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インドネシアの旅 第二章フローレス島 その3,バジャワ Bajawa

  バジャワも大きい街だと聞いていたから、てっきりバスターミナルに着くのかと思っていたら、まだ山の上、街の手前の三差路といったところで、ここがバジャワだといってバスから降ろされた。えっ?こんなとこ?と思いながら降りると、そこはちゃんとしたもので、オジェドライバーやタクシードライバーが待ち受けていて、早速その一人に捕まってしまった。バスの支払いも忘れて、わたしが見つけたというより、むしろ相手がわたしを見つけてこの獲物は絶対に逃さんとばかりにあれこれいったきた。そこへバスのドライバーがやってきて、バス代を請求される、110(以降000を省く、hundred tenというような言い方にようやくなれてきていた)とのこと、いや、90といわれたが?といってみたが、どうやら前日のトラベルもそうの情報は少し古そうだった、素直に110千、つまりだいたい900円をドライバーに払った。ここはだいたい1時間距離が200円?バス代はそんなに高くないと思った。で、今相手している若い男は、ここのガイドだというくらいだから、かなり完璧な英語を話した。客の扱いも慣れているようで、わたしのカッコウをみただけで貧乏旅行者と見抜いたようだった。いわく、バジャワには安宿はそんなにない(次の日それは事実だったことを知る)、ホテルは300~500、ホームステイというのがあるが(これは次の日に知ることになるのだが民泊、あるいはGHのようなものだった)、それだと150~200だけど、その数は余り多くない、で、あなたの希望のところへ連れていくが、もしよかったら自分の家に泊まらないか?100でいいよ、とまくしたてたのだ。そこは街とは反対の方角にあるが、この辺の典型的な村の様子が見られるし、ローカルフードも食べられる、食事代は朝晩で100でいい、と気をそそるいいかたにうまく丸め込まれてしまった。何より宿代100が魅力的だったので、もしかしたら二泊するかもしれない、とまでいってしまった(ま、わたしも調子のよい男だが、宿なんかどこでもよかったし、民家は大歓迎だったから)。彼は大喜びで、すぐにヘルメットを取り出し、それをかぶって彼のバイクにまたがった。そう、彼はガイドでもあったがオジェドライバーでもあったのだ。仕事がないとき(お客がないとき)はバスの終点でこうして毎日獲物の到着をまっているのであろう?? ま、しかし陽気な男で、豪快なところと人の気持ちがわかる繊細さを持ち合わせていて、彼の家まで15分くらい走る間ずっと話しをしていた、というかわたしと(調子がいい点で)話があったようだ。これまでに何人もの旅行者が泊まってくれたというような話を聞かされた。その旅行者の中に日本人はいたのかと聞いたが、日本人は初めてで、ほとんどはヨーロッパの若者だったようだ。そんな話からもこの辺りまで来る日本人がいかに少ないかがわかるのであった。

