独歩の独り世界・旅世界

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カンボジア~ミャンマーの旅 その9,バガン Bagan へ / Piynsa Rupa G.H.

 Hotel Laday Princessで朝食を終えてピックアップを待っていたときに、日本人ぽい若い女の子を見かけた。いかにも旅慣れていそうな感じはそのいでたちで直感したが、その彼女も同じピックアップに乗り込んできたので日本語で挨拶すると、ニュージーランドだったかオーストラリアだったか、ワーホリ明けで旅しているとのことだったので納得。バガンまで一緒することになった。10分くらい走って連れてってくれたところは、初日にバスを降りたゲート近くにあるバス会社?のオフィスで、すでにそこにはバス待ちの旅行者や地元の人が、待合室なんてものはなかったから外で、ウロウロとバスを待っている状態だった。その乗客はすべてがバガンへいく人ばかりではなかったと思うが、明らかに旅行者とわかる人たちは、どうやら同じバスを待っているようだった。そんな中にもう一人日本人の女性がいて、なんだ、けっこう日本人がいたんだと、それまでミャンマー入国以来、わたしの友人以外に日本人を見てなかったので、ちょっとした驚き、そして知り合ったばかりの同宿だったNanaちゃんと一緒に、それぞれの旅紹介といった月並みな挨拶を交わして、待ち時間を潰すことができた。ただ、その女性はアメリカ人だったか同伴者がいたので、バガンまでのバスは一緒だったが、バガンの宿は別になったのでそれっきりとなった。

 ヤンゴンから乗った大型長距離デラックスバスと比べると、車体も一回り小さくデラックスではない普通のバス - それでも40人ほど乗れたか? - はほとんど満席状態で8:00にニャウンシュエをあとにした。シェニュアンジャンクションまでは、思ったより近く30分もかからなかったと思うが、そこにしばらく停車して、進路を西に変える。比較的平坦な国道を小一時間走って30分くらいの休憩となった。そこがカーローKalowという街かと思ったが、カーローまであと6mile?といった看板が出ていたので、ならこの付近の唯一の空港のあるにヘーホーHehoeか?いずれにしろほとんど英語の表記がなく、すべてが丸っぽいミャンマー文字ばかりだったから、手がかりになるものは何もなし、来るときも通っていたのかもしれないが、真夜中に走っているのだから、まったくわからないでいた。が、バスはそこから30分ほどでカーローに着いたから、そうするとAungpanという街だったかもしれなかった。カーローもはっきりそれと知ったわけではなかったが、ここは昔の英国統治時代の避暑地だったところでそれなりの雰囲気はあったし、今でも観光客に人気のあるところのようで、そのときもヨーロッパ系の中年夫妻がそこで下車したのと、近くに大きなパゴダが見えたので、間違いなかったはずだ。カーローを出ると道は完全な山道となってハードな山越え、そして長い下りとなった。12時頃には山を降りきっていて、たぶんそこが定められた場所と思われるドライブインに入って昼食休憩となった。そのころには、流石にワーホリで鍛えた流暢な英語で完璧に話ができたNanaちゃんはたまたまバスで隣になったヨーロッパの若者と意気投合しており、もう一人のヨーロッパの男の子(確か一人はドイツでもう一人はスイス人だったとおもうが、最初からか一緒だったのかはわからないが、そのときは二人組みだった)と3人でテーブルを囲んでいたので、われわれ年よりは、別席で昼食をとる。ミャンマー定食1500Kだったので良心的なドライブインに思えた。

朝食、トイレ休憩となった最初の街は、どこなのかよくわからなかったが、時間的にはAungpanという街だった可能性が高い、前に停車しているバスがわれわれを乗せたバガン行きのバス、下の写真は道路の向かい側、果物屋の露店。この街は馬車が健在だったのが嬉しかった、、Img_1115_640x427Img_1117_640x427

カーローを過ぎるとハードな山越えの道となって、だんだん下っていった、、;2枚Img_1120_640x427Img_1122_640x427

Thaziの手前で昼食休憩Img_1123_640x427


 このバスは途中からもどんどん乗客を乗せたので、座席はとっくに満杯、立つ人も出るほどの混みようとなった。たぶんこのルートを行くバスが極端に少ないものと思われた。そのドライブインから1時間くらいでターズィThazi、そして漸く見覚えのあるメッテイラMeiktilarはすでに14時になっていた。ここでかなりの乗客が降りたので、立つ人もいなくなる。メッティラは大きな街で、交通の要衝となっていて、ヤンゴンバガンマンダレー、タウンジーの真ん中辺に位置していたから、すべてのバスはこの街を通過することになる。また、第二次大戦時に日本軍と連合軍の戦闘があって、多くの死傷者・犠牲者を出していたところで、その霊を祀る慰霊碑、平和への願いこめて建てられたというナガヨンパゴタには多くの日本人関係者が訪れているということだったので、一度は下車してみたいと思っていたが、今回もその時間はとれなかった。前回はマンダレーMandalayからバガンBaganに向かったときに通ったのだけれど、だからこの街から先は随所に見覚えのあるところ、つまり同じ道をいったのであった。それでも道は確かによくなっているのを感じていた。しかしメッティーラが14時だったので、いったい何時にバガンに着くのかが気になっていた。メッティーラでまだ2/3?(行程的に)、ということは早くて17時頃になるかと予想した。ま、道路がよくなっていたのと、そのあとほとんど停車するところもなかったので、その予想はほとんどあたったのだが、しかし、ここが終着といわれたところは、わたしのよく知る場所ではなかったのだった‥、、

