独歩の独り世界・旅世界

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Guatemala/Antigua 7)ホームステイとスペイン語学校カノCano

 セマナサンタの間に一度スペイン語学校カノCanoを訪れマリアと話をしていた、アニーのところは当初2週間の予定で前払いしていたので、次の一週間学校へでも通わないと暇をつぶせそうになかった、で、25日の月曜から10日間、日にちは変則的だったが、こちらの希望を入れてもらって再びカノに通うことになった、教師の希望を聞かれたが前回と同じで、まだ若いアクサAxaでOKした、実はアクサの評判はあまりよくなかった、他と比べれば半額くらいに安かったのだから教師の質は問えない、それでも田代で会ったS氏は以前カノに通っていて最初の担当がアクサだったがすぐに代えてもらったといっていた、ま、教師としてのレベルは高くないのはわたしにもわかったが、こちらもそんな選択ができるレベルではなかったから、ただ少々若いだけだろうと諦めていた、気持ちは純粋な女性だったし一生懸命やってくれていることはわかったていたからだ、そしてそんな彼女ともいろいろな思い出はつくれた、それは前回のことだったかこの時のことだったか定かではないが、教材にわたしがサンペドロでカロリーナからもらったスペイン語トゥトゥヒル語併記のポポルウフを使ってくれたことや、彼女が選んでくれたいくつかの物語の中のひとつにモンハブランカ(グアテマラの国花)の話などがあっていずれも興味深かったし印象に残っている、だから会話はそんなに上達しなかったけれどスペイン語学校カノで過ごした時間は、わたしにとっては決して無駄ではなかったと今は懐かしく思っているのである、、

 とはいえ、ホームステイ&学校通いはある意味単調な生活になることでもあった、午前中は学校、昼食が12時半からだったので11時半に終わって少々買い物したりネットやさんに寄ることもできた、ただ田代からは10分くらいだったのだけれどアニーのところは少々はずれだったから学校までだと25分、パルケセントラルあたりだと20分?少々遠いのが問題であった、だから一旦戻るともう出る気がしなくなるのであった、、、

 異変はすぐに起きた、その週の半ば頃だったろうか、それまで同宿の日本人たちとは付かず離れず、食事のときに顔を合わせるだけで近しくはしていなかった、が、とんでもないことが起こっていた、1週間前にわたしが移ってきたとき隣のS君はすでに体調を崩していたらしかった、症状はよくわからなかったがよく咳をしていた、どうもそれが悪化してきたらしかった、彼はアニーのところのお店においてあった薬を飲んでいるとのことであった、また彼より古くから滞在していたもう一人のS氏もそのときは治りかけていたが、同じような症状だったことが後でわかった、そしてその症状がセマナサンタの明けるころにもう一人の女性にもうつっていて、その何日か後、つまりその週の半ばごろにはとうとうわたしのところまで来てしまったのだった、そして日本人全員が咳と喉の痛みを訴えてアニーのところの薬を飲むような状態になっていた、だから食事のときの会話はお互いの状態を訪ねあい、いたわりあうというようなものになった、一番重い症状になったのはその女性で同じカノに通っていたのだけれどその週はほとんど通学を諦め、わたしはそれを伝える役目を仰せ遣うことになった、熱をともなったのはその彼女だけだった模様だが、わたしの場合は一時微熱を感じたがその週末土曜日曜が特に酷くその症状は喉の痛みと咳で夜寝られない状態が続いた、結局アニーのところの薬はあまりきかず、日本人全員がいつもいつもどこかで咳き込んでいるといった、ただならぬ事態となっていた、不思議なのはその症状を訴えていたのは日本人だけでグアテ人には一人にも現れなかったことだ、そんななか無茶を承知で隣のS君は滞在期限切れのためにコスタリカに飛び、同じ理由で週末にはS氏がメキシコタパチュラに向かった、向かいの彼女はずっと部屋にこもりっきりだった、わたしは木曜日頃から学校に通うのがきつくなりだしたがゴマカシゴマカシ金曜まで通い、同宿の彼女の欠席を伝えたが、セマナサンタ終了とともに生徒がほとんどいなくなってしまった学校では、生徒がわたしとnaokoさん二人だけという日が何日か続くことになった、土曜に一日寝ていて少し楽になったわたしは日曜にその日の食事の買出しに街に出た、2,3時間net屋さんらをうろついて戻ったら、またすぐ症状が悪化し(咳のため)眠れない夜となった、次の日学校でアクサに相談してみた、もちろんその前から喉の痛みと咳の症状は学校にいるときから出ていたので、彼女たちも心配はしててくれていた、しかしアニーのところの薬では一向によくならなかったので、どうしたもんかと相談してみたのだ、もし医者に行くとしたらどんなところがあってどうしたらよいかと?彼女は親身になってAntiguaの病院事情とか、いくつかのわれわれでも行きやすい病院を教えてくれたが、その気にいたらず結局彼女にお願いして授業が終わった後で近所の薬局についてきてくれないかと頼んだ、そしてわたしの症状を話してもらい適当な薬がないか聞いてもらった、そこでわかったことは抗生物質を飲んでみたら、と言うことだったが、たまたま適量なものがその時なくてその商品名だけ教えてもらった、次の日はnaokoさんがその日だけ午後の授業となったので、最終授業はアクサとわたしの二人だけになった、もしかしたら来週戻ると約束してアクサとマリアに礼を言って一旦カノを終了とした、アニーのところの支払いは昨日までだったので2日間延長することとした、その選択は難しいところであった、いくらそれほど仲良くなれなかったとはいえ、それはアニーはじめグアテマラ人の問題ではなく、むしろアニーの人柄・食事は申し分なかったので、それに答えるにはもっとここに滞在してあげるのがその気持ちのあらわし方だと思っていた、もしこの得体の知れない病気に巻き込まれなければそうしただろう、だからそこの日本人たちとの折り合いの悪さよりも、何かその場そのものがどうも(わたしにだけでなく)マイナスに作用しているように思えてしまった、つまりこの病気をなおすために一旦出た方がよいのではないかと思ったのだ、一番古いS氏はタパチュラから戻ってからもまだゴホンゴホンやっていた、彼はかれこれ2、3週間症状の改善が見られないのだ、申し訳ないがわたしは去らせてもらうと、帰ってきたばかりのその主のS氏に挨拶した、あまり彼とは親しく話さなかったけど彼の生き方には興味を持っていた、直接彼から聞いたわけではないが彼は30代で財を築き、40以降タイとここグアテマラを行ったり着たりの悠々自適の生活だという、面白いではないか、うらやましい話だが、事実なら見事としか言いようがない、わたしが理想とした生き方を実践している、ま、そんな彼にわたしのせめて敬いと礼の気持ちをこめて飲み残しのラム酒ロンのボトルを託してきたがわたしの意を果たして酌んでくれたかどうか、それはわからない、またその後彼らの病気がどうなったかもわたしの知るところとはならなかった、またその病名も原因もいぜん不明であった、こうして2週間プラス2日のファミリア滞在を終えたわたしは5月4日(水)再び田代に戻った、残された日数は後2週間となった、、、