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インドネシアの旅 第四章 ニューギニア島イリアン・ジャヤ その1,ワメナ Wamena

   かってイリヤンジャと称されていたニューギニア島の西半分は、今ではパプア州西パプア州の二つの行政域に分かれ、イリヤンジャヤの時代からずっと中心都市であったジャヤプラJayapuraが今のパプア州の州都となっている。とはいってもニューギニア島そのものが、19世紀以来オランダ、イギリス、ドイツの統治を受けたものの、その開発は沿岸部に限られ、それ以外の地域は未開のまま残され、山間に住む文明に接触したことのない部族の発見は1930年代、つまりまだ一世紀も経ておらず、その後オランダから独立してインドネシア領になってからでもまだ半世紀しか経っていない。いや、そうとう未開の地であることは聞いていたし、だからこそ一度は行ってみなくてはとずっと思ってはいた。しかし、距離的に遠かったこともあって、これまでそこへのアクションを起こしたことがなく、そもそも今回の旅の予定にも当初その地は含まれていなかった。が、このかつてオランダ領だったニューギニア島の西半分は今はインドネシア領であったから(ビザも不要になって)問題はアクセスだけだった。で、出発の直前になってプランニングを見直していて、一つには日程的に余裕があったことと行くとしたらスラウェシのマカッサルから飛ぶのが一番近そうなことがわかり、急遽プランニングを変更してticketを購入した、といったことは前回書いたかもしれない?、そうしてマカッサルから飛んだフライトが到着した街がジャヤプラであった(ある意味ジャヤプラにはインドネシア各地から日に何本もフライトがあったのにも当初驚いていた)。

Jayapura到着Img_7877_640x480_2

空港正面;2枚Img_7879_640x480Img_7880_640x480

搭乗待ちロビーImg_7881_640x480


 しかし、ジャヤプラという街自体はそれほど面白そうではなかった。というのもガイドブック等による情報では、ニューギニアのもっとも興味のあるところは何といっても、まだ近代文明が入ってから一世紀も経っていないところ、本のタイトルに‘世界でもっとも石器時代に近い’ところなどと題される地、あるいは半世紀前に本多勝一氏が著したニューギニア高地人の住んでいるところ、その地の50年後を訪ねてみたかったのである。なので、ジャヤプラの街からはけっこう離れているというセンタニ空港から市街へ出るのはやめて、そのままニューギニア、旧イリヤンジャヤ(この地を指すのにパプア州というよりもイリヤンジャヤのほうがイメージしやすいかと思い、今後もこの名称を使うかもしれない?)高地の中心の街ワメナWamenaに飛ぶべく、乗り継ぎ便を待った。なにしろその間は未だ陸路はないとのことだったからである。タイミングさえよければ2時間後くらいのフライトがあったようだが、そのticketは取れなかったので、結局ジャヤプラでの乗り継ぎに4時間半を要した。結構混みあっている飛行場で、待合室には多くの欧米系ツーリスト、そしてパプア系の色の黒い人が多く、いわゆるインドネシア人ぽい人(マレー系とでもいうのか?)はずいぶん少なく感じた。それでもガイドブックにはこのジャヤプラにはジャワ人やスラウェシ島からの移住者も多いとあった。また、この飛行場の発着便数も、駐機場にインドネシア国内を飛ぶほとんどの航空会社の飛行機を目にしたから、その数は多そうだった。で、わたしのticketライオンエアIW1633は、これも1時間遅れで11:40にジャヤプラを飛び発った。実は搭乗早々、わたしの席に色の黒い現地人父子が座ってて、一揉めする。というのも普通は搭乗券を示し言葉がわからなくてもそこはわたしの席だ、と主張すれば済む話だと思ったが、言葉の問題ではなく彼らはそれに素直に従ってくれなかった。しかたなくCAを呼んで説得してもらって渋々移動してもらったが、場所が場所でなかったら、わたしもそれほどこだわることはなかったのである。が、そこは初めての地ニューギニアだった、しかもそのときの座席が運よく窓際であった、現地の父子ももしかしたら初めて乗る飛行機だったかもしれないが、わたしは譲りたくなかったのである。この機を逃したらといつこんな幸運な状況に遭遇するか、わたしと彼らの確率の問題だったかもしれないが、たぶんそんなことは彼らが想像していたとは思われない、だから我を張ってしまった、、そうしてわたしはずっと彼らに睨まれていたことを知りながら、窓に顔をくっつけて下界を見下ろしていたのだった。わたしが目にしたのは、確かにところどころ川筋が見えるだけであとは緑一色、道も村も確認できなかった。そのうち道路と民家が見えだしたと思ったら、まもなくワメナに着陸したのだった(飛行時間1h)。周囲を山に囲まれた、かなりローカルな飛行場だったが、立派なターミナルビルが建っていた。もう慣れっこになった後部の出口から階段を下り、そのターミナルビルに歩いていった。

