スラウェシに行ってみたいと思ったのは、やはりTana Torajaのちょっと変わった埋葬形態の写真を見たからだった。岩壁を穿って、そこへ棺を安置し埋葬する、しかもそれが可能なのは身分の高い人、高い人ほど高いところに埋葬される?何の地位もない人の亡骸はほとんどその辺にほったらかされる?、ま、実際その無造作に転がっている骸を目にしたとき、その数の多さもさることながら、人の行く末、われのあと何年か後の姿、その場所?(ま、それを知ることは決してないのだけれど)、なんとも無情というか儚さを思わずにはいられなかった。しかし、こんな形の風習を残しているところがあろうとは!?、まずそのことに興味を覚えたのだった、、
この岩壁全体が墓所となっている、詳しくは下記
タナ・トラジャTana Torajaとは地方名?、トラジャ人の住む地といった意味のようである。Toraja人は何百とあるインドネシアの民族のうちの一つで、スラウェシ島だけでも、マカッサル人、ミナハサ人、ブギス人と地域ごとにその民族性を異にしていて、トラジャ人はスラウェシ島の真ん中辺の山間部に居を構えている人たちで、その家屋の形態がまた独特で、船形の屋根を持ち、その屋根の方向はすべて北向きに造られているという(彼らの先祖は北から来た、つまり中国大陸から来たといういい伝えがあるらしいことをあとで聞いた)、そんな家を伝統家屋として守り継ぎ、そこに住み続けてきた人たちである。ま、観光要素にかけては他に決して引けをとらないところと思われたので、是非そこへは行ってみたかった、いやスラウェシ島のもう一つの目玉としては奇妙な形をしたスラウェシ島のもう一方の(北東)端に位置するマナドというところのダイビングスポットが、これのまた世界的に有名なところとのことであったが、何回もいうようにダイビングには縁がなかったので、今回はこのTana Torajaだけがスラウェシ島の目的地であった。で、そこへの行き方は前回書いたようにマカッサルから、今では夜行バスも含めて十数社のバスが運行しているらしく、スラウェシ島のドル箱路線といった観を呈しており、とりもなおさずそれはTana Torajaが人気の観光スポットであることを物語っているようだった。わたしのバスはMetro Permai社で夜9:00発となっていた。
トンコナンと呼ばれる伝統家屋、これは普通の道を通ってて遭遇した風景
オジェドライバーは豪雨の中約1時間走って、わたし一人だったら決して見つけられなかったであろうターミナルのオフィスに、ちゃんと届けてくれたのだった。少しtipを弾まなければならないところ、あいにくぴったりの持ち合わせしかなく、それで勘弁してもらう、何しろそれどころでない状態だったからである。オフィスでticketをみせ、まだ時間はあると思って着替えさせてくれるよう頼んだ。しかし言葉はほとんど通じてなくて、それでもこの状態ならわかってくれるだろうと近くの誰もいない部屋で勝手に着替えをしていると、早くするようせかされたのであった。9時のはずだが?と訝しげに、上だけ着替え終わったので、そのドライバーだか、助手だかについていくとバスに乗るようにいわれ、なんでも少し早く出発するようなことをいわれた。その理由はよくわからなかったが、確かに30分くらい早い出発に、いったいどうなってるんだとここでもインドネシアのバスに不審が募るのであった。が、今までと違って感心した点もあった。これまでのバスとは比べ物にならないようなつくり、ほとんど水平になるシート、毛布までついていた。しかもこのとき幸運だったのは隣が空席だったことで、やはりこれだけ競合他社がひしめいているということは、当然客の奪い合いで、乗客は定員の半数にも満たないということが起こっているようにも思われた。なので、早速隣の毛布も借りて身体を包んで、ズホンから下着まですべて着替えることができたのだった。そうやってようやく通常の状態に戻り、毛布二枚のおかげで冷えた身体を暖めることもできた(冷房対策としても)。それからは快適な夜行バスとなったのだが、それでも熟睡というわけにはいかなかった。トイレもついてなかったので、途中のトイレ休憩が待ち遠しくなった。3時間くらい走ってようやくトイレ休憩、そのときどういう縁か、あのスイス人とまたバッタリであったのである。同じバスに乗っていたのだ。が、この時も驚きを表す挨拶をしただけで、結局わたしが先に降りたので彼とはそれっきりになった‥、、
