独歩の独り世界・旅世界

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『独歩爺最後の旅』グアテマラ その5 サンペドロ San Pedro

田代さんのところもコロナ禍の影響を相当被ったはずだが、宿代は値上げされてなかった(どうでもいい話だが、わたしのguesthouseも値上げはしなかった)。が、シャトル代金は25%くらい上がっていたのではないか?1月18日の朝支払いを済ませてシャトルのピックアップを待つ、9時の予定が9時半着でそのあと何件かの宿を回ってAntigua出たときは10時近くになっていた。しかしこのルートもよく知っていたので何ら心配はしてなかった。それより値上げを快く思っていなかったのだが、いつものバスでいけば50Qくらいで行けたのにシャトルを使ったのには理由があったのだ。それは荷が重すぎたことで、体力もなくなっているのに大荷物を担いでバスだと2回くらい乗り換えなければならなかったのだがシャトルだとdoor to doorなので、ま、倍出したとしても今回はシャトルに利があったのだ、が、実際は2.5倍になっていたというわけだった。それともう一つ変化があった。どこを通っていくかはすべて把握しているつもりだったが、チマルテナンゴChimaltenangoの手前で全く知らない道、それも高速道のような新しい道を行ったのだ。思えばチマルの交差点付近のCA1号線はいつも渋滞の激しいところだった。それを回避するバイパスができていたのだ。おかげでだいぶ時間短縮になったと思うが、その時改めてシャトルにしてよかったと思ったのである。もしバスを選んでいたら、チマルの乗り換えはアレレ?こんなはずではなかったと、どこで乗り換えたらいいの?とウロウロ、ヨタヨタ、あっちに行ったりこっちに行ったりで、大混乱していたであろうこと目に見えるようであった。

 

このときはSan Pedroに向かっていた。グアテマラに来た時はAntiguaとSan Pedroは必ず寄っていたから、もう10回目くらいになるか?通いなれた道で、今回のような戸惑いははじめてであったが、他の乗客にとっては変化でも進化でもなかったと思われる。いずれにしろこの時期(2023/1月)Tashiroではスペイン語学校に通う長期滞在者は数名滞在しているようだったが、流石に日本人の旅行者には出会ってなかった。が、欧米系の若者はちらほら見かけるようになっていた。最近は年取って若者との会話が面倒になっていたので(要はもともと不足していた会話能力はほとんど枯渇していたのだ)というより、あまりにも年代差があり過ぎてほとんど話しかけられることもなく却って助かっていた。ワゴン車はいつものように快適に飛ばし、途中一カ所148(場所の名前、以前のブログに詳述してあると思う)の手前で休憩があって、そこから左折してローカル道に入ったが、この道も完全舗装になっていて、13年前のでこぼこ道が却って懐かしいくらいだった。その148で二人降り、次のサンパブロでサンマルコスへ行く四人が下車、サンフアンが二人、サンペドロまで乗っていたのはわたしを含めて六人で計14名、わたし以外はすべてヨーロッパ系(たぶん)の若者であった。サンペドロ着13時半、道がよくなってバイパスのおかげで30分、昔に比べたら1時間は短縮かつ快適になっていたと思う。グアテも少しづつインフラは整備されつつある、ということのようであった。

 

わたしはサンペドロのパルケセントラル(中央公園)で降ろしてもらい、若者たちはLago Atitlan(アティトゥラン湖)湖岸のツーリストゾーンまでいったと思われる。わたしがパルケセントラルで降りたのは知人の家がその近くにあったからで、この街は(ここだけではないが)完全にツーリストエリアと先住民のインディヘナ(95%がTzutujil indigena)の住まう地区とで住み分けされていて、Atitlan湖岸ではこの街とSan Juan ,Santiago Atitlanはツーリストであふれる前(20世紀まで?)は100%純粋のTzutujil住民だけが住む村だったのだ。そのころからの変わりようはわたしの知らないところであるが、ツーリストであふれていた十数年前から比べても、湖岸のツーリストエリア(地元の人はplayaと呼んでいる;浜辺、湖岸といった意味)は来るたびに変わっていて、ひたすら俗化が進んでいた。ところが、今回3年ぶりに訪れると別の変化が見られたのであった。それは後の話になるが、まずわたしは、パルケセントラル近くのTzutujilの知人を訪ねたのであった。

 

