もちろん、あるきっかけで今回のチャニジア~イタリア旅を思いつく以前に、チュニジアのドゥガもスースもエル・ジェムも、イタリアのセリヌンテ、アグリジェント、パエストゥムについても詳しく知っていたわけではなかった。が、古代ギリシャに関する本を読んでいたときに、少なくともセリヌンテ、アグリジェント、パエストゥムの名だけは聞いていた。すなわち、いずれもギリシャ植民都市としてであったが(チュニジアの遺跡はすべてローマ以降のものである)、そういう意味では、世界史にローマが出現する前の地中海世界はご存知フェニキアとギリシャが覇を争っていて、上記いずれの都市も初期のギリシャ植民都市で、その遺跡が残ったということのようだった。で、まさにそれ等の都市を含むエリア全体をギリシア語?で、マグナ・グラエキアMagna Graecia 大ギリシアといったらしく、このパエストムの地は、今でもそう呼ばれていて(古代の都市名はマグナ・グラエキアのポセイドニアという名だった)、わたしのその日の宿の住所はVia Magna Greacia *** となっていたのだった。
なので最初からこの地は宿泊予定地に入っていた。が、前にも言っているが、大枠を決めてからのスケジューリングだったから、いつ、どこからというのはなかなか決め難かったのである。つまり、前の地はどこで、その地からどうパエストゥムに向かうのかという問題だった。それでこれも前にも言ってることだが、苦渋の策としてタオルミーナを捨てることによってシラクサからパエストゥムまでの列車移動が可能とわかって、シラクサ~パエストゥム間の早割ticketを出発前にon lineで手に入れていた。で、これが信じられない価格だったので、タオルミーナを飛ばした悔いは少しは償われたのだった。すなわち、シラクサ発朝7:32のIntercity 722(たぶんローマ行き)はサプリSapri着14:18で、そこまでが9.9€(日本でいう特急券・座席指定込の値段、ちなみにタオルミーナ~サプリも同額だった)パエストゥムは特急が停車しないので、サプリで各駅に乗り換えてパエストゥムまでが5.2€で15:38着の予定だった。つまりシラクサ~パエストゥム間の列車は特急列車+各駅で8時間かかったが、トータルで15.1€(当時の為替レートだと2000円くらい?)だったのだからその安さがわかろうというもの、こうしてその日の朝、何しろシラクサの宿は駅から5~6分のところだったから、7時には駅に着いていたのだった。
参考までに、日本でon line で購入したTrenitaliaのE-ticket、手前から11/12 Siracusa~Sapri Intercity 9.9€、Sapri~Paestum 各駅 5.2€、一番上は10/16 Napoli~Roma Frecciarossa 19.9€だった
シラクサ駅;3枚
入線時に乗客なし
朝食は、Maurizio氏宅の冷蔵庫にあったものを勝手に食べていいといったと解釈していたので、牛乳とヨーグルトとパンを少しいただいた。その代わり飲み残した白ワインは置いてきた。というか、冷蔵庫の中には高級そうなワインが何本か入っていて、さすがにそれは勝手に飲むわけはいかないと思って、前日安ワインの買ったのだけれど結局飲みきれず、ほんとはそんな安ワインを置いていくのが恥ずかしくかったのだけれど、ま、仕方なかく、ということだった。そんなんで駅ではBarがオープンしていたが、そこには寄らなかった。シラクサからその列車に乗車した人はごくわずかであった。定刻にでた列車が次に停まったのがAugustaだったか(この時の失敗は、どこの駅でもその列車の時刻表をくれたのだけれと、それをもらい忘れたことで、そのためにその後到着時刻等で気を揉むことになった。なのでそれがあれば列車停車駅もわかったのだが、もうよく覚えていない)、そこからしばらく走って海岸線にでたとき、思わずハッとするような素晴らしい景色が現れた。