Tana Torajaの宿も決めてあった。これもPelniの船の予定から、この日のTana Trajaは確実(必至)と思われたからで、そこもairbの宿を日本から予約してあった。この伝統的家屋、岩窟墓が残っているTana Torajaの街をランテパオRantepaoといった。Tana Torajaは地方名で、その中心の街はマカレMakaleといったが、そこからさらに(車で30分くらい?)北上した街ランテパオが観光の拠点だった。そこにはairbの宿は数件、普通のホテルもピン~キリで十数件あったか?しかし、いずれもピンとくるものがなく(価格・ロケーション)迷っていた。そこには、その後の日程から二泊を予定していた。日本にいたときプランニングの上で連泊を予定したのはここだけで、ならばできればここはairbの宿を探したかった。それにはつまらない(ちょっと自慢話っぽい)理由があったからである。相当話はずれるが、昨年の4月にわたしは、その過去一年の実績(2016/4~2017/3)でairbからご褒美をもらっていた。つまり4期連続でスーパーホストに該当したことが評価されたらしく、そのご褒美としてUS100ドル相当のプレゼントをいただいていた。それは何に使えるかというと、その時点から1年の間の宿泊、または体験プランに100ドル相当分を充当できるというものだった。早とちりのわたしは、ならばと今回の旅で、数件の宿をairbで予約して100ドル分を使いきろうと思った。ところがそれで予約を入れてわかったことは、それは一回きりしか使えないということだった。それを知ってあわてて最初に入れた一泊の予約はキャンセルして、ならばできるだけ高いところ?あるいは連泊する予定のところを探すことになった。が、なかなか100ドル分を使いきれるようなところは少なくともインドネシアではなかったのである。で、最終的に連泊になるここランテパオで探すことになったのだが、それとていまいちのところばかりだった。結局、写真でその家が船形家屋トンコナン形式だったことから予約したところはランテパオからかなり離れたところだったのだ。ところが、そこで誠に素晴らしいホストにであうのだから、その辺が旅の面白さだと思う、、そこの宿泊代金は2泊で4500円ほどだったから、100ドルのうち40ドル分くらいしか充てることができなかったのだけれど‥、、
わたしが宿泊したアランアランの宿、奥の建物が母屋で2階の一室をあてがわれた;2枚
その宿のあったところをアランアランAlang Alangといった。その宿のホストWillanda君からは、マカッサルからバスで来た場合、すべてのバスはここで停まるからAlang Alangで降りることを伝えておくようにいわれていた。しかしそれがどんなところで、ランテパオからどのくらい離れているのか、といったことはその時点では全くわかっていなかった。バスは5時半にそこに着いて、助手からここがアランアランだと教えられバスを降りた。確かに写真でみた同じ建物が目の前にあった。早速訪ねると早朝5時半だというのにウィル(Willandaの通称)君は起きていて、わたしを出迎えてくれた。さわやかな感じの好青年、かつイケメンで第一印象からよかった、、バス停の前で雑貨店と、その辺りでは場違いな感じのするコーヒーショップを営んでいたが、果たしてこんなお洒落な店にどのくらいお客さんが来るのかちょっと心配だった(案の定わたしの知る限り雑貨屋はたまにお客がきたが、コーヒーショップのお客さんはわたし以外にはなかった)。ともあれ、すぐに母屋となっている船形家屋に案内してくれ、その一室を提供してくれた。それまでの他のairbの宿と違い、おそらくそこの客用の部屋はその一部屋だけのようだった。つまりそこは普通の家で、いわゆる純粋な民泊?ただその家の内部は、そこに飾られていた装飾品、調度類、壁にかかっていた写真類をみて、ここはただの家(普通の家)ではないことはすぐにわかった。ま、あとで聞いたことも含めて簡単にいうと、どうやら彼の家はこの辺りの地主?あるいは長者、とでもいったらいいのか、いわゆる名士の家のようだったのである。もっとも時代が時代だから、少し落ちぶれかかっていたのかもしれない、というのも跡継ぎである長男の彼は40過ぎといっていたが嫁がこない、といって半分嘆いていたのである。いや、男前で、財産があって、どうして?と聞きたくなったが、いわゆる格みたいなのがあって相応しい相手がなかなかいない、ということのようだった。いずれにしろ、伝統様式の家屋は、なかなか興味深いつくりで、装飾もびっくりするような丁寧さで作られていたが、案外今時にしては少し使いにくくなっているようでもあった。わたしにとってはトイレが一旦外にでなければならないことの不便さ(たぶん客用に後付けした?)、そしてシャワーに温水がでなかったのは、この家の格からしたら不満だったのだ。が、それを補うかのように、その日の朝から彼はわたしをTana Traja sightseeingに連れ出し案内してくれたのだった。