メッティラの見覚えのある橋を渡ると、すぐ右に、写真(カラウェイといってミャンマーミャンマーの伝説上の聖鳥、インレー湖でもファンドーウー祭りの主役になる)の物体を目にしすばやくシャッターを押した。なんとか2枚収めたが、わたしはこれは船ではなくレストランかなんかかと思っていた。が、あとからこれはファウンドーウーパゴダ、つまり寺院だったことを知る;2枚Img_1125_640x427Img_1126_640x427



 たぶんそのバスで到着した外国人旅行者は、全部で10名くらいで、すでに皆仲間といった感じになっていた(もちろん他にミャンマー人多数が乗っていた)。が、その中でリピーターはわたし一人だったと思う。なのでニャンウの街はわかってるからまかせて、というようなことを少し口走っていたかもしれない。ところが、まさかであった。5年前、マンダレーからのバスは、それこそもう夜の帳が降りてからの到着だったし(このときは十数時間かかかった記憶がある)、バスは街の真ん中辺に着いて、そのときは初めてだったからシクロ?(ミャンマーではサイカーか?人力車のこと)を使ってしまったが、あとからその場所の近くにホテルや安宿がけっこうあったことを知ったので、そこからなら歩いてホテルは探せると思っていたのだ。ところが、どういうこと?、今回バスが到着したところは、以前街の手前にあった入域料(確かそのときは10ドルだった)徴収所にも寄っていなかったから、明らかに街までは相当距離のありそうなところだった。広いスペースは、どうやらそこが新しく造られたバスターミナルのようでもあった。ドライバーに聞くと、ここがニャンウ(Nyaung U、バガンにいくつかある村の中の中心の村?街?)のバスステーションで終着地とのこと、、このあと街中までいってくれるのかと重ねて聞いてみると、タクシーか乗り合いのワゴン車を使ってくれ、といわれてしまった。直感的に歩いていける距離でないことはすぐにわかったが、わたしにとっては全く予想外の事態だった。すでにバスの周りにはタクシードライバーかワゴン車のドライバーが取り囲んでおり、客取り合戦が始まっていた。最初、それでもわたしは楽観的だった。それならそれで、ワゴン車一台を10名くらいでシェアすればそんなに高くはつかないであろうと、、たぶん、そのときの旅行者は百戦錬磨のつわものたちばかりだったから、みんなも同じ事を考えたと思う。ところが敵もさるものだった。そんなの百も承知、とばかり徒党は組ませてくれなかったのだ。というより、車一台いくらとはならなかったのである。一人いくらと言いだしたから、シェア乗りは意味がなくなってしまった。そうなると今度は、では一人いくらという交渉になった。そして2,3台のドライバーが我ら7人の取り合いを始める(日本人つながりで、われわれ二人、アメリカ人とのカップルが二人、そしてNanaちゃんとその仲間で三人、他にもいたヨーロッパ系の旅行者は早々交渉をまとめて去っていた)。で、すったもんだの末、結局アメリカ人とのカップルはすでにホテルは決めてあるとのことで一台の車で去り、残り5人が、どうもその場のボス的存在だったドライバーのワゴン車でいくことになった(そのインド系のかなり悪賢そうなドライバーに泣かされたドライバーは実際いたのだ。だからこの茶番は後味を悪くした)。車は中心街に向かう。思ったとおり歩ける距離ではなかった。途中で入域料の徴収所があり一人20ドル徴収される。われわれはホテルは決めておらず、どこでもいいから安宿へ連れて行ってくれと頼んだが、最初に連れてってくれたところは酷すぎるのと中心から遠すぎたので、NOをだして、そのまま乗り続けた。ドライバーはぶつぶついっていたが、次にNanaちゃんの、誰の発案?あるいは情報だったのかは聞かなかったが、彼らの予定した(予約ではない)ゲストハウスへ連れて行く。中心から少しはなれたところだったが場所的には悪くなかったので、ここいくら?と彼らには聞かず、彼らが荷物を下ろしている間に、わたしは直接フロントにいって、ここはいくらか、安い部屋は空いているかと聞いてみると、ツインが22ドルとの返事で部屋はあるとのことだった。もちろん彼らは最初からここを予定していたようだったから、一応彼らにも、われわれもここにしたと伝えて、ドライバーにも同じことをいって荷を下ろした。彼らとドライバーとの交渉がいくらだったのかは知らない、しかし、このしたたかなドライバーとわたしの間では、一人2000Kとの話はつけてあった。わたしはそれを払うときに、このクラスでよかったのだから、どうしてここに最初からつれてこなかったのだ、と少し文句を言ってやったが、この問題(きちんと規準価格を定めておらず、悪質ドライバーの横行を許している)はおそらくバスステーション開設以来、ずっと旅行者を悩ましているのではないかと思われた。これは当局が乗り出さないと、この混乱は今後ともつづいていくだろう、、ここのドライバーはかなり吹っかけてくるから決してぼられないように注意してほしいと願うばかりだ、、わたしは一人1000Kくらいなら納得だったのだが、1500~2000Kは許容範囲として、渋々ドライバーに払ったのだった。 

