独歩の独り世界・旅世界

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インドネシアの旅 第四章 ニューギニア島イリアンジャヤ その3 バリエム渓谷キリセKilise


 夜半、大雨が降っていたのを熟睡しながらも聞いていた。けっこう高度があったから寒さを心配したが、毛布もあったし、もっていたシュラフカバーも役に立った。こんなところで快適な睡眠をえられることなど期待していなかったが、思っていた以上に近代的な設備が整っていたといっていい、、6時には起きだして、小さな洗面器状の器に水を一杯分もらい、洗顔と歯磨きを済ます。雨はまだ多少ぱらついていて、その日一日は雨かもしれないと覚悟した、、

 朝食はスーパーで仕入れてあったパンとバナナと紅茶、この行程はすべて自炊だったから(なので食料持参、鍋釜類もガイド氏が用意していて、それをポーター氏が担いでくれていた)それはそれで了解、出発は8時頃になったが、そのとき雨はほとんど止んでいた。礼をいってガイドに確認して宿代として150を渡し、別れを告げた。ガイドのジョンナス氏の後をついていくもその日がどんな行程かは知らされてなかった。ただ、最初の予定ではたぶんキリセというところまでいって、そこが二泊目の場所になるらしいことは藤原さんの作ってくれた日程にはあったのは覚えていて、ガイド氏もそんなこと知っているはずと思って何も言わなかったのかもしれなかった(ともかく彼とのコミュニケーションはあまりよくなかったのだ)、、ただ、そこにはウゲンUgenという地名も載っていたから、どこをどう通っていくのか、その辺りの地図をもっていたわけでないから、いずれにしろついていくしかなかったのだ。で、ガイド氏は昨日散策した近隣家屋の間の道をいって一気に下り始めた。30分で吊り橋まで下った。そこは前日わたった橋の一本上流の橋で、この上にはあと一本橋があるが、なんでもそれは現在通行不能になっているということだった。ということはその橋の重要度は計り知れないほど大きそうだった。橋をわたって対岸の崖を登るとそこは車の通れる道だった。が、車は一台もおらず数台のバイクがたむろしていた。そのバイクはすべてオジェ、つまりバイクタクシーのようだった。そこはKurimaというところで、大きな学校や公的機関、病院などのあるその辺りの中心的な村のようだった(が、商店も宿もなかった)。しばらく広い道をいってすぐに山道になった。少なくともその山道は車の通行は無理そうだった。かなり急な登りになって、あえぎあえぎ登る、上からはたくさんの人が降りてきた、まず学校に通う子供たち、それから大きな荷を担いだ女性たち、この辺の女性は皆ノーケンという手編みの担ぎ袋(大きさはさまざま)を頭に引っ掛けて荷物を運ぶのだけれど、とんでもなく大量の荷をそのノーケンに入れて頭で担いで、とんでもないスピードで降りてくる。そのパワーとスピード、バランスの良さには目を見晴らされた。しかも皆裸足である(ポーターのダイスも裸足だった)、その強靭さたるや、男も女もここの連中に敵うものはそうそういないであろう、あの本多さんでさえ、50年前の調査のときに彼らの強靭さに舌を巻いていたほどだったのだから、、彼らと行き交うたびにガイド氏に真似てパギ(インドネシア語のおはよう、ここではダニ語が通常言語であるが、パギは共通語なのだろうか?)、パギ、とすべての人と挨拶を交わした。しかし、流石に一登りした辺りで少し休憩をとってくれた、というか例によってジョナス氏が知り合いとおしゃべりをはじめてくれたのだった。

直下のつり橋まで30分、一気に下る;5枚Img_8007_640x480Img_8006_480x640Img_8009_640x480Img_8010_640x480Img_8011_640x480

橋を渡って段丘を登ると簡易舗装の道に出た、そこにはえオジェが数台たむろしていた、、Img_8012_640x480

下から一気に登る、対岸に昨日の宿泊地が見えている
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少し平らになったところでしばらく休憩、行商に行く女性たちに出会う;4枚Img_8015_640x480Img_8017_640x480Img_8018_640x480この石積みのブロックが境界になっていて至るところでそれを乗り越えていく、、Img_8021_640x480


