独歩の独り世界・旅世界

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Casa Camino Solo

 いろいろあって2ヶ月ぶりの更新となってしまいました。けっこう忙しい日々でした。2月に入って漸く落ち着いてきて、少しその間の事情を書く時間、というより心の余裕ができてきました。このプログ上でははじめて明かすことですが、去年の後半から始まった住まいの新築工事は予定より一ヶ月近く遅れて年末ギリギリに建ちあがり、暮れも押し迫った12月の27日の引越しで、そのあとの片づけやら、旧居の引渡しやらの後始末・整理に約一ヶ月かかったというわけでした。そして今、やっと新しい家に慣れ始めたところです。

 思えば旧居は団地でした。そこには30代はじめから、今60代後半、70歳目前ですから40年近い歳月を過ごしたことになります。最終家賃は3DKで5万を越えていませんでしたから当然かもしれませんが、家賃の滞納は一度もなかったと自慢したく思います。そしてわたしにとってその団地はそれなりに住みやすかったので、一度もそこを早くでたいなどと思ったことがありませんでした。一時的に、団地が嫌になったからでなく同居人(奥さん)との仲が悪くなって他へ避難したことはありましたが、最終的にはその人と一生そこで暮らすことを厭うてはなかった。いや、少ない年金でも、そこで暮らしている限りなんとかなるのでは?と思っていて、そこには分相応の暮らしがあったのでした。だから、よくいわれるような新居(マイホーム)を夢見るということは、我々夫婦に限っては話題に登ったことすらなかったのでした。なので、その後の展開、わずか一年余り前から今ここに至るまでの経緯についてはワレながらどう説明していいのか、どう説明したらわかってもらえるか甚だ疑わしく思っているほど、ちょっと予想だにしなかったことだったのです。だからもしかしたら一番納得してもらえそうな話としては、宝くじが当たった、などという偽りが真実であったなら簡単だったかもしれません。が、現実にそんなことはありようがなく、となると結構ややこしい話をしなくてはならなくなり、これから述べることに対しては多少の誹謗・中傷、やっかみといったものを覚悟しなくてはならないかもしれないと思ってます。というのは、最終的には金銭的問題で、つまり細々と生きてきた年金生活者にどこからそんな住宅建築資金を調達できたのか、ということに他ならないからです。

 何故そんなことをいうのかというと、それは単に年金生活者ということだけではなく、いわゆる預貯金に関する説明もしておかなければならないからです。年金生活者といっても一様でなく、人様の懐事情というものはまったく測り知れず、恐らく一流企業を勤めあげた方々は、その年金額もさることながら多額の預貯金を有していることは想像に難くありません。同世代の平均預貯金額がどれくらいなのかは知りませんが、一流企業どころか名もない会社を何回も転職したり、半ばフリーターめいた仕事で糊口を凌いできたわたしに、そんな預貯金があるはずはないということは、わたしの友人たちは皆知っていることでした(友人たちに相当世話になっていたから)。だから、もし同年代の平均貯蓄額というものが調べられているなら、恐らくその半分にも満たない、1/3~1/5くらいのものでしかなかった(もっと少なかったかもしれない)ことは恥ずかしいから堂々といえることではないが明らかだったと思います。が故に最初からわたしにマイホームの夢は存在しなかったのです。それがちょうど一年くらい前から状況が変転していきます。いわゆる外部環境とでもいったらいいのか?その辺の説明が難しいところですが、ちょっと振り返ってみます。

 わたしは長男で、高齢(93?)の母親がだいぶボケてはいるが健在です。10年位前までは数代続いた家に独居していました。わたしたちは同居していなかったが、流石に高齢になって一人暮らしが心配になり、わたし一人が同居人となります(それが団地を脱出していた期間)。5年くらい前にたまたまわたしの弟(独身)が定年後の嘱託期間の間、勤務先が近かった実家に住まわせてくれといってきて、その代わり母親を見守るというので、母親の介護をバトンタッチしてくれました。それらすべてはみんなの同意によって為されたことでしたが、一昨年に母親の介護度が増し、彼ひとりでは面倒見切れなくなって、これも本人の同意を得て母親を介護施設に入居させました。それから半年後に弟の嘱託期間は満了となり、彼は持ち家がある山梨へ帰ることになった。そうすると実家は空き家になってしまい、わたしの住んでいた団地からそれほど遠くにあったわけではない実家に我々が戻るのが一番合理的な解決策のように思えたのです。ところが、これは我が家の恥部ですが、まだ築40年くらいで躯体はしっかりしていたにもかかわらず、管理・手入れ・掃除がまったく為された形跡のなかったその家は、すでに我々の住処として住めるレベルを越えていた?、ま、最低限のリフォーム(キッチン・水廻り)をしなければ住める状態ではなかったということです。その辺から、ではどうしようか?ということになって模索が始まりました。

