちろんその対策をして臨んだ。ただ正確には、どこまでどのくらい厳しいのかは現場にいってみないことにはわからないことだったので、ぶっつけ本番のところも多々あった。ルワンダ人もいたと思うが皆チェックを受け、担当官がすべての入国者のバッグを開け調べていたが、どうもそれほど厳しくはないようだった。わたしも自主的に2~3枚提出し廃棄処理してもらってその場を通過、そのあとパスポートコントロールになったが、この時は同じバスに乗っていた若いルワンダ人がいろいろ助言をくれたりして、サポートしてくれたのだった。全く静かな国境エリアに一張りのテントがあってそこで食事や飲み物を提供していた。他に何も設備はないからみんなそこで食事していた。わたしも10ドル分ルワンダフランRWF(10ドル=10000rwfだった)に両替して食事をとろうとしたが、他人の食事のボリュームをみたら食べきれそうになく、食事はとらずに飲み物とバナナを仕入れただけだった、が、これが後々失敗となった。結局バスはそこに2時間停車していて、ウガンダ時間16時半の出発となったが、それはルワンダ時間15時半ということらしかった。

これも写真撮影禁止エリアだったかもしれないが、ウガンダルワンダ国境の写真を
びくびくしながら撮った、これはルワンダ側 ↑↓ 奥に見えているバスがKigali行のtrinityのバス

このテントで皆食事をしていた

国境をでてからはほとんど田園地帯というか丘陵地帯を行ったが、ま、ケニアウガンダを旅してきた身からするとやはり、ルワンダの衝撃は確かにあったのだ。正直言うとこういう国はわたし向きの国には思えなかった。曰く、アフリカのスイス、アフリカのシンガポール、言わんとすることがお分かりだろうか?きれいすぎる国、ゴミ一つ落ちてない国、こういう国は苦手なのである。そしてそれはバスの車窓から見る限り間違いではなかったのであった。逆にいうと何ともアフリカらしくない、内戦(ジェノサイド)を経験して見事に復興した国、アフリカ一の経済成長を誇る国、それを如実に示しているような街々、風景、人々、センスの良い服装、確かにそれはアフリカの奇跡だったかもしれない。そんな矜持を自然に体感しているような若者がわたしの隣に座ったのだった。彼らは国境付近から乗車した二人の若者で旅行者ではなくルワンダ人のようだった。彼らは英語で話し、わたしのものよりずっと高級なカメラを二台も携えていたのだった、で、あなたはフォトグラファーphotographerか聞くと自信ありげに、そうだと答える。わたしもその辺の事情は無知だったから、この国でphotographerという職業が成り立つのか、それで食っていけるのかと聞いてしまった。いとも簡単に成り立つと言ってのけたので、胡散臭くなったのでしばらく彼らとの会話は途絶えた、一つにはここでもわたしの英語力の未熟故のことで、それ以上ツッコんでいろいろ話す自信がなかったからであった。わたしは時々自分の安カメラで写真を撮ったりしながら、ウガンダルワンダの違いに目を瞠っていたのだった。

Kigaliに向かうバスの車窓から何枚か ↑↓

どこかの街のバスターミナル

そのうち夕闇迫り景色を楽しめなくなり、なかなか街らしい明かりも見えないので、どんなところを通っているのか想像するしかなかったのたが、ともかく街の灯が全くないので想像もできなかった。いったい何時に着くのかも聞かなかったし、Kigaliがどんなところかもガイドブックにはルワンダの情報が全く欠けていたので、それも想像できなかった。だから少し不安にもなってきて、Kigaliには安宿はあるかと、わたしから話しかけた。それから少しまた話すようになって、宿は予約してないのか、自分たちが探してやるといった話から、お互いの話になり、わたしは日本のじいさんで一人旅をしているといったことや、彼らはジャーナリストで一人がどこかの企業の取材に出かけてもう一人は写真家としてコンビを組んでいるらしいことがわかってきた。そのうち漸く、街らしい明かりが見えてきて20時半にバスターミナルのようなところに着いた。国境から5時間の長旅のうち2時間は闇の中を走っていたことになる。