 この日は前日とは反対側の右岸の中腹を行った。休憩地点から少し登ると後は余りアップダウンはなくなったが、それでも前日よりは少しきついルートであった。この道はけっこう人の往来が多く、しかも皆ジョナスの知り合いだったからところどころ休憩しながらの、のんびりしたハイキングといった感じだった。前日の宿泊地や、対岸の同じ辺りに作られている道、そしてワメナ方面の眺めがほんとに素晴らしかった。橋から30分ほどはきつい登りで、その後は中腹をいったが、比較的平坦なところが多く、そこはほとんどホナイが建っていて個人の敷地のようだった。で、ブタ等の動物が逃げ出してしまわないように石垣が築かれており、それを乗り越え、乗り越えていくのだけれど、流石にその辺りはガイドなしではにっちもさっちも行かなくなったと思う。ま、いわば道なき道、人の家の敷地を通っていく感じなので(いや、どこからどこが敷地でどこが公道かは非常にあいまいなのだが、またそんな概念もあるのかどうかも定かではなかったが)、すべての住人と知り合いであるジョナス氏はそういう意味で非常に有能なガイドではあった、、休憩地点から30分ほど歩いたところに、まるでゲートのようなホナイが建っていた。それは村の境界でもあるように建てられていたので、わたしは勝手にキリセ入り口と名付けてしまった。そこでまた10分ほど休憩、そこからは少し登りになって30分ほどいったところに教会が建っていた。少し高いところにあって素晴らしい眺め、芝生が気持ちよいところでそこでも休憩する。何派の教会かわからなかったが、そのルート上には、教会がやたらに多かった。15世紀以降世界史で未開の地に最初に足を踏み入れたのは、探検家の次はどこでも宣教師たちであった。このニューギニアも例外ではなかったのだ、、隣のパプアニューギニアのほうが、開発の手が延びるのは早かったが、どうやら今でもこのニューギニア高地では布教合戦は続いているようで、どんな奥地にいっても教会は目にするのだった。たぶんもうそこはキリセの地であったと思うが、小高い山の見晴らし抜群の地に、新しく大きな教会を建設中であった。古い教会は新しい教会が完成するまでは現役を続けているようだった。神父さんがいるかと思ったが、われわれが通ったときは人影はなかった、、そこから少し下りになって、両側がきれいな植栽で整えられた道を写真を撮りながら歩いていると、突然後ろから声がかかって、着いたようなことをいってきた。どこに着いたのだ?と訝しく思って聞き返すと、ここだ、ここがキリセだといっている、、‥??そんな馬鹿な、まだ10時半だぜー、、何なんだこのトレッキングは?と一瞬その言葉を疑ってしまった。それはないだろ、近すぎるではないか ! 早過ぎるではないか ! ! 、、 ま、とやかく言っても始まらないから、了解するほかなかったのだが、そこはきれいに手入れされた広い芝生の敷地にホナイが数棟建っていて、すべてツーリスト用の施設(宿舎)だった。つまりキリセというところは(前日のように)普通の家の一部をツーリストに提供しているのではなく、初めからツーリスト用の宿泊施設が整えられて、その場所がキリセというところになっていた、ということのようだった。わたしのホナイがあった敷地の下には、同じような規模と機能を備えた宿泊施設があって、所有者が同じかどうかまでは聞かなかったが、そこにも別のツーリストが滞在しているようだった。ま、いってみればそのあたり全体がホテルキリセ、といった感じで、トイレも水浴場も(それは自然の岩窟を利用した素敵なマンディだった)水場もすべて整っており、芝生の広場は手入れが行き届いて大変気持ちのよいところだった。ホナイの中にはやはりマットレスと毛布が準備されていたから、個人の所有としては大変な資金のある人のもの?まさかと思うが、すぐ上の教会が運営しているのかと勘ぐりたくなるほどだった。われわれは早速、母家(or 炊事棟?)炉のあるホナイで休憩態勢に入った。酒でもあればそれもまたよしだったと思うが、あいにく紅茶と菓子をつまみながら‥、、

しばらく登りが続いた、、Img_8022_640x480

Kurimaからは4~50分かかったか?(勝手に命名した)キリセ村ゲイト?に着く

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さらに少しずつ登っていった、振り返るとワメナ方面の眺めが抜群、、;2枚Img_8027_640x480Img_8028_640x480会う人会う人が皆知り合いのジョナス氏

登りきったところ、非常に見晴らしのいいところに新しく教会を建設中であった、、Img_8029_640x480Img_8030_640x480現在の教会はその前に建っていた

この手入れされた植え込みのあるところがキリセ、その日の宿泊場所だった、、;9枚Img_8031_640x480Img_8032_640x480正面の建物が管理棟?Img_8049_640x480このホナイはすべていわゆる客室Img_8034_640x480その(わたしにあてがわれたホナイの)内部Img_8071_640x480右の建物は集会所?前方が上の写真にある客用ホナイ

Img_8036_640x480集会所の中に掲げてあった写真とキリセ村の地図?

