独歩の独り世界・旅世界

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四国を歩く(区切り打ち)第3弾 最終回、85番→83番へ逆打ち、、

  今回の予定は当初9日間であったが、やむなく帰省日を二日ほど早めざるを得なくなって、したがって予定・日程もずいぶんと変更せざるを得ない状況になり、それでもイレギュラーな区切り打ちだったから、いつ・どこで・どう打ち止めしようとそれは任意、自由、いずれにしろいけるところまでいくというのが、もとよりわたしのお遍路スタンスだったから、最終日の予定も以下のようなルートを考えていた。日程変更に関わらず今回の最大の変則として当初からの目論見のひとつに最後は83番で打ち止め、と考えていて、それはもしあと一日あったとしても、そのときは87番88番を打って最後に83番を持ってくるという構想であった。ま、それはバカらしいと思われるかもしれないし、また82→83→84と順序どおりにきちんと歩いている方からみれば邪道扱いされかねないが、わたしは往きも帰りもLCCの安いticket利用で関東から飛んできていて、帰りも高松空港から帰る予定であった。で、実は83番一宮寺はその高松空港から最も近くにある寺で、空港行きリムジンのバス停もその近くにあったのだ。要は帰りの足が楽だったということである。しかもその一宮寺近くには琴電の駅もあったから、その日の予定としては志度~六万寺<琴電利用>、六万寺→85番八栗寺までは歩き、そこから84番屋島寺も歩き、84番→潟元<琴電>まで歩いて、そこからは潟元~一ノ宮<琴電>は琴電利用を考えていた。ま、言い訳がましくいえば公共交通機関併用者の効率を優先した戦略とでもいえるであろうか?ともかく、その時点でそのあたりを歩きで完全踏破することはほとんど不可能に近い状態まで消耗していた、ということでもあった。

 その朝は6時半からの朝食で、内容は決して悪くなく、恐らく夕食もそれなりによかったのではないかと思わずにいられなかった。数人のお遍路さんに混じって、外国人の姿も見かけた。が、えびすや旅館や民宿岡田がそうであったような、お遍路さん同志がまとまって一体になっているといった風ではなかった。だから見知らぬ客同士の会話といったものは見られなかった。それはそれでどうでもいいことで、とやかくいう筋合いのものではない、、が、わたしは7時過ぎに会計を済ませ、出かける段になったとき、思わぬことに驚かされることになった。まさかの昼食弁当を昨日のおばあちゃんから渡されたのである。民宿岡田と同じ配慮にわたしは感激してしまった。それで(弁当と朝食がついて)4000円である。神奈川のご夫婦の選択はやはり確かだったのだ。そこは良心的といわざるを得ない宿であったことを、そのとき思ったのである。