 こうして、ニャンウのホテルも行き当たりばったりだったが、同行の旅行者に教えてもらったという格好になって、安宿に落ち着くことができたので、Nanaちゃんには(彼女のチェックだったのかは知らないが)感謝だった。そして、このホテルは知らなかったのはわたしだけで、ある意味日本人にはよく知られたホテルだった(ということはやはり情報源は彼女だったのかもしれない)ことを知ることにる。そこには名物ホテルマンといっても過言でない、大変面白い人物がいたからである。なんとなれば、まだ青年のあどけなさが残るその中年おじさん(彼にはもう二十歳に近いお子さんがいるといっていたから)は、なんと日本人以上にうまい日本語をしゃべり、日本の知識は豊富で、またユーモアがあって、それでいてバガン及びミャンマーに関する情報も何でも知っているといった、だから特に日本人にとっては大変ありがたいホテルだったのである。そんなことを知らずに、部屋に案内してくれた彼に、わたしは英語で聞いていた、貴方の名前は?と、、そのときに返ってきた答えにわたしは耳を疑った。確かに彼は、日本語でフジイフミヤといったのだった、、‥??、、その一言で一気にうちとけ、そしてそのあとの会話はすべて日本語で交わされることになったのである。その週にそのホテルで働き出してから20周年を迎えるといっていた彼は、そのホテル一筋で、特に日本人に可愛がられ親しまれ、そして多くの日本人を世話してきて、多くの日本人の友達を持つ、彼の実力・実績は、やはり輝かしいものと賞賛して止まない。フジイフミヤとは、もちろん誰がつけたか知らないが藤井フミャのことのようだった。が、その面影は十分あったが、われわれがそのときつけた呼び名はジョージマさん、であった。城島茂さんのことで、もちろん彼のことも知っていて、そのひょうきんさもあわせたら、むしろ今はその名のほうが相応しそうだったからだ。そうやって彼はわれわれが滞在中、ずっと楽しませてくれ、笑いをもたらしてくれたのだった。有名ホテル・名物ホテルマンといって過言でない由縁であった。  

 ま、そのホテルのことを知らなかったのはどうやらわたしばかりだったようで、すでにそこには何人もの日本人の先客がいて、フロントで顔をあわせすぐに仲良くなってしまった。奈良のS氏、埼玉のH氏、で、気さくな彼らとは夕食を一緒にとろうということになった。わたしにとっては、思いがけず、安くていいホテルにめぐり合ったのはNanaちゃんのおかげと思っていたので、彼女の分くらい払うつもりで誘ってみたが、すでに彼女は時とともに仲間との絆が強くなっていて(もしかしたら大部屋をシェアしたのかもしれなかった)、彼らと一緒に夕食はとるから心配しないで大丈夫です、ということだったので、その夜の食事は隣のレストランで4人での宴会となった。S氏はもう大きなお子さんがいる公務員で40代半ばといっていたか?そのときは一人できているとのことだったが、やはり働き盛りなのでなかなか休みが取れないのが、旅好きの彼には悩みの種とか、一方埼玉のH氏は、すでに70を越えていてリタイア組のベテラン、このホテルもリピーターといっていたかもしれない?、今は日本に帰ると石垣島で暮らしているといっていたから、悠々自適に暮らしている元気なおじさんだった。もちろんもっといろんなことを話し、また皆お酒も飲めて気さくな人たちだったから、久々の楽しい食事となった。彼らとはほとんど滞在期間が同じだったから、朝に、夕にと食事を共にする。こうしてミャンマー最後訪問地バガンは、ある意味幸運なスタートとなったのだが、それもこれもそのホテルの存在が大きかった(そういう意味では前回も悪くはなかったが、面白さはなかった)、だからリピーターも多いという話にも納得だった。そのホテル名をPyinsa Rupa Geuest Houseといった、、

Nyaung Uの中心、ロータリーのある辺りから5分くらいのところにPyinsa Rupa G.H.はあった。(後日撮影したもの)Img_1275_640x427

日本語ペラペラのミャンマーのジョージマさん(元はフジイフミヤと呼ばれていたとのことだった)
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