われわれの敷地の広場の下には、同じ様な形態の宿舎(同じオーナーのものかは確認しなかった);3枚Img_8035_640x480Img_8072_640x480Img_8075_640x480あとの2枚は散歩から帰ってからのものだが、ヨーロッパ人の客を目当てに商売にいそしむコテカのオヤジ

この炊事棟は円形のホナイではなかった、ガイド氏他の寝場所、こちらのほうがはるかに快適だったと思う、、
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 前回結果論として書いたように、この二日間実質歩いたのは、初日3時間、二日目2時間半、このときになって、その実態を知ってかなり憤慨していた。きちんと調べてこなかった自分の責任であるが、いくら衰えたとはいえ、もう少し歩けたし、もう少し厳しいルートかと思っていた。が、このコースは完全に一泊二日で可能なルートだったのである。ルートをきちんと把握し、その都度確認していれば、実はその日橋をわたって左に折れて山道をきたのだけれど、右にいけばそのまま前日乗り合いトラックを降りたところまで約1時間であったから、その日の午前中にワメナに戻ることも可能だったのだ、、それもわかっていたから、この日午前中にここに着いてしまって、午後はほとんどすることもなく悔しい想いで過ごすことになった。ま、カモにされたか?という想いが募っていた。そんな折、気の紛れることが起こった。やはりジョナス氏の知り合いだという珍客が訪れたのだ。まぁ、間近で見るとその黒光りする肌は人間離れした艶?があった。そのいでたちもさることながら、その振る舞いを、ジョナス氏と話している間ずっと観察させてもらった。なんか土産物の装飾品の針仕事のようなことをしているその姿は、余りにもイメージとかけ離れすぎていて、どことなくユーモラスで滑稽さがあった。そして意を決してジョナス氏頼んで撮ってもらったのが、序章にも載せたが以下の写真であった。その日の昼食はミーゴレン・焼きそばだったが、それもおいしそうに食べていった。ま、この一時とこの写真が、この日のハイライトであった、、

炊事棟にて;3枚Img_8040_640x480Img_8042_640x480奥の女性がここの家主のようだった、、Img_8043_640x480昼食のミーゴレンはなかなかうまかった、、

昼食後(昼寝前に)わたしのホナイ前でコテカ氏は店開きをしてくれた、、Img_8045_640x480Img_8047_480x640Img_8048_640x480わたしは何も買ってあげなかったのでコテカ氏寂しげに去る、、


 昼食後、例によってしばらく昼寝、14時頃から前日もそうだったが散歩にジョナス氏が連れ出してくれた。これはありがたかった、待ってましたとばかり、更なる奥地に歩を進めてもらった、、その道も眺めはよく対岸もよく見えた。ちょうどキリセとおんなじくらいの高さにあった対岸の村がウゲンUgenらしかったが、そこへ寄ってキリセにくる予定ではなかったのかと聞くと(その場合はたぶん倍の時間がかかったと思うが、ルート的にはそのほうが面白そうだったし納得だったのだが)、その下にあるウゲン~キリセ間を結ぶ橋が壊れていて渡れないから今日のコースになったと説明してくれた。そういう説明が少なすぎたのだ、、完全にこのガイド氏からは甘く見られていたのだった。ま、それでも奥へ奥へ、はるか下を流れるバリエム川が二手に分かれるところ(合流地点)をぜひ見たいというわたしの希望を聞いてくれ、片道1時間のミニトレッキング(ま、単なる.walking、早い話散歩なのだが)となった。その道沿いにも学校あり、教会ありで、そしてはるか下の合流地点も確認できた。その道はさらに奥地に続いていて、それこそ真のトレッキングはそのあたりから始まりそうに思えたのだが(タンマTangmaというところに続いている道とかいっていた、興味深かったが)今回はそこまでとした。帰り道もジョナス氏の知り合いに何人か出会い、そのうちの一人は先の珍客同様コテカだけのオッサンだった。彼らは二人とも少ないながらコテカなどの土産物を持参しており、この辺りまで来る観光客目当てに昔のままのいでたちを商売道具の一つにしているかのようだったが、もしかしたらそのほうが快適だからそうしているのではないかと、そのときわたしは思ったのである。つまり究極のシンプルライフ、その実践者であるならばそれが最も快適なスタイルとなるであろうと思ったのである、一つだけ心配したのは寒くはないか?ということだけ、しかし本多さんの本にもあったが、彼らは寒さにも強そうだった、、