 予定通り琴電で6駅約4km、歩くと1時間の距離を15分240円で利用させてもらった。ひとつにはこの日も八栗寺屋島寺といった低いながらも多少の山登りがあったので、時間の予測がつかなかったこと、もうひとつは今にも雨が振り出しそうという天気の具合、そういったものが当初若干持ちあわせていた電車利用に対する躊躇いを吹き飛ばしていた。私鉄を降りてそのまま山のほうに向かう。なんでも駅名にあった六万寺という寺があって、その脇からへんろ道に出られそうであったが、例の地図はわりと縮尺が大きく?実際の場にいくと細かい道はまったくわからないという弱点があって、六万寺まではたどり着けたが、そこからの細い道がとれなのか、到底見つけられそうになかった。人通りもなく、ウロウロしていたが埒が開かない、で、たまたま通りかかった車を止めて聞いてみるしかなかった。出勤途中のサラリーマン風の紳士が、車から降りて親切にその道を教えてくれた。そこからも多少心細さの残る、車(は通れなかったかもしれない)も人も通らない細い道を15分くらい歩くと大きな舗装道路にでて、それが八栗寺に続くのへんろ道のようであった。が、大きな舗装道路といっても片側一車線の山道で、恐らく観光道路と思われるその道を行き来する車は、ここでも皆無であった。そんな道を登っていく、予測のつかなかったその登りは、それでも案外楽で時間もそれほどかからずに85番八栗寺に着いた。六万寺駅から高松北高校の裏の道をいって車道に出たのが8:00で、そこまで25分、そこから八栗寺までも25分で、六万寺の駅からは1時間もかからずに八栗寺に着いたのだった。背後に奇峰の聳える八栗寺は観光名所でもあったようで、順打ちの人、あるいは観光客用のケーブルカーが運行されていたが、時間も早かったからか観光客もお遍路さんも見当たらず、それがむしろわたしには好印象となった。一通り打ち終わって、ご朱印をいただきケーブルカーを左手に見ながら、今度はかなり急勾配の坂道を下る。もう、そのころには足の痛みが生じてきていた。途中から右に細いへんろ道があったが、この日の歩きは、そのあとの屋島寺への急な山道を除いてはすべて舗装路、細い道も簡易舗装の道であった。約40分下って84番と85番との距離的な中間点、源平合戦で有名な壇ノ浦を渡る短い橋に到着、そこで小休止。もうすでに相当疲れがでていた。そこからは屋島側となってしばらく、平坦な舗装路を歩いていく。どこかで直角に曲がって屋島寺に登っていく山道を探しながら、、というのもこのときは短いながらも逆打ちをしており、その道を見逃すわけにはいかなかったからである(初回の逆打ち経験でけっこう見逃すことが多かったので)。その左折地点まで25分、そこから道は簡易舗装ながら細い山道になって登り始めた。しばらくいくと下ってくるお遍路さんと出会う。なんと知っている顔で、昨日まで一緒であった学者?のS氏と大津のK氏であった。もちろん83番から歩いてきたはずで、どこかで会うかもしれないという予測はあったものの、こんな時間に、こんなところで落ち合うとは思ってもいない速さに驚かされたのであった。もっともそのときすでに10時頃で、早発ちしていれば不可能ではない時間、それにしても77歳の健脚振りは、やはり驚嘆であった。このお二人は元気かつ頑強だったばかりでなく、恐らく学者さんだったと思うが博識・インテリで、かつ男前という、羨ましいほどの魅力と人望を備え、かつ大変優しい人柄だったからか、傍らにはわたしの知らない若い美女のお遍路さんを伴っていた。まず、どこかで出会ったとすれば人を惹き付けずにはおかない魅力的なお二人であったから、年配者であったが決して不自然ではなかった。すごい人たちがいるものである ! !、、あとに神奈川のご夫妻と広島のK氏が続いていること、彼らが下ってきた道の厳しさ、といった情報を教えてくれ、しばしの会話のあとお互いの健闘を称えてお別れした。もちろん最後の出会いだったからその後を知らないが、ま、結願したのは間違いないであろう‥、、

六万寺、番外霊場だったが参拝する余裕がなかった

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六万寺から細い道を登ると八栗山に通じる車道にでたが通行する車はほとんどなかったImg_1830_640x480

85番八栗寺4枚;Img_1832_640x480Img_1833_640x480Img_1834_640x480Img_1836_640x480逆打ちだったので山門が最後になってしまった


 それにしても、言われたとおり、そこからしばらくすると急傾斜の登りとなった。途中車専用の屋島ドライブウェイを横断すると、更に急に、そしてそれまでの簡易舗装の道から完全な山道に変わり、しかも足場は悪く滑りやすい箇所が出てくる。そのあと下ってくる人たちに何人か会うも皆往生していた。その区間は高低さ200mくらいのものであったと思うが、時間にして30分ほどの本格的な山登りで、ところによっては張られたロープに頼るところもあるほどであった。漸く平らのところに出たありで、ありがたいことに雨が降り出してきた。つまり山登りの途中で降られなかった幸運をいっているのだが、その雨はその日止むことはなかったのである。雨の屋島寺で、神奈川のご夫妻に出会う。参拝を終えており、すっかり雨支度を整え八栗寺に向うところだったので、下りに注意してください、といってお別れした。わたしが参拝を終えたころ、今度は広島のK氏が到着した。彼とは二日ぶり?、いずれにしろお互いの無事と健闘を称えあった。この間を逆打ちしていること、今回は今日で打ち止めすることなどを話し、またどこかで ! と別れを告げた。わたしも完全な雨装束で屋島寺を下り始めると、また知った顔に出会う。埼玉のC氏で、相変わらず快活で元気溌剌、少しの疲れも見せていなかった。この人こそ迫力とパワーの漲っている人で、なんら心配のいらない人に思えた。こうして民宿岡田の友全員に出会え、別れを告げることができたが、要するに早い話落ちこぼれは我一人で、ほとんど皆同じくらいのペースで同じ行程を歩み、そして結願していったのは間違いないところと思う。いつになるかはわからないが、未完・未熟のわたしも、この出会いをありがたく大切に思い、この思い出をお大師様から授けられた宝物として預かり、いつの日か請願成就まで更なる試練を引き受けていかなければという想いを新たにしている。それにしても発願の度合いが、こうして結果として現れてしまうという怖さが四国お遍路はあるということ、やはり取り組み方次第でこれだけの差になって出てしまうということを改めて痛感することとなった。そしてそれは、もしかしたらこのあとの展開にも関係していたのかもしれなかった‥??、、

