独歩の独り世界・旅世界

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四国お遍路 第2弾 6,56番~59番、電車、64番~62番、、

 さて、この時点で残り三日(10月8日の帰りの航空券を持っていたので)、この先どこまで行けるか?、今回の第2回お遍路をどう収束させるか?、といったことを改めて検討する時機にあった。それはもちろん、次の第3回目のお遍路を念頭に置いた上での収束を意味していた。当初は一国参りという打ち方があるように、今回はできれば伊予の国愛媛は終わらせるつもりだったが、それはすでに射程に入っていた。前日に54番、55番を打てたことが大きく、その結果、その日56,57,58,59番と歩いて、そのあと電車(汽車?)で64番近くの石鎚山という駅まで行けば、その日のうちに64,63,62番を打つのは難しくそうではなかった。そうすると次の日が60番、61番、そして最終日に伊予の最後のお寺65番三角寺を打って午後高松にでるのは決して無理ではなかったからである。では、なぜ59番から64番へ飛ぶのか、どうして60,61を飛ばして64から62へ逆打ちするのかは、その辺をすでに歩いている人には説明不要と思われるが、いうまでもなく、その間の60番の横峰寺が、その辺りのひとつの難所であったからだった。なので、その辺の地理的事情を少し話しておこうかと思う。

 この日予定していた56番から59番までは比較的固まっていて、もちろんすべて歩いてだがトータル15kmくらい?、それぞれの巡拝時間を入れても5.5~6時間で廻れると見込んでおり、7時半にスタートしたとしても13時ころまでには打ち終えられそうだった。問題はそのあとだった。順序どおりいくと次は60番横峰寺だったが、そこへのルートはいくつか考えられるところであった。まず、59番~60番は距離にして27~28kmあって、単に距離が長いだけでなく、その横峰寺というのが標高800mの山の上にあることだった。で、純粋歩きお遍路さんは、横峰寺に宿坊はなかったから(まだ新しい通夜堂のような建物はあったから、素泊まりは可能かもしれない?)59番から麓のいずれかの宿まで歩いて、次の日にお山へ向かうというのが一般的と思われた。その宿をどこにとるのか、また、頑なに順打ちに固執するのか、あるいは歩きにこだわるのか、山登りに限って一部公共交通機関を利用するのかといった、それぞれの意向次第で、この辺はルートがいかようにも取れるところだった。わたしはすでに純粋歩きお遍路を降りていたし、順打ち逆打ちのこだわりもなく、ま、折衷お遍路?イイカゲンお遍路の典型のようなものだったから、それなら残った時間(13時以降)鉄道を利用して少し先までいって64番から逆打ちして62番まで歩きで戻り、その日は62番近くに宿をとって次の日に61番を打って山登りをしようと考えたのであった。その場合、次の日の山登りの往復に一日をみていた。で、その案は案外いけそうだったので、前日の夜に62番のある伊予小松駅近辺の宿を探し、telにて予約を入れておいた。そこに宿がとれれば、その宿に荷を置いて山に向かえるというメリットがあったからでもあった。

