独歩の独り世界・旅世界

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フィリピン語学留学、最終回 ; Baguio,Vigan (訪れた街)

  まだいくつかのトピックはあったのだけれど、気力続かず、学校を離れてフィリピンの印象、学校のあった街と一度旅行で訪れたところを思いだすまま記して、このレポートの最終回とします、、

 最初にいったように観光地としてのフィリピンにはあまり期待していなかったのだけれど、Baguio<バギオ>というところはなかなかいい街だったという印象は残った、、11月は雨期も明けていたので(10月まで確かに雨は多かったとMieさんから聞いた)、山の上にあったため午後は霧が立ち込め、時に猛烈なにわか雨に見舞われることもあったが、少なくとも暑いと感じたことは一度もなかった、、むしろ、当初個室をあてがわれたとき上掛けが一枚しかなく、頼んでもう一枚もってきてもらうまでの数日間は多少寒い想いをしたほどだった、、そんな按配で長袖のシャツも厚手のジャケットも持ってなくて、おまけに着替えもそれほど持っていったわけでなかったから、着るものにはけっこう苦労することになった(洗濯代を10kgまで面倒みてくれたのは助かった)、、ただ、街に出れば大きなショッピングモールがあって(SM Baguioと呼ばれたそこが街の中心的シンボルになっていた)、そこからBaguio一の目抜き通りSession Rd<セッションロード>を下っていくともうひとつのショッピングエリアCity Market,Center Mall<シティマーケット、センターモール>といった繁華街があって、それらのエリア、ショッピングモールにはありとあらゆるものが日本よりずっと安く売られていたので、衣類の補充などは簡単にできたのであった、、ま、その界隈をぶらついているかぎりでは、いや、いまやフィリピンのどこへいってもそうかもしれなかったが、けっこうもので溢れ、センスのよい若者たちを大勢見かければ、この国の景気もそんなに悪くないのでは、と思わせるものがあった、、少なくともこの街だけを見た限りでは、来る前に耳にしたことがあったスラムも物乞いも見かけることがなかったから、貧困には無縁なように見えた街といってよかった、、もっともBaguioに来る前に数時間滞在したManila Pasay市はけっこうごちゃごちゃしたところであったが、そこからものすごい渋滞を抜けてBaguioに来るまでの道のりでも、もっとひどい国を見てきた目からすれば、まだいいほうではと感ずるくらい、もちろん豊かではなかったかもしれないが、貧しい国という印象はもたなかったのである、、

 そんな近代的なショッピングモールSMはいついってもたいへんな混雑で、むしろわたしにはここは他より物が高いと感じたくらいだから、ほとんどそこでの買い物はしなかった、、それでも学校から街にでるときは、たいてい仲間と一緒だったから、タクシーで常にSMといって、とりあえずそこまでは一緒にいって、それから数時間は別行動とした、、そのエリアに飲食店も固まっていたから、数時間後に落ち合って食事をしたり飲み屋にいったりということが多かった、、山あいの街だったので、坂が多かったり、緑が多く、大きな公園が街の中心にあって、とても落ち着いた雰囲気のある街、住んでも悪くないという印象さえもった街であった、、

山あいの街Baguio005_640x427

Bagui City Hall<市庁舎>006_640x427

市庁舎のほうからBurham Park<バーンハム公園>008_640x427

街の中心City MarketからBurnham Park方面とその通りの脇の公園に建つ山岳民族の像009_640x427012_640x427

Baguio Cathedral<バギオ大聖堂>
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SMのフードコートは一階にあり、ここは4階建てのショッピングモール135_640x427


 さて、週末はだいたい街にでて、ドンちゃん騒ぎをすることが多かったと前に書いたが、せっかくフィリピンに来たのだから、週末にフィリピン国内を少し旅してみたいという考えも最初のころにはもっていた、、で、チャンスがあればいってみたいと思っていたところが2ヶ所あった、、Baguioというところはルソン島(フィリピンは7000もの大小の島々によって構成されている群島国家だが、ルソン島は最も大きな島で首都マニラがあるところ)の北部にあって、マニラからバスで8時間もかかるところにあったが、比較的そこから近い世界遺産が2ヶ所あった、、ひとつが2000年の歴史を持つといわれているライステラス<棚田>のあるBanaue<バナウエ>というところ、もう一ヶ所が16世紀から300年くらい続いたスペインの統治時代の面影を残すViganという街<ビガンの世界遺産は、ビガンの歴史地区とビガンの更に北にある街ラワグのPaoayにあるSan Augstin Churchと手前の街Santa MariaにあるNuertra Senora de la Asuncion Churchも含まれる?>で、それでもバギオから距離的にはどちらもそれほど変らなかったと思うが、海岸線を行くViganが5~6時間、Banaueは山岳路を行くので8~9時間かかるといわれていた、、