事前にmailで今日行くと伝えてあったが、それが届いてなかったことをそこで知る。なので知人のManuel氏は不在だった。最初にあった時は小学生だったと思われるが、もう立派な大人になったManuel氏の孫が留守番でいて、すぐには帰りそうもないとのこと、ほとんどがそこへの届け物だった荷物を置かせてもらって、宿を探して2時間後にもう一度来るからといって、ほとんど空身になって勝手知ったる街に出ていく、行先はここでの常宿のPeneleuだった。Manuel宅からは10分くらい、顔見知りのオーナーAlbertoは健在で、早速値段交渉、このホテルも来るたびに増築していて、そうとう儲けていそうだったのでわたしは必ず値引き交渉して、今回もバストイレ付きの一番安い部屋一泊85Qを二泊150Qにしてもらってその場で支払った。ま、腐れ縁みたいなもので、またあいつか、と決して良くは思われていないのは感じでわかる。しかもその時はまだコロナの影響が払拭されていたわけではなかったから、巨大になったPeneleuもほとんど空き部屋だったのだ、機嫌がいいわけはなかった。支払いを済ませて宿を確保してから腹ごしらえに出かける。向かった先はplayaで、どんな状況になっているか確認の意味もあった。ツーリストでにぎわっていた細い路地にひしめくレストラン、カフェ、その他諸々の商店は軒並み開店休業状態で、そもそもツーリストの姿もほとんど見かけなかった。そんな寂れた感じの様相を見せているサンペドロを初めて目にすることとなったのだ。いや、地元民にとっては元の姿に戻っただけ、これが正常の姿と思っているかもしれないが、やはり全体的な経済的ダメージは計り知れないものがあったと思われる。この未曽有の災厄はほとんど全世界的なものであったことを改めて痛感させられたのであった。

 

Hotel Peneleu 3FからLago Atitlanの眺めが素晴らしい、下も‥

 

そんな中、それでも営業している店舗があり、わたしを驚かせたというか喜ばせた。わたしが心配だった知人のお店、焼き鳥・照り焼き丼・親子丼のお店Cocina Cavaは開店営業中だったからである。13年前にこの地で知り合ったMr.Kaba氏はご健在で、Atitlan湖岸の一等地で日本酒、焼き鳥を毎日ほとんどが欧米系のツーリストを相手に商いされていたのだが、確か前回寄った時より少し場所が移動していて、しかもそのスペースが倍くらいに拡張されていたのである。今やAtitlan湖を眺めながらお酒、あるいはコーヒーを飲むにはこれ以上の立地はないくらいの場所におしゃれな店構えも新たにしていた。この地でしぶとく(賢く快適に)生きる日本人のおじさんここにあり、といった健在ぶりであった。この時は焼き鳥丼40Qをお願いし、ここでは日本酒もメニュウにあったが、いつまでたっても貧乏旅行者から抜け出せないわたしは、酒類持ち込み自由と聞いて、近くのtienda(商店)でビールを仕入れてのケチケチぶり、そんなんでここでもわたしはよくは思われていないだろうと、ま(甲斐性なしだから仕方ないと)諦めていた。

Cocina Cavaの写真はこれしかなかった、残念 !

Kabaさんのお店で腹ごしらえして再びセントロのManuel氏宅に向かう。セントロへの急坂が以前に比べてきつく感じるほどわたしの体力は衰えていた。Manuel氏宅ではもちろん歓迎してくれたが、わたしの語学力の衰えも甚だしくてあまり会話は弾まない、一つはここでもコロナ禍の疲弊が感じられたので(はっきり聞かなかったが、グアテマラ政府の厳しい生活を強いられている先住民への救済措置はほとんどなかったのではないかと思われた)ともかく何かの役に立てばと、ほとんど我が家の不用品(衣類・雑貨等)を運んできて、そっくりそのまま置いてきた。今回は2泊3日の滞在なので明日また会えると約束してコーヒーと自家製蜂蜜(彼らは養蜂家でもあった)とパンをいただいてあまり長居せずにお暇する。今までは決してそんなことはなかったが、あまり気を遣わせたくなかったのである。帰りにわたしはまたtiendaでビールと食料を仕入れて帰ったが、もしかしたら彼らはその日の食事にも事欠いているかもしれないと思ったからである。わたしのとり越し苦労だったかもしれないが、そんな厳しさが何となく伝わってきていた。その夜もビールと簡単なつまみでいい気分になって早めに床に就く、早寝早起きの時差ボケによるタイムラグはなかなか戻らないのであった。

 