 その朝の(今治アーバンホテルの)朝食は、なるほど豪華なものであった。その朝食は和食と洋食の選択ができ、いつもなら和食だったのだが、ネットでそのホテルを選んだときも、前日チェックインして朝食をどっちにするか聞かれたときも、写真から判断するに洋食が豪華そうだったからである。といってもバイキング方式でなかったから、好きなものを好きなだけとはいかなかったが、パンもコーヒーもお代わりができて十分に満足するものだった。7時からの朝食で7時半にはチェックアウトして歩きだしていた。56番泰山寺までは3km弱、駅から一直線の道で両脇に小学校、中学校、高等学校の並ぶ細い通りを行く、、泰山寺までは35分かかった。そこでばったりドイツ人マルクス君に出会う、彼のほうが先にきていてすでに参拝を終えていた。彼はこの先にある郵便局によっていくからといって、先に出発した。わたしは参拝を終え朱印をもらってから、近くにある奥の院(龍泉寺)の道を聞いてそこまで足を延ばしたが、5分もかからないその道がよくわからず、ずっと先のほうまでいってしまって、少々のロスタイム。急いで引き返して57番栄福寺に向った。畑と住宅街の中の一本道を行くと蒼社川という川にぶつかったが、その手前に四国お遍路の無縁仏の墓があった。比較的新しい墓標だったのでので、方々にあったお遍路の無縁仏をまとめたものかもしれなかった。栄福寺までも約3km、到着は9:25であった。郵便局は見つけられたか?荷物は送れたか?少々心配だったが、マルクス君はすでにそこにいて、郵便局はまだ開いてなかったといったとき、わたしもうっかりしてそのことを忘れていたことに気づいた。そこを打ち終えたころ、昨日のもう一人の女性がやってきた。そう、その日は3人とも少なくとも59番までは同じルートのはずだったが、聞くところによると彼女はその日レンタ・サイクルして自転車で回っているとのことだった。それだと同行二人、同行三人は難しくなり、そんなことでマルクス君と彼女がなにやら話していたので、わたしは次の寺でまた会うだろうと思って先に発った。その日の道程で、というか今回一週間の遍路の中でも、そこから58番仙遊寺に向う道は、かなりわたし好みの道だった。すでに57番あたりは街中から外れていて、そこから58番までは一部車道を通るものの大半は山道だったからだ。途中犬塚池という由緒のある溜め池?があって、そのあたりから道は登りになった。池の周りを行く感じで歩きやすい山道をしばらく登っていくと、いきなり車道にでてしまった。残念ながらそこからは車道を登っていくしかなかったが、途中に今治の街、そしてその向こうにしまなみ街道の吊り橋の遠望が素晴らしい場所があって、なかなか感動させてくれたのだった。しかし、わたしは、そこでのんびりしている余裕はなく、まだかまだかと仙遊寺に向って、足の痛みをこらえながら歩き続けなければならなかった。少し電車の時間が気になっていたからだ。といって、その正確な時間を知っていたわけではなかった。うかつにも、その朝今治駅を通ったにもかかわらず、そこからの時刻表を調べてなかった。また前日の例で、各駅停車の電車はきわめて少ないのも知っていたからだった。漸く仙遊寺の山門に着いたのは10:30、しかし何とそこからもう一登りしないと境内には到着しなかったのである。山門から境内まで、さらに10分もかかったか?その登りはけっこうきついものがあった。一通り打ち終えたときにマルクス君が現われた。わたしはそのときはじめて、実は純粋な?歩きお遍路でないということを打ち明け、このあと59番までは歩くが、そこから電車に乗るので申し訳ないが先にいかせてもらう、といって納め札にわたしの住所とtel番号を書いて渡し、東京まできたらいつでもtelするように伝えて彼と別れた。その後彼とは会っていない、、そして大急ぎで下山を始めた。下の山門の手前で今度は件の女性に出会う、、彼女にも同じことを伝え、彼女にはわたしのmailアドレスを教え、彼女はその場で撮ってくれた写真をその場でわたしのアドレスに送ってくれた。帰ってからそれをみて、彼女の名前がエイコさんであることを知り、そこへ返信してみたが残念ながら、その後の経緯はわからないでいる。上にドイツ人の彼がいることを伝え、彼女ともそこで別れた。そこから59番国分寺までは6km強、けっこう長い道のりだった。