イオニア海の向こうにエトナの雄姿、あまりにも突然だったのでカメラに収めることができなかった。そのあとLentiniに停まってカターニャには8:45の到着だった。この時(その後だったかもしれない)すでに到着が遅れているようなアナウンスがあったが、先にいったように時刻表をもらってなかったから確かなことはわからなかった。いずれにしろここではかなり長く停車していた。そして、そこからはかなりの乗客が乗り込んできたのだが、その中の一人にわたしの目は釘付けになった。その老人は明らかにわたしより年配だった、が、にもかかわらずわたしの倍ほどのザックを担いでいたからだ。ほんとにバックパッカーは少なくなったな、とずっと思っていたのでうれしくもあったのだ。で、その爺さんは席を探しながらこっちに歩いてきてそのバッグを(わたしは棚に上げていたのだが)座席の下に入れ、そして、わたしの前の席に座ったのだった。そうだったのか、とこの偶然を喜んだ。列車が走り出してから、さっそく話しかけてみた。それまでわたしのいたボックスはわたしだけだったから、周りを気にしなくて済んだ。わたしの下手な英語に立派な英語で答えてくれ、その人はドイツ人で、その日のうちに自分の家のあるブレーメンに帰ること、ほとんどいつも一人で旅していること、年齢は78歳で荷物の重さは20kg(ちょうどわたしの倍)ということをその時話してくれた。そんな簡単な自己紹介をお互いにして、あとはポツリポツリの会話しかできなかったが、わたしはそれで満足していた。こんな人もまだいるんだ、と同好の志に出会えたことがうれしかったからだった。カターニャを出るとAcireale、Giardini Naxos(ここも初期ギリシャ植民都市)と停車してタオルミーナ着が9:40、そしてメッシーナ着は10:15分だった。この時点でも遅れが出ていたようだが、さらに不可解だったのが、メッシーナに到着してから70分間も動かなくなってしまったことだった。
たぶんこの写真はカターニャ駅手前辺りだったと思うが、せっかくの車窓も窓が汚すぎて、すべて窓越しにとっているので、十数枚の写真のうち、2、3枚だけ載せさせてもらった。これも外を撮るつもりだったが、たまたまドイツ人先達が写っていたのでここに掲載、実際は本土に渡ってから撮ったもの、、
いや、事前に(たぶんアナウンスはあったと思うがわたしは聞き取れてなかったから?)、あるいは時刻表を持っていて知らされていれば、ここはホームにでて写真を撮りたいところだった。もちろん、このシチリアで(これも前にいっているが)シラクサ、パレルモと並んで超有名な歴史的な街メッシーナMessinaも当初は宿泊を予定していた場所でもあったし、橋を架けるという話もちらほら聞いたことがあったが、ここからイタリア本土までは列車ごと連絡船に乗ってメッシーナ海峡を渡ることは知っていただけでなく、楽しみにさえしていたところだった。だからこそ、状況がわからなくても時刻表があればもう少し確実なことがわかったと思うが、わたしは列車の遅れのために、もしかしたら船を一便待たなければならなくなったのではないかと推測していた。ただ、あくまで推測で、どのくらい待つのか、その間ホームにでられるのかといったことが全くつかめなかったから、こういう時の鉄則として周りの人の行動を見倣うしかないとじっとしていたのだった。そう、ほんとは聞けばよかったのだけれど、わたしは前の爺さんや周りの乗客がじっとしていたのでわたしもそうしたに過ぎなかった。そう思いながらも真実を確かめたくてしょうがなかった、というのも、この海峡を渡る連絡船は、少なくとも列車を積み込む連絡船はおそらくTrenitalia<イタリア国鉄>の船のはず、そしたら列車が主体で船を待つということかはありえないことではないかと‥、、結局1時間待ちの謎はつかめないまま(いや、もしかしたら種々の作業のために最初からその時間は組み込まれていたのかもしれず、それも時刻表があれば判断できたはずだった)列車は動き出して連絡船の船腹に呑み込まれていった。この時になって初めて、前の爺さんに聞いてみたのだった。外に出てもいいの?、もちろんだという返事に、すぐにわたしは列車から降りて甲板に上がった。もう、その時船は動き出していた。
