独歩の独り世界・旅世界

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ランタントレッキング 4) 帰路、ランタン~ランドスライド~トゥローシャブル~シャブルベシ~カトマンドゥ

 その日の夕方Osam.Wさん(Watanabeさんのことを現地ガイドはオサムジーと呼んでいたので以下Osam氏と表記)&インドネシア人Big氏とガイドのパーティが戻ってきて同宿となった、、夕食時とりとめない話をしていたとき、明日以降のルートについての話になった、、われわれはChhapte氏と決めていたルートを紹介し、ここからシャブルベシまで1日半の行程だから、明日はいけるところまで下って、次の日トゥローシャブルThulo Syabru経由でシャブルベシに戻る予定であることを話した、、トゥローシャブルはシャブルベシとドミンの中間の山の上にあった、、そこは往路ドミンから見えていて、そのときチャプテ氏がその丘の上の村をさして帰り時間があればそこを経由してもよいと教えてくれたところだった、、特に何があるというわけではなかったが、ランタンコーラより4~500mも高い位置にあったから少なくとも晴れていればランタンヒマールからガネッシュヒマールの山々が素晴らしいとのこと、また、このあたりの中心となる村でシャブルベシの人々、ランタントレック途上にある村々の住人及びホテル等の所有者は皆トゥローシャブル出身でタマンの人々とのことだった、、帰路われわれに先んじた日本人T.H氏が向かったゴサインクンドへの道もそこを通らないといけない、、山の尾根上に住まいが点在するところだが四方向からの道が交わっているので、このあたりの人々にとっては重要な部落のようであった、、で、その話にOsamさんも興味を示してくれたが、同行のインドネシア人のビッグ氏が高山病は治りかけていたが、どうやら足を捻挫してしまったようで、それでなくとも下山に大変なところそんな寄り道はできそうになかった、、それでも次の朝は彼らと一緒にその宿を発つことになった、、

 <六日目 ランタン村~パイロPairo (Landslide Lodge)>

 7時半ころ一緒にランタン村を発った、、帰路はほとんど下りなので気分的には楽だが、わたしやBig氏にはまだまだ難路だった、、30分くらいいったところの茶店でヨーグルトが食べられるというので、休憩には早すぎたが彼らと一緒にこのルート上では初めてのヨーグルトを賞味する、、そのときそこの子供たちがヤクが川を上っていると騒ぎ出した、、そうとう距離があってそれは黒い石のようにしか見えなかったが確かになにやら動いていそう、、どうしてそんなところにいて、何をしているのか皆で不思議がった、、その日は天気がよかったから、そこから1時間は往路に昼食をとったタンシャブThangshyap、そしてチェックポストは素通り、気持ちのよい道が続いていた、、ゴラタベラ Ghora Tabelaで小休をとると、まもなく急な下りになって景色を楽しめたのもその辺りまでだった、、行きに天気が悪かった分を帰りに取り返したといったところだったが、やはり登りに目にしたかった風景であった、、そのあとは樹林帯に入りずっと急なくだりが続く、下りとはいえ、よくまあ、こんなところを登ってきたもんだと、われながら驚いてしまうほどのむしろ怖い道だった、、そんな急坂を裸足またはサンダル履きの地元のポーター(ボッカ?荷運び人)が、たぶん30~50kgくらいありそうな大きな荷を、淡々?と黙々?と担いで昇ってくる、、たいへんな労働である、、せいぜい5~6kgの荷、しかも下りなのにヨロヨロして足元がおぼつかないわたしは、その姿を見ると道を譲ってしばらくたたずんで見送るばかりであった、、その日はこれから上へ向かうトレッカーが多かった、、ほとんどガイドとともに登っていったが、その中に一組だけガイドなしで登ってきた4人組と出会う、、日本人の若者だった、、立ち止まって少し話をしたがいずれも大学生で二人組二人組がカトマンズで出会って一緒にパーティを組むことになったといっていた、、彼らはガイドなしだったが若者4人なら、ま、心配は要らないだろう、、この先苦労はするだろうがいい経験になるだろうから、何とでもなるよ、といってこの先の情報をできるだけ伝えた、、別れ際に前日泊まったところで(たぶんラマホテル?)有名な日本人のタレントさんに出会ったと話してくれた、、よく聞くと、それがどうやら往路ほとんど同行の形になったT・H氏のこととわかって、やはりそうだったのかと初めて合点したのであった、、

