独歩の独り世界・旅世界

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Guatemala/San Pedro 8)Casa Andreaカサアンドレア②マヤの聖地、マヤ遺跡?

 後半の一週間はまたカロリーナの授業が始まったので、生活はパターン化して大きな動きはなかった、だいたいその頃の生活は、テレビなどがあるわけでないから夜は少し酒を入れて早く床に就いたので朝が早かった、結構寒い日もあって夜中に目が覚めたりトイレに夜起きることも多かった、小鳥のさえずりで目覚め日の出の写真を撮りに湖畔に出たことがあったが(湖畔まで2,3分)朝日を受けて漁をする小船を目撃してその写真を撮ったりしていた、朝食は7時ころかまどの前に行くとSraが鍋で沸かしたコーヒーを入れてくれて何か適当に作ってくれるのであった、だいたいパンと前日の残り物が多かったが、それは野菜を煮たものとかフリホレス(豆をペースト状にしたもの)とか卵料理などであった、特にわたしのためにわざわざ料理しているのでもなさそうだったので、わたしとしては気が楽であった、ということは特別なものはほとんどなく夕食などはかなり質素なものであったが、わたしは気にならなかった、ただ苦手なチキンが多かったのだが、ま、それは仕方ないと思ってキチンと食べた、、

(Casa Abdreaのかまど、左カロリーナとSra.アンドレア)Img_2672jpg_blog  Img_2744jpg_blog

 その頃大まかにこの先どうするかということを考えていた、その時点でやり残していること、あるいは予定等をチェックしてみると次のようなものだった、①ティカルに行っていない②セマナサンタが4月の17~24日あたりだということがわかった③スペイン語の進捗が思わしくない、、等々が思い当たったが、さて、ではその実現のためしはどうするか?以下予定をたててみた、まず3月の中旬にサンペドロを去って一旦アンティグアに戻る、そこで貸家かアパートか、いずれにしろ長期滞在できるところを探す、理由は②③のため、つまりこの国のもっとも大きな行事としてのアンティグアのセマナサンタは是非見たい、そのためにはアンティグアに滞在している必要がある、何故なら直前に行ったとしてもホテルもアパートも空いてる保証はないであろう、ならば早めにアンティグアに戻って手を打ったほうが良さそうだ、③のためのスペイン語学校もたくさんあるし、そしてアンティグアでの居住先が決まったら、荷をそこにおいてティカル方面に出かけてみよう、最終的には滞在期限の次の更新は行なわず、ということは5月末、いな5月中には一旦帰国する、というのがその大筋だった、とするとその時すでにGuatemala滞在の後半に入っていたことになる~

 と同時にその頃いろいろなことを考えて内省する日も多かった、旅に出るとそういう時間が多くなるのかもしれないし、またそれは旅の効能のひとつだとも思っているが、やはりよその国での生活、多くの外国人や現地で活躍する日本人と接することによって必然的にわが身を振り返る装置が動き出すのかも知れない、その多くは自分の至らなさや弱点、恥ずかしさ・無力感といったもので悶々として酒を飲むことになる、そうすると余計なお世話としりながら、また実際は何もできないのだけれど、今のGuatemalaのおかれている現状や人々について想いをめぐらしたりする、少しでも彼らのためにできることはないか、何かお役に立てることはないか?と、あるときここの校長マヌエル氏とそんな話をすることがあった、何かボランティアとして活動をする余地はないか?と聞いてみた、彼はいくらでもあるし、もしその気があるなら何時でもそれを引き受けてお手伝いすると言ってくれたのだけど、では何を?彼は障碍者や孤児、あるいは子供や弱者、貧困層に対する具体的な援助活動・ボランティアが主にアメリカ人を中心にすでに広くこの国で行なわれているということを話してくれた、しかしそんな大きなことはできない、何かわたしにもできそうなことはないか?それは今でもわたしの宿題になっている‥

 わたしの見る限りは貧困、特に先住民インディヘナたちの立場は15年前に内戦が終結してインディヘナの人権は回復し、一応の待遇の改善はあったようであるが、それでもやはり特に就労における差別が存在するのではないかと思われた、それが経済的厳しさに直結しているのではないか?失業・未就労問題はアルコール中毒の問題とあわせて(それに関連してるし、また治安等の問題ともかかわってくる)Guatemala全体の問題として認識されていたが、ここサンペドロのような先住民onlyのところに住んでみると、絶対的な就労先およびその機会が限られてしまって、それで首都などの都会に出ると、そこには未だにインディヘナに対する差別があって機会均等ではなかったりする、、つまりGuatwmala全体がまだ経済的な豊かさを享受する段階に達していないのだが、そのなかでも表向き差別はなくなったといえ特にインディヘナたちの経済的状況は厳しそうであった、前にも少し触れたが、だから彼らは毎日農産物を持って街に出て路上で商いし、あるいは伝統工芸の土産物を売り歩いてほんのわずかな日銭を稼ぐしか生活の道がないのだ、しかし同情こそすれわたしに何ができるか?ほんとに思い当たらなかったし、どうしたらよいのかわからないのであった、、、??