急峻な山道をやっとのことで登りきると上部は比較的平らな台地上になっていて、そこからの眺めは、晴れていればもっと良かったであろうと思われた。それでも壇ノ浦とその向こうに見える訪れたばかりの八栗山(五剣山)の眺望は悪くなかった。Img_1839_640x480

84番屋島寺;3枚、ここも山門から退出することになったImg_1842_640x480Img_1843_640x480Img_1845_640x480


 こうして84番まで打ち終えたわたしは、長い下り道をとぼとぼと下っていったが、その歩みは一般の女性にも追い越されるほどの遅々たるもので、途中の一回休憩を入れて、琴電潟元駅まで、普通の人なら3~40分で行けそうなところ、50分もかかって何とか12時頃にたどり着く、といった有様であった。もうそこからは電車に頼るしかなかった。ありがたいことに琴電の電車は瓦町という駅で一回乗り換えて12:36には一ノ宮駅まで運んでくれた。駅でトイレを借りたりしてもたもたして、歩いて10分くらいのところにあった83番一宮寺には12:50の到着。雨がけっこう降り続く中の参拝となった。今回の打ち止め報告をしてご朱印をいただいて、雨の当たらない軒下を借りての昼食、このとき改めて栄荘さんが作ってくれたお弁当をありがたく思うのであった。13時半、雨は降り続いていたが気持ち的には満ち足りたものを感じつつ、一宮寺をあとにする。2ブロックほど離れたところを通る通称空港通り?まででてバス停を探す。一度は左方向にいってみたが見つけられず、今度は右にいってそれを見つけ、14時頃のバスで14:15には高松空港に着いていた。高松発は17:00予定だったから十分な時間、荷物の整理や着替え、休養にも十分余裕があった。そうして3時過ぎにチェックインしてゲート付近の椅子で疲れを癒していた。あとは成田からの飛行機の到着を待つばかりだった、、