その朝も顔をだしていたLantangⅡ223_640x427

茶店で一緒にヨーグルトを食べる、左Osam氏、右Big氏225_640x427

その店の真下を流れるランタンコーラにヤクが2頭(黒い物体)226_640x427

 Lantang~Ghora Tabela間が世界一美しい谷といわれるランタン渓谷のなかでも、最も美しいところと思われる;4枚229_640x427 231_640x427 232_640x427 237_640x427

Ghora Tabelaの宿場238_640x427

 ゴラタベラからリバーサイドまで、登り一時間だったところ、息は切れないがあまり得手でない下りも50分とそれほど楽な道ではなかった、、リバーサイドの茶店はランタン村の宿と同じ経営者とのことでそこで少し休憩、、そこから更に下ってやはり登り1時間かかったリバーサイド~ラマホテルに50分かかっている、、ラマホテル着11:45、、往路に泊まった美人のいる宿で昼食休憩、、ラマホテルからまた長くて急でハードな下りが続いて、橋の手前の茶店までnon stop一時間、そこでまた少し休んで吊り橋を左岸に渡る、、吊り場~バンブーは往路の登り30分だったが下りも30分かかった、、この間も疲れが溜まっていたからか?かなり厳しい道程だった、、下りでは時々こけることがあったが、その都度間髪をいれずChhapte氏の手が伸びて支えてくれる機敏さには何度も感心させられた、、疲れきってバンブーではコーヒーをもらって30分ほど休んだ、、その時点で14時半を回っていたが、明日のルートを考えてもうひとつ下までいってしまおうという意見は一致していたので、15:00に再び歩き出す、、バンブー~パイロPairo(ランドスライド)はやはり登りに1時間かかっていたが下りは50分だった、、往路ここでホットマンゴージュースを飲んだのを覚えていたが、ロッジが2軒しかなかったことまでは記憶になかった、、そのうちの河側の宿に部屋を取る、、そういう意味ではここはコース上にあったが、一般の行程では宿泊場所になっていなかったから(前回に記したと思うがガイドブックなどではラマホテルとランタン村がだいたい宿泊場所として紹介されていた)、なんていうか新鮮さ?素朴さ?が感じられてとてもいいところだった、、客はわれわれだけだったが、途中から遅れた渡辺組(Osam氏は信じられないくらいのスピードで歩けたのだが、たぶん捻挫したBig氏とともに下山したので)が、30分ほどあとに到着して、都合5人の宿泊客となったが、それでもそれは珍しいことのようだった、、その日もチャプテ氏の了解をとって地酒ムスタンmustangを飲んでみる、、それまで地酒のロキシー、チャンは機会があれば飲んでいたが、ムスタンはそのロキシーにコーヒー、砂糖などを入れてミックスさせた温かい飲み物とのことで初めて飲んでみた、、砂糖が入っているので甘みがあり、疲れた身体にしみこむようにすっと飲めてしまった、、その夜は久しぶりにトゥクパ(Thukpaチベットスープ麺)を夕食にした、、

リバーサイドで休憩、Osam氏とBig氏が写っているのでこの辺まで一緒だったと思われる241_640x427

ランドスライドロッジ、Chhapte氏左とOsam氏右244_640x427

ちょっとボケた写真だが、ランドスライドから撮ったもので、河の左に川原が、そしてそのちょうど真上あたりの丘の上にトゥローシャブルの村がある、、245_640x427