この写真は最初の写真とは逆方向で、母屋から彼の家のトンコナン(たぶんこれは倉庫)とお店のほうを写したもの;2枚
部屋の入り口の壁にあった写真、名門、名家の出であることがわかる
アランアランの橋とその付近の風景;2枚
もちろん彼がどんな立場の人で何をやっている男か、年齢も含めて何も事前には知らなかったから、片づけを終え自己紹介方々彼のお店、コーヒーショップに出向くと、おいしいトラジャコーヒーを淹れてくれ、飲みながら早速その辺の話からはじめた(この感じが重要で、そのときわたしはすこぶる印象をよくした。彼にはわたしもairbのホストであることは伝えてあった)。まず、とてもあなたに会えることを楽しみにしていたこと、ここの家(Tana Trajaの伝統家屋)に興味があったこと、そしてもう一つTana Torajaを有名にしている岩窟墓(これは数ヶ所あった)を回ってみたいこと、予定は2日で、明後日の朝のバスでここを発つつもりであることなどを伝えた。そしてTana Toraja観光は誰に頼んだらいいだろう?誰か紹介してくれないか?と、、そのときは彼の立場を知らなかったから、まさか彼がすべて請け負ってくれるなどとは思ってもいなかったのだが、彼はすべてオレに任せろといってくれたのだ。そうやって、だんだん彼の素性がわかってくるのだが、要するに彼は未だ独身で、仕事といえばこの家を守り、高齢のお母さんの世話をし、店番するくらい、ということがわかってきた(もちろん大学を出て、若いころは首都で会社勤めを経験しいたらしいが、今は、ま、跡継ぎとして家を守っている、ということのようだった、父親は他界していた)。それなら話は早い、ということで早速具体的な話をはじめる、もちろんガイド料の問題も含めて、である。回るところ、回り方は任せから今日はどこに連れてってくれるのか聞くと、彼のアイデアをリストアップしてくれた。そこにはガイドブックにあった主だったところが載っていた。で、時間としては9時から17時、バイクで回ればほとんど回れてしまうということだった。料金は300+100(燃料代)でどうか?と聞いてくる。明らかにそれは、他の誰かに依頼することを考えると安く思えた。少し考えてわたしは9時~13時で回れるところへいきたい、午後はランテパオの街を一人で歩いてみたい、で、300でどうかと提案する。もちろん異存なくそれで即決した。で、明日もそんな感じでいけなかったところへいってみたいというと、それもOKしてくれた。こうして彼との関係はスムーズに回転しだしたのだった。
このモーニングコーヒーはうまかった;2枚店舗の前がバス停だったのでバス待ちの客が写っている、しかしこのコーヒーショップを利用する地元の人はいなかった、、
8時半には彼のバイクの後ろに跨っていた。流石にバイクもそこらを走っている125CC以下のバイク(インドネシアはHondaのバイクが多かったように思うが)とちがって、たぶん彼のそれはKawasakiの250CCだったと思う。だから悪路、登坂路もバジャワのセバスチャンのバイクのようにトロトロとなることもなく、その力を発揮していた。最初にいったのは、Tana Torajaの中の岩窟墓としてはもっとも大きく、有名なLondaというところだった。そこへはランテパオよりアランアランのほうが近く、ものの10分でそこに着いた。そればかりでなく、というかそこは彼の家の代々が葬られているところだったようで、その高いところにある墓が、祖父といったか代々といったか(高所の埋葬が、個人の墓地なのか、家の墓地なのかが)はっきり聞きとれなかったが、要するにその地がWillanda家の代々の墓所ということのようだった。なので一般の観光客は、一応入場料を払わなければその岩窟墓の見学ができないのだけれど、彼は皆知り合いだからわれわれはフリーパスだった。そのとき、たぶんインドネシア人のグループが見学に来ており、骸の転がる地上の岩窟墓は順番待ちになっていた(岩壁の高所にある墓はどうやって安置するのかまで聞かなかったが、いずれにしろ詣でることも不可能である)。いや、なんともすさまじいところで、冒頭に述べたように、われわれの行く末の姿があーも露骨に転がっているさまは、異様というか、どういったらいいのか言葉を失う、、ま、写真を見てもらうのが早いかもしれない、、
Londa;9枚
あいにく朝の逆光で、高所の墓所がはっきりわからない;2枚
岩壁の真下に洞窟墓の入り口があった;2枚ホスト&ガイドのウィル君
洞窟墓の内部;3枚ワレの10年後?
