独歩の独り世界・旅世界

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‘ギリシャ哲学者列伝’より 2-2 ソクラテスの弟子 アンティステネス

 わたしは、いわゆるキュニコス派の始祖が、てっきりディオゲネスかと思っていたのだけれど、実はソクラテスの弟子のうち最も重要と思われている四人のうちの一人アンティステネスがその人であったことをやはりこのギリシャ哲学者列伝で知ることとなった。そして、かのディオゲネスは、そのアンティステネスの弟子だったということも‥、、なので当初どうしても語りたかったディオゲネスについては、まずこのアンティステネスを学んでから、というのがその順序になろうかと思う。なぜならこの人のこともわたしはまるっきり知らなかったからである。 さて、しかしこのアンティステネスについては、このギリシア哲学者列伝なかでソクラテスの弟子について論じて、この著者は次のように記していたのであった。

<アンテイステネスについてはキュニコス派を扱った巻の中で論ずることにして、、>つまりその意図するところをくみ取ると、この著者(実はこの著者もディオゲネス・ラエルティネスといってちょっと紛らわしくなるので、ただ著者としたがラエルティネスのこと)の中でもいわゆるはキュニコス派というのは、ちょっと別格扱いするほど重要だった、という認識を示しているように思われる。で、その始祖ということだから、もちろんソクラテスの弟子ではあったが、ただ単なる弟子で終わった人でなく、その後一家をなしたという意味で、特別な地位を与えられた人物であったことが窺われるのである。ということでまずは、キュニコス派の説明から始めなければならないが、知っている人にはその必要がないとして、聞いたことのない人にそれを説明するのはわたしには少し荷が重すぎるのである。なので、ここでもう一冊の本、それはディオゲネスについてだれか詳しく書いてる人はいないかと思って探し当てた本だったが、少ないながらようやく見つけ出した一冊のその本を手掛かりに試みてみることにする。その書名は‘哲学者ディオゲネス’という本で著者;山川偉也 2008 講談社学術文庫であった。以下はそこからの引用である。

<‘キュニコス(ギリシャ語κυνικόϛ)’という言葉は、名詞‘犬’(ここにもギリシャ語が入るのであるが読めないし書けないのでので省略)に由来するところの‘犬的な’‘犬のような’を意味する形容詞である。したがって(複数名詞)‘キュニコイ’は‘犬のような人々’、‘犬学派’と訳されるのが一番いいかもしれない。>としたうえで、従来からの‘犬儒派’という訳語に異議を唱えている。それに続く注釈文は長くなるので略させていただくが、わたしには目から鱗であった。そう、これまではキュニコス派というのは本邦では、犬儒派と呼ばれてきた一学派を指す言葉で、その祖師がアンティステネスだということをわたしは初めて知ったわけであるが、いわれてみればその訳語としての犬儒派は、やはりおかしいといわざるを得ない誤訳に他ならなかったのである。何となれば、その儒がいけないのである。それは山川氏が述べている通りだと思う。それを参考にしながらわたしなりの解釈を以下、、

 わたしも及ばずながらその疑問は持っていたのだ。わたしがディオゲネスに惹かれ、興味をもったそもそもは、その生き方にあった。つまり、規則やルールを重んじ勤勉を旨とする、いわゆる孔子的な生き方(儒教的)を嫌い、自然に習い自由を重んじて、本来の人間性謳歌する生き方、即ち老荘的な生き方(道教的)を範として半世紀以上生きてきたわたしにとっても、その西洋版ともいえるキュニコス派犬儒派といってしまっては元も子もないではないかという腑に落ちなさは、少なからず気になっていたことだったからである。なので、キュニコス派の説明としては‘犬的に生きる人々’といった説明が最も適当となりそうだが、ま、中途半端ながら、ある程度はわかっていただけたのではないかと思う次第、、で、参考までに広辞苑には‘犬儒派’はどうのように記されていたかを以下に附記しておく。

 <犬儒学派;犬のような乞食生活をしたというキニク学派=キュニコス学派の別称>とあり、キニク学派を調べると、さすがにきちんとした説明が載っていたので、犬儒派の訳語についてはともかくとして、キュニコス派の説明としては完璧だった。<キニク学派;ソクラテスの弟子アンティステネスが創めたギリシャ哲学の一派。幸福は有徳な生活にあり、有徳な生活は外的条件に左右されず、意志で欲望を制することによって達せられると考え、できるだけ活淡無欲な自然生活を営むことを生活の理想とみなし、そのためには一切の社会的習慣を無視し、文化的生活を軽蔑した。ここからしばしばキニク主義(シニシズム)は社会生活の伝統や見栄を意識的に無視する生活態度を意味する。>としている。最初から広辞苑を先に持って来れば事足りたではないかとお叱りを受けそうだが、わたしはいつも後から気づくのである。わたしの解釈・説明がいかにいい加減だったかを知って恥じ入ってしまうのであるが、ちゃんとアンティステネスの名があったので、さすがにと感心してしまうのである。ただし、シニシズムについては、山川偉也氏の本に、犬儒派と同じく、シニシズム=キュニシズムもおかしい旨の指摘があったことを一応付け加えて、キュニコス派の説明は以上としたい、、

