独歩の独り世界・旅世界

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インドネシアの旅 第四章 ニューギニア島イリアンジャヤ その2,バリエム渓谷トレッキングSeima

  二日目の朝、ガイドのジョナス氏が8時に迎えに来てくれることになっていた。6時には起きて、いつでも出かけられる準備は整えて、朝食を摂りに食堂にいった。いや、このときは思わず、そうだったのかとつくづく感心してしまった。ようやくこのホテルの価値がのみこめたのだった。つまり、そのビュッフェスタイルの朝食は、期待してなかっただけに素晴らしすぎた。これは世界のどのクラスのホテルにあっても恥ずかしくない価値ある朝食であった。また宿泊客はヨーロッパからの年配の方が多く、もちろん彼らはもっといい部屋に泊まっていたのだろうが、わたしは最安値の部屋で、それがいまいちだったから、このホテルは値段の割りにたいしたことないな、とまで思っていたのが、いい意味で裏切られた?いや、値段相応のことはあるな、と見直したのであった。そういう意味では今回の旅で最も豪華な食事だったかもしれなかった??、、なのでけっこう満足して7:45にチェックアウトし、ホテルの前で写真を撮りながらジョナス氏を待った。

<実はこのとき撮った写真は間違えて前回載せてしまったいた、最後の5枚がそれである、謹んでお詫び申し上げます>

 ほどなくして彼もやってきて、打ち合わせどおり買出しにでかける、といっても今回のトレッキングはすべて彼にお任せで、内容的にはわたしの意向は藤原さんからジョナス氏に伝わっていたはずで、そのための手順や費用の件については逆に藤原さんから聞いていたから、その場になって新たに話すことは何もなかった。が、逆にそれが少々不満でもあった。というのは、実は最初に出かけた先はホテルから5分のところにあったスーパーだったが、そこはわたしが前日の夜に買い物したところで、ま、それは異議にないところ、ただ本来のわたしだったら、やはり3日間ということで(この行程をいくにはすべて自炊する必要があった)、それなりのメニュウがあって、それに応じた食材の調達をするべきと思うところ、ま、それらをすべて彼に任せていたから、適当にあれもこれもと購入するのを目をつむらざるをえなかったこと、それとわたしの好みを全く聞かないのにも、このガイドに少々不満を感じた、ということだった。もちろんその費用はすべてわたしもちで、それはわたしと彼と、もうひとりポーターとしての助手が一人ついたからその分も含めたものだった(そのほかに高額のガイド料、ポーター代を払っているのだ)。ま、それでもタカが知れているといえばその通りなのだが、どうも性分というのがあってわたしはけっこう細かすぎるのかもしれないが、もうひとつはこのガイド氏からは、相当カモに見られてしまっていることを感じたからでもあった。この先こいつとうまくやっていけるか、少々不安も残ったのである。そこから歩いて藤原さんの事務所までいく。そこで不用な荷を預かってもらい、ストックがあったら借りたい旨申し出ると、どこかから探してきてくれ、それはそのあと相当重宝することになった。挨拶してそこから今度は歩いてミシ市場Pasar Misiに向かった、というか大雑把なルートは聞いていたが、もとより地図もなく(パプアコムにそれは壁に張ってあったが、実物の入手はできなかった)初日の予定もルートもきちっと頭に入ってなく説明もなく、結局すべては彼、ジョナス氏に従うしかなかったということもわたしの不満・不安を募らせていたのだ。もちろん英語が通じたから聞けば済む話だったかもしれないが、最初からこの男は少し横柄なところがあったので、わたしとは相性があまりよくなく最後まで馴染まなかった、が、それは決してガイドとして不適格ということではなく、彼の優秀さは認めてのことである。それはこの後発揮されてくるのである‥、、

ホテルから藤原さんのパプアコムへ向かう途中の商店街、言ってみればワメナの中心、最も活気のあったところ、、;3枚Img_7921_640x480_2Img_7923_640x480_2Img_7922_640x480_2ガイドのジョナス氏、右、多くの人から声をかけられているが、注目すべきは両者の手、これは本多氏の本にもあったが、指を絡ませるのが彼らの挨拶の仕方、、