ジャヤプラで搭乗(1h遅れ)Img_7882_640x480

離陸、ジャヤプラの街;3枚Img_7885_640x480Img_7888_640x480Img_7890_640x480

眼下の模様;5枚Img_7898_640x480

この写真辺りからはWamenaに近い、、Img_7900_640x480Img_7903_640x480Img_7904_640x480Img_7905_640x480

Wamena着陸;4枚Img_7906_640x480Img_7909_640x480Img_7910_640x480Img_7912_640x480


 そのとき荷物を待っていた記憶があるから、もしかしたらマカッサルで荷を預けていたのかもしれなかった。その荷を待っている間に早速声がかかった。ま、色の黒い空港従業員(制服を着ていた)?ポーターだったのかもしれない、こんなことを英語でいってきた、、自分はここで働いているが、いつでもどこへでもガイドする、ガイドライセンスももっている‥と、、感じのいい男で、英語が通じるということで普通だったらその話に乗ったかもしれなかった。が、そのときわたしはここに在住している藤原さんという方にガイドの紹介を頼んでいるのでそれは難しいと答えた、、すると彼は藤原さんを知っているといって、わたしの言わんとすることを理解してくれ、そこ(彼の事務所)への行き方を教えてくれたのだ。ちなみにそのとき書いてくれた彼の名前はWendyといったが、あとで藤原さんに話したら、藤原さんも彼のことを知っているといっていた。そこで早、Wamenaにおける藤原さんの存在がいかに大きいかを知るのである。なので、空港ビルをあとにしたわたしは迷うことなく教えられたオジェ乗り場に行き、オジェドライバーと交渉することができた。しかし、すぐに見つかったやはり色の黒いドライバーは、同じことをわたしにいってきた。自分もガイドが出来る、必要なら自分を雇ってくれと、、しかし行き先が藤原さんのパプアコムだったから、言っても無駄だったことは承知していたと思う、彼には10払った。そんなんで13時頃には藤原さんにお会いすることができた。