 さてこのThukpaを例に山の中の物価を簡単に説明しておくと、わたしは最終的にコミコミ(宿・食事・ガイド料等すべて)でガイド氏にすべて任せてしまったから、細かい数字はチェックしなかったが、カトマンドゥ辺りでThukpaは100~150Rsくらい?国民食ダルバートも、もちろん店によってさまざまだが、だいたいわたしは100~200Rsで食べていたから、山の食事代は2~3倍といったところか(ここのトゥクパは300Rsだった、またダルバートはここだけでなくだいたい400~500Rsくらいだったかと記憶している)?、、あまり贅沢しなかったから一日の食費としては(酒代は別)毎回お茶を飲んでも(これも結構高かったが)10ドル<1000Rs>はかからなかったと思う、、宿代はあくまで食事をそこでとるという前提でだいたい300Rsくらい、、その他これも宿によるが、毛布(布団)代は別料金だったり、温水シャワーは有料だったりしたが、それでもトータルでみて食事代は1000Rs、宿代として500Rsもかかっていなかったと思う、、だからガイド料他すべて込みで一日40ドルでやってもらったのだけれど、ま、それほど儲けがあったとは思われないが、たぶん赤字にもなっていなかったと思う、、他の人たちがどのような形でガイド氏と契約していたかは聞かなかったが、いろんなやり方があったし、相場も知れて勉強にはなった、、しかし特筆しておきたいのは、前にも少し触れたと思うがもし一人旅の場合、用心の意味もこめて一日18ドルで雇えるガイドは、1,本業としてのガイド、2,それに付随した交通機関・ルートの選択とか予約、3,宿・食事の手配、4,ポーターとして、5,通訳として、6,マネージャーとして、7,ガードマンとして、8,緊急時の救護者として、9,話し相手として‥等々の役割を担ってくれるのだから、もちろんガイドなしでいくことも可能であろうが、これほど価値のある存在はないと改めて思うのだった、、特に女性一人でのトレッキングをお考えの場合は7,のガードマンとして意味は重要で、今では女性のガイドもいるから(実際何人かに出会った)旅行会社に相談すれば紹介してもらえると思う、、また、数人のパーティの場合ならガイドは一人で済むのでそれだけ割安になるから言を俟たないであろう、、当たり外れはあるかもしれないが押し並べてガイドの質は高いと思われた‥、、

(初心者向きの説明になるが、ガイドは上記役割を担える人のことをいうが、ポーターは純粋に4,荷運びだけだから、他も兼ねることは難しい、その代わり一日10~15ドルで雇える)

<七日目、ランドスライドロッジ~トゥローシャブル~シャブルベシ>

 ここの現地名はPairoといったが、それは雪崩とか土砂崩れを意味しているらしく、それがよく発生するからか、その英語名Landslideが定着してしまったとのことであった、、川原にあったらしい温泉もそのためか今ではそこへたどり着けないとのことであった、、その朝どうやらOsam氏だけわれわれに同行し、Big氏はガイド君と一緒にゆっくり川沿いの道をシャブルベシまで下る、ということになった(ゆっくり歩いてもリバースライド~シャブルベシは3時間もあれば着く)、、だいたいいつもと同じ時間7時半に宿を発つ、、ここからいったん川原に下り、川原を歩いてまた左岸に登っていく、、15分くらいいったところに分かれ道があったが、目印・標識といったものはこのルートではどこでも目にしていなかったし、ほとんどそれとはわからないような枝道だったから、先頭を歩いていたOsam氏はまったく気づかずに通り過ぎてしまってChhapteに呼び止められたほどだった、、本道はまだそれでも明らかな登山道といえたがトゥローシャブルへの道はもう踏み跡程度の草ぼうぼうの道となって、それはすぐに垂直の壁を登るようなとんでもない九十九折となった、、きついきつい30分の登りだったが、その間その道を下ってきたのは何人かの地元民と二人の女性トレッカーだけだった、、休憩なしの30分だったからいっきに200mは登ったと思う、、見晴らしのいい峠に出た、、そこで少し休んで、そこから沢の奥にかかる橋までトラバースして、更に数百m登ってようやくトゥルーシャブルの本村に着いた、、そこまでランドスライドロッジから見えている丘の上だったが2時間を要したのだった、、尾根上に展開するその村には平らなところはまったくなかったが、それでも巧みな建築技術でもって狭い土地にいくつものホテル.・民家・学校等の公共施設が点在していた、、見晴らしも日当たりも素晴らしかったが、あいにくランタン方面は雲がかかっていた、、一瞬ガネッシュヒマールも遠くに見えたが山にはすぐに雲がかかってしまった、、この村のチャプテ氏の知り合いのホテルに荷を置いて村の見物、寺とその隣の学校を覗いてみた、、山の上にしては立派な学校が建ち、ホテルの作りも立派だった、、ここのオバサンに眼鏡をかけている人が多いのが不思議だった、、ここの人たちは目が悪い人が多いのか、と最初はそう思ったのだが、そのうち納得のいく回答が見つかった、、もちろん聞いたわけでなくそうではないかと気づいただけなのだが、要するに年取れば誰でも目は悪くなる、、が、ここの人たちは眼鏡を調達するだけの財力がある、ということではなかったのか?、、ほとんど恵まれた土地があるわけでなかったが、そう、ここの人たちは結構裕福そうに見えたのだった、、タマンの人は交易で財を成した人が多く、またランタントレックの宿・茶店のオーナーは皆ここの人たちと聞いていた、、ということはここは山の上にあって不便で不毛な土地ではなくて、日当たりがよくて眺めが素晴らしく、裕福な人たちだから住める土地ということなのではないか‥?、山の上に建つ立派な3~4階建て?のホテルのテラスで暖かい日差しを浴びて山の景色を楽しみながらそんなことを思っていた、、そのテラスで少し早い昼食をとってのんびりしていたが、その村の滞在は2時間くらいだったか?、、ま、ここまで苦労して登ってきた甲斐はあったといえた、、そこからシャブルベシへの下りもなかなかいい道だった、、