バジャワでバスを降りた三差路の近くImg_7493_640x480

 正確にいうとそのバスの終点は四差路だったかもしれない(交差点ではない)、あいにくそこの写真は撮りそびれてしまったが、ルテンからのバスは西からきてそこで終点となったが、バシャワの街はそこから北へ、そしてエンデ、マウメレ方面は東へと幹道は延びていた。が、もう一つ少し細めの道が南方向、つまり夕方浜辺から見たこの辺りのシンボルInerie山に向かう道があった。彼はその道を行き、山の中というかInerieの麓の村といったほうが正確か?、木々に覆われたまさに自然の中、村らしい数軒の民家が建ち並ぶうちの一軒に入った。そこが彼の家で平屋だったが案外立派な家屋だった。彼のご両親を紹介される、お父さんはわたしと同じくらいの年齢?、すでにリタイアされていたがpriestだったといっていたから牧師さん?ならばこのくらいの立派な家であっておかしくないと思われた。彼は小さな家といっていたが、どうしてどうして、わたしのところなんかより部屋数も多かった(この辺では中の上といったレベルではないかと思われた)。ただ、そこは大家族のようだったからよくはわからなかったが、兄弟姉妹だけでなく近縁者も何人かいたかもしれず、同居者は10人くらいいたのではないか?、そのうちの一部屋を空けてくれ早速マットレスで寝床を設えてくれた。その間わたしと彼は次の日のことを話していた。もちろん彼のネライは明日の観光案内であることはわかっていたが、わたしは少し注文を出す、というかよくわかっていなかったからいろいろ聞いたのだ。バジャワというところの情報はガイドブックにもほんのわずかしか載っておらず、ほとんど何も知らなかった。わたしが知りえていたのは、ここは伝統的な形式の村落形態が残されていて見所はそこくらいしかない、ということだけだったから、ま、そこは訪れてみたいと思っていたが、そのためにどのくらいの時間を要するのかは全くわかってなかったからだ。で、最初に聞いたのはやはりマウメレに行くバスの情報だった。彼は朝の6時か7時に一本あってドライバーは知り合いだから、必ず明日話をつけておく、といってくれた(ま、そういう意味では皆知り合い・友人になってしまう、たぶん若干のマージンが入るのであろう)。となるとやはりここに二泊する必要があることがはっきりした。一応口約束だが二泊するつもりであることを告げ、そうすると明日一日はフリータイムになる、で、朝の早い時間に洗濯をしたい、そうすれば明日一日で乾くのではないか?そのあと一日オマエのバイクで観光するとしていくら要求するのと聞いてみた。500といってきた、あとから思ったのだが、それは決して高くいってきたわけでなく相場のようだった。ただ、わたしはその相場そのものを知らなかったから、高いのでは?といってしまった。で、どことどこへ連れてってくれるのかと聞くと、もっとも有名なBena村(これはガイドブックにあったから知っていた)だけでなく、そういう伝統村は他にもあって、それはここ(彼の家)から近いから2~3ヶ所回れるかもしれない、そのあとInerieのトレッキングに行ってもいいし、展望台(view point)があるからそこに行くのもいい、それからBena村、時間が余ったらバジャワの街も回れるといってくれたのだが、わたしは300ではダメかと聞く、彼は400まで下げてくれたが、明日も泊まるしということで最終的には300で押し切ってしまった。ちょっと不満の色が見えたが、彼の強引さとわたしの強引さのかけひきであった。そして洗濯は明日の朝ここでできるといって洗濯場を、そしてトイレを案内してくれた。

 実はその間ずっと停電であった(部屋ではロウソクを使用、洗濯場・トイレを案内してくれたときには持っていた小さなポケットライトが役にたった)。最初は電気がまだきてないのかと思ったのだが、どうもそれは定期的なもの(電力調整?)らしく20時頃には点いて、そして食事が供された。そのときその電気について聞いてみた、この村に電気がきたのはいつごろか?それはわりと古くて30年前には電気はきていたとのこと、ま、確かにフローレス島はインドネシアの中心からは離れていたが、インフラはけっこう整備されていて開発の遅れた地ではなかったのだ。が、一つだけそのとき感じたことがあった。失礼ながらそれは食事であった。同じテーブルということではなかったが、皆同時に食事にありついた、で、もちろんわたしに先によそうようにと勧められたが、わたしはどんなローカルフードを味わえるのか楽しみにご飯とおかずの乗っているところに赴く。ま、それはマタラム~ビマ間のバスで夕食休憩になったときの感じに似ていた。ただ、そこには炊飯器で炊かれたご飯は豊富にあったが(インドネシアというところは前回写真を一枚載せたが、どこにも稲田があったから米飯に関してはどこも不自由はなさそうだった)あとは一品の付け合せ、それは少しの野菜が入ったインスタント麺があったのみであった。これがローカルフードなの?と口には出さなかったが、それほど貧しくはないと思われたこの家で、ま、特別のものを望んでいたわけではなかったが、これでは街の食堂より劣るのでは?正直その食事には少し失望してしまったのだ。いや、わたしは食事代として100といわれて、けっこうなものが食べられるならと承諾したのだが(ちなみに街の食堂のメニュウなら20でけっこううまいものが食えたことを思うと、その食事ならせいぜい10くらい? 実は後に似たような食事に遭遇することになるのだが‥)これはちょっとひど過ぎない?と思ったのであった。しかし、もしかしたら彼らの生活の、表面ではわれわれが知りえない現実の一面(一般的な食事情)かもしれないとあとから思ったのであった‥、、