 わたしの当初の計画は以下のようなものだった、、いずれに行くとしても土・日しかないが、Banaueへ行く場合は、金曜の夜のバスを使えば土曜日一日を見学にあてられ、現地一泊で日曜の夜には戻れるであろう、Viganは土曜の朝出て現地一泊で日曜の夜には楽に戻れるはず、というものだったが、バスの時間等はBaguioで調べる必要ありだった、、が、実際はなかなか思うようにことは運ばなかったのだ、、まず、旅にいける週末の土・日というのは3回あったのだが、最初週末は金曜の夜がbatch mateとの最初の飲み会となり、土・日はBaguioの街に繰り出して、買い物やら、先のバスの情報収集でつぶれた、、で、2回目の週末にBanaue行くつもりだと宣言したら(学校に届出の必要があったりしたので)batch mateのFrankが同行したいといってきた、、もちろん異存なく届出は一週間前に二人の名前でだした、、ところが直前になって、前回はKoreanの主催でKorean Restauranteでの飲み会になったのだから、いつかJapanese主催のJapanese Restauranteでの返礼の会をしようという話が、みんなの都合でまた急遽金曜日の夜となったしまったのだった、、で、わたしもどちらかというと個人の旅行よりは皆との飲み会を重視するほうだったから、必然的に金曜夜発のBanaueは中止となり、その代わりViganなら土曜の朝たてばいいのだから、そちらにしようと急遽行き先を変更したのであった、、もちろんFrankも当事者だったし、やはりViganも世界遺産なのでいってみたかったとのことだったので、結局次の日の朝、彼とViganへ行くことになったのであった、、更にそのあとのことまで述べてしまうと、そしてViganへは行ったのだが、結局Banaueへ行くチャンスはその後なかったというか、ある意味Viganで懲りて、もうその気にならなかったというのが正直なところ‥、では、Viganはどうだったのかをこのあと綴っていくことにする、、これはあくまでわれわれの場合、ということで‥、、

 Viganへ行くバスは、たぶんPartas社が一番本数を出していたのではないかと思う、、少なくとも午前中は一時間に一本くらいあったと思われる、、我々は事前に詳しく予定を立てたわけではないが、わたしは勝手に次のように考えており、彼<Frank>も了解していると思っていた、、Viganまでは5~6時間と聞いていたからBaguioを朝の9時ころのバスに乗れば夕方3時ころには着くだろう、、着いたらまず安宿を探す、、そして2~3時間もあればViganの街はだいたい歩き回れるのではないか?、夜はどこかで酒を飲もう、、次の日は適当にそれぞれ希望があればそれに従って夕方までにはBaguioに戻ろう、、といったあたりが基本ラインで、あとはその場その場で決めていくだけで特に問題は起こらないだろうと思っていた、、少なくとももし彼の希望があればそれに従えばいいだけだ、というのがわたしのスタンスだった、、そして実際、大筋その通りに進行していった、、まず、9時(9:15発,334ペソ、SMの下にターミナルがあった)のバスにはギリギリだったが何とか乗れた、、しかしViganまでは長く退屈な道のりだった、、天気もそれほどよくなく、また車窓も特に興味をそそるほどのことはなかった、、途中San Fernando<サンフェルナンド>やSan Juan<サンフアン;いずれもスパニッシュネームが懐かしかった、、この二つの街は隣りあっていてBaguioから2時間くらいの海辺の街で、サーフィンエリアとして有名、BECI - わたしが通った学校 - の生徒が、週末よく遊びに出かけていたところ>といったよく聞く街を通り、あとは海沿いの単調な道(といっても海が見えたところは少ない)を延々と走ってVigan到着が15:30だったから6時間強かかったことになる、、すでにわたしも彼も少しうんざりしていた、、そして宿探しのために雇ったトライシクル<Trycycle;二人乗りのサイドカー?>のお兄ちゃんが、英語を解さず(ま、たまたまだった思うが珍しいのでは?)こちらの希望をまったく叶えてくれなかったので、驚きと怒りで少しイライラしてくる、、それでもともかく街の中心部にでて、セントポール大聖堂(St.Paul Metroporitan Cathedral) の近くで軽い食事をとって、更にワンブロック行ったところが、かの有名な石畳の通りMena Crisologo St.<メナクリソロゴ通り>だったのでそこまでいってみると、そこに観光案内所<tourist information>があった、、そこで地図をもらって安宿(?)情報を聞く、、近くの宿を2~3軒教わり、Vigan名物の観光馬車カレッサ<Calesa>のみ通行が許されていて車は入れない、スペイン時代の面影を残すそのViganのメインの通りにあるような説明だったので、そのあたりの観光を兼ねて歩きだす、、といってもその通りは10分も歩けば終わってしまったのだったが‥、、そして、どうもViganの見所は他にはあまりなさそうだった、、というか‥、、