 ミシ市場までは歩いて15分、ここでは主に米、そして彼らのタバコを仕入れる。そこは華僑の店だったが、華僑の店はこういった立派な店構えの店が多く、地元民は近郊から集まって野菜類を地べたで商っていた、その後ろの公共の市場では鮮魚、肉類を含むありとあらゆるものが商いされていてこの市場は相当活気があった。わたしはうろつき回って写真を撮っていたりしていたが、その間に彼はすでに連絡してあったのか、その場で捜したのか、ポーターをやってくれる若者を一人連れてきていた。そして彼が買い入れた食料ならびにわたしのたいしたことない荷(3~4kg)を担いでくれるとのことだったが、そこからはまずベモ(?乗り合いトラック)で行けるところまでいって、そこから歩くとのことで三菱の改造トラックの運転席で出発を待った。出発は9時半、そこからは先は商店も食堂も何もない世界となったが、両側は豊かな田園地帯が広がっていて、遠くの山々がとても美しくみえる世界へと変わっていった。40分乗って、とある分岐で下車、その車はもう少し先までいくとのことだった(終点は数キロ先のスッゴモSugokmogというところで、帰りはそこから乗車した、料金は一人20)。その分岐には店も何もなかったが人は大勢いた(たぶんワメナに行く車を待っていたのだと思う)。後でわかったのは、この分岐は相当重要な地点で、というのもこのバリエム渓谷トレッキングはバリエム川の造る渓谷を行くのだが、この流れの激しい川にはほとんど橋がかかっておらず、その対岸に渡る数少ない橋のひとつに至る道が、その分岐だったのである。そこではドイツ人の中年のご夫婦もその車から降りてきた。彼らはガイドは連れておらず、日帰りでその辺りを散策するといっていたが、後からはそれもありだったことを知った。少なくとも結論からいえば、われわれのいったコースでも一泊二日で可能だったことを後から知るのであった、、

Pasar Misiミシ市場;9枚Img_7934_640x480_2Img_7924_640x480_2店舗をもっているのはたいていは中国系(華僑?)Img_7926_640x480_2Img_7929_640x480_2野菜は路上商いが一般的?Img_7927_640x480_3
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Img_7933_640x480_2たぶん豆腐?Img_7932_640x480_2道路に面した裏手が公設市場?あらゆる食料品が商いされていた、、

いざ出発、山に向かう;2枚
Img_7935_640x480_2Img_7936_640x480_2

下車地(分岐)到着、、; 2枚
Img_7937_640x480_2上方に続いている道が分岐路(われわれが行く道)Img_7939_640x480_2乗ってきた乗り合いトラックを送る、、


 ガイド稼業も商売である。しかもいいカモを見つけたならば、彼らにとっては最も実入りのいい仕事かもしれなかった。だから、空港従業員もオジェドライバーも正規の仕事そっちのけでガイドをやりたがる。そしてもちろん交渉可能だが、一応の相場はあるらしかった。しかも藤原さんの紹介とあらばその最高額が保証されていた。その額はガイド一日500、ポーター一日150、食費・交通費ももちろん客払いである、で、結果論であるが、今回わたしが歩いたのは2泊3日コースで、藤原さんがわたしの希望とわたしの体力を慮って作ってくれたのだが、そして彼ら(ガイド氏とポーター氏)もわたしの年齢・体力に合わせたペースで連れてってくれたのだが、はっきりいってこれまでの数回経験しているトレッキングからすれば、一泊二日で可能なコースであったように思う。つまりわたしがいいたいのは、一日分余計に日当を払うことになった悔しさ?わたしはケチな貧乏旅行者であることをいってなかった(いえなかった)し基本的には事前にそのルート全体について、その行程・位置・距離をきちんと把握していなかったことがその原因と考えられた。ま、その辺はそれぞれの思惑が絡むからなんともいえない、が、タカが5000円程度の話、彼らのためになったと思えば、という寛大な心の身いついてない自分が情けなくもあり、恥ずかしくもあった、ということなのだが、ともあれ、それでもそのときは意気揚々とすがすがしい空気の中、素晴らしい景色の前方の山に向かって歩き出していた。10:10、同じルートをいくものは他になかった。いや、ほんとに気持ちのよい道だった。しばらく行くと大きな橋がかかっていた。その左側に古い橋の残骸が残っていたが、ジョナス氏が何かいってきた。何でもそこでかつて日本人が亡くなったようなことを教えられたので、近づいてみるとそこに遭難碑が建っていた。二十数年前に日本の若者がここで何らかの事故にあったようであった、冥福を祈らずにはいられなかった。橋を渡ってしばらくいって休憩となった、そこまでは平地歩きで30分くらいだった。荷物をもっているわけではないから疲れてもいない、休む必要もないと思われたが、後から思えばそれは時間調整であった。つまり、このコースはまともにいったら二泊三日にするのは(時間があまりすぎて)難しかったのだ、、そんなことは露知らず、かといって急いだほうがいいのでは?ともいえず、わたしはガイド氏に従うしかなかったのだった。再び歩き出して小さな小川を渡ると登りにさしかかる。それほど急でもないし荷をもっているわけでないから楽勝である、40分で登って見晴らしのよいところでまた休憩になった。が、おやつがでるわけでもなかった(ま、会話はほとんどなかったのだったが)。その辺りからは山の中腹をいったので登り下りはほとんどなくなる、細いが道もしっかりしていて危険なところはない、右側は絶景である、快適なトレッキング?というか、ま、山歩きではあった。集落を2~3通過した、山の斜面はほとんど耕作地で、野菜やイモ類が植えられていた。作業している人、反対側から来る人に何人も会った。その度ジョナス氏は挨拶だけでなくおしゃべりになった。次の日あたりには気づくことになる彼の優秀さとは、即ち顔の広さにあったのだ。この地の人をすべて知っていた?、もしかしたらダニ族の習慣として、あるいは狭い世界だから必然的にすべての同族は知り合いになってしまうのかもしれないが、この男は顔が広かった。いや、未開の地で、少なくともわたしにとっては未知の地で、もしこの男がいなかったらどれほど危険だったか(ちょっと現実的でない表現だが)?、いや、一般論として例えばわたしが未知の地に赴く場合、ガイドはその地をよく知り、現地の人と深い繋がりがある人ほど頼りになることはいうまでもないことである。それが優秀なガイドの第一要件であるとするならば、わたしには愛想の悪かったこの男も、優秀なガイドといわざるを得なかったのである。

