独歩の独り世界・旅世界

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2019の旅 サント・ドミンゴ Santo Domingo/ドミニカ共和国

 ずいぶんここまでが長かったけれどやっとサント・ドミンゴまで来たか!?といった感じです、あと2~3回でこの旅録も終局を迎えます。最初の概要?でいってたかもしれませんが、なぜドミニカ共和国だったのか?についてもう一度確認しておくと(最初に言ってたことと違ってたりして?)、1,カリブ海諸国は全く未訪地であったこと(キューバは何回か訪れていたが)、2,その中でAmerican Airlineの便数の多いところを選んだこと(マイレージ利用のため)、3,これは言ってなかったかもしれないが、ここはかつて日本の移民、植民政策が破綻したところだったことがその理由だった。そしてこの地が今回の旅の最後の訪問地であった(この後経由地としてマイアミに寄ってはいたが)。

 

 そんなわけでドミニカ共和国滞在は最初から5泊6日の予定だった。それは帰国便をすでに決めていたから、というか、そもそもこの旅のプランニングで最初に決めたのがこの帰国便だったことはすでに言ってたかもしれない、そこから逆算の形でプランニングをしていったのだ。で、そのうちの3泊だけは日本出国前にairbの宿を予約しておいた。airbのクーポンを有効に使えたのもここサントドミンゴにおいてであった。しかし出発前にドミニカについてもその首都であるサント・ドミンゴについてもほとんど情報は持ってないに等しかった。ま、それでもそれがairbの利点でもある現地に住まうホストに聞けば何とでもなるだろうと思っていた。ドライバーのJonathanくんは陽気なカリビアンだったので、厄介な爺さんに言われるまま空港に戻ったりさせられても意に介さずといった風で、サントドミンゴ歴史地区(Zona Colonial 旧市街)にあるairbのホストLidiaおばさんの自宅まで届けてくれ、約束通り1300ドミニカンペソ(以下ただペソと表記、1pesoは約2.2円)とプラスアルファ500ペソを払う、ドミニカンマネーを持ってなかったのでLidiaおばさんに立て替えてもらった。最初っからそんなことを頼めてしまうような雰囲気を彼女は備えていて、あ、これは気楽に過ごせそうだと、初対面の挨拶もそこそこに言葉もままならないのにそう感じさせたのだ。到着したのは16時半ころで(ということは引き返さなかったら、空港~セントロは車で30分くらいだったということ)、そこは旧市街ではあっても、有名史跡の近くではなく、狭い通りがごちゃごちゃしている庶民の街の一角で、その狭い通りに面していた。陽気なおばさんはやはり褐色の肌の持ち主だったから、この国で多数を占めるムラート系(もとは黒人と白人の混血で、それが代々カリビアン諸国の一般的人種として定着していく)だったと思うが、ま、典型的なカリビアンのおばさんだった。だから細かいことにこだわらない鷹揚さがあったが、いやいやそれだけでなく、驚いたことに彼女は精いっぱいの歓迎の印として、わたしのためにちょっとした食事の用意をしておいてくれたのだ。それはそれは彼女の気持ちが伝わって誠にうれしかったのだが、わたしはいきなり注文をだしてしまった。せっかくのご馳走なのでビールが欲しいと‧‧‧、で、もし近くにビールを売っているところがあったら教えてほしい、わたしが買って来るからといったのだ。ま、彼女もそんな答えは予期してなかったのだろう、そしてこれも失敗の一つになったが、彼女はわたしがお金を出すのなら届けさせるといったのだ。あとから思えば近くにスーパーがあったし、知ってれば10分で往復できたのに、届けさせたビールは大瓶で配送料も入ってか一本150ペソもしたのにはびっくり、ま、それでも宴は盛り上がったしせっかくの手料理はとてもおいしくなったのだ。一人住まいの彼女は普段ビールを口にすることはなかったと思うが、ビールで乾杯しお肉とサラダをごちそうになりながら彼女もビールを飲んでくれたのだ。これで相当打ち解けたと思う、会話はわたしの下手なスペイン語と込み入ってくると彼女のスマホの翻訳機の力を借りたが、ちゃんと通じていた?、彼女もわたしのことをだいぶ理解してくれたようで、そのあとはもう旧知の仲といった感じでお互いに遠慮はなくなる、すぐに打ち解け、細かいことを気にしない彼女の性格というよりカリビアンのこんなところがいいところのように思うのだ。一段落してから、彼女に連れられて近くのスーパー(La Sirena - そのあとしょっちゅうそこへ出かけることになる、他には適当なお店がなかったので)に出かける、そこにはWestern Unionが入っていて両替ができた(この国はどこでもドル払いでokだったが - 1ドル=50ペソ - 若干ペソに替えた方が有利だった)。そして彼女に立て替えてもらっていたドライバー代ビール代を清算した。その後ようやく部屋に落ち着いて、しばらく荷の整理、記録の整理等々身の回りの片づけをしてから、再びLa Sirenaに今度は買い物に出かけた。夕方の晩餐で空腹感はなかったが、わたしには酒が必要だった。もちろん安酒でいいのだが、そうなるとロン(ラム酒)くらいしかなく、それはわたしにとっては馴染みの酒であった。それと若干つまみになりそうな缶詰とか、パン、コーラなどを買って帰る。ロンのコーラ割でちびちびやりながら初日は終える、、