甲板の上からだったが、なるほどメッシーナは素敵な街だった。だんだん遠ざかる風情もよかった。そしてすぐに本土のレッジョ・ディ・カラーブリアReggio di Calabriaが見えだした。実際はメッシーナからはいつでも見える位置にあるのだけれど、この時最初は港湾の中だったので見えてなかった。しかしこの海峡を渡る船旅は、ことのほか快適だった。天気も良かったし気持ちよかった。実際乗船していたのは1時間くらいで甲板にいられたのは45分くらいだったか?、この間に売店で昼食代わりに買ったスナック(たぶんaranciniというライスコロッケ)も安くてうまかった。こんな船旅が味わえただけでも、シラクサ~パエストゥムを列車にしたのは正解に思えたのだった(例えばシチリア~ローマあるいは~ナポリ間は夜行列車もあるようだが、ともかく美しすぎる路線である、夜通ったらもったいなさ過ぎる)。参考にする時刻表がないので、わたしの記録だけを書いておくと、メッシーナ着が10:15、11:25列車船腹に、11:30~12:15甲板に、12:30列車動き出し12:40対岸のVilla San Giovanni駅着、またそこでしばらく停車して、Villa San Giovanni発は13:05だった。そこを発車して間もなく、車掌さんが水とお菓子の入った袋を乗客全員に配っていった。それも訳が分からず爺さんに聞いてみると、列車が遅れたお詫びのしるしだという、その時点で50分予定より遅れているとのことだった。爺さんはすぐにそのお菓子を食べだしたが、わたしはその菓子は日本まで持って帰ったし、水は次の日まで役にたった。しかし、わたしはその時点で次の不安を覚えたのであった。つまり、ではこの列車のSprit到着は何時になって、乗り継ぎ列車はどうなるのか、ということだった。イタリアへ本土に入って、左側がティレニア海の車窓に変わった。わたしはその左側の席に座っていたから(on line ticket発行時に席の指定ができ、左側を選んでいた)十分その美しさも堪能、ただ時間のことは気になっていた。それでも各駅は1時間に一本くらいあるのは調べてあったから、on line tiketに表示されている列車ではないが、それに乗れるかだけは確かめたかった。で、車掌さんが検札に来た時に聞いてみると、それは大丈夫とのことだったが、この列車が何時にSapriに着いて、何時の各駅があるのかは、教えてくれたようだが聞き取れなかった。Lamezia 14:00、Paola 14:25着で、Sapriは15:10着だった。ドイツ人の爺さんとVilla San Giovanniから乗ってきて車掌さんとの通訳をしてくれたイタリア人の若い女性にお礼を言って別れを告げた。Sapriで降りた人はほとんどなく、大きな街のようだったが、駅はそれほど大きくはなかった。線路を渡ったホームに列車が停まっていたが、掲示板もなく駅員もいないので、それがどこ行きかわからなかった。たぶんそれが接続列車だと思ったが乗っていいものやら?、ちょうどそこが駅舎のあるホームだったので駅員を探す、やっとのことで駅長さんのような人がいたので聞いてみた、ナポリ方面にいく電車か?と、しかしよくわからない様子、わたしのいってることが通じなかったのか?、しかしその人が電車の乗務員に確認して(これも考えてみればおかしな話に思えたが)やっとのことで、そうだ、という返事をもらえ、すぐに飛び乗った。と、同時くらいにドアが閉まり電車は発車した。間一髪であった。