独歩の独り世界・旅世界

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四国お遍路 第2弾 5,40番→54番、55番、、

 出発前、まだ自宅でプランニングをしていた段階で、個々の列車・バスの時刻までは把握できなかったが、持っていたガイドブック(へんろ道保存協力会編の地図)等の情報でこの辺までの想定はできていて、ほぼその通りにきていた。予定・想定で少しズレが生じたところは前日の39番延光寺が打てて宿毛に宿がとれたことで、あるいは平田泊まりで、朝一で延光寺を打って宿毛に出て、そこで乗れるバスに乗る、というのが当初のシナリオだったから、そういう意味では、その朝宿毛から朝一のバスに乗れたことは、おおよそ2時間くらいの前倒しになっていたということだった。そしてこの2時間は、そのあとの行程に大きく影響を及ぼしてくるのである、、

 いずれにしろ(当初の想定でも)、その日の夕方までには今治までいけるのではないかと思っていた。たとえその朝に延光寺を打ったとしても、宿毛から宇和島まではバス(宿毛宇和島間の交通は宇和島バスが走っていて、それしかなかった)があって、それを利用すれば40番観自在寺を打って宇和島に出られる。宇和島まで行けば例のフリー切符は特急にも乗れたから、松山までは本数も多く1時間20分の距離、松山~今治普通列車でも1時間20分だったので、その日のうちにいっきに今治まではいけるだろうと思っていた。それで、ま、ホテルの場合は比較的キャンセルがしやすいということもあって、今治の宿は自宅にいるときに予約をしてあった。というのも、今治というところはもちろん初めてであったが、例のタオルで有名、また本州尾道と結ぶしまなみ街道の拠点でもあったから、相当大きな街であろうと想像していた。で、これまた例のガイドブックの宿泊一覧を見てみると、やはり10を越える宿があって、いざ予約といってもどこにしたらよいかまったくわからない状態だった。ところが、この街の場合は、大きな街だけあって今の世に多くあるインターネットの宿泊検索サイトに引っかかったのだった。で、それも参考に見ていくと意外な掘り出し物を見つけることになった。なんと、そのうたい文句(今風に言うとキャッチコピー?)がよかった。いわく、‘お遍路さん限定、一日一名様半額‥’、、そのときは確か一週間くらい前だったと思うが、ダメモトで申し込んだらOKの返事が来て予約は成立したようだった。もちろんサイトに載っているくらいだから、かなりハイレベルのホテルだということは、その写真を見てもわかったが、今治の駅前にあってビジネスホテルよりワンランク上のホテルで朝食付き、半額で4100円はいうまでもなくお得感があったのである。一応予約成立のあと、お遍路をしているので予定通りいかず、時にたどり着けないこともあり得るとmailを入れておいたが、わたしとしては何としてでもたどり着くつもりではいたのだ。そんな前提の下その日は始まったのであった。