10:10に歩き出す、ポーターのダイス君(30)はわたしの荷と食料を担いでいる、草原に出て二人のスナップを撮るImg_7942_640x480_2Img_7945_480x640_2

古い橋のたもとに慰霊碑があった;2枚Img_7948_640x480_2Img_7949_640x480_2

バリエム川を渡るImg_7951_640x480_2

本流を渡って少しいくと小さな支流があってそのたもとで休憩;2枚(そこまで30分?)Img_7954_640x480_2Img_7955_640x480_2

支流を渡ると登りになった;2枚Img_7959_640x480_2橋に近いところにあった村Img_7957_640x480_2

かなり登って休憩Img_7964_640x480_2

そこからは山の中腹を行く、斜面はいろんなものが植えてあった(これはジャガイモ?);2枚Img_7961_640x480_2Img_7960_480x640_2

途中途中きた道(バリエム渓谷のワメナ方面)を振り返る;2枚Img_7966_640x480Img_7970_640x480

途中通過した村、ウリスィとかフゥイマといっていたように記憶しているが?;2枚Img_7968_640x480このホナイのわらぶき屋根にソーラーパネルが現代のニューギニア高地の特色に思えた、、Img_7969_640x480

これは新しくホナイを建てている現場Img_7972_640x480

Seima(その日の宿泊地)近くの水場Img_7975_640x480後の写真にあるように子供たちはここからの水運びの手伝いをしている(家から10分)