バスターミナルに着いた時に撮った写真

だが、そのバスターミナルも灯りが煌煌としていたわけでなく、広場のようなところの周りに高い建物があるわけでなく、ホテルの看板も全く見当たらなかったのである。一人だったら、こういう時は迷わずボダボタ(これはウガンダの呼び名でここではなんていうのか知らなかったが)を探したと思うが、そして結果的のその方が正解だったようにあとから思ったが、幸か不幸か偶々その時親切心で自分たちでホテルを探してくれるという若者二人が一緒であった。もちろん彼らも二人であったから自宅に帰るにタクシーを使ったと思うが、まずタクシーを探してきてドライバーに近くの安宿にまずいってくれと頼んでくれたようではあった。が、実際にそんな安宿が近くにあったかどうか知らないが、いずれにしろこのタクシードライバーは、わたしが納得するような安宿を知らなかったようであった。少なくとも次の日、いや数時間後に知ったことだが、わたしの感覚ではバスターミナルの付近には安宿、安食堂があっておかしくない、といった先入観は、見事に裏切られる場所だったことがそのあとでわかったのである。が、その時はそんなことは露知らずで、わたしはタクシーを使うまでもないのではという想いもあったのだけれど、言いなりにその車に乗ってしまったのであった。そしてすぐにそんなホテルは見つかるだろうという想いは、その場所を離れた途端、また暗闇になって食堂はおろかお店も一切ない丘の中腹を下っていったのである。で、確かに車で5分くらい走ったところで一軒のホテルを見つけてくれて、わたしは直に交渉してみた。が、高すぎた。それだけでなく価格もさることながらいわゆる商店が周りには一軒もなく、ま、街道筋のホテルといった感じ、ところが別のホテルを探すにしろその付近にはホテルらしい建物も商店すら見当たらない、若い二人も成り行きを見守っている(要は彼らもそんな情報を持っていなかったのだ)、時間も時間だったから、一泊だけは仕方ないかと諦めることにする。そして彼らにお礼をいうと(これもわたしの思い過ごしだったのだが)タクシー代を払えといってきた。てっきりわたしは彼らの帰路の途中で親切心で乗せてくれたものと早とちりしていたのだが、やはりそこはそんな余裕のある世界ではなかったのである。もちろんほんの一部だが、タクシーを使ったことのない貧乏旅行者にとっては大金を払わされることになったのだった。で、彼らとは別れたが(また、その後再会もすることになるのだが)わたしにとっての驚きはまだ続いたのだった。その時のフロントのお兄さんに、食事をしてないので近くにお店はないかと聞いてみた。と、彼はそこの従業員が案内してくれるといって、使い走りのような若者を連れてきた。そしてついて来いというからその彼に従う、なんと親切な人たちだというこれも驚きの一つだったが、その時向かった先はタクシーで5分くらいで降りてきた長い下り坂を20分もかかってバスターミナルまで登り返したのであった。さすがにその周りには若干商店はあったが、3軒目くらいでやっと手に入ったのはパン1000rwfとコーラ1000rwfだけだった。往復1時間かけて手に入れたそのパンは、失礼ながらお世辞にもうまいといえる代物ではなかったのである。で、その時バスターミナルの周りをうろついてわかったことだが、付近に食べ物屋さんはおろかホテルも一軒もなかったのである。こんな国もあるのか ? 凄いところだ ! といった、いい意味も含めた驚きを今回は衝撃という言葉を使ったが、ま、それは偶々のこと、あくまでわたしにとってのことであったことは言うまでもない、だが、旅全体を通してもこの日はハイライト<特異日?>だったかもしれないと今でも思っている・・。

後日の写真だが、この男が使い走りの若者でわたしをバスターミナルまで夕食になりそうなものを探しに連れてってくれたが、言葉はフランス語しか解せずほとんど役に立ってない。