 すでに藤原さんの名前は第二章で書かせてもらっていたと思うが、実はお会いしたときにはまだ彼の素性を存じ上げておらずたいへん失礼をしてしまった。彼のキャリアを知ったのは日本に帰ったあとであったが、とてつもない人だったのである。後に知った彼の経歴は、いわゆる登山家としての名声は、その世界では知らぬ人はいないといった存在で、日本における初登攀の記録や世界のピークは軒並み制覇されている著名な登山家であったのだ。もちろんイリアンジャヤの最高峰を含むほとんどを彼は制覇していた。そしてその後彼がこの地を永遠の住処とする経緯もたいへん興味深いものがあったが、その話はいずれできるかもしれない、、さて、わたしはそんなことを知らずにガイドブックにあった情報だけで、もちろん事前にお伺いしたい旨は連絡してあったが、いきなり押しかけてしまったのである。だから彼はわたしが伺うことは承知していたが、それがいつのことかまで覚えてなかったようで、突然の訪問に慌てておられた。当初は何をされているのか存じ上げなかったが、そこはWamenaで唯一のPC関連業務を取り仕切るオフィスで、その会社を経営されているようだった。若い女性4~5人が彼の指示に従っていろんな業務をこなしていた。PC数台を揃えていわゆるインターネットの時間貸しもしているようだった。初対面の彼は、白髪だったので初老といった印象だったが、年齢はわたしより8歳下とのことで、数年前に大病を患って今はもう山登りはされていないようなことをいっていた。とはいえ、ワメナ在住40年(?、記憶違いかもしれない、最初にこの地に来られたのが40年前とのことだったか?)というから、この地の人で彼を知らない人はいないように、この地のことも人の情報も、この方を頼れば完璧にサポートしてくれることはすぐにわかった、つくづく空港のポーターやオジェドライバーに引っかからなくてよかったと思ったものだ。で、話は早かった。わたしの予定や希望を聞いてすぐにプランニングしてくれたのだ。わたしの滞在は、その日が2/6で帰りの飛行機は2/11だった。ということは実質動けるのは7~10の4日間、その間できれば2~3日のトレッキングにいってみたい、ただしもうそんなに歩けなくなっているのできつい行程は無理だと思う、とお願いした。瞬く間に2泊3日行程のトレッキングプランを作ってくれ、それでよければ明日からということでガイドを探してくれるといってくれた。承知すると、とりあえず入域許可証Suratをとってくるようにいわれる、その場所は角を曲がったところにある警察署で無料で取れるとのことだった。で、偶々写真ももっていたので早速出かけた。そこでは婦警さんにわたしのパスポートと写真を渡すと、15分くらいでSurat入域許可証を作ってくれた(が、結局それを提示することは一度もなかった)。30分くらいでオフィスに戻ると、すでにそこに明日からのガイドがきていて紹介される。ちょっと横柄そうな男だったが、藤原さんはこの男は信頼できる、(わたしが話した)空港であったガイドは以前一度使ったことがあるが二度と使うことはないであろうといっていた。そしてガイド料も含めた費用概算を提示され、それを用意しておくように言われ、また、ホテルは一応のレベルのホテルがいいだろうといって一軒紹介してくれた。わたしには少し高級すぎたが、この地は特別かも知れないと思ったのでそれも承知して、そのホテルまでは明日からのガイド、ジョナス氏が彼のバイクで連れて行ってくれるといってくれた。速やかな、というか鮮やかな対応に感激して、紹介手数料なるものを払おうとしたら、そんなものは絶対にいただけませんと固辞され、お礼の言葉を述べて立ち去ろうとしたとき、とんでもないものを目撃することになった、、

 ここニューギニア高地には、何十、いや何百?という数の部族が住んでいて、その数だけ言語があると聞いていた。本多さんの本‘ニューギニア高地人’の中にも、5~6の異なった部族が紹介されていたが、実数としては少なくともイリアンジャだけでも相当な数になるらしく、実際その統計や調査記録があるのかどうかまでは知らなかった、、が、少なくともこのワメナにおいて多数を占めるのは主要部族のダニ族のようだった。われわれのトレッキングルート上にある村も、またガイドのジョナスもダニ族とのことだった。そして今では、すでに文明化の初期段階は終えていたから、一部に商売?目的でコテカ(ペニスケース、本多さんの本ではゴサガ)だけで街をうろつく人はいたが、ほとんどはTシャツと長めの半ズボン姿が男性の服装だった。が、そのときほとんど上半身裸で、手に弓矢や槍、棍棒武装した集団が、藤原さんの事務所の前の通りを駆けていった、その数2~30人、いってみれば戦闘態勢と思しき様相であった。その集団は、掛け声とともにしばらく駆けると少し止まって今度はゆっくり歩いていった。全てかどうかわからないがおそらくダニ族の男たちだったと思う。そしてそんな集団が、後から後から続いてきて10組くらい通過していったか?、それを目撃したのは藤原さんのオフィスの前だったから、彼もでてきて説明してくれた。まず、それはデモとのことであった。こうしたデモは時々あるとのことで、どうやらその地の統治に関しての異議?、あるいは間近に迫っている選挙がらみの示威行動<デモンストレーション>とのことであった。それにしてもその威嚇するような武装というか、いつでも集団闘争ができますよといった風なデモンストレーションには驚かされるものがあった。が、すぐに藤原さんから写真は撮らないほうがいいと注意された。それは彼らを刺激するからというのではなく、この2~300人を越える武装デモ隊の後から装甲車で見張りながらついてくる警察側に咎められ、相当面倒なことになるから止めておくようにとのことだった。そのダニ族のデモ集団を見送ってから、同じダニ族のジョナスはわたしをホテル、バリエム・ピラモまで彼のバイクで送ってくれた。