早く寝た分だけ朝、いやほとんど夜中に目が覚めてしまう、そんな時はある楽しみがあった。先だってからちょくちょく日本に写真等を送っていたlineにはまってしまうのである。というのも、グアテマラと日本の時差は15時間で、グアテの朝3時~4時は日本の18時~19時、つまりみんな起きている時間、普通に起きるグアテの7時~8時は日本時間だと遅すぎて迷惑になってしまうことが多く、息子に怒られたことがあった。だから夜中に起きたときにラインで送ると返信が多く、はまってしまうこともしばしばあったのだけれど、それはこの頃から始まっていたようだ。が、この時はまだやり方がわかってなくてあまりうまく送信ができないことの方が多かった。いずれにしろ早く目が覚めるともう眠れなくて、それに朝方は一番冷え込むので早々と起きだすことになった。

 

8時ころ朝食を取りに街にでて適当な店がなくて、またplayaに向かう、が、朝が早かったからか、それともずっと閉めたままなのかほとんどの店はクローズのまま、厳しい現実を見ることになった。たまたま開いていた、以前来た時には覚えのない店があって、入ってコーヒーをいただくが、まったくコーヒーの味のしないようなものを飲まされた。コーヒーの本場でこんなものを飲まされたのではたまったものではない、たまたまこの店だけであってほしいのだがそもそも開いているコーヒー屋さんを見つけるのが難しくなっていたのだ。それに旅行者の姿もほとんどなかったのだから、昔の活気が戻るのはもう少し時間がかかりそうな気がした。昼頃再びplayaに出かけて13年前にお世話になってそれから付き合いが始まったManuel氏の学校Arco Irisスパニッシュスクールに行ってみる。そこで仕事をしているといっていたからだ。学校といっても広い敷地に机が四つしかない、名ばかりの学校だったが今ではその机も何処にいったのやら、Manuel氏はその敷地に何かをまた建てたいらしく(彼はそれをすべて自分の手で作り上げるつもりらしかった、自分の家も何年もかけて手作りしている)基礎工事に精を出していた。このパンデミックの間の厳しい状況等の話から、(わたしも世話になって事のある)末弟が亡くなられたこと等など、明るい話題はあまり出なかったので食事に行こうと誘ってみた。彼は弁当持参だったが、無理やり誘って近くのコメドール(食堂)で10Qの弁当と飲み物を購入し、また粗末なオフィスに戻ってそこで昼食とした。しかしその弁当のひどかったこと、トルティーヤとフリホーレスしか入ってなくて、それで10Q信じられないことが起こっているようだった。Manuelが持参した弁当もひどかったが、まだそれの方がましに見えてManuelの持参した弁当のおかずも合わせたわびしい昼食となった。

San Pedro Tzutujil の顔役の一人 Manuel氏 手前の左がランチボックス 
右の小皿がManuel氏の弁当のおかず

Manuel氏の学校のあったところで、また何かを造り始めていた ↑2枚 

昼食後一旦ホテルに戻って休憩・昼寝、夕方16時にManuelの娘Carolina(13年前のわたしのスペイン語の先生)とその娘Kaydiとの約束があったので再びManuel宅に行き、そこからピックアップでSan Juanへ、前にも連れてってもらったことのあるセロデクルスがミラドール(mirador 展望台)になったというのでそこへ出かける。外国人のみ30Q徴収され約20分の登り、以前はどうってことのなかったこの丘も小学生のKaydiには遊び場に過ぎずどんどん先に登っていったが、75歳にはなかなか堪えるのであった。しかし眺めは抜群、地元の人、外国人旅行者もちらほら、わたしはこんなものはなくてよかったものをと思ったのだが、政府観光局の主導のもとに作られたのかどうかは知らないが、以前は地元の人にしか知られてなかったこの丘が今や観光ポイントになっていたのだから、経済効果はあったようである。ここに案内してくれたのはカロリーナの返礼の気持ちだったと思う、それがわかりすぎるくらいわかっていたから、この日もサンペドロに戻ると礼を言って、これが最後の旅のつもりだから、もう来ることはないだろうと別れを告げた。思い出はたくさん残っているから、あまり感傷的になってもしょうがないとあっさりお別れした。帰りにビールとフライドポテトを夕食代わりに買ったが、フライドポテトは以前の半分の量で価格は倍近く3Q→5Qになっていた。昼の弁当といいグアテマラ庶民の大好物フライドチキン&ポテトといい、庶民の食生活を直撃している様が読み取れた。Manuel一家も厳しい状況に晒されているとしたら、グアテマラの弱者、先住民全体の生活が厳しくなつているということになる。たとえ俗化したとしてもやはり彼らにとってはツーリストの存在は大きいのかも知れなかった。

 

新しくmiradorとしてオープンしたcerro de cruzを下から見上げる

下から約20分の登りcerro de cruz のmirador はけっこう地元の観光客でにぎわっていた
以下の写真はそこからの眺め

San Juanの街 ↑2枚