 

Lidiaの用意してくれたささやかな晩餐、ビールで乾杯する

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真ん中の黄色い家が彼女の家(1Fのみ3LK?)

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しょっちゅう出かけたスーパーLa Sirena(彼女の家から3分、次の日写す)

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次の日はいつものように5時にトイレ6時には起きて、7時にカフェコンレチェをいただき7時半にフルーツの朝食をいただく、コーヒーとフルーツが同時でなかったのが少しおかしかった。それでも基本的にairbは朝食がつかないのだから大変ありがたかったのだ。9時ころからいよいよ街歩きに出かける、、

 周知のことと思われるが、ドミニカ共和国は(余計なことだがカリブ海にはドミニカ国という国もあって間違いやすい)はカリブ海に浮かぶイスパニョーラ島La Españolaにあって、西側1/3がハイチである。この国をもっとも有名にしているのが歴史的史実で、コロンブスが最初の航海の時に発見し拠点を築いた地というところにあった。コロンブスが最初に上陸したところはバハマ諸島のグァナハニと呼ばれた島(現サンサルバドル島)で、それが1492年10月12日で(たぶんこの日が新大陸発見の日として後世に伝えられている?)そのあとさらに周辺を探索、キューバを含む多くの島を発見して、このイスパニョーラ島の北岸に着いたのが12月5日とのことであった。すでにそこには先住民がいて、ま、当初は友好的関係にあったのであろうが、旗艦サンタマリア号が座礁してしまったので、その地にその廃材を用いてナビダー砦を建設(ちょうど12月24日頃のこと?スペイン語でクリスマスのことをナビダーNavidadという)、そこに部下39人を残して故国に戻る、その翌年二回目の航海でそこに戻ったときには一人の生存者もおらず砦は破壊されてしまっていた。その時に新たな拠点として建設されたのが現在La Isabelaという地名で残っているプエルトイサベラ、しかし植民地経営者としては才に恵まれなかったらしいコロンブスの統治は失敗に終わり、彼の弟バルトロメにあとを任せる。その後いろいろあってバルトロメは拠点を1498年(1496年とも?)に今のサントドミンゴに移し(Nueva Izabelaと命名)、1502年に新たにやってきた新総督ニコラス・デ・オバンドNicolas de Ovandoによってその基盤が固められ、本格的な植民地統治が始まったとのことである(街の名も彼によってサントドミンゴと改められる)。だからサント・ドミンゴの街の歴史としては520年になる、といことだった 、、‧‧‧ 何が言いたかったかというと要はドミニカ共和国並びに首都サント・ドミンゴの観光の目玉は、ほとんどコロンブス関連ということになる、ということで、その中心はParque Colón(コロンブス公園)で、そこに建つコロンブス像がこの街の象徴であった。そしてParque Colónを中心としてその界隈半径1km圏内くらいがいわゆるZona Colonial 旧市街またはcentro historico 歴史地区と呼ばれているareaであった。そのコロンブス公園までLidiaの家からだと15分くらいで、歴史的建物が多く残されているサント・ドミンゴの観光の中心である歴史地区(そこは世界遺産に登録されていた)を巡るのには歩いて4時間くらいあれば十分だったのである。ま、ざっと一回りしただけだったが、以下わたしの回った順序で、また出来損ないの写真で、少し説明していこうかと思う、、