56番泰山寺;2枚と奥の院龍泉寺Img_1493_640x480Img_1494_640x480Img_1496_640x480

路地にあった無縁仏の墓標Img_1497_640x480

川沿いのへんろ道、蒼社川は右にあって、この写真には写ってないImg_1498_640x480

57番栄福寺;3枚Img_1500_640x480Img_1501_640x480Img_1502_640x480

57番から58番への道から;3枚Img_1505_640x480犬塚池Img_1507_640x480犬塚池と今治の街

Img_1508_640x480遠くにしまなみ街道の吊り橋が見えた

58番仙遊寺山門Img_1510_640x480

仙遊寺本堂Img_1512_640x480

大師堂をマルクス君が参拝中Img_1513_640x480

 はじめは山道を、そして民家の間の道をいくこと40分、昔は50分~1時間を1ピッチに5分ないし10分の休憩で歩けたが、最近は40分~45分が限界になりつつある。もっともこのときは急ぎ足で歩いていたからだったが‥、、で、ちょうど中間あたりだったと思う、ベンチがあったのでそこで5分の休憩。やはり舗道歩きは足への負担が大きく、また住宅街・都市部の歩きはどうしても単調になり面白みがないのだ。そんな道を更に30分ほど歩いて漸く59番国分寺に着いた。前のお寺が山の上の仙遊寺だったからか、街中歩きと同じく街中の寺に面白みに欠ける感じがしたが、もしかしたらそれは、新しい造作・修繕のあと(例えば階段や鐘楼の基壇、ロウソク立てが新しかったり、駐車場が大きかったり、)に少し違和感があったからかもしれなかった。また、たまたまそのとき参詣者にお遍路さんがいなかった(一般の参詣者はいた)ことや、ちょっとした長丁場に歩き疲れていたことも、あるいはそう感じてしまったことと関係していたかもしれないので、国分寺さん気を悪くなさらないでください、、そして、そこからまた(伊予桜井という)駅までが思ったより遠かったこと、よく地図をみてなくて10~15分くらいとの思っていたところ30分も歩くことになり、おまけに駅の周りにはお店は全然なく、やっと駅について電車の時間を確認したら次の電車は13:35で20分の余裕、で、通り沿いにあった酒屋まで戻ったが、そこにおにぎりは置いてなくて、それでも少しいったところにコンビニがあると教えてくれ、さらに急いでコンビニまで行っておにぎりを二つ買って戻ったら、もうゆっくりそれを食べている時間がなかった、といった慌しさが、わたしの記憶の中に全体としてそのときのことをあまり良い印象として残してなかった、ということだったのかもしれなかった、、

59番国分寺;2枚Img_1515_640x480Img_1516_640x480


 このJR予讃線の各駅停車も一両編成のワンマンカーだった。が、それはたまたま時間的にそうだったのかもしれないが、土佐くろしお鉄道のワンマンカーとはまったく様相を異にしていた。わたしが二度ほど乗車した土佐くろしお鉄道のワンマンカーはいずれもそこらじゅう空席で、ま、それ以上の乗客は期待できそうもなかったが、そのとき乗った観音寺行きワンマンカーはちょうど高校生の下校時(ちょっと時間的には早い感じだったがテスト期間中でもあったか?)に重なって、ま、いってみれば超満員、といって空席はないわけでなく、4人がけのボックスシートに男子高校生が一人ずつ座って二人分を占有しているのであった。ほとんどの高校生は立っていて、もうほとんど車両は埋めつくされていたので、そのボックスの高校生に座ってもいいか、と聞いてみた。彼は無言でわたしに一人分の座席を空けてくれたが、いずれの生徒もスマホの画面に熱中していていかにもウザイ、といった感じで、ま、いまどきの高校生は日本全国どこも同じかと、ある意味わたしには新鮮な光景に写ったのであった(最近は通勤・通学列車というものに乗ったことがなかったので)。その電車(列車?汽車?実際は何なんだろう?)に30分くらい乗って14:01石鎚山駅着、360円だった。

 それでもその駅で何人かのお遍路さんを目撃したのは、電車遍路がわたしだけでないことを知って少しの心の安らぎを覚えた。そこから64番前神寺までは10分、駅からの道をまっすぐ行くと駅名になっている石鎚神社にぶつかるのだけれど、そこへは行かずに左折してまず前神寺を参詣、そしてせっかくだからと石神神社へも寄り道し参詣した。ま、前神寺もそれなりの構えはあったのだが、歴史の古さ、規模の大きさにおいて、比べようのない重さ・威厳みたいなものが、わたしのような素人にも歴然と伝わってきた。そもそもこのように隣りあわせで神社と仏閣が並んでいることは、明治の廃仏毀釈以前は分離されておらず神仏習合で一体化した聖地であったはずである(前日の55番南光坊別宮大山祇神社と一体であった)。実際前神寺はその昔は石鎚神社の境内にあって、石鎚神社が元札所とガイドブックにはあった。その石鎚神社の本殿までは石段をどのくらい登ったことだろうか?いい加減その寄り道は疲れるものとなったが、その本殿前からの西条・小松方面、そしてその向こうに広がる瀬戸内の眺めは、その疲れを吹き飛してくれるものがあった。そこから63番吉祥寺は3km強、寄り道した分少し急がなければならなかった。しかし、そのとき足裏の痛みが、やっとなんとか歩ける程度にまでひどくなっていた。大通りの国道11号ではなく、ひとつ裏の昔のへんろ道?それでもいまどきはすべて舗装路になっていたが、車も人の通りもほとんどない道を40分、伊予氷見駅近くに吉祥寺はあった。国道11号に面して通用門があったが、入り口はそこでなく右に少しいったところが山門とあって、そこから入内すると折からの団体さんで狭い境内はごった返していた。それでも小さいながら趣のある寺で(そういう意味ではやはり街中にあって、先の59番と比べても甲乙つけがたく思えたので、人間<わたし>の感覚なんてまったくあてにならないということをいっている)、ご朱印をいただいたとき方丈さんがわたしの納経帳をみて、ずばり、今夜は小松でお泊りですか、62番宝寿寺はこのまま国道沿いに1kmほど行ったところだから、十分間にあいます、と声をかけてくれたのだった。そのときはちょうど16:00ころだったと思う。62番はそこから20分、それでも一通りの参拝終えて、その日最後のご朱印をいただいたときは16:40になっていた。そこから目と鼻の先と思っていたその日の宿は、さきに国分寺から駅までの距離を錯覚したごとく、また地図がいまひとつ判りにくかったこともあって、そこに行き着くまで一苦労があった。知っていれば5分の距離を行きつ戻りつ、あげくに人に聞いて漸くたどり着いたときは17時を過ぎていたかもしれなかった。