 そういった先住民問題やGuatemalaの内戦、あるいは現在のGuatemalaの置かれている状況をきちんと捉えている旅行者は少なかった、いや、Guatemala人でさえそういった問題には触れたくなかったのかあるいは知らなかったのか、聞いてもほとんど答えてくれなかった、その辺をきちんと認識していたのが隣室のアメリカ人John氏であった、何せわたしは日本のアイヌ問題について聞かれて答えられなかったのだから、、ひとつは言葉の問題として言い訳したいのだが、英語で挨拶を交わしてたから少しはしゃべれるのではないかと勘違いされていつも話しかけられたが、実際は彼との会話はついていけてなかった、なので想像での話だが、彼はスペイン語ができツトゥヒル語をマヌエル氏から習っているくらいだから、それらのことは知っている、あるいは研究している学者のようであった、もう何年も毎年ここCasa Andreaに滞在して数ヶ月を過ごしているとのことだったし、たぶん彼は授業というよりそういう話をマヌエル氏といつも交わしていたのではないだろうか?来年も来るのなら、ここでまた会いましょうと約束した、わたしも是非もう一度行ってその辺のところを話してみたいと思ってる、わたしがここを去る前の日に彼も予定通り米国に戻った、74歳にしてはまだまだ若い好人物であった、、

 マヌエルもその弟のフアンもSra.アンドレアもカロリーナもほんとにいい人たちばかりであった、彼らは貧しくても決して愚痴を言ったり弱音を吐いたりすることなく清楚に暮らしていた、彼らには私欲というものがないようであった、Casa Andreaはガステーブルもあったが通常はかまどに火をおこし薪で炊事をしていた、そのかまどの前の切り株に腰を降ろして火の番や火加減の調節をするのがわたしの楽しみとなった、普通インディヘナの高齢者はスペイン語の教育を受けていないからほとんど自分たちの言葉以外は話せないのだけれど、アンドレアは77歳にしてスペイン語を話した、もちろんわたしより達者に、なので片言の話はそのかまどでしょっちゅうしていた、わたしがサンタクルスララグーナで転倒してスボンを破いてしまったというとすぐ縫ってくれたり、洗濯物があったら出すようにと言ってくれたりした、それまで洗濯はほとんど自分でやっていたが(学校のときはラウンドリーサービスを利用したりしたが)それは彼らのアルバイトであったからお願いした、今振り返るとここCasa Andreaにいたときが、一番良いときだったのではないかという気がする、環境がよかった周りの人々がよかった、のんびりして楽しい日々であった、、

 授業の最終日にわたしはカロリーナとひとつの約束をした、できれば来年もここへ戻って来たい、でももしかしたら一ヵ月後くらいにもう一回ここに寄れるかもしれない、で、もし可能ならその時もう一枚絵を買おう、ただし画題はわたしの希望するものにして欲しい、貴方のダンナが一ヶ月でそれを描き上げればわたしはそれを買うことができる、その画題はカロリーナ貴方です、と、彼女は聞いてみるといってくれた、そしてもしもう一度寄れるならその前にmailを入れるようにといって彼女のmailアドレスと住まいのアドレスを教えてくれるた、その日はわたしにとってもJohn氏にとっても授業の最終日であった、なんかの話で学校のアクティビダ(actividad 課外授業)としてサンペドロの郊外にあるマヤの聖地に参詣に行こうという話になった、えっ、そんなところがあるのか?もしかしたらChuitinamit?と聞いてみたが、どうも違うようであった、が、そこはサンチャゴアティトゥランへ行く道の途中にあって、ほとんど訪れる人もないがマヤの遺跡あとでそこがここの人たちにとって聖地(holy place)になっている、とのことだった、行かないわけにはいかなくなった、マヌエル、ジョン、とわたしの3人でちょうど近くまで行くトラックに乗せてもらって、ほとんど車の通らない、しかし立派な舗装道路をボルカンサンペドロの入り口を越えさらに15分も走ったか、沿道にはトウモロコシ畑や耕作地が広がっていたが民家はほとんどなく、いかにも一人で歩いていたら山賊に出会いそうな辺りでトラックを降りてマヌエルに導かれて山に入った、道から10分ほど歩いた辺りにそれはあり立派なお堂になっていた、彼はマヤ式のお参りをしわたしは写真を撮った、まわりのマウントは未発掘のマヤ遺跡だと言っていた、なかなか神秘的なところであった、帰りはそこからサンペドロまで歩く、10km以上あったと思われる、2時間半も歩いてサンペドロに戻りマヌエルの家で昼食をご馳走になった、魚を使ったスープは、魚はサンペドロで手に入ったがそれまでほとんど食べる機会がなかったのでそれはそれは美味かった、が、その時初めて地震のニュースを知ることになった~

(マヤの聖地 ; 左John氏 右Manuel氏 お祈りをするManuel氏とマヤ遺跡のマウント)Img_2783jpg_blog

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