 

 La Sirenaの向かいあたりに中華街のゲートがあった

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少し行くと城壁があった、このような城壁はとぎれとぎれだがいたるところに残っていた

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San Anton教会

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↓ 城壁の内側がサンフランシスコ教会el monasterio de San Franciscoの廃墟;4枚

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San Lazaro教会

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Evangelica Dominicana教会(左の建物)

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La Capilla de Nuesta Señora de los Remedios 聖母マリアの礼拝堂(正面)、左;王宮博物館

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左と下;王宮博物館と日時計?

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上の広場からオサマ川Rio Ozamaの眺めがいい

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 ↓ 実はここが歴史地区巡りのスタート地点であるスペイン広場 Plaza de España  奥の建物がAlcázar(コロンブス家3代の邸宅、息子のDiegoが1510~1514に造らせた贅沢な館、この造りはメキシコ/クエルナパカのコルテス宮殿に似ていた)とニコラス・デ・オバンド像;2枚

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アルカサールの内部;7枚

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以下はテラスから 最初の2枚はOzama川上流方向、その下、対岸正面にEl Faro a Colón 1992年のコロンブス新大陸発見500年祭の時に建てられたコロンブス記念灯台、このときにサントドミンゴのカテドラルにあったコロンブスの遺骨もここに移されたらしいが、コロンブスの遺骨はセビリアにカテドラルにあるという説もある。その下はOzama川河口方面、さらにアルカサール前のスペイン広場を臨む

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Panteón de la Patriaパンテオン

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Las Damas 通りだったか?この写真は撮った場所をよく覚えてない、、

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Fuerte de Santiago オサマ砦

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Arzbispo Meriño通りを北に、コロンブス公園は正面に見えてる白い塔Palacio Consistoriai 市庁舎の右側辺り

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Casa de Tostado;ニコラス・デ・オバンドの側近だったFrancisco de Tostadoの家

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Iglesia y convento de los Dominicos ドミニコ教会とその前の公園Parque DuarteとDuarte像;19世紀ハイチの支配下にあってドミニカの独立のために戦った英雄、Duarteは国父とし敬われている;3枚f:id:dopponotabiroku:20190725203502j:plain

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ここまでざっと2時間半、ぐるっと回りから攻めてようやくParque Colónに到着、コロンブス像に対面した、コロンブス公園とその周辺、コロンブス像とカテドラルCathedral Primada de Américaとその内部他;6枚

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 下の写真Palacio Consistorial市庁舎からParque Indepencia 独立記念公園に延びるCalle El Conde通り(歩行者専用、いわゆるショッピングロードで土産物やレストラン・カフェ・ファーストフードの店、画商が並ぶ);4枚

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Parque Indepencia 独立記念公園には1844年ハイチからの独立を勝ち取った英雄;左からFrancisco del Rosario Sánchez,Juan Pablo Duarte,Matías Ramón Mella が顕彰されている;2枚f:id:dopponotabiroku:20190725204309j:plain

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 独立記念公園から引き返す、もちろん近道を行ったが、突然の雨に雨宿りしながら30分くらいかかる、途中焼き芋屋にであう、おいしそうだったが買わずに弁当屋を見つけてlunch box 90ペソ、Sirenaでビールを仕入れてLidia宅で昼食、それからしばらく仮眠となった。

夕方16時ころから再び活動開始、その時は2か所行きたいところがあったが、それぞれの方向が全く逆であった。一つはサントドミンゴの歴史地区の南に広がるカリブ海の浜辺に建てられた、日本人植民の移住記念碑を訪れること、もう一つは次の日かその次の日に行ってみようと思っていたこの国の第二の都市Santiago de los Caballerosに行くバス会社の一つEspinal社のターミナルへいってバス情報聞くことだった。