 その中級ホテル、バリエム・ピラモは一泊450とのことだった。それまでに250以上のところには宿泊してなかったから、明らかに高すぎ、しかしワメナにはいわゆる安宿というの余りないようで、しかも藤原さんの紹介だったから、素直にそこにチェックインした。別に藤原さんの名前を出したわけではなかったから、一応もっと安くならないか交渉してみたが、それは難しそうだったので450で了解したのだ。で、名前とか書いて日本人と書いたら、フロントの女性が、藤原さんという日本人がこの街にいると教えてくれたので、その人の紹介できたことを説明した。ま、これも彼がいかにこの地で名前が知られているかの例証だった。しかし、わたしに与えてくれた部屋はそれほどいい部屋ではなかった(ちょっと問題があり後で替えてもらった)。ま、それでもやっとワメナで落ち着き場所を得、荷を置いてから、街の散策がてら食事処を探しに出かけた。前日の夜から空港ではちょこちょこ腹に入れてはいたが、まともな食事にありついてなかった。ホテルの隣が食堂だったので、そこでもっともポピュラーなSoto Ayam(スープ&ご飯)を頼む、味は悪くんなかったのだけれど、それが40だったのにはちょっと驚かされた、フローレス島で食べたときの倍?、どうやらニューギニア島の諸物価は他の地域と比べるといくぶん高いのかもしれないとそのとき覚らされた。腹が落ち着いて、街ブラには出かけず一旦部屋に戻り、片付け、明日からの荷物の仕分け、そしてシャワーを浴びて少し昼寝、、目が覚めたときはすでに外は暗く、街全体も明かりが少なく、商店も閉まっているところが多かった。が、それでも昼間全然歩いてなかったから、暗い夜道を明かりの点いている商店を目指して少し歩いてみた。人通りも車の往来も、たぶんWamenaのメインストリートだったと思うが少なかった。それでも明かりの点いていた商店のひとつがスーパーマーケットだったことに驚き、かつ喜んで入ってみた。が、あいにく最もほしかったものは置いてなかった。後日そのことを藤原さんに質したが、どうやらこの地で酒の入手は不可能なようであった(滞在5日間、酒もビールも飲めなかった)。しかたなく、夕飯になりそうな惣菜パンと飲み物、それと菓子類を少し仕入れて、いまひとつ寂しい夜を過ごすしかなかったのだった、、

ホテル前のメインストリートImg_7914_640x480Img_7917_640x480日本にもよくある顔の部分をくりぬいた写真がホテルのフロントの前にあった

観光客の多いこのホテルには、商売(写真を取らせて金を稼ぐ)目当てのダニのオッサンが裸でうろうろしていた(わたしは盗み撮りしたので金は払っていない):2枚Img_7916_640x480Img_7915_480x640

たぶんWamenaで唯一のスーパーには残念ながらビール・酒類は置いてなかったImg_7920_640x480