 以上でお分かりいただけたと思うが、洋の東西を問わず、すでに2500年前にはいわゆる正統・主流(?)な生き方を疎んじて、犬的生き方にむしろ親しみを覚える人たちが一派をなしていたのである。一方ではこのアンティステネスを祖とし(彼の師がソクラテスだから、ソクラテスを祖と見る見方があってもいいのではないか?)、方や謎多き人物老子である。で、今更宣言しても始まらないが、知る人ぞ知るで、わたしは老子の徒と自認してきたわけであるからアンティステネス、ディオゲネスに親しみを覚えるのも肯けていただけたかと思う。で、ディオゲネスについてはもう一回稿を改めることにし、最後にアンテイステネスの逸話を例のギリシャ哲学者列伝から引用してこの稿を締めくくることにする。

 アンテイステネスがソクラテスの弟子になった経緯も述べられているがそれは省かせてもらって、ソクラテスの弟子になってから学んだこと等、以下(抜粋)の記述が伝えられている。

1,ソクラテスから‘困苦に耐えること’を学んだり、また‘情念に乱されない心’を学んだりして、かくして彼は‘キュニコス的な生き方’(キュニスモス)の創始者となったのである。

2,また彼は、労苦(ポノス)は善いもの大ヘラクレスとキュロス王とを引き合いに出して、つまり前者はギリシア人の中からの例であり、後者はギリシャ人以外の人たちからの例であるとして、証明したのであった。

3,彼はまた、‘言論(ロゴス)とは、ものごとが何であったか、あるいは何であるかを明らかにするものである’というふうにいって、言論の定義を最初にした人でもあった。

4,また彼はつねづね、‘わたしは快楽に耽るくらいなら、気が狂ってる方がましだ’と語っていた。

5,あるとき、プラトンが彼の悪口をいっているという噂を耳にすると、‘立派なことをしていながら、悪い評判が立つのが王者らしいことなのだ’と彼は言った。

6,この世において最高の幸せとは何であろうかと訊ねられたとき、‘それは幸せなままで死ぬことだ’と彼は答えた。

7,鉄は錆によって腐食されるが、それと同じように、嫉妬深い人は、自分自身の性格によって蝕まれるのだと彼はよく言っていた。

8,兄弟が心をひとつにして協力して生きるなら、どんな城壁より堅固であると彼は言った。

9,戦争においては役立たずのものを排除するのに、国の組織のなかからは劣悪な者どもを追い出さないのは奇怪なことだと彼は言った。

10,哲学から何を得られたかと訊ねられたとき、‘自分自身と交際する能力だよ’と彼は答えた。//まさにソクラテス的な答えに思えるのだが??

11,また彼は、悪口をいわれている人びとに対して、石を投げつけられた場合よりも、もっと辛抱強く耐えるようにと忠告していた。

12,彼はまた、プラトンは己惚れているといってつねづね嘲っていた。彼が病気中のプラトンを訪ねていって、プラトンがその中へ吐き出していた盥のなかを覗き込みながら、こう言ったのであった。‘ここには胆汁は見えるけど自惚れは見えないね。’//この辺はとっても面白い、、

 先に広辞苑でみた彼の学説については(もちろんそれはここからの引用であったろうが)以下のように述べられていた。

13,徳は教えられうるものだということ、そして有徳な人が高貴な人でもあるということを証明しようとしていた。

14,(彼によれば)幸福なるのには徳だけで足りるのであって、ソクラテス的な強さ以外には何一つその上に必要なものではないのである。

15,徳は実践の中にあるのであって、多くの言葉も学問も必要としないものである。

16,賢者は自足しているものである。なぜなら、他の人たちの所有しているものはすべて賢者のものだからである。

17,不評判は善いことであり、、それは労苦に匹敵するものである。

18,賢者は市民生活を送るにあたって、既定の法律習慣に従うのでなく、徳の法に従うであろう。

学説を離れて以下のような記述も見られた。

19,すべてのソクラテス門下の中で、アンテイステネスだけをテオポンポスは称賛して、彼は恐るべき才能の人であり、機知に富んだ会話で、どんな人も自分の思うままに導いたと述べている。

20,彼は、ストア派の中のもっとも男性的な(厳格な)学派の開祖になったようにも思われる。(これは文脈からすると著者の意見?)

21,(これも著者の想いか?)アンティステネスはまた、ディオゲネスの‘動じない心’(アパティア)や、クラテスの‘自制心’(エンクラティア)、そしてゼノンの不屈不撓の精神’(カルテイアー)といった考え方に途を開いたのであり、つまり、その人たち(思想の)国に礎石を据えたのは彼自身なのであ。

22,そして、彼は(アテナイの)城門から少し離れたところにあったキュノサルゲス(‘白い犬’という意味とのこと)の体育場で人々に語りかけるのを常としていた。キュニコス学派という名称もそこから由来しているとある人たちがいっている所以である。また彼自身は‘ハプロキュオーン’(純然たる犬の意、とのことだが、そこには純然たるキュニコス派の人という意味が含まれていたと、訳者の注あり)と綽名されていた。

 以上で、わたしの勝手な抜粋は(実際は18ページ19章に及ぶ)終わりとするが、その後に喧伝されたキュニコス派のイメージとは重ならない部分も多くみられた。ともあれ、後にキュニコス派といえば、ディオゲネスその人を指すようになった、犬のディオゲネスは、前4世紀の半ば、黒海のギリシャ植民都市シノペを通貨変造疑惑で追い出され、アテナイのアンテイステネスのもとを訪れ弟子入りしたように伝えられているのだけれど、果たしてその経緯はどうだったのか、最終回はそのディオゲネスを探ってみたい、、