独歩の独り世界・旅世界

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ドーダ理論と独歩論

 東海林さだおさんのドーダ理論が人口に膾炙して久しい、、それは鹿島茂氏に負うところが大きいかのかもしれないが、その辺の詳しいところはよく知らない。しかし、この史上最強ともいえる理論は、その普遍性が故に(つまりすべての人は、ドーダで生かされているのだから)今後もさらに広がりを見せることは考えられる。かくいうわたしも、そんなドーダがしたくて(ドーダが動詞的活用ができることは最近知ったことだが)この記事を書き始めた。きっかけは、こんなことから始まった。

 わたしのここでの最初のドーダは、わたしのドーダ暦はすでに15年にならんとすることをいわんとすることにある。何となれば、東海林さだお氏のドーダ宣言がなされた最初の書物‘もっとコロッケな日本語を’の初版本を持っているからである(2003,6,15 文芸春秋)。ま、ドーダ的にいわせてもらえば根っからのドーダ理論信奉者だったことをいわんがためである。基本的にドーダ理論とは、人は他人に自慢したくて(ドーダしたくて)、それをもって生きがいとして生きているという理論で、こんな真っ当な理論に当初感銘を覚えずにいられず、そのままわたしは東海林さだお信者になった記憶は遠くにある。が、ことさらそれを明言したことはなかったと思う。今思えば長くネタ切れの状態が続いていたのだから、こんないいネタを見逃すこともなかったかと思っている。が、今回はそれで書き始めたということではなかった。今年の夏に、数年ぶりに大学時代の仲間数人と旧交を温める機会を得た。ま、とりとめもない話を飲みながら話していると、そのうちの一人、昔から物知り・博学で仲間内からも一目置かれていたやつが、なんかの折にドーダ理論についての蘊蓄を語りだしたのだ。それを聞いていたわたしは、そんなのとうの昔から知っているといったときの、その彼の驚きが、逆にわたしを驚かせることになった。彼からすれば、なんでお前ごときがそんなことを知っているのだという驚きのようだった(ま、わたしは彼とは対照的に昔から、何も知らないバカ者だったから余計だと思う)が、わたしにはこの時、彼はドーダしようとして、逆にドーダされてしまったことの驚き?ショックを受けたように見えたのだ。で、わかったことは、ドーダ理論を知っていることそのことが、自慢できる種?、ドーダできるということなのかとその時知って、ならばと思ってここに書きだしたのである。

 そう、想えばこのわたしのブログそのものが、もうドーダ理論の実践と、その披歴の場に他ならなかった。ある意味この15年はこのドーダ理論に支えられて、やってこられたといっても過言ではなかった。わたしのようにとりえのない人間にとっては、つまり他人に自慢のできる種(ネタ?)の持ち合わせのない男にとっては、あまり人に知られてないところにいったりしてドーダとやって、自我の安定を図っていくしかなかったのである。だからあくまで自己満足かつ自己完結の世界であった。それでも世界は違うにせよ、所詮みな同じ気持ち(境遇・背景・環境・時代の中)で生きている、つまりドーダしながら自己の安定を保っていると思うと、少しは生きやすかったことは確かであった。

 さて、タイトルに従うならばここでもう一つの持論、独歩論を展開して、ドーダ理論との整合性、親和性・相性を語ろうと思っていたのだが、実は独歩論は漠としたものを持ちつつ、未だ整然とした理論にはまとめ上げてないのである。それでも少なくとも15年の間、両者はわたしの行動を支えてきて、矛盾することはなかったように思う。口幅ったいが、どちらもワレと他者・世界との関係論だと思ってる。この面倒な世の中をいかに生き抜くかをドーダ理論は教えてくれてるし、独歩論にもいくばくかの処方箋は含まれているような気はしている、とだけ申し上げて勘弁してもらいたい、、という前置きで、次回から先週訪れた旅録を書き始める予定だが、今回は見事にドーダには行きつかなかったのである、、どうしてそうなったのか、わたし自身それを確かめたい想いでそれを書いていこうと思っている、、だから、乞うご期待の旅にもドーダの旅にもならなかったことだけお伝えして、いよいよドーダブログの終息も近いことを感じ取っていただけたらと思ってます。

最後に‘もっとコロッケな日本語を’の本の写真と、わたしのmailアドレスを皆様に知らせて今回〆させていただきます、、

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mail address は do-da62@nifty.com です。ご意見、お問い合わせ歓迎です、、