 Monumento a la Inmigracion Japonesの碑までは、またcentro historicoを通って、30分くらいかかって浜まで歩いた。人気のない波打ち際の道路の脇にそれはあって、ここまでやってきたはいいが、ほとんど日本政府のだまし討ちにあったようなその後の悲劇を偲び、彼らの耐えがたき労苦と日本政府の無能、無責任ぶりにあらためて怒りと悲しみを覚えずにいられなかった。そこは彼らが希望に胸を膨らませて日本から船でやってきて下船した場所のようだった。その場所を見届けて、次のEspinalまではタクシーを捕まえようと思っていた。が、車の通行も少ないその辺りを流しのタクシーは全くやってこなかった。来たら捕まえるつもりでそのまま歩き始める、が、もしかしたら流しのタクシーなんて走ってないかのもしれないと思い始めて歩いているうちに旧市街まで来ると、タクシー溜まりがあってドライバーがゲームかなんかしながら客待ちをしていた。タクシーに乗りたいんだけど?と声をかけると、どこまでというからEspinalに行きたいんだけどいくらと聞き返す、300ペソとの答え、わたしが払ってもいいと思ってた額の倍だったので、また歩き始める。次に見つけたドライバーも同じ答えだったので、相場がわかりタクシーを諦める。その時はすでにSirenaの近くまで来ていた。そしてその角にモーターサイ、この国で何て呼ばれているか知らなかったがバイクタクシーが待機していたのを見つけたのである。なんだ、これがあるなら話は早いと思って、そのドライバーの一人にEspinalまでいくらでいってくれるか聞く、答えは100だった。ちょっと高いが100ならいいか、ここにバイク溜まりがあるなら今Espinalに行かなくてもいいだろうと思って、では明日来るからといって、そのままSirenaに入っていった。そこでまた両替をして何か買おうと思ったが、パンの残りもあったし特に必要なものもなく飲み物だけ買って帰る。途中で揚げ物屋の屋台があり、中身はよくわからなかったが2個60ペソ払ってそれで夜食の準備は十分だった。その夜airbでサンチャゴの宿探しをする。Lidiaに相談して、公式には認められない予定の変更、つまり三泊分の最後の一泊を二日後にしてくれないかというお願いを彼女は受け入れてくれたからだ(正式には三泊目はキャンセルとなって、二日後はまた新規に予約をしなければならないところを融通をつけてくれたのだ)。ならばサンチャゴは明日出かけようとairbの宿探しを始めた、というわけだった。が、問題が一つあって、サンチャゴの地図を持ってなかったから地理が全く分かってなかった。airbでは地図上に宿の場所が表示されるが、そこに行くにはどうやって行くのか、基準になるところ例えばバスターミナルの場所さえわかってないから、場所の選択ができなかったのである。となるとまずは手ごろな価格の物件からチョイスしていくしかなかったのだが、そのときLidiaに相談したときに彼女の言ってたことを思い出した。彼女はサンチャゴに行くならmonumento a los Heroes de la Restauracion(よくわからなかったが、何かの記念塔?)があるから行ってみたら?というようなことを言っていたのだ。そしてそれはairbの検索時の地図にも載っていたから、その近くで安いところがあったらそこにすればいいのではないかと気づいた。そこから歩いて行けそうで価格が2000円前後に絞って検索してみた。何件かあったうちホストの情報を見て一軒に予約を入れてみた。そこはどうやらairb用語でいう、今すぐ予約、つまりホストの承認なく予約できてしまうところだったようで、その予約は成立しましたというairbからのメッセージはすぐ来たのだった。一安心といいたいところだったが、なぜかちょっと不安だった、その理由はすぐにわかった、その物件の住所が書かれてなかったのだ。では、どうやってそこを訪ねたらいいのか?、すぐにそのホストに住所確認のmailを入れる、だがその日のうちに返信はなかった。予約は成立してるということは支払いは済んでいるということだった、どうしたらいいのだろう?その時すでに夜半に近かったが、日本は昼間だと思って、日本のairbに事情を話し相談のmailを入れてみた。さすがに日本のairbは対応が早く、日本からホストに連絡を取ってくれるという返事が来た。あとは日本の優秀なスタッフに任せるしかない、何とかしてくれるだろうと期待してとりあえず床についた、眠りは浅かったが ‧‧‧ 、、

日本人移民の上陸地点に建てられている碑;5枚と、その前の浜辺

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