独歩の独り世界・旅世界

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2017 Guate y Mexico 5) 激変のSan Pedro(la Laguna)

 ようやく旅模様の続きをお伝えできるかと思うが、体調未だ不良、医者から薬をもらって服用しているが一向に効いてる様子がない。気持ちは早く、旅の報告をと焦るばかり、しかし身体も頭も全く機能しておらず、こういうときはなかなかその場で感じていたことを出し切れそうにない、もどかしいところである。

 さて、Guatemalaに来ると必ず寄るところがAntiguaのほかにもう一カ所あって、それがSan Pedro(la Laguna)というところであった。ここはLago Atitlan(アティトゥラン湖)の湖岸の村の一つで、グアテマラを訪れる旅行者にとっては有名なところであるからこれまでにも何回か書いてきていると思う。繰り返しになってしまうかもしれないが、そこは7年前に最初にグアテマラに来た時に、住み場所を探してて、その候補の一つになったところでもあった。風光明媚なところで、物価は安く、住むには極めて適していたし、現に多くの欧米人はこの街及びその周辺に住み着いていた。わたしはその地に何人かの(地元の)友人を得ていたし、そこに住み着いている日本人の知己も得ていた。だから、ここはグアテマラに来るとかならず寄る場所になっていて、彼らに挨拶がてら様子を聞くことにしていた。ま、いろいろ苦労はあるのだろうけど彼らはほんとによく頑張っていただけでなく、彼らこそグアテマラを愛し、この素敵な土地にほれ込み、その地に根付いて豊かな人生を味わっているのであった。ま、そんな話はたぶん前にもしているかと思う、、そのサンペドロに2年ぶりに訪れたのだった。が、その変化はある意味衝撃的だったとさえいえた、、

Antiguaはほとんど変わってなかった<バスターミナル>Img_5146
<市場>Img_5148_2Img_5150_2<田代さんのところの前の大通りAlameda Santa Lucia>

Img_5153_2<Elvia宅前の道 3A Calle Poniente>

 普通2年という歳月はどのくらいの重みをもつものであろうか?、安定してしまっている世界での変化はほとんどないに等しいと映ってもおかしくない、またそれが安定という意味となるというトートロジーである。で、まず最初に比較として2年のキャップをアンティグアで感じたかというと、確かに新しいホテル、レストラン等を目にはしたが、それほど変化は感じなかった。それがこのサンペドロでは著しかったのである。しかし、それはエリアが限定されていた。地元の人のいう、プラヤ<Playa; 本来の意味は浜>、昔から外国人の資本で開拓・改変させられていった地域である。わたしが最初に訪れた7年前にはすでに、いわゆるツーリストエリアとして確立していて、そこはすでに外国人の、特に若者向けのホテル・レストラン・コーヒーショップ・土産物店・トラベルエージェンシーの立ち並ぶ一角になっていた。そして、その密度が年々濃くなっていってはいたが、この2年また一段とその発展・変貌ぶりが著しかったということであった。空地であったところが、どんどんなくなって何らかのショップ(つまりホテルかレストランか、いずれにせよ観光客を対象とする店)で埋まっており、また代替わりした店(店名を変えた、あるいはオーナーが代わった?)も多かった。すでに数年前からそうであったが、まるで租界のようなエリアになっていた。ま、わたしはこの傾向をあまり良しとしていないので、わたしのいい方だと俗化著しいということになるのである。が、そのエリアを除けば、逆にいうとその地域を限定することによって、伝統的なトゥトゥヒル(Tzutijil、グアテマラの先住民部族の一つ、以前くわしく書いているので省略)の世界は保たれ守られているともいえ、やむを得ずなのか、あるいは意図的なのか、非常にバランスのとり方の難しい選択をサンペドロのトゥトゥヒルの住民はとり続けている、ともいえるように思う。というのもここでとても興味深い、もうひとつのトゥトゥヒルの最大の村?サンチャゴアティトゥランの例を見てみることによって、その対称性が明らかになって、今後の両村の行方がどうなっていくのかが、たいへん気になるということをわたしの知り得る範囲で記しておきたいと思うのである。というのも以前より、このトェトゥヒル最大の人口集積地のLago Atitlan 南岸の両村は、いつのころからかその性格を異にしてきていた。トゥトゥヒルの伝統・文化・アイデンティティを非常にかたくなに守ってきた超保守的?な地サンチャゴアティトゥランでは、いまだに素晴らしい刺繡の入った伝統的な民族衣装ウィピルがほとんどの住人によって着用されているのに対して、サンペドロでは、コルテの着用はあってもウイピルを着ている人の姿はほとんど見られず、村としての個性にかけ、美しさとも無縁になっている。それはそのまま、他の伝統文化・風俗にも及んでいるようで、いわゆる開明的、開放的とでもいうのか、外国資本、そして外国人の居住にも寛大であった結果が、今のサンペドロにつながっていて、経済的には潤ってはいるものの、トゥトゥヒルアイデンティティを見失いつつある危うさがある。一方サンチャゴでは、ホテルの数もまだ知れていて、土産物屋の数こそ、桟橋からパルケセントラルまでの間を埋め尽くしているが、日帰り客は歓迎しても長期滞在者は歓迎していないようである。そんなんで両村は同じ根っこながら、その方向性を異にし、村の性格、経済の在り方、伝統文化に対する考え方を異にして、それぞれが別の道を歩んできているのである。この行く末は大変気がかりであり、また興味の尽きない点でもある。ここで勝ってな私見を述べさせてもらえるならば、この地まことに興味深い事例を提示している非常に貴重な地域としてとらえることはできないだろうか、ということである。つまり、この両村の成り立ちと今後を見据えていくことによって、民族学的あるいは文化人類学的研究の対象とはならないだろうか?ということを思うのである。伝統文化の問題、ツーリズムとの関係、先住民の光と影、といった捉え方で、論文が一本書けるのではないかと、密かにそんな若者がでてくることを期待しているのである。研究対象地としても、また長期間滞在する地としても、この両村はお勧めではないかと思っている。