彼の家の庭先、森の中の開拓地?Img_7395_640x480

 その辺のインドネシアの庶民の生活事情がわからず(いや食い物の恨みから?)わたしは次の朝爆発していた。これはいくら宿代が100だったとしてもこの食事はひどすぎないか?それに温水もなければWiFiもないではないか、この選択は間違いだったかもしれない、と‥、、で、セバスチャン(Sebastian;彼の名前)が起きるのを待って、しかしできるだけソフトにいってみた。申し訳ないが、やっぱり早々にここをでることにした、理由は洗濯とWiFiだ、わたしのここで第一にすべきことは洗濯である。ついては今すぐバジャワの街にいきたい、安宿を見つけて、それから洗濯屋に連れてってほしい、それが済んだらあなたのバイクで観光めぐりをするつもりだ‥と、、彼はわたしの勢いに押されたようで了解してくれた。なにしろなんかいってきたらわたしはそこをでて一人で街まで行こうさえ思っていたくらいだったから(実際そんなことしたら大変なことになっていたと思うが)、、で、コーヒーとやはり一飯一菜の簡素な朝食をいただいてからわたしは彼の家を後にした。約束の100+100は払った。街まではバイクで30分くらいかかった。彼はわたしの申し出にしたがってまずホテルへ連れていってくれた。最初のホテル(ガイドブックにもでていた)は400で話になからなかった。わたしはそれまでの経験で250以上はだすつもりはなかった、近くにもう一件あったので訪ねるとそこは350、ふざけんなであった、もっと安いところはないのか?流石に彼はガイドである、ホームステイならある(このときホームステイとはどんなところか知る)ということで近くのあるというそこへ連れていってくれた。150といったか175といったか、しかしあいにくそこは満室だったのである。いや、ここは確かにホテル事情は厳しそうだ、また彼のところに戻るしかないのか?と思ってると、もう一軒あるというのでそこまで足を延ばしてみた。まず彼が下見にいく(というか、どうも先にいってオーナーと打ち合わせて少しリベートをとるのでは?と、そのとき直感した)、で、戻ってきていうには175でよければ空いてるとのことだった。覗いてみると良さそうなところ、もしかしたら25ほど彼がリベートを取った可能性はあったが、もう他はなさそうだったので、そこに決めた。結果論としていえば、ここは超お勧めのところだったので、あとでそこの名称を載せておこうと思う。で、まず宿を決めることができた。次は洗濯屋へ行ってくれと頼んだというか指示した。それはある意味バジャワの街見物になったが、流石に彼はその場所も知っていた、が、一軒目はクローズで、二軒目も閉まっていた(想うにそんなに需要はないのではないかと思われた)、が、そこでは彼がその店のオーナーを探しだしてきて店を開けさせた。重さを量って2kg=20(20000Rp)、そして20分かかる、といわれたが、もちろんOKして、その間バジャワの街を街ブラしてみた。写真をすこし撮って戻る、そして彼のバイクで先のhome stay Marcelinoに戻った。ここの若奥さんはとても気のきく女性で(30歳前後か?若くて美人でよくできた人だった)、すぐに部屋干し用のラックをだしてきて庭に干してくれ、雨が降ってきたら中に入れておく、といってくれた。彼女のご主人もこれがインドネシア人かと思うほど今時の若者で、ヒップというのかヤンキーというのか、ちょっとインドネシア人離れしててアメリカ帰りといった風、そして彼女のセンスも抜群だったから似たもの同士といった感じ、しかし彼女の心のきめ細かさは、まさにインドネシア人というか東洋人のそれだった。早くも、ここに昨日きていればと後悔していた。WiFiのパスワードを聞いてmailのチェックをしたが、なんとなく懸案事項は一通り済んだと思って、安心してしまったのがいけなかった。実はそのとき返信しなければならない(そのときしておけば間にあった)案件があったことを後で知る、そうしてようやく10時半過ぎに彼のバイクでバジャワ村巡りにでかけたのだった、、

laundryのお店Img_7397_640x480Img_7398_640x480laundryの近くにあった果物屋?雑貨屋?