午後さらに奥へ歩を進めた;10枚Img_8050_640x480左手下にいくつかの村(Ibiroma?先の集会所にあった地図に出ていた家々?)を目撃、、Img_8065_640x480
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これは学校;3枚Img_8051_640x480Img_8053_640x480Img_8055_640x480

バリエム川に流れ込む支流との合流点辺り;2枚Img_8057_640x480Img_8061_640x480Img_8062_640x480方角的には西から流れ込む支流があり、その右岸の高いところに奥へ向かう道が見えたが(その奥はダニ族でない部族が住んでいるとのこと)、こちら側はわれわれが通っている道以外に川沿いに道はなさそうであった、、

その道をさらに進んでみた(このときはジョナス氏をおいて一人で先にいった)が果てしなくつづいていてキリがなさそうだったので、写真の地点で引き返す、、Img_8059_640x480_2

帰れ道に出会ったジョナス氏の知り合いの老夫婦、旦那のほうはコテカおじさんで商売道具をもっていたが、わたしはむしろこのおばさんが気になったのだ、というかその手にしている鉄製の道具、これはすべての女性が例外なく持参しているものであって、主な用途は畑を掘り起こす農具なのだが、場合によっては武器になりそうなものであった、、Img_8068_640x480

キリセの宿に帰り着く、、華やかな入り口、、Img_8069_640x480


 むしろその夜寒さを感じたのは、毛布とシュラフカバーに包まっていたわたしのほうだった。ホナイはわらぶきだから喚起機能はあったがその分夜気が浸透してきた。ジョナス氏は16時半に戻ると食事の支度に取り掛かってくれ、その間わたしは水場で水浴びし、寝床の準備に取り掛かった。広いホナイは5人分くらいの夜具があったが、その夜はわたし一人、しかも以前ここには発電機があったようにガイドブックにはあったが、わたしが泊まったときは発電機もソーラーパネルもついてなくて灯りは持参の小さなポケットライトだけだった、なので早めに寝床を作ってそれから彼らのいるホナイにいった。そこは火を焚いているからけっこう快適だったのだが、食事を終えるともうすることなく、酒もなく親しく話する相手もなくで、早めにホナイに戻って寝てしまった。が、その夜は寒くてほとんど熟睡はできなかったのであった。で、あくる朝は、6時半におきて洗面・トイレを済ますと、もう食事ができていた。たぶん食料がだいぶあまっているのかいろんなものが出てきた、ご飯に焼きそばにパンと、そんなに食べれるわけがなく、ほとんど断った。それでもよくしたもので、前日もそうだったが、ここの人たちにも分けていたからそれはそれで、無駄にはなっていなかったようだ。かといってこの地は食料は豊富だったから、飢えている人の多いところではなかった。それだけでなく、わたしはもちろんまだ文明に触れたばかりの社会とはどんなものかという好奇心をもってこの地に来てみたわけだけど、あの鷹揚さというか、こだわらなさというか、いわゆる近代的な道具やモノにほとんどこだわっていない、そんなものなくたって生きていけるし生きてきたという自負と誇りは、なんかとてつもなく凄い人たちのように思えてならなかった。もしかしたらモノなんか下手にないほうが幸せだったかもしれないというアンチテーゼを見せ付けられてる想いだった。わたしが確実に感じたことのひとつは、彼らは現代人と接触したことによって、日に日に昔の幸福感=充足感が廃れていくのではないかという心配だった。彼らは確実に完結した世界に生きていたのだ、よそ者が余計なお世話をしないこと、彼らの生活を破壊しないことが、彼らが彼ららしく生きていくために最も大事なことのようにも思えたのだった。そうやって、満足に幸せに暮らしていた人々に対して、余計なおせっかいでもって、彼らの生活を根こそぎ変えてしまったのが、野蛮という概念をでっち上げて、自己中的な信条を押し付けていった近代人?文明人?に他ならなかった。今、行き詰った資本システムならびに高度情報社会の視点から眺めると果たしてどっちが文化人でどちらが野蛮人だったか、人間としてどちらが幸せだったのかが、わからなくなってくるのである。われわれは今にして彼らから学ばなければならないものが多々あるような気がしてならなかったのである‥、、

