独歩の独り世界・旅世界

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ミャンマーの旅 11) バガン その3

 ホースカートガイドTUNTUNの話ではなんでもここバガンとニュアン・ウの街には240頭のホースカートがあってすべて登録制になっており、カート番号で誰が御者で誰の所有かがわかり番号が若いほど年寄り・ベテランということになり、数字が大きいほど若い・キャリアが浅いということを教えてくれた、ちなみに彼の登録番号は150番でもし手紙をくれるならhorse cart No150 / Bagan/ Myanmar で届くとのことだった(帰国後しばらくして日本の絵葉書を送ってみたが届いたかどうか??)そこでたまたま持っていた20年前のガイドブックにその当時ちょっと有名なホースカートガイドの話が載っていてその馬車のナンバーは26、でその御者のことを知っているかと尋ねてみた、もちろん知らない人はいない、ただし彼はもう現役を引退している、という答えが返ってきた、それを聞いたときなぜか胸が熱くなった、なんだかその1冊の本が時空を飛び越えさせてくれたような感動を覚えた、それ以来彼はわたしのもっていった20年前のガイドブックを時折覗くのだった、それにしてもこの20年のこの国の変わりようはすさまじい、よくなったのか?悪くなったのか?中国・タイを筆頭に東アジア・東南アジアの経済的成長は目覚しい、軍事政権のことばかり取り上げられるここミャンマーもこの1冊のガイドブックのおかげで、いかに様変わりしどれだけ経済的発展をなしとげているかを如実に教えてくれている、インフラは整備され、道路・交通網は20年前のガイドブックでは想像つかないほど改善され先進国並みにっている、つまり普通に旅行できる状態にあり、かっての困難さ特殊さは昔話と化している、それはそこに住む人々にとってどれほどの恩恵か我々には想像もつかないが、反面失われていく昔の古き良きビルマはどこへ行ったという旅人の身勝手な感傷もともなってしまう、が、それでもここミャンマーはその旅人を癒し慰めてくれる何ものかをまだ充分に蓄えていて、その魅力を決して失っていない数少ない国のひとつといえるのではなかろうか?だから先ほどちょっと触れた軍事政権についても、われわれのマスコミはアウンサンスーチーさんの消息しか伝えていないが、そこに住む人々は確実にミャンマーの発展を実感しており、現政権を批判する声をほとんど聞くことはなかった(もちろん表層的感想に過ぎないが)

 帰国してしばらくたって15年前にミャンマーを訪れたことのある知人を訪ねたことがある、その方の話からも当時は観光客もそれほど多くなく、宿泊施設も土産物屋もまだそこそこでガイドブックにあった話に近い状態であったらしい、しかしその後1995年あたりからの変化が著しかったようだ、今やどの遺跡にもそこが有名なところならどこでも、寺院遺跡の境内は土産物売りに占めつくされている、例えばその日訪れたスラマニもシュエサンドーもサマヤンヂーも昨日訪れたシャエズイゴォーンもティローミンローもマハボージもわたしは遺跡を見るよりその土産物売りに追いかけまわされ、観念してむしろ若くてかわいい女性とそのやり取りを楽しんでいた傾向にあった、その日最初に訪れたスラマニでわたしに話しかけてきたその若い女性は毎日ここに通って土産物を売っているが競争が激しいくなかなか売り上げが伸びないという、しかししっかりした英語を話したのでどこで学んだかと聞いたらプライベートスクールに週2回通っているとのこと、だからあまり生活は楽ではないといっていた、そういえばTUNTUNも英語を特別に学んだと言っていた、ホースカートガイドで英語を使える人は少ないとのことだった、もっと詳しく記録しておけばよかったのだけれどそのようにして土産物売りやTUNTUNからいろんな話を聞いた、まだまだ生活は苦しそうだったが決して未来が明るくないという感じはしなかった、もちろんその女性から土産物を買った、支払い時に日本円が珍しいので円で払ってくれというので、馬の毛で作ったというここの名産の漆の器3個と1000円札1枚の交換ということになった、なのでそのあとに連れて行ってくれたミンカバ村の漆工房ではたぶんそこで何がしか買えば多少TUNTUNにリベートが入ったのかもしれないが、彼は無理に買わなくていいといってくれたので何も買わなかった、そして近くの遺跡(ミンカバーパゴダ、グビャウッヂー、マヌーハ、ナガヨーン、ミンガラゼッティ他)を一通り見てバガンの中心に位置してたまたまそのとき市が開かれていたアーナンダ寺院界隈まで戻り近くの屋台でビールつきの昼食を楽しんだ