官公庁?;2枚Img_7400_640x480Img_7401_640x480


 来た道を例の三差路まで戻って、彼の住まいに近い村にまずいった。そこで彼からいろんな説明を受けるが細かいことは覚えていない。が、わかったことはBena村で有名なこの地の伝統集落は、確かにBenaは保存状態がよく、住民全体の意識も高く、それなりに管理されていてツーリストの目玉になっていたが、そうした集落は決してBenaだけでなく相当数残されていて、しかもそれは観光用としてでなく、まだ現実の生活の場として機能しており、そこで住民が暮らしているということだった。そんな村があちこちあって(たぶん数年前まではすべてがそんな集落だったと思われる、今は相当減ってきているのでは?)ほとんどは彼の住まいがあったInerieの麓に多く残されているようだった。その一つを訪れたのである、そこは観光用でなかったから、別に入場料の徴収もなかった。そこで彼は他の村も同じだと断って、その広場に建つシンボル的な先祖の霊を祀る珍しい墓?というか小屋というか?ま、建物といったらいいか、その説明をしてくれ、男性用と女性用があって、それぞれの家のシンボルとしてそこに建っているというような説明だった。ま、これは写真を見てくれたほうが早いと思う。こんなところにくるツーリストとはいないから、珍しがってそこの住民が集まってきた。もちろん皆彼の知り合いである。そのなかの一人の女性に、家の中を見せてくれるかと聞いてくれた。了解してくれ、若干の心づけを渡してくれというので少し渡し、家の中を案内してもらった。この典型的な村落の家の中もたぶんどこの家も同じようなものだったと思う。建物の中に内裏のようにつくられたもうひとつの部屋があって、そこは相当年季のはいった生活の跡がみられた。内部はやはり方位とか、炉の位置とか決まっているようで、宝物的なものも鎮座していたりして興味深かったが、先にいったようにそこは現在も使われている住まいなのであった(セバスチャンが通訳してくれたが、それをわたしが聞きとれてない、あるいは覚えてない)。外に出るとわれわれがここにきたときからじっとこちらを見ている老人がいたので挨拶をした。どういう人なのか(聞かなかったから)彼の説明はなかったが、わたしが日本人と知ると突然、わずかに日本語をしゃべり、昔の軍歌を歌いだしたのには参ったというか驚かされた。この老人はたぶん80代の後半くらいと思えたが、その表情から日本及び日本人に対してどういう感情をもっているのかは推し測れなかった。少なくとも好意的ではなさそうにみえた。否応なく、歴史を遡らされた思いがしたが、無論セバスチャンやそこにいた若い人には昔のことなんか知るよしもなし、いずれにしろこの最初の村は衝撃的というか、ずいぶんと印象に残るものとなった。そのあとも何ヶ所か同じような村を巡ったが、写真のみで省略させてもらう‥、、

最初に訪れた彼の家の近くのRanggi村;9枚Img_7410_640x480Img_7405_640x480このわらぶきの建造物が先祖伝来の墓というかモニュメントで男性と女性で外見、細部は形式が違うとか?形は少し異なるが集落の形や、先祖伝来のシンボルを広場において祀っている形式はどこも同じようだったImg_7409_640x480
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特に屋根の部分にそれぞれ特徴があった

家の内部を見せてもらう、中に内裏のような囲われた部屋があったImg_7412_640x480Img_7420_640x480その部屋の中に炉がきってあって今でもここで煮炊きをしているようである

Img_7415_640x480神棚のような下に宝物?Img_7422_640x480この家の女主人とガイドのセバスチャンImg_7423_640x480日本の軍歌を歌いだしたおじいちゃん


 形の美しい、とはいっても余り魅力的ではないInerieはすぐ目の前にあった。2230mはフローレス島の最高峰とのこと、たぶんそこからだと3~4時間で登頂可能といっていたか?もちろんガイドのセバスチャンは何度も登っているといっていたが、すでにわたしの体力では登山は諦めていた。ならばといって彼はやはり麓から30分くらいで登れる展望台に案内してくれた。そこからのInerieも悪くはなかったが、それより遠くに見える海辺、そこは前日にこの山とこの辺りを遠望した海辺あたりが見えて、まさに彼がいっていたpanorama viewであった。で、この山にまつわる昔話とか、伝説を話してくれたがそれもよく覚えていない、そのあとさらに道なき道ブッシュの中をいって地元の人しか知らない大昔の遺構(たぶん祭儀の場?のようだったが)に案内してくれた。流石にガイドだけのことはある、というか、むしろなかなか優秀なガイドではないかとさえ思うようになっていた。一生懸命なのである。そのあと展望台から見えたもう一つの村によってから最後にBena村に向かった。ここはバジャワでは一のツーリストスポットだけあって入場料(25000Rp)を徴収された。ま、それだけのことはあって非常によく整備されていて、そこの住民は機を織りながら、その素敵な織物イカットを軒先に並べて販売していた。われわれが滞在中にも何組かのツーリストが訪れていた。そこの一軒は彼の知り合い?親戚のようで、その村の有力者のようだった(面白いのはその家がどのくらいの地位にあるかは、その家の前に陳列されている水牛の角の数によって誇示されているらしく、それは祭儀<冠婚葬祭?>のときにどのくらいの生贄を提供したか示していて、それが家柄のバロメーターになっているようだった)が、わたしはすでに疲れていたので家の中には入らず外の椅子で休んでいた。そこを最後に主だったところの観光を終え、バジャワの街に戻った。すでに15時を過ぎていて、遅い昼食とる。そこの食事代はもちろんわたしが払ったが、二人分で30くらい、わたしは30でこんなにおいしい食事ができるのにオマエのところの食事代100は何だったんだと嫌味をいってやった。ま、そうはいっても確かに彼は一生懸命観光案内をしてくれたのだ。ホームステイに戻って約束の300は払った。あとで明日のバスのドライバーを見つけたら知らせに来るといって彼は去っていった。わたしはそのときずいぶんぼったくられたな、といった印象をもったのだが、前日からずっとバイクで走り回ってくれたことを思うと、むしろ少なかった(値切りすぎだった?)かと今は思っている。ま、面白い男で、約束を守る律儀な男だったことは間違いなかった、、