今回打ち止めとなった83番一宮寺;2枚Img_1846_640x480Img_1847_640x480

 そんなことはまったく想定していなかったことだが、その飛行機は結局到着しなかったのである。いや、実際はこの高松までは飛んできたようだったが、着陸できなかったのである。それはjet starだけではなかった。最初に濃霧のため着陸できず、天候回復を待って旋回しているとのアナウンスを告げたのは確かANAだったか?、もしかしたらJALだったかもしれない?、、場合によっては成田?あるいは羽田だっfたか?に引き返すか、伊丹に行くというアナウンスを何回か繰り返していた。それは同時にjetstarにも当てはまることだったから、いや、参ったなあ、しかし天候の問題ではどうすることもできない、と16時頃からは落ち着かない状態になった。もちろん(各社の)搭乗予定者全員がそうだったと思う。それでもどこかにそのうち晴れるだろうという甘い見通しをわたしは抱いていた。が、同じ内容のアナウンスを何回か繰り返していたjetstarも一時間後にはとうとう最悪のアナウンスを流して決着してしまった。もちろん他社も同時ころに同じ内容のアナウンスを流していたから空港内は一時パニック状態に陥った。流石にわたしもどうしていいかわかなかった。当然こんなこと予想も予測もしておらず、また長い渡航暦をもってしても経験したことがなかったから、こういうときの対処法をまったく知らなかったのだ。またいくつかの弱点もこのとき気付くことになった。こういう緊急時の連絡先、その検索能力にかけていまやスマホが絶大の威力を発揮するにもかかわらず、わたしはそれを持っておらず情報もなく、ガラケーではいかんともし難かったということである。しかたなく航空会社のアナウンスに従ってjetstarのカウンターに並んだが、すでにそこは長蛇の列になっており出遅れは明らかだった。しかも小一時間待たされた挙句のjetstarの説明は耳を疑うものであった。こういうときLCCと大手航空会社の対応の違いも、改めて認識されることとなった。わたしはやはり楽観的な性格なのか、自分の順番を待つ間に考えていたことは以下のようなことだった。まず、明日朝の便には乗せてくれるのではないか、なら問題は今晩の宿を探せれば済むことではないか、それがもし自分の負担になるようなら、空港内で仮眠するか、街に出ればビジネスホテルやカプセルホテルはけっこうあったから低料金で泊まることはできるだろう、、現に多くの人は宿探しをはじめていた。その時点で不明だったことはjetstarはこういう場合どこまで補償し、いつの便なら代替え可能なのか、ということであった。わたしは自分の番が来るまでなんのアクションもおこさないでいた。ところが順番が来て担当者の言を耳にしたとき、わたしは初めて、いわゆる本来的意味でのパニックに陥ってしまった。彼女は代替え便の利用は可能だが、空きがあるのは3日先で、それ以外の補償はゼロ、もし代替え便を利用しないのなら、運賃は全額返却するが、それは今でなくコールセンターへ連絡のうえ後日になる、といってそのコールセンターの電話番号を教えてくれただけだったのである。つまりその夜どこかで過ごせばいいという問題ではなかったのである。しかも、そのために要した費用は全額本人負担、そんなことある?って疑いたくなるような回答であった。これには参ってしまった、ではどうすればいいんだ?、その回答は自分で見つけ自分で解決しなければならないことが漸くわかったのだった。そして、それならばもっと早く行動に移らなければならなかったこと、更に情報収集が必要なことも遅ればせながら悟るのである。それは改めてスマホの威力を認識させられたときでもあった。わたしは以下を考えた。ならば今夜どこかにステイするのは単なる時間と費用の無駄にしかならない。ベストは夜行バスであったが、それはすでに数社あわせて数百人の人たち、成田・羽田に向う人たちが足止めを食ってしまったのだから、今頃空きがあるなとどいうことは考えられなかったし、その連絡先さえ知らなかった。そうするとJRか?これは少々高くつくが、その時間(18時頃だった)ならなんとか高松からは抜け出せるかもしれない、少なくともその可能性はありそうだった。漸くそこまで悟ったわたしは、すぐに荷物を持って、とりあえずの行き先をJR高松駅と決めてリムジンバスに乗った。ところがそのバスはそうした状況を受けて、バスが満員になるまで発車しなかった。ドライバーは中年の女性だったが、その冷静な態度に感心させられたものだ。焦る気持ちにいらだつ自分の修業の足りなさを大師様はあの女性の姿でお示しになったのかもしれなかった。