夕食の支度をしてくれているジョナス氏とダイス君、ま、二人ともよくやってくれた、、Img_8076_640x480


さすがに朝からこんなに大量には食えず、手をつける前に戻した、、Img_8077_640x480

 チェックアウトのとき面白い出来事があった、今ではコテカの老人たちも、土産物販売をするくらいだから貨幣経済に飲み込まれて久しいのであるが、つまり計算はできるのである。本多さんの本によると当時彼らの数の世界は、両手両足の指の数くらいで足りていたらしい。が、今では学校教育が浸透しているから誰も基礎の算数は皆できた。わたしが宿代を払おうとしたとき、150ちょうどの持ち合わせがなく200をだした。だれもお釣りをもっていなかった。宿の奥さんが知人のおばさんに両替をお願いした、が、その人はこの計算ができず(たぶん両替の観念もなかったかもしれない)周人がるのに相当苦労していた。数十年前までは皆そんな計算で悩むことはなかったのである、平和な世の中だったと思う、、いや、そりゃ戦争もあったかもしれないが、無意識的な満足度はわれわれの比ではなかったと思うのだった‥、、

朝の風景;2枚Img_8079_640x480わたしの隣のホナイは倒れかかっていた、、
Img_8080_640x480つり銭問題が解決し、みんなに送られて出発


 7時半出発で、来た道を戻った。帰り道はほとんど下りだったから、楽勝に1時間でKurimaまで下り、広い車道にでてしばらく行くと、このKurimaに車がないわけが理解できたのだった。そこは山からの激流が一本流れ落ちていて道を遮っており、そこには橋がかかっていなかったのだ。しかし歩きの場合みんな裸足だから、水に浸かって、あるいは飛び石伝いにすいすいと渡渉していく、、こういう時靴をはいているものはたいへんなのだ。靴を脱いで靴下を脱いで、靴をもって渡らなければならない、ま、ちょっとしたスリリングな渡渉であったが、ここに橋がかかる日もそう遠くはあるまいと思った。そうすると車が入って、どんどん生活を変えていく、いいのか悪いのか、大荷物をもってワメナまで出稼ぎに行くおばさんたちにとっては、ずっと楽になるのだろうが、なんか足代のための出稼ぎにいくことになりはしないだろうか?彼らの強靭な肉体も、車の到来とともに、いつの日かわれわれのようなひ弱な体つきになってしまわないだろうか?、文明とはいったい何なんだろうか?少なくともそんなことを考えさせられる契機に、このトレッキングはなったようだった、、

キリセを振り返る、この造作されたこぎれいな道はたぶんにヨーロッパ的な発想では、とそのとき思った、、Img_8081_640x480Img_8082_640x480ワメナ方面に向かう道(帰り道)

途中の草花;3枚Img_8025_640x480
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下ってくる途中でまたも出会ったジョナス氏の友人(彼は商売上のいでたちでなく、純粋に個人の好みでそうしているように見えた)Img_8090_640x480

Kurimaの舗道に出る、この道は後ろがワメナで前方がKurima、このまま直進すれば橋のたもとに出る、ここで重要なのは右の道で、この道がわれわれがキリセから下ってきた道、つまりワメナから来てキリセにいく場合はここで右にはいったほうがいいのだが、もちろん標識なんかでていない、、
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たぶん向こうに見えるのが学校?Img_8093_640x480

山からの支流が道を遮断していた;4枚Img_8095_640x480渡る前2枚、向こう岸には車の姿が見えているImg_8097_640x480

渡った後、そこまで辿ってきた向こうの道が見えている;2枚Img_8098_640x480Img_8099_640x480


 10:15にSugokmoの車溜まりに着いた。乗り合いトラックは満員になったところで発車し、11時にはミシパサールPasar Misiに着いた。そこで形ばかりコーラで無事の帰還を祝ってから、ダイス君には日当を支払って別れた。ジョナス氏に支払う日当は、銀行で降ろしてくる必要があったので、ジョナス氏に藤原さんのところで待っててくれるようにいって、わたしはオジェドライバーをつかまえて銀行経由でパプアコムに戻った。藤原さんには報告とお礼をいってストック代を払おうとしたが、受け取ってくれないので、女の子たちのお茶代として受け取ってもらった。ジョナス氏には規定の三日分を払ったが、次の日のジウィカJiwikaというところへは(そこへも連れてってもらうことになるかもしれないというプランはあったが)一人で行くといってガイドを断った。ま、そうとういい思いをさせてあげたのだから彼も何もいわず了承してくれた。こうして2日半のバリエム渓谷トレッキングは、なかなかよかったという想いと、なんだったんだあれは!?という想いが複雑に交差して終了となった、、

Sugokmoの車溜まり;2枚(写真はKurima,Kilise方面を向いて撮っている)Img_8100_640x480Img_8101_640x480