最初の絶壁に近い斜面を登りきった峠から見たトゥローシャブルの村246_640x427

同所からシャブルベシ、ガネッシュヒマール方面;上、雲がかかってガネッシュヒマールは一瞬しか顔をださなかった;下247_640x427 248_640x427

同じく、沢の奥にかかる吊り橋が見えていてそこまでトラバース249_640x427

トゥローシャブル村の方から見たつり橋;左とランタン谷方面;右 251_640x427 250_427x640

村の学校、幼稚園児の教室?なぜかこのとき先生はいなかった、、252_640x427

最も高い位置にあったチョルテン、この村はタルチョもたくさんはためいていて、それは遠くからも見えた、253_640x427

シャブルベシへの下山口、遠くにシャブルベシが見えている254_640x427

 今ではその道はトレッカーはほとんど通らない道のようであった、、地元の人だけの交易路?ランタンからの下りと違って、岩肌の岩と石の道でなく土肌の土の道が日本の山を思い起こさせて優しく感じられた、、また、このルートは樹林帯でなかったので視界が開けていて見通しがきいた、、ところどころの岩に宗教的目印(チョルテン?正式名称わからず)のようなものが掘られていて、そこが登ってくる人たちの休憩場所のようになっていた、、それでも傾斜は急で疲れきっていたわたしには難路であったが、登りのときから若いばかりでなく歩きなれていたからか、Osam氏のスピードはガイドに負けないくらいの速さだったので、もう先に行ってもらっていた、、上の村から1時間20分で(だからOsam氏だったら1時間くらい?)で川沿いの道に出た、、その道はガイドブックにあったランタンへの旧道だったが、今の道を通ってランタンへ登っていく人はいないとのことであった、、そしてシャブルベシの道に出る橋のところまで更に15分、13:10にその橋を渡ってシャブルベシの村に入った、、そのオールドシャブルベシ(?シャブルベシ本村)の石畳の道の終わり辺り右側の角に、どこかのヨーロッパ人が作ったというパン屋(ベーカリー)兼カフェがあって、そこでOsam氏が待っていてくれた、、そこで冷たいものをもらってしばしの休憩、‘やっと戻ってきた、ランタントレッキングにいってこられたんだ’と充足感に浸っているところに今きた道をこちらに向かって歩いてくる二人の大柄な女性があった、、ニコラとヨハナのドイツ人姉妹だった、、聞くところによると彼女らはキャンジンゴンパで2泊、中一日をキャンジンリより更に遠く、高度も5000m近くあったツェルゴリTsergoRiまで登ってきたとのことであった、、まさに今は女性のほうがたくましい、、ドイツ人女性強し ! ! であった、、そして渡辺組のBig氏はすでに先に帰着していたが、この全員が最初に泊まったホテルBuddha Guest Houseに泊まることになり、次の日チャーターした同じ車で一緒にカトゥマンドゥへ戻ることになった、、