 宿毛発のバスは前日土佐くろしお鉄道で着いたときにバス停で調べてあった。先に朝一のバスといってしまったが、実際は朝一のバスは6時台にあって、それに乗る必要もないだろう、次の7:32で充分時間的には余裕があると思っていたが、ホテルマツヤにチェックインしたとき朝食が7時からと聞いて、そうするとゆっくり朝食がとれない、ならそのあとの8:17でもいいか、と優柔不断の結論をだして、結局は8:17のバスに乗ることにしたのだった。そしてゆっくり朝食をいただいて7:45にチェックアウト、そのときフロントにいた中年の男性に、これまたダメモトでひとつのお伺いをたてた。もし、サービスあるいは宣伝用のマッチかライターがあったらいただけないか?と、、昔はどこのホテルでもたいていその種のサービスまたは宣伝用のマッチ類はあって、その補充には事欠かなかったが、昨今はほとんど喫煙者が減っていたから、それはサービスに類するものではなくなっていたようだ。それでも高知のホテルでは、事務所の奥から探してきてくれて数個もらえたのだが、それが切れかかっていたのだった。こんなところに初日のセキュリティでの没収の影響が出ていた(すぐにコンビニで補充すれば済んだ話だが)。その男性は今はそういうのはおいてないと断りつつも、少し探してくれたが、なさそうだった。わたしもあったら、ということで聞いたので、別に気にしないでくださいと、礼を言ってホテルをでて駅に向かった。しばらくいくとその男性が追いかけてきて、ありましたからとライターをひとつ持ってきてくれたのだった。そのあと、そのライターは本当に重宝することになった。そして今度は駅のベンチでバスを待っていたとき、遍路姿のわたしを見て、わたしよりはるかに高齢の、だから、ま、ジイサンだったが、オシコクサンですか、といってわたしにビスケットのような菓子をくれたのだった。そのあと何かいっていたが聞き取れず、ただ、ただありがたくそのお接待を受けたが、そのときのオシコクサンという言葉が、それまで聞き慣れてなかっただけに新鮮な響きであった。それは昔から四国ではお遍路さんをオシコクサンと呼び習わしていたことは知っていたが、耳にするのは初めてだったからだ。今回のお遍路ではこのときつづけて受けた接待が、有形のものとしては最初であったような気がする(無形なものは他にもあったが‥)。

 定刻にやってきたバスに、それまで数人の行列でバス待ちしていた人たちは、誰も乗らなかった。どうやらその人たちは、中村の市民病院?へ行くバスを待っていたようだ。たしかそのバスと同じ乗り場だったように記憶している。いずれにしろ、ちょっと面食らったが、さらに驚かされたことは、山の中を走って県境を越え、次の大きな街である城辺というところの営業所まで30分くらい乗降客がゼロだったことである。つまり、たまに乗るわたしのようなお遍路以外に県境を越える人はほとんどいない、ということなのだろうか?、またまた過疎地のバスの運営の厳しさを思い浮かべたが、それでもこのバスは一日10便の運行があった。料金もしかるべく安くはなかったが(宇和島宿毛間は通しだと1750円)、わたしがいいたかったことは、この区間もフリー切符で乗車可能だった、ということであった。

バスから何枚か写真を撮ったがいずれも載せられるようなものがなかった。これもどうでもいい写真のひとつだが、愛媛県高知県の県境になっている川Img_1445_640x480


 宿毛から40分くらい、県をまたいで愛媛の40番観自在寺の近くの御荘というところで、運転手さんに教えられてバスを降りた。宿毛から25kmくらいあったから歩けば一日行程の長丁場である。20mくらい戻って左奥にお寺さんはあると教えられ、その角を曲がると、そこには小学生の一団がいて、勢いのある挨拶が飛んできた。驚いてよく見ると、近くの小学校高学年の美術の授業のようで、みんなてんでに陣取って写生をしていたのであった。逆にその姿を何枚かの写真に撮らせてもらって、彼らの間を縫って境内へ、一通りお参りを済ます。これで前回最終の41番に繋がったのであった。ご朱印をいただいて、小学生の写生を見ながらバス停に戻ると、次のバスまでまだ1時間ほどあり、どうしたもんか思案しつつも、そこにいても時間潰しができそうもなかったので、足の痛みがあったが歩きだした。次のバス停あたりに御荘公園というのを見つけたからである。そこから御荘湾が眺められそうだった。そうやってぶらぶらしながらいってはみたが、残念ながら絵になる風景に遭遇することはなかった。御荘公園前10:17のバスは、そこから1時間以上走って宇和島駅には11時半の到着だった。次の松山行きは11:55発の特急宇和海12号とのことだったので多少余裕があった。駅のキオスクで久しぶりのコーヒーで一息つき、おにぎりとお茶を買って、それは3両編成でがらがらの特急自由席で食べることになった。この自由席特急券が1180円で宇和島までの運賃は1810円、合わせて3千円はフリー切符範囲内であった。もしその都度その都度で払っていたらトータルでいくらになったか計算はしなかったが、もしかしたら倍額くらい?、つまりこのフリー切符はそのくらい価値があったとわたしは思っている。ただそれはお遍路さんすべてに有効ということではなかった。というのも、偶々わたしは前回逆うちで松山~宇和島間の札所を打ち終わっていたことと関係がある。そう、普通順打ちで来たら、宇和島から41番,42番,43番と打って、そのあと内子まではこのticketが使えるが、そこから44番45番は完全にルートからは外れてしまうので、少々もったいないことになるということである。ま、それでも価値があることに変わりはないとも思うのだが‥??、、