 まともに住める状態にするにはかなり手を入れる必要があることは明白でしたが、その時点で特にリフォームの見積もりは取らなかった。素人ながら今はリフォームでかなり見違えるような状態に改築できることは知っていましたが、そのためにかかる費用も半端な額でないと思われたからです。そのときになって始めて、なら建て替えたらどのくらいかかるかに焦点は移っていきました。わたしはそれまでマイホームの夢を見たことがなかったから、新築の相場をまったく知りえていませんでした。が、今はインターネットの時代、ネット情報を頼りに動き出したのがちょうど去年の今頃です。そしていろんなことを学んでいきます。そのなかでも住宅メーカーのランクとその価格帯の相違(もちろんそれは当然中身に反映されてくるのでしょうが、?千万単位の相違があることを知る)?、そういったことを含めて住宅メーカーの選定までに3ヶ月を要しました。そしてもう一つわたしにとって重要な情報を得ることになります。それは長期優良住宅?なら贈与1500万円までは非課税という、優遇制度でした(そんなことも知らないでいた)。そんなことを学んでいくうちに新築計画は現実味を帯びていきました。もしかしたらほんのわずかしかなかったわたしの手持ちでもなんとかなるかもしれない?それはこれまで数十年間一切親の資金をあてにしたことのなかったわたしが、恥ずかしながら親の金をあてにすることによってなんとかなるかもしれない、と思ったということです。ただ、いずれ相続の問題も発生することを念頭においてのことでしたが、親を施設に入れただけでなく、始めてその資金をあてにして家を建てるという、背反的?あるいは親不孝的行為にたいする後ろめたさとの葛藤も同時に生じてきました。なら新居で我々が母親を見ることによって解決する?といった案の検討もしました。が、その辺はいまだ自信を持ってどうすればよかったかということはいえないのですが、介護度の高い高齢者の面倒はもしかしたら専門家に任せたほうが本人にとっても好ましいのではないかという意見に傾いて、介護可能な家にすることはしませんでした(もちろん予算的にも無理だったこともあって)。もちろん少しボケてるとはいえ、すへて本人に話して納得・了解してもらった上でのことでした(弟の了解もとっている)。

 去年の4月には住宅メーカーは二社に絞れていました。以下をクリアしてのことです。まず予算に限度があること(低予算)、その上でわたしのわがままな希望を叶えてくれそうなところとして、世間的には中堅どころ?のそのハウスメーカーは、どちらも大変好ましい営業だったので最終的な選択が難しかったのですが、やはり予算内でかつわたしの希望を実現可能としてくれた一社に軍配が上がりました。そしてそれは結果として十分満足いくものを造ってくれたことによって、わたしはその会社を高く評価しています。その会社からすれば予算はないくせに要望は多い、口は出すが金はないという最悪の客だったでしょうが、ほんとによくやってくれたのです。そういったハウスメーカーの決定から完成までの経緯なんかも、もちろんいろいろなことがあったので、機会があればまたお話しするとして、そのわがままな要望について少しいっておきます。実は低予算でもそれなりのものを造ってくれることを知ったわたしは最大限の要望を出していきます。技術の進歩はどの世界にも及んでいて、特に住宅産業においてわたしの知らなかったこと期待してなかったことがすべて盛り込まれていることに驚きつつも、わたしはどうせならこんな家にしたいと思った構想をぶつけてみると、ほとんど受け入れてくれたのです。そしてわたしは家作り(マイホーム)は夢見てなかったのですが、可能ならやってみたいと思っていたことが実現可能となりました。当初建てられたるなら、そうしようと思った3階建ては予算的に断念せざるを得なかったのですが、それでも2階建ての1F部分をゲストハウス仕様にすることができたのです。世界の若者に呼びかけるホームページがまだ完成していないので、オープンは少々遅らさざるをえませんが、近々想いは実現されます。そのゲストハウスの名をCasa Camino Soloとしました。日本語にすると‘独歩亭’になります。そう、それは‘独歩の独り世界・旅世界’の続きの世界になるはずなのですが‥??、、