ガラガラの各駅停車は、今度はアナウンスも何もなく、時刻表もなかったので何駅目かもわからない、持っていたticketにあった電車の時間から、やく1時間10分くらいかかることがわかって、その時間を目安とするしかなかった。あとは車窓というより地形をずっと見ていた。パストゥエム周辺の地図は頭に入っていたからである。そして次の駅がパエストゥムであろうと確信したときに、ちょうど車掌さんが回ってきた。聞くまでもなかったが、ticketを見せて次がパエストゥムかと聞いたら、間違いないという、こうしてなんとか無事?に50分の遅れで16:30駅員のいないパエストゥムの駅に降り立った。
この船はこちらの船から撮っているのでわれわれが乗船したものではない
甲板からメッシーナ方向;6枚
湾内で旋回して船はイタリア本土に向かう;2枚、メッシーナから本土は目と鼻の先
食べかけだが気づいて写真を撮った、これ一つで十分な昼食となった;1ヶ2.5€
たぶん着いたのはVilla San Giovanniのほうだったと思う;2枚
本土に渡ると車窓は左のティレニア海が素晴らしいのだけれど、窓の汚れで写真を撮ってもだいなし、、2枚
そこで降りた人も2~3人だったと思う。駅員がいなかっただけではなく、駅前には何もなく、家も商店もなく人もいなかった。つまり道を尋ねようにも聞く相手がいなかった。仕方なくうろ覚えの頭のなかの地図を頼りにまず遺跡に向かった。確かその日の宿は遺跡近くだったし、そこまでいけば商店はあるだろうと思ったからだ。幸い遺跡方向を著す看板はあって、駅から延びる一本道をいくが、周りは畑、もしかしたらそこも考古学地区だったかもしれないが、ともかくその辺一帯の田園風景が素晴らしかった。10分くらいいって突き当りを右に曲がると博物館があった。それは事前にプリントアウトした地図通りだったが、果たしてCarmenの家はどこなのかがはっきりしなかった。その周辺には土産物屋やBarもあって、しばらく探してみたがわからない、まだ明るかったが17時近くになっていた。最後の切り札は電話、パレルモ以来2回目の使用となったがうまくつながってくれた。が、出た相手は本人でなく、それでも、ここにかけろと言われた番号にかけなおすとCarmenがでてくれた。彼女は少し英語がわかった。で、今博物館の近くにいることを説明、それは伝わって、これから車で迎えに行くからBar Annaのところで待っているようにという英語も理解できた。Bar Annaは電話したところからすぐだったので、そこで待っていると10分後くらいに小型の車に乗ったおばさんが来てくれたのだった。彼女のところは歩くとそこから10分、車でも10分かかった。というのは、日中遺跡前の通りは車が入れず、駅の方を回らなくてはならないといって、つまり回り道をして再び駅前を通って、17:15に田園の中のまことに環境のいいピィラのような館まで連れてってくれた。そのとき駅まで迎えに行くから何時着か連絡くれ、というmaiを昨日送ってあった、ということを聞かされた。前日はWiFiが繋がらず確認してなかったと謝ったが、そしてCarmenのところで前日のmailは確認できたのだけれど、逆に見ることができなかったのが幸運だったようにも思った。そう、もし前日返信できていたとしたらCarmenを駅で1時間近く待たせることになったのだから‥、そう思うと何が災いし何が幸いするのか?人知の限界を知る想いであった。小柄で、人懐っこくて愛らしいCarmenはいくつ位だったろうか?見た目は40代に見えたが、もしかしたら50代くらいかもしれなかった(もちろん年は聞かなかった)。そのCarmenが実によくしてくれたのだった。もちろん宿舎の部屋がきれいで快適だったばかりでなく、その環境、彼女の気の使いようは、文句なしに、今回泊めていただいたairbnbの民泊の中では、わたしが一番としたものであった。以下その模様はどこまでお伝えできるか?