40番の門前、あるいは境内で写生をする小学生たち;2枚Img_1449_480x640Img_1450_640x480

40番観自在寺;3枚(本堂2枚と大師堂)Img_1455_640x480Img_1454_640x480Img_1452_640x480

愛南町(旧御荘町)僧都川と御荘湾Img_1457_640x480Img_1458_640x480

宇和島駅と駅前Img_1468_640x480Img_1470_640x480


 さて、そこで問題は松山からどうするかであった。松山着は13:16、その先今治までいく列車は何時か?と検札にきた車掌に聞いてみると、特急が13:26発にあって、それだと今治着が14:04とのこと、各駅は?と聞くと、それが14:32までなくて今治着は1539とのことだった。特急券520円で1時間半の時間を買うことになる。そのときはまだ乗り越し清算する必要はなかったが、特急でいくしかないか、と決めていた。で、松山ではそのまま駅から出ずに次の特急に乗り継いで車内で清算した。よって今治駅前のすでに予約済みの今治アーバンホテルには14:15にはチェックインできたのであった。

 松山までの特急車内でお遍路装束を解いて普通の格好になっていたが、チェックインするとすぐにまた白衣を着、輪袈裟をつけて、余計なものを置いて、巡拝に出かけた。2時間半あったから、54番、55番が打てそうだったからだ。特に54番は歩きなら今治の手前に位置していたから、すでに打ち終えていなければおかしいところで、できれば今日のうちに打っておくのが望ましかった。いずれにしろいったん松山のほうに戻る形になって、同じ道を往復しなければならなかったのだ。55番はホテルから程ないところにあったから、ま、次の日でもルートとしては繋がるので時間があったらいっておこうという感じだった。あらためて駅から歩きだすと、54番まではちょうど逆うちになって一ヶ所道を間違いそうになった。するとちょうどその辺で、やはり道を間違えたかと迷っている順打ちのお遍路さんがいた。女性の歩きお遍路さんだった。先にわたしが54番への道を聞く、そして彼女にもそこから駅方向に行く道を教え、少しだけ話をしてわかれた。そこからもやはり逆打ちにはまごつくところが何ヶ所かあったが、途中他にも何人か順打ちのお遍路さんにあったり(これほど多くの歩き遍路さんにあうとほとんど挨拶だけになる)、地元の人に聞いたりしながら50分くらいかかってやっと54番延命寺についたのだけれど、着いてみれば延命寺本堂は修復中で、シートがかけられていたのには興醒めというものであった。参拝してご朱印をいただいて同じ道を戻ることになったが、その時が15:45で、なんとか55番も間にあいそうだった。その帰り道に多いに後悔するできごとがあった。というか、逆にするべきことをしなかったことを悔いることになったというのが正確であろう、、来るときに道を教えてもらった地元のおっさんに、帰り道、畑仕事に精を出していたから声をかけずに通り過ぎてしまったことをいっているのだ。通り過ぎてから、それでいけないと思って、戻ってでもそうするべきか躊躇するも戻らなかったのだ。このことを帰り道にずっと反省しながら歩いていた。その道は今治市の霊園、大谷墓園の中を通っていたが、途中で墓参り帰りの今治在住の女性に声をかけられ、しばらくその霊園内の長い道のりをおしゃべりしながら歩くことができた。それがまさしく仏教の無財七施のひとつ‘言施’というものであることを、彼女はそんなことをまったく意識せずにやってくれているから余計にありがたい接待として感じとれた。それがわたしには(道を教えてくれた地元のおっさんにお返しとして)できなかったのである。もしかしたらこのとき大師様がそれをわたしに気づかせてくれたのかもしれなかった。