 その出発前に全員を撮った記念写真以下に‥

下山路から見えたシャブルベシ;右とドミン;下255_640x427 258_640x427

同じくランタン谷、ランタン方面256_640x427

シャブルベシ本村のベーカリーでOsam氏が待っててくれた、、右の石畳の道を通ってランタンに向かう、左の店で休んでいるときこの道をドイツ人女性二人が向こうから戻ってきた259_640x427

その角を右に曲がると、最初の日に村に入るとき通ったゲートがある260_640x427

次の朝出発前にホテルの庭で撮った記念写真(左からドイツ人女性たちのガイド氏、Nicola、Johanna、Big氏、ひとり置いて渡辺組のガイド氏、Osam氏、Chhapte)262_640x427

<最終日、八日目 シャブルベシ~カトゥマンドゥ>

 誰の発案かは知らなかったし、乗り合いジープが一人当たりいくらだったかも知らなかったが(バスの値段も知らなかったのでどれだけ高いor安かったのかもわからなかった)少なくともバスよりは早いであろうことはわかっていた、、しかし実際はその4駆のワゴン車にはわれわれ7人(上記写真のメンバーのうち渡辺組のガイドはタマンの人でカトマンドゥへは戻らなかった)のほかに乗客が3人いて、ま、日本でなら運転手を入れて8人乗りといった大きさの車に合計11人の乗車となったのだから、居住空間とその乗り心地としては、むしろバスのほうがまだましだったかもしれなかった、、それだけでなく7:20に出発したその4駆の乗り合いワゴン車は流石にバスだったら1時間はかかるドゥンチェまでの登りを40分で走ってしまい、ドゥンチェの手前で7時に出たバスを追い抜いたところまではよかったのだけれど、ドゥンチェの街外れにあるチェックポストを通過することができなかったのであった、、そこのチェックポストはトレッカーのためのものではなく、すべての車の行き来をチェックするために設置されていたもので(トレッカー用のものはその先にあって帰りはその必要はなかった)、われわれの車はそのドライバーが免許証不携帯だったらしく大揉めに揉めて何と1時間もそこで足止めを食らってしまったのであった、、だから抜いたばかりのバスに先を越されただけでなく、ひょっとしたらバスより遅く着くことになってしまうのではないかと皆をいらだたせた、、それでも1時間後、どう解決したのかはわからなかったが、再び走り出し懸命に飛ばしてすぐにバスには追いついたが、ま、順調に行けば2時間は先着するところ、1時間のロスは大きかったようでカトマンドゥ到着は14時になってしまっていた、、しかし軽率なドライバーのためにドゥンチェに停められてしまった1時間の間、そこからは来るときは雲がかかっていて見えなかったガネッシュヒマール山群の白い峰々が雄大な姿を見せてくれていて、まるでそれは最後の贈り物をわれわれに与えてくれたかのようだった、、そう思うとそれはいざこざのお陰だったともいえたのである、、そしてこれも往路苦労していったん車を降りて裸足で乗り越えた不通ヶ所も、そのときすでに修復され開通していてたので、ま、全体の悪路は変わらなかったが流石に4駆で、その力を十分に発揮して1時間の遅れを取り戻し、バスより1時間ほど早い到着となったのであった、、そこから分かれてそれぞれタクシーでタメルに戻ったが、次の日の夜、皆で食事でもしようかという話になっていた、、そしてあくる日カトゥマンドゥに詳しいOsam氏の案内で食事会を設け、この旅(ランタントレック)の収束となったのであったが、偶々その日はわたしの66回目の誕生日だった、、しかしそれは誰にも言わなかった‥、、

ドゥンチェの街のゲート273_640x427

揉めてる現場の向こうに、往路に見えなかった風景が開けていた274_640x427

好天という最後の贈り物があった;下4枚

ガネッシュヒマール山群;2枚275_640x427 267_640x427

ランタンⅡ;2枚271_640x427 270_640x427