PartasのVigan経由Laoag行きのバス019_640x427

St.Paul Metroporitan Cathedral<聖ポール大聖堂>とTower024_640x427

スペイン風建物<Archbishop's Place &Museo Nueva Segovia?>;2枚026_640x427
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Map of Vigan032_640x427

愛すべき若者Frank、向こうにCrisologo St.が見えている034_640x427

Calesaのみ通行が許されている石畳の道Mena Crisologo St.;2枚036_640x427037_640x427



 そぞろ歩きしていて薦められたホテルはその界隈にすぐに見つけることができ、その何軒かにあたってみた、、その結果ホテルの料金はほとんどどこもそれほど変わらないことがわかったのだけれど、いずれも一泊ツインの料金が一室3000ペソを下回ることはなかったのだった、、ま、我々が無理をいってるのか、あるいは勝手に思ってのことだったかもしれないが、貧乏旅行派を自認する二人は、ホテルのグレードとか格式とかはどうでもよくて、それこそドミでもかまわないというあたりで一致していたから、一人当たりの予算を500ペソくらいしかみていなかった、、Max二人で1500ペソあたりまでだったら、ま、考えなくはないという共通認識はあった、、が、あたった宿はすべてその倍以上の価格だったのだ、、この街の宿は全般的に高めという情報は持っていたが、だからといって予算の倍をだしてまで泊まる気は二人ともサラサラなかった、、問題は、というか二人の意見はここで少し分かれた、、もう少し場末で安そうな宿を探してみようという、わたし‥、、一方彼はわたしが想いつきもしなかったことをいった、、彼はすばやく、もうviganの見所はあまりないと見極めたかのように、夜行のバスがあったらそれで帰りましょう、といいだしたのだった、、しばし唖然としながらも、それもアリかもしれないと思ったわたしは冷静に、では、いったんバスターミナルまでいって、バスの時間を確認してみようといった、、そして、もうスペイン統治時代の面影はなくなっていたが、それでもViganの場末の雰囲気が漂う通りをバスターミナルまで歩いていった、、バスターミナルに着いたときは、そこに降りたったときから2時間くらいしか経っていなかった、、Baguioまでの夜行バスはあるのかと聞いてみるとPartasのticketブースのおっさんが23時のバスがあることを教えてくれた、、それを聞いて、わたしも納得して、それまでどこかで飯くって酒飲んでそのバスで帰ろうと彼に伝えた、、朝の5時とか6時に着いても別にかまわないと思ったからである、、そうなると逆に時間はたっぷりあった、、外はもうとっくに暮れていた、、それまで歩き続けていたので少しそのターミナルの椅子で休んでいるとき、突然また彼がいいだした、、もっと早いバスはないのだろうか?と‥、今度は彼が聞きにいった、、それより早いバスは18時が最後とのことだった、、18時までは、30分しかなかったというべきか、まだ30分あったというべきか?、、流石にそれを聞いてどうしたもんだか、わたしは即答しかねた、、どこかでうまいもの食って少し酔っ払ってバスで寝ていくほうがいいのではないか‥??、、そのとき彼は、もうここにいてもしょうがないではないか、という気分に覆われていたようだった、、わたしは夜のViganにまだ見るべきものがあるかもしれないという一抹の去りがたさがあったのだった、、それは例えばdining mate(また新しい言葉を作ってしまったが、食堂でよく一緒になった日本人の仲間)のYuki & HeyさんがいっていたViganの噴水がよかった、といった情報を少しもっていたからだったが、それだけでなく、我々はあのメインストリートを見ただけで、まだ他を全然見てないではないか、せっかく来たのに2時間で帰る手はないだろう、少しもったいなくない?という想いがわたしにはあったのだ、、しかし、彼はもう帰るモードに入ってしまっていた、、こういう齟齬が複数人で旅した場合に起こりうることは、わかっていたことだった、、だからほとんどわたしは一人で旅をしてきたのだった、、しかしこの機に及んでわたしは自己主張しなかった、、なぜか?、あとから想うに(いや、そのときにそう想ったからだと思うが)彼を失いたくなかった?、、無駄なことをいって別行動はとりたくなかった(お互いにそれも可能だったと思うが)、、今まで、たいていの場合は我を通してきたわたしだったが、自分の子供より若い男の子と張り合ってもしょうがないではないか?、みっともない、大人げない‥そう思ったのであった、、結果はどうあれ、そうして我々は18時のバスに乗って23時半Baguioに戻ったのであった、、