こういう道しるべもあったが、逆打ちにはやはり紛らわしいところが多かった、、Img_1479_640x480


やっと到着した54番延命寺、墓地の上から、、Img_1474_640x480

山門の奥にブルーシートが見えているImg_1475_640x480

延命寺大師堂Img_1476_640x480

 その彼女とわかれて、先に道を教えあったお遍路の女性に出会ったあたりにきた。その先を一人のお遍路さんが歩いていた。少し足を速めてついていくと、その先の姫坂神社あたりで追いついて、反省したことを実行すべく声をかけた。振り返った彼は何と外国人だったのである。驚いたというより、こうなるともう言施もなにもなく無条件にわたしの出番となってしまう。ま、これまで外国人との付き合いは多かったし、ほっておいても何かお手伝いできることがあればと思っているほうだから、下手な英語を駆使して余計なおせっかいをしてしまうことになる。もちろん次の55番南光坊まで同行し一緒に参拝し、納経所へも一緒に行く。そしたらそこでさらなるハプニングが待っていた。ちょうど納経所も店仕舞?の時間が近かったが、方丈さんと呼んだらでいいのか、あるいはお寺の従業員?さんなのか、役職名不明ながらその納経受付のおっさん(和尚さんだったらゴメンなさい)が実に面白い人だったのである。最初はわたしの現在の住まいのあるところに、そのおっさんも住んでいたことがあるということで、その偶然に多いに盛り上がったのだけれど、そのうち、たった20分前から同行二人となったドイツ人の通訳をしていたら、そのおっさんがさらに喜んでしまって、まさにこの方(おっさん)は和顔施、言施の達人といった方だったのである。我々の写真(ドイツ人とわたしの、そしてそれは後日ちゃんと送られてきた)を撮ってくれ、そしてなんとお守りにと、100回以上四国を廻られた方だけがもてる錦のお札を(もちろんその方のものではないと思うが)我々二人に授けてくれたのだった。こうして、まだ若いドイツ人のお遍路さんも多いに気をよくしてくれたのではないかと思っている。それよりなんとも不思議な縁を感じたのは、我々がその55番に着いたとき、何とその境内に、わたしが54番への道を聞いた女性のお遍路さん(彼女はそのあとこの55番に向かったのだが)がまだそこにいて、わたしが挨拶を交わす前に、このドイツ人との再会を二人して多いに喜びあっていたことだった。そう、どうもこの二人は旧知の同行二人だったようなのである。そして、その夜はそれぞれ別々の宿だったが、当然次の巡拝ルートは同じだから、時間は多少ずれたが、次の日もまた出会うことになったのである。我々は特にその夜どこかで夕食を、というようなことまではしなかった。たぶんそれぞれの宿で食事つきで頼んでいると思われたからだ。なので我々は55番で別れ、そのあとわたしは折角だから少し今治の街をぶらついてみた。瀬戸内海を渡るフェリー乗り場にもいってみたかった。こうして足の痛みは残っていたが、それでもかれこれ10kmくらいは歩いたことになったが、とりあえず54番、55番を打てたのは大きかったと思う(それが朝早いバスに乗れたからであったが、それはそのあとの行程にも影響を及ぼした)。その夜は食事付でなかったのでホテルへの帰り道に適当な飯屋を探しながら戻った。そしてそれは何軒かあったのだけれど、どうも選択を間違えたようで、夕食だけは(前日のホテルがアタリだったとすれば)今治の飯屋はハズしてしまったのだった、、

姫坂神社でドイツ人マルクス君と出会うImg_1480_640x480

55番南光坊;3枚
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夕闇迫る今治港で;3枚Img_1487_640x480
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