 彼が馬に餌をやっている間、市場の凄い人ごみを縫って昨日訪ねたバガンで最も美しいといわれているアーナンダ寺院にまた行ってみた、中には入らず外から眺めていて思わず歓声を上げた、それまでわたしは20年前に見たガイドブックの巻頭写真にあった寺院がどれなのかずっと探していた、なんとそれがこのアーナンダだったのだ、そのあまりの変わりように一瞬目を疑った、もちろん寺院そのものはよく見ると変わっていないのだが、当時の写真はうっそうと茂った木立に囲まれまわりは何もない森というか原野というか荒野といったところにその壮大な威容を誇っていたのであるが、今やそこは,たまたまそのときは市が開かれていたのであるが、雑多な土産物や食べものやホテルなどの建ち並ぶ、このバガンの中心地となっていたからである、寺院の形状をひとつひとつ注意深く見比べてようやくその写真がアーナンダと判明したわけだが、20年の時の推移を如実に物語っていた、そのあとこれも名刹というかバガンで最も高い高さを誇るタビニュ寺院を訪ね、あと無名のバゴダ・寺院をいくつか回った、まだ時間は充分あったし彼はどこへ行こうとしていたかはわからなかったが、たまたまそのとき居た場所が近かったのでわたしは昨日行った所2ヶ所へもう一度つれてってくれと頼んだ、一ヶ所はマハボディでバガンでは珍しいインド式寺院であった、と言っても寺院に興味があったわけでなく、あまり訪れる人のないその寺院でたった一人土産を売っていた女性に今一度会いたくなったからだった、いずれにしろどこでも遺跡・寺院の中でわたしがどうしているかをTUNTUNはまったく知らない、なのでなんでマハボディにもう一度行きたがったのか彼はきっと訝しく思ったことだろう、実はそこに素敵な女性がいたこともたぶん知らなかったと思う、わたしはしばし時間をもらって昨日親切に英語で案内してくれた彼女に会いに行き、もちろん彼女はわたしのことを覚えていてくれ人目も憚らず境内でミャンマー語のレッスンを受けるのだった、そこで気がついたことだがこの境内での土産物売りもライセンス制か?どうやら縄張りがあっていつも同じところに同じ人がいることがわかった、いつかまた来るからと約束して彼女からは何も買わなかったが別れを惜しんだ、わたしはこの彼女との出会いがあったのですっかりミャンマー女性が好きになってしまった、たぶんその話は帰りの馬車の中でTUNTUNに語ったかもしれない、マハボディを後にしたわたしは次に昨日僧侶に出会った名もないパゴダに行ってくれるよう頼んだ、道すがらそのときの話をTUNTUNにした、できれば何かをもって行きたいがと聞いてみたが、その必要はないと言うことだった、で今度は一緒にその寺院に登ってその高齢の僧侶にi再会した、事情を話していたのでTUNTUNがミャンマー語で再来の経緯を話してくれた、そしてその僧侶が何か言ったとたんTUNTUNは頭を地面につけて最敬礼の挨拶をしたので、ただの僧侶ではないと察しわたしもそれにしたがって頭を地面につけた、それから彼らはミャンマー語で話し出し、主に僧侶がそれまでの生立ちを延々と語っていた、その間わたしは蚊帳の外なのでちょっと寺院の中に入って喜捨し水などはちゃんと用意されているのを確認した、帰り道に聞いてみるとそれはほとんど戦時中(第2次世界大戦)の話だったらしい、こうしてその日ものんびり馬車に揺られながらいろんなことを話しながら(恋愛のことや哲学的なこと)帰途に着いた、でそのとき気づいたのだが、彼はもしかしたら体調が万全ではなかったのかもしれない、わたしが寺院見学をしている間いつも体を横たえていた、そしてその日も夕食をともにしようと誘ったのだが固辞された,その代りどこどこが安くてうまいと紹介してくれたのだが、実際行ってみて余り気乗りせずぶらぶら歩いて他を探した、見つけたところは日本で言えば焼き鳥屋風のバーベキューハウスで、スペアリブ・にんにく・野菜・豆腐・卵を焼いてもらった、いつものマンダレービールの他にストロングビールなるものがあってそれも飲み干したのはいうまでもない‥

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