64番前神寺;3枚Img_1517_640x480Img_1519_640x480Img_1518_640x480

石鎚神社;5枚Img_1527_640x480Img_1526_640x480
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63番の吉祥寺の入り口は大通りに面した上の写真でなく、わき道をいったところにあった。(2枚目が山門)境内は団体さんで溢れていた。Img_1528_640x480Img_1529_640x480
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最後の62番宝寿寺は写真1枚Img_1533_640x480


 
 ま、この宿については評価が分かれるところだと思う。判定は難しい、、悪くはなかったが、やはり人によってはあまり高く評価しないかもしれない。ここを決めるにあたっては前に宿毛の宿を探したときの条件とは少し違っていた。そのとき、できればビジネスホテルのほうがいい、といったことに矛盾するのだが、ここではビジネスホテルでなく民宿を選んでいた。最初にビジネスホテルに連絡したら満室だったから、ということではない。わたしはほんとはビジネスホテルより、民宿・旅館タイプの宿のほうが好みだったとそのときもいったはずだが、それは、ま、要するにビジネスホテルより民宿・旅館のほうが、その主?との距離が近い、前回の癒しの宿八丁坂がそうだったように、直に接することができる良さを強調したかったのだけれど、昨今は遍路宿を探すに当たって、旅館・民宿に連絡すると廃業・休業中ということで受け入れられることが少なかったことが、残念ながらわたしの考えを少し変えるに至らせていたのである。で、この伊予小松にはビジネスホテルが一軒、民宿が一軒あったのだが最初に問い合わせたのは民宿のほうだった。そこで応対にでたおばさんが、一泊2食つきで5800円でやっている、といったので、それで即決したのである。もう一軒のビジネスホテルにはtelもいれてないから、価格も、その待遇もまったく情報はなく、だからどちらよかったかはまったく判断できない、ということだった。では、その民宿はどうだったのか?、実はこの判断は微妙なところがある。民宿の多くがそうであるように、ここも普通の民家で、その一室があてがわれ、相客は一人いて、襖ひとつの仕切りだけ、それはわたしには問題なし、そんなことに頓着はしない(客によってはそれは多いに問題となるかもしれないが)。食事に関しても、豪華ではなかったが、一人ですべてを仕切っていたそのオバサンが一生懸命つくってくれたものである。それなりに満足いくもので、その証拠に酒・ビールを大量に飲んでしまった。その相客とも年は近く、自転車遍路であるチャリダー氏は大変紳士であった。数時間食事と酒とその場を共有でき、わたしは酒が入って少しはしゃぎすぎてしまったかもしれなかった。‥問題はそこの主であった。そこの主、オバサン、正確には年齢を聞いて驚いたが、もう80を越えているといってたから、オバサンでなくておばあさんである。そのおばあさん?は、その強烈な個性、80代には見えない若さとパワー、そして波乱万丈の人生、要するに客がそれに耐えられるか、ということである。ま、ほとんどそういうことはないといっていたが、下手すれば主客が転倒しかねないこともありうる、とわたしは思ったのだ。そこが人によって印象は違うだろう、といったことだった。そういう意味ではわたしは楽しかったと、いっておきたい、、きっと偶にのことだったと思うが、その主も気をよくしてくれたからか、それこそ直の、生の話が聞けて我々もある種圧倒されていた。ま、危ういところで主客転倒は免れたと思うが、どうやら名物オバサンらしいので、どうぞ機会があったら一度お目にかかってみてください‥、、