Inerie麓の彼の家がある村(Langa Gedha Villaga?)から、この写真でいうと右方向にある展望台へ、 Img_7426_640x480

展望台から西方向に前日に休憩した場所の浜が見えた(Inerieは南方向)Img_7430_640x480

Inerieの麓、展望台の東側直下に村があって、そこにこの後いくといっていた;2枚Img_7431_640x480Img_7432_640x480

そこから道なき道、ブッシュをかき分けて15分くらいいったところに昔の遺構があって、ま、おそらく地元の人以外にこんなところまで来る人はいないと思われるところまで案内してくれた、、;4枚Img_7439_640x480ここの名称をStone's OflabaといっていたImg_7438_640x480Img_7440_640x480Img_7443_640x480

上の展望台から見下ろした村Bela Village(この写真の正面に見えている崖の上がpanorama view point)ここも似ているといえば似ていたが特徴もあった;9枚Img_7448_640x480
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Img_7461_640x480Img_7446_640x480気性が激しいというNgata人(ンガタ族)の性格そのままのセバスチャン<38歳独身>、しかし陽気で気のいい男でもあった、、

この村の特徴としては建物に竹が多く使われていたことで、屋根も柱も竹、つまりbamboo houseなのであった

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Img_7465_480x640帰りにゲートがあって、そこがBelaVillageという村だったことを知る

そこからBena村に向かう;3枚
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Img_7487_640x480少し天気がよくなって、Inerieの全体が見えていたImg_7469_640x480Bena村の手前に看板があって、右に行くとLuba Villageとあったが、これも似たようなところとのことだったのでカットする


Bena村;9枚

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Img_7481_640x480Img_7478_640x480Img_7479_640x480軒下に土産物の織物が垂れ下がっているImg_7476_640x480Img_7477_640x480水牛の角がやはり軒下に飾られていた
Img_7485_640x480最奥の高台から入り口に向かって写す


 16時に宿に戻ったわたしはそこではじめて、マンディというものを知る。この辺の水浴び装置?つまりコンクリートで仕切った水溜めがあって、そこに溜めてある水で水浴?つまりシャワー代わりにするというもので、もちろんお湯があるわけでないから、決して暑いところでないバジャワではけっこう厳しい水浴びであった。それからmailチェックと荷の片付け、洗濯物もほとんど乾いていた。そのとき宿帳記入もして、これまでの宿泊者を追ってみたが、日本人の名前はなかった。で、彼女に聞いてみると、開業して5年になるが、Koreanは一度きたが日本人はわたしがはじめてとのことだった。18時頃約束どおり彼はやってきて、バスのドライバーを見つけたから一緒にこいという、で、また彼のバイクでバジャワの街に出、そこで明日のバスのドライバーに会う。バス代200とのことで今払ってくれとのこと、今?と聞き返す、ではticketをよこせと200を渡していうと、ticketなんかないといってきた、オイオイオイである。またか?、ともかく明日朝6時半に迎えにいくから大丈夫だといってくれたが、ま、信用するしかなかったのだ。そこまでセバスチャンがしてくれたのはやはりマージンのためだったと思われる。彼はまたホームステイ先まで送ってくれ、そこでチャンスがあればまた来るよ、と礼をいって別れた。そのあと近くに食事に出かけたが、適当な店もなく、雑貨屋でパンと菓子を買って戻る。宿にご自由にお飲みくださいとコーヒーがあったからパンとコーヒーで簡単な夕食としたが、インドネシアのコーヒーはそこそこ有名で、どこで飲んでもうまかった。が、そのときのそれはその夜眠れなくなる原因となったのであった。

Img_7489_480x640ホームステイ先に貼ってあったBajawaの地図、これがほしかったのだがどこで手に入るのかわからなかった。写真に撮ったがうまく撮れてない、またバジャワは先にいったように、街の写真、村の写真、彼の家、宿の写真、昼食、バス降り場といった肝心な写真が撮れてなかった。それでもなかなか面白いところであったから、セバスチャンに会いに本当にもう一度行こうかと思っている、、

<以上長くなったが、この項 了 >