 JR高松駅着は19時頃で雨が強まっていた。JRの窓口に行く前にダメモトで高速バスのターミナルに行ってみた。が、数社あった窓口は一社を除いてすでに終了していて、開いていたところも関東方面のバスを扱っておらず、それも知らずに問い合わせて顰蹙をかってしまった。バスはやっぱり絶望か、そう思ったとき、その待合室にバスの発車を知らせる電光掲示板があって、今夜これから出発するバスの案内が流れているのに気付く。その中に空席があれば時間的には間にあうバスが何台かあり、オフィスの窓口は閉まっていたが、そこに表示されている情報でその会社名と連絡先を見つける。またまたダメモトで片っ端から電話を入れてみた。もちろんすべて空席はありません、とのことだったが、なかに事情を知らずに電話に出てくれた人が、さっきまで空きがたくさんあったのに、夕方頃からすべて埋まってしまったと話してくれた。わたしが事情を説明すると、その人は納得した様子だった。これでいくつかのことがわかった。つまり普通の日なら四国~東京間の夜行バスはけっこう空席があること、もしそのバス会社の電話番号を知っていたら、2時間前の欠航が決まった時点でtelすれば予約できたであろうこと、そして高松~東京間は少なくとも3社の運行があるということであった。しかしその時点ではとうに空きはなくなっており、結局途方にくれるしかなかったのである。それではとJRの窓口にいってみたが、そこはすでに長蛇の列で並ぶ気がしなくなってしまった。どうすればいいんだ‥??、途方にくれつつバスターミナルに戻って次の作戦を練る、で、思いついたのは東京方面以外に行くバスを当たってみることだった。それも名古屋、大阪、神戸といった行き先のバスがその掲示板にでていたからだ。その中のひとつ大阪行きに空席があった(実際に停まっていた発車間際のバス)が、大阪着が24時頃とのことだったので、それでは行った先で却って大変になると思って諦める。そうなると少しでも遠くまで行って朝方につく見込みがありそうなのは名古屋か‥?、、早速名古屋行きを当たってみる。その日市内移動に何回か利用した琴電のバスだった(琴平バスといったからそう思ったのだが違うか?)。名古屋行きのバスが20:45にあるようですが、名古屋到着は何時ですか、と聞いてみた。そのとき信じられないことが起こったのだ。そのとき電話にでてくれた人は、わたしの質問には答えず、先ほど東京行きの問い合わせをくれた人ですか?と、わたしの声を覚えてくれていたようで、逆にそう聞かれてしまって、実は東京までの席がひとつありますというのであった。???そんなことあるのか?また、どうして?キャンセルでもでたのかと耳を疑っていると、その人が言うには実はその日の東京便は二台でていて、それを知らず先ほど一台目のリストを見て満席といったが、二台目に空席を見つけたというのであった。理由はどうでもよくて、それでわたしがその席を確保できるのなら是非お願いしたいというと、大丈夫だ、という返事だった。奇跡?わたしは後からそれはお大師様の思し召しと信じることにしたのだけれど、どう考えても、神業に近い奇跡のように思えてならなかった。早速手続きを確認し、バスのナンバーを教えてもらい、高松駅のバスターミナルから乗るからそのドライバーにその旨伝えてくれるようわたしの名前とケータイ番号を伝えお願いした。バスは20:30発の新宿経由ディズニーランド行きとのことだった。舞浜着は8時頃、いや、それは何時でもよかったのだ、ともかくその夜に高松を脱出できて、明日朝には東京につけるとは、そのときのその状況にあってはまさに奇跡にしか思えなかった。バスの到着まで1時間を割っていたので、すぐに雨の中駅前にあったミニストップに買出しに出かける。コンビニ飯とビールと飲み物を仕入れ、そのバスターミナルの待合室で食べたミニストップのオムライスはことのほかうまかったのである。しかも琴電の鳴門営業所で精算したとき、その料金が10000円は越えることを覚悟していたところ8900円と聞いて喜びも一塩となった。それは今回の件で航空会社は一切責任を負わないという約款があったため、かかった費用のすべては個人負担になったのだけれど、そのために被った費用負担は限りなくゼロに近い数字で済んだことを意味したからだった。こうして進化の著しい高速バスに20年振りに乗り、その3列シートの真ん中だったが翌朝7時ころまでよく眠れて、それこそ自己の体験において(最後に子供たちを連れてきた記憶から)30年振りとなるディズニーランドの地に8時半に降りたったのであった。そこは四国より歴史は新しいが、今や日本の代表的な若者の聖地であった。わたしは年配者の聖地から若者の聖地への旅をしたようだった。その朝も聖地へ向う若者たちがひっきりなしに、舞浜の駅に向うわたしとすれ違っていった‥、、

JR高松駅となりの高速バスターミナルの待合室、すでに窓口は閉まっていた、、Img_1849_640x480

朝の8時半に東京DL着、わたしは帰着だったのだけれど、同じバスの若い人たちは目的に到着??Img_1858_640x480

舞浜駅に向う人はほとんどなく、駅から出てくる人の数に圧倒された、、Img_1861_640x480