そこからはほとんど観光客の通らない間道を抜けて、またこの道も至るところ美しく、感動的でさえあったが、今度は伝統家屋の集落で有名なKete Kesuへ案内してくれた。そここそ観光客の多さには辟易するほどの混みようで、入場料を払って入る。ここは写真を撮れば終わりかと思いきや、ここの背後の山がこれまた墓所の一つで、骸の山がまるでゴミ捨て場に捨てられているように崖を穿ったところに山積みになっていた。やはりそこにも彼の知り合いがいて、もっとも価格の張るという白い水牛の飼育場を見学することができた。すでにそこまでで2時間半余り経過しており、そこからランテパオの街に向かった。けっこう日中は暑くなっていた。その日はちょうど2月3日の土曜日で、水牛マーケットが開かれる日とのことで、そのままランテパオの街は素通りして、その現場に行ってもらった。そこには何百頭もの水牛が一同に集められており、ピンからキリまでの価格で取引されているという、ちなみにその価格は30million(たぶん子牛)~2billion Rp(成牛14~15歳)とのことだったが、それって日本円にしたらいくらになるのだろうか?
Londa~Ketu Kesu間の間道を行く、約40分、この道は感動的な道だった、、;この章の2枚目も含め6枚
伝統家屋の集落Ketu Kesu;5枚
このトンコナンはすべて倉庫使用(後ろに住居用家屋がある)、ここも水牛の角がその家のシンボルになっている
Ketu Kesu 村に隣接していた白牛の飼育場;2枚
この牛は相当大事に育てられているようだ、専用のトンコナン牛舎に一人住まい?
Pasar Bolu ボルの水牛マーケット;5枚
ま、そんなんで半日が終わってしまったが、かなり見ごたえのあるところばかりであった。帰りにランテパオの街で買いたいものがあるといって、ポストカードを売っているところを探してもらった。これがなかなか難儀で、可能性のありそうなところを4~5軒回ったが、まったく徒労に終わる。もしかしたらと中心部にあった中級のホテル(Indra Traja、美人のフロント嬢が教えてくれた)へ寄ったら、その隣の隣のスーパーにあるかもしれないと教えてくれ、そこで伝統家屋トンコナンが写っている絵葉書を購入することができた。そこで、ランテパオからの帰り方、つまりペテペテ(現地語でoto sewa 乗り合いワゴン車)の乗り方と乗り場を教えてもらって1時頃彼と別れた。それからはランテパオの街を街ブラし、食事処を探した。が、適当なところが見つけられず、そのときはガイドブックに頼ってみた。そこはすぐに見つかったので入ってみた。外国人旅行者が多く来るところらしくメニューは何でもあったが、味はそれほどでもなく高いばかりであった。ビールが飲めたのがせめてもの救いで、少しのんびりしていると現地のオジェドライバーだかタクシードライバーだかわたしのところに来て、仕事をくれ、仕事をくれ(ガイドするということ)と哀願するのだった。わたしの下手な英語で貧乏人だから無理だと断り続けたが、わたしのレベルの英語でちょうどいい按配の会話は楽しいひと時となった。3時頃にはペテペテでアランアランに戻る。20分くらいで着いたか?、5(000)Rpだった。それから洗濯、水浴び(このときお湯がほしかった、彼は沸かしてもっていくといってくれたが、そこまでしなくていいと断った)、昼寝、、夕方から起きだして、コーヒーをもらって絵葉書書き、夕食は彼のお母さんがTana Toraja名物のパピオンという料理を作ってくれるとのことだったのでお願いし(もちろん代金は払った、街のレストランの半額くらいで食べることができた)、手に入るならとビールも、とお願いしてしまった(何のことはないビールは彼のお店の商品だったから、40払えばいくらでも飲めたのだった)。が、彼が勧めてくれたPalm Wine (椰子酒)は自分のところではつくってないけど飲むなら買いにいかせるといってくれたので10渡した。そんなんで思っても見なかった晩餐をその夜饗されたのだった。
ガイドブックにあった有名レストラン?ここでパピオンはできるかと聞いたら、そのときはできないといわれた、メニュウは確か60だったと思う(汁そばとビールで60)、、
ランテパオのど真ん中の交差点、ここからアランアラン、マカレ方面(他方面も?)のペテペテが出ていた、、
彼と二人で夕食、パピオンはこの竹の筒に豚肉と野菜(mayanaといったか?)入れ蒸し焼きにしたもの、もちろんうまかったのだが、あとはご飯だけの夕食だった、、;2枚