 なにしろ13時に着いた家が、その日の宿泊場所だといわれたときにはいささか驚きを隠しきれなかった。ま、そのときは先に挙げた時間調整ということに気づいていたのだけれど、こんなに早く?まだ休憩入れて3時間も歩いていない、疲れてもいない、しかしルート(全体の行程、一泊目どこに泊まって二泊目はどことか、またその距離)を知っていたわけでないから異議も唱えられなかった。ま、それでも初めての経験であるダニ族の住居で、その生活を観察することはたいへん興味深かったので、見晴らしのよいところに建つ簡素な家の中に入った。真ん中に炉がきってあって、そこのお母さんと子供たちに暖かく迎えられた。そこまでに通過してきたウリスィ、フゥイマの村の家々のほとんどは円形のホナイが数件寄り添って建っていて一家族を構成しているようだった。が、そのSeimaの家は方形の家だった。本多さんの本にはしダニ族の家は円形のホナイで、モニ族の家は方形の板張りとあったから、もしかしたら彼らはモニ族?違う部族だったのかもしれない。その内部の構造も炉のきってある居間の隣がブタ小屋だったのも、その本にあったのと似ていた。いずれにしろそこは、非常に快適な空間だった。そこでジョナス氏の作る昼食を食べ、その後ではこの家族が茹でた芋もいただいた。ただ、ポーターのダイス君はおとなしい青年で甲斐甲斐しくジョナス氏の助手を務めていたが、ジョナス氏は、そこのお母さんやあとからやってきた数人の男性(そのうちの一人はたぶんここのご主人)とおしゃべりに熱心で、こちらは手持ち無沙汰になってしまった。それでも家の前の広場がとても気持ちの良いところで、景色だけではなく、そこの子供たちを見ているだけでも心が洗われる思いであった。どうやらその地は、ちょうどトレッキングルートの宿泊場所に適っていたからか、今ではそこは積極的にトレッカーを泊めているようで、別棟が建てられていてそこの一室を寝室にあてがわれた。そこにはマットレスが敷かれ、夜にはソーラーから引いた電気で照明もついた。そしてこれもトレッカーのためと思われたがトイレもあったのだ。昼食後その広場でボケーとしているとジョナス氏がやってきて、少し散策しようということになった。そして近隣の家々(それらはすべてホナイで構成されていたからダニ族だったのかもしれない)の間を通りながら、バリエム川を見下ろす崖のふちまで行く、、そこは格別に眺めのいいところで一軒のホナイが建っていた。わたしは直感的にそこはこの村の若者のための逢引の場ではないかと思ったが、確認はしなかった。また非常に興味あることであったが、今の若者たちの生態・実態も聞き逃してしまった。今ではケータイが普及し、ソーラーで電気も来ており、オートバイや車が入っている世の中になっていた。それこそ本多さんたちが調査に来た半世紀前とは隔世の感ありだったと思う。まさにその時代はまだ石器時代の生活そのままだったのであるから、半世紀で石器時代から一気に現代世界にひとっ飛びしてしまったのである。おそらくこんな事例は世界のどこを探しても見つけられないであろうから、社会学文化人類学の調査対象地としてはこんな面白いところはないかもしれない、、しかしわたしは確信的に思うのだった、、一つ変わってないものがあるとすればそれは子供たちの笑顔ではなかったか?と、、このくりくりした目を輝かせながら子供たちがお手伝い傍らはしゃぎまわっているその笑顔は100万ドルの価値があった。その笑顔を絶やさないでほしい、その笑顔がある限りこの地は世界で最も幸せな場所かもしれないとさえ思った。そして、その笑顔に出会えただけでも、このトレッキングは価値があったと思ったのである‥、、

宿泊地Seimaで世話になった家の中;2枚 団らんの場所にお母さんと子供たち、実に仲のよい家族であった(が、すべてが彼女の子供かどうかは不明)Img_7977_640x480Img_7994_640x480居間の向こうはブタの居室?残飯が出るとすべて向こうに投げ込めば処理される、実に合理的、、Img_7992_640x480彼らの主食のサツマイモを饗された

 

寝室とトイレImg_7995_640x480マットレスが敷いてあった、、Img_7980_480x640トイレはあるだけマシで、こんなトイレで用が足せない人にはこのトレッキングは無理??

ジョナス氏に連れられて近隣散策;7枚Img_7981_640x480たぶんダニ族の家で、男性用だったか女性用といったか、いずれにしろダニ族のホナイは男女別であるImg_7983_640x480その内部、本多さんたちが訪れた時代には家財道具としての鍋・釜は皆無であった、、

Img_7990_640x480近隣はホナイが多かったので、ほとんどはダニ族だった?

崖っぷちに建つ一軒のホナイの用途はなんだったのか?Img_7986_640x480Img_7985_640x480
Img_7989_640x480内部の落書きの意味は?Img_7984_640x480_2バリエム川の向こう岸はクリマKurima村

家の前の広場から山側の隣家、これもダニ族、本多さんの本にもあったが彼らは隣り合わせに住むことに意を介してないようである、、Img_7997_640x480

水汲みから帰ってきた子供達、もう元気そのもの、無邪気そのもの、実に笑顔がよかったImg_7999_640x480Img_8002_640x480やはりいざ写真を撮ろうとすると自然の笑顔は出てこなかった、シャッターチャンスはいくらでもあったが、素人の悲しさでいいショットは撮れなかった、是非どなたかtryして下さい、、

夕食の準備をするポーターのダイス君とガイドのジョナス氏(50歳といっていた)Img_8003_640x480