 土曜のBaguioの夜は更けていたが閉じてはいなかった、、深夜だというのにまだSession Rd.の人通りは絶えていなかったし、Harrison Rd.のナイトマーケットもそろそろ店じまいの時刻だったが人で溢れていた、、これは彼の決断と、それに従わなければわたしの知るところとはならなかったBaguioのもうひとつの顔だった、、深夜のBaguioを徘徊し夜食とビールで労をねぎらい、タクシーで自室に着いたとき、すでに1時を回っていたが、一人1500ペソ(4000円くらい?フィリピンにしては高すぎた)をとられていたかと思えば、自室の布団で寝ることになった不思議さと心地よさはそれなりにあったのであった、、

 

 さて、実はその後の後日談というものがあった、、いくつかあったが、簡単なものから記すと、1)として、わたしは早速そのVigan旅行の顛末を英作文の宿題として提出し、笑われたり、もう少しゆっくり見て廻る価値のあるところだといったアドバイスをもらったこと(もちろん添削はいつもどおりたくさんあった)、、2)としては、これはすでに少し触れておいたが、Viganがそんな結果に終わり、疲れも残っていたし期待した割にはたいしたことがなかった世界遺産だったので、Banaueはあまり気のりしなくなって、結局は行きそびれてしまったこと、、そして3)としては、それでもFrankとの関係はその後も良好で、最後まで彼はわたしと行動を共にすることになったということなのたが、それは4)の結果そうなったのでそれから述べる、、で、その後日談の4)としてだが、実はこの旅の後遺症をもろに被ったのはほかならぬ彼(Frank)だった、ということ‥、、これについて少し詳しく述べると、そういう意味で彼は若くはあったが、が故に(?)体力・精神力とも十分に備わってなかったのでは?といういうのがわたしの厳しい見方だった、、というのは、その疲れが主な原因だったと思われるが、そのあと彼は体調を崩して学校を数日休むことになったのである、、それとともに一時平常に戻った自信が、また少しづつぐらつきだしてきた、、そして、とうとうGM Yukariさんに伴われてBaguioの病院に行ったということを後で聞くことになった、、そのときの診断によると考えられる原因は、やはり精神的肉体的疲労ということで、その後数日の休養を要したのであった、、ま、それでも若さゆえ、またたく間に体調は回復し再びゲートの外に飲みにいけるようになったが、そのころから当初7週間の予定できていたところを3週間短縮してわたしと一緒に帰りたいといい始めた、、そして、何回か飲みながら相談を受け、その都度どこまで考えてのことかと問いただし、せっかくここまでがんばったのだし、もう少しだよ、と慰留に努めたが、すでに二度目となったその想いは翻らず(最初のときはYukariさんの説得が効を奏したが)最終的にYukariさんに話して了解されたという話をそのあとで聞くことになった、、そして、わたしの授業終了にあわせて、フライトの日にちも時間も航空会社も別々だったが、同じ日に一緒にマニラに行くことになったのであった、、

 こうして彼はわたしより一日早く11月30日に、わたしは12月1日にフィリピンを去った、、あっという間の一ヶ月であったが、ずいぶん多くの人と知り合い、その印象ばかりが残ることになった、、Batch Mateという言葉を初めて知って、そして最後にはその意味を十分噛み締めさせてくれた同期生AlisaとFrankには特に感謝したい気持ちでいっぱいである‥、、

 

‥そういえば今日(2014/12/26)は、確かAlisaの最終日ではなかったか??、、その後の皆さんの活躍と新しい年の飛躍を祈りながら、、‥年末の昼下がり、この報告を終わらせていただきます、、

<了>