駅前にすぐ城壁があって遺跡エリアの入り口シレーナ門 Porta di Sirena
この遺跡は外からでも十分に見学できてしまう、その日は入園せずに;3枚
Carmen宅、2Fベランダ、わたしに与えられた部屋は奥の窓のある部屋
しかし、その時ゆっくり歓談する時間はなかった。もちろん遺跡巡りは次の日にする予定でいたが、わたしは海を見たかったのである。パエストゥムPaestum その昔ポセイドニアと呼ばれていたこの古代都市も、今まで訪れたセリヌンテ、アグリジェント、シラクサ(訪れてはいないナクソスもタオルミーナも)と同じく、すべて海岸につくられた植民都市である。海洋民族であったギリシア人にとって当然海辺とその背後の立地がことのほか重要であったはずだ。パエストゥム然りで、その海を見ておきたかった。が、ここは海まで少し遠かった。バイクを貸してくれるといったが、わたしはオートバイと勘違いして断ってしまった(たぶん自転車のことだったと思う、あとで後悔した)。荷物を置くとすぐに海にいってくるといって歩きだした。道は難しくはなかった。遺跡のある角を曲がれば後は一直線、Carmenには日本からmailで夕食をお願いしてあったから、帰ったら夕食にしたいと告げて、、浜辺までは1.5kmとのことだったから、たっぷり20分はかかったと思う。ぎりぎりSunsetに間にあった。すごい夕陽だった。遠くにアマルフィ方面の半島とたぶんカプリ島と思われる島影がシルエットになっていた。この夕陽は2500年たっても変わらないだろうと思いながら、誰もいない浜辺に、太陽が完全に没するまでたたずんでいた。それから暗くなりだした道を戻った。帰ってシャワーを浴びて、Carmenお手製のイタリア料理を賞味した。食に関しては疎いので、その料理は何ていうの?と聞いたが、はっきり言って聞いてもわからないことだった。なので書いてくれと頼んだ。イタリア語でいいからとわたしのノートにレシピ?を書いてもららったものを最後に載せておこうと思う(もちろん写真も)。料理の名前はわからなかったが、そのうまさがわからない男ではなかったつもりだ。ワインもしこたま飲んでパンとサラダとデザートも用意してくれていて、それで12€で賄ってくれたのだからありがたい話だった。わたしが一番に押した理由は、もちろんそれだけではなかったが、その点数が大きかった。
Paestumの浜辺と日没;8枚アマルフィ方面反対側南方向再び浜から山・遺跡のある東方向たぶんここは海水浴場だと思うが、このときはこの女性とその仲間しか人影は見なかった望遠でとったこの島がカプリ島ではないかと思われたが??
まさにsunset;2枚
parmigiana di melenzane
4 melenzane,2 uova
poco di farina, pomodori,basilico
parmigiano e provola
friggere le melenzane dopo
averle passate in farina e uova
lavare pomodori e cuocere
sugo con olio extravergine di oliva e basilico
in un ruoto mettere a strati le fette di melenzane
con sopra provola e parmiggiano
cuocere in forno per 30 minuti
ナスパルメザンチーズ
4ナス、卵2個
少し小麦粉、トマト、バジル
パルメザンチーズとプロヴォローネ
後にナスを炒めます
小麦粉と卵で通過しました
トマトを洗って調理
エキストラバージンオリーブオイルとバジルソース
で、それはナスのスライスを層に回転させます
プロヴォローネとパルメザンチーズと上記
30分間オーブンで料理
//グーグルの翻訳もよくわからないところ多、というか原文の写しが怪しいので訳文もそれなりに不明となるが、要はナスのパルメザンチーズ焼きとでもいう料理だったようだ‥??
mainがナスのパルメザンチーズ焼とこの辺の名物モッツァレッラチーズ、ビールは海の帰りに自分で買う;2枚Carmen;わたしの印象ではとても若々しかったから、4~50代と思っていたが、写真でみるともっといってるかも?、しかし気は若くて気さくなおばさんだった、、