2年振りに訪れたSan Pedro;2枚Img_5164Img_5165

見慣れない建物、通り、街の様子;6枚
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Img_5176Img_5179Img_5180Img_5181最後の写真は、この目新しい建物付近からパナドッグを撮ったのだけれど、なんとこの左の新しい建物にKamuiは入っていたのだった、、


 まさに余談となってしまったが、そんなことでサンペドロの外資によるプラヤ制圧は止まらない勢いであった。そんな中にあって、日本人の細々とした食べ物屋さんの健闘、つまりまさに彼らは度を弁えており、片隅で、しかしお客さんの絶えない商売を展開していたのである。それが数年前から始めているというKabaさんの焼き鳥屋さんと、Mayumiさんの豆腐バーガー屋さんで、最初Mayumiさんところも屋台商売であったが、それがこのとき立派なjapanese restaurante ‘Kamui’になっていたことは一つの驚きでもあった。今回サンペドロには、当初2泊の予定であったが、急遽一日延長して3泊となった。なので、初日と二日目の夕食は、Kabaさんのところの焼鳥丼とベルドゥラ<verdura;野菜>丼になり、二日目の昼食がKamuiの寿司とお好み焼きのComboとなった。いずれも今回はAntiguaではKabukiにもいかず、ひたすら日本食恋しやと思っていた身には、ほんとに驚くほど安く提供してくれているお二人に、感謝感謝なのであった。あいにくMayumiさんにはお会いできなかったが、Kabaさん、Mayumiさんの健在ぶり、元気な姿に接することができ、サンペドロへ来た一つの目的は達成されたのだった。

Kabaさんの焼き鳥屋さん;3枚Img_5183Img_5199Img_5198

MayumiさんのレストランKamui(たまたまその日Mayumiさんはおらず、お仲間のHarukoさんが作ってくれた)Img_5195Img_5196Img_5197


 さて、この時も前回に引き続いて、ペネレウ<Peneleu>に宿をとった。れっきとした地元資本だから、プラヤに比べると断然安かったからである。最近建った湖岸のホテルとなるとどこも100Q(シングルBT付)より安いところを探すのがむずかしいのだが、昔から馴染みPeneleu、San Franciscoは未だ30~35Qの世界だった。もちろんバストイレ付である。ペネレウにいく途中にサンフランシスコがあって、そこはわたしが初めてサンペドロに来た時に泊まったところだが、確かその時は20~25Qだったかと思う。今回そこの娘さんから声がかかったので、部屋を見せてもらうと、同じ部屋が35Qでいいとのことだった。が、前より眺望が少し悪くなっていたので決めなかった。その先のペネルウでは、見覚えのない若者が留守番していて、部屋はある?と聞いてみると湖の眺めのいい部屋が'70Qと前回滞在した眺望のきかない部屋は、前回同様30Qだったが、すべての部屋は欧米の若者によって占められていたので、安い部屋はそこしかなさそうだった(上階の高い部屋はみんな空いていた)。さて、どうしたものか、70Qだすか、35Qのサンフランシスコにするか、そこでまた悪い癖がでる。オヤジはいないの?と聞いてみる。すぐに呼んできてくれ、hola Alberto ! また戻ってきたよ、と挨拶した。このしたたかなオヤジとはもう腐れ縁である。仕方ないな、といった感じで50Qにしてくれたので即決し、オヤジに100Q渡した。ま、キッチンは目の前、眺めも悪くないし、バストイレ付きだから申し分なかった。このとき荷は半分ほどにしてきていたから、荷をおいてシャワーを浴びるとすぐに街に出かけたのだけれど、もう一通り歩いただけで先の変化は感じていた。そしてだんだん俗悪化方向にあることに憂いを感じながら、わたしのもう一つの訪問先トゥトゥヒルの知人宅を訪ねた。

hotel Peneleuからの眺め;5枚Img_5166Img_5185Img_5186
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 セニョールManuel氏は突然の来訪に驚きつつも歓迎してくれた。一通り家族の様子を聞く、みんな変わりなさそうだったが、わたしのmaestra、スペイン語の先生Carolは仕事でシェラ Xellaとのこと、土曜の夜帰るから会うには日曜しかないとのことで、日曜朝発つ予定を一日延ばすことにする。そこへCarolinaの旦那Diegoが今シティから戻ってきたといって顔をだした。彼は首都で治安維持の仕事をしていてを週末になると帰ってきているようだった(毎週でないかもしれない)。しばらく雑談してて、わたしは思い出したように、彼に首都からここまでどうやって帰ってくるのか聞いてみた。つまりわたしにとっては、サンペドロへの来かたを地元の人はどのようにしているのか聞いてみたかったのである。というのもその日わたしはAntigua→San Pedroの来かたを間違えてしまっていたようだったからであった。わたしはこれまで馬鹿の一つ覚えみたいに、Antigua → Chimaltenago乗り換え→ San Pedro行きのチキンバスに乗れば、つまりチマルで一回乗り換えで簡単に来られると思っていた。で、その朝もそうしてチマルでサンペドロ行きのバスを待っていた。が、そのバスは30待ってもこなかったので、サンペドロ行きは諦めて、仕方なくXella行きのバスで148まで行き<20Q>、そこからはサンタクララまで乗り合いコレクティボで6Q、サンパブロ<同5Q>、サンペドロ<トゥクトゥク10Q>と乗り継いでのサンペドロ着となっていた。なので、サンペドロまで来るバスは何時にあるのか聞いてみたのだった。そ疑問ManuelとDiegoが午前中は首都→サンペドロへのチキンバスはないとのこと、つまり早朝4時とか、5時に発ったチキンバスが、折り返してくるのは午後になるというのがその答えだった。それを聞いて納得だったのだが、ではDiegoはどうやってその日首都から戻ったのか、その答えも聞いて納得、簡単な話だった。すなわち首都→ロスエンクエントロス→ソロラ→バナハッチェル→<ランチヤ>サンペドロ、で、それならわたしもよく知るところ、ただそのほうが高くつくだろうというと、他に方法はない、ま、高くついても10Q15Qの違いだから、問題でないとのことだった。どうやら彼らの方がずっと現実的というか、考え方が鷹揚のようだった。そして、日曜にDiego宅の昼食に招待してくれたので、昼頃伺う旨約束してその場をお暇した(なお、一般の旅行者はAntigua→San Pedroは旅行会社のシャトルUS$15~がお勧めである)。

2年ぶりのLago Atitlan、山の上からImg_5160Img_5162こんな道を下っていく

サンペドロのパルケセントラル脇がバスの発着場所、このバスは一日2便となったSantiago Atitlan行きのチキンバス、 これと同じチキンバスが上の道を登っていく、、
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 確かにわたしが通った道は、乗り換え等で時間もかかり、またトータルコストも高くついて、わたしをイラつかせたが、それでも山の中の道がずいぶんよくなっていたのにも驚かされ、いい意味での発展を垣間見せてくれた。しかし、未だ工事はすべて終わったわけでなく、途中ところどろろで一通のための通行止めにあった。日曜に招待されたときに、このあとどこへ行くのかの話になって、Huehueにいくつもりだという話になったとき、工事が始まるのが7時ころで、そうなるとやたら通行止めになるから、朝出かけるなら早いほうがいいというアドバイスをもらうことができた。本来ならばわたしが彼らのために大量のお土産をすべきところ、今回は事前にmailで通知したにもかかわらず、返信がなかったので何も持っていかなかった。そしたら逆に食事をご馳走してもらっただけでなく、わたしが土産をもらう結果になってしまった。彼らの所得は本当に少ないところを心からもてなしてくれてほんとに恥ずかしかった。次の機会があるかわからないが、やはり俗化著しくともサンペドロはわたしにとっては、グアテマラにあってのわたしの拠り所である。再訪を約束して別れた。次の朝、彼らのアドバイスに従ったので、思わぬ恩恵に浴することができたが、それはまた次回に、、

Img_5217_2わたしの古い友人DiegoとCarolinaが昼食に招待してくれた。Carolinaはこちらの女性が結婚するとこうなるといった典型的な体型になっていた。昔の面影は見る影なし、である。右の女の子はDiegoの姪、そしてDiegoとCarolinaの間に一人娘のCaydi、で、姪っ子は小学生なのだけれど、もうTzutujilは母語になってないのだという。今学校で習っているといっていた。そう、すでにTzutujil語も存亡の危機にあるのである。San Pedro,San Juanでは大人の会話はTzutujilだが、次世代までは浸透してなかった。果たしてSantiago(Atitlan)はどうであろうか??

Img_5221彼らの家のあるSan Juanは絵描きさんの多いところで(Diegoもその一人、彼から絵を一枚もらってしまった)街のいたるところが美術館になっている

Img_5223San Juanの全景、San Pedroへの道から(Lago Atitlanは出口のない湖である。近年湖水の増水が続いていて、湖に没していく家屋もずっと増え続けている)


<どうでもいい話になってしまったが、漸くこの回を書き終えてほっとしている、ただ写真等は、前にも同じような写真を載せていることをお断りしておきます>