独歩の独り世界・旅世界

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2014の旅 17 , チクラヨ Chiclayo カハマルカ Cajamarca/Perú

 バスは漆黒の闇の中を走っていたから、周りの景色はおろか、どこをどう走っているかはまるでわからなかった、、そして少し眠ってしまったようでもあった、、バスがどこかに止まってドライバーが何かいったのは気がついた、、乗客がみんな降りだした、、国際バスだから乗客のほとんどは旅行者だったが、地元の人も乗っていてペルーに仕事で行くエクアドル人か、あるいはペルーに帰るビジネス客?商売人たちだったと思う(それでもがらがらでわたしの隣は空いていた)、、わたしはてっきり次の大きな街ロハLojaのターミナルについたのだと思って、そのままバスの中でまどろんでいた、、それにしてもトイレがついているバスなのになんでみんな降りるのだろうかと不審に思いながら‥、、で、わたしも、いったいそこはどんなところなのかと気になってとりあえずバスを降りてみた、、しばらくボケッとしてトイレを探してみたが、どうも周りの様子がおかしいのに気がついた、、バスターミナルではないようだった、、まさか!?‥まさかだったのである、、わたしは地図でみた距離からの推測で国境は朝方と勝手に思い込んでいた、、そのときはまだ3時間くらいしか走っていなかったから、わたしの頭のなかではちょうどロハあたりだったのだ、、まさかそんなに早く国境につくなんて思ってもいなかったのであった 、、

 わたしは慌てた、、こんなに慌てたことは珍しい、、バスでの国境越えは珍しいことではなかった、、たいていは昼間だったが、その場合いつも真ん中より後ろに並ぶということはなかった、、が、このときは何とその列の一番最後の人になってしまったのであった、、それでも気づいて、そこは偶々両国のイミグレがひとつの部屋に並んであるというところだったから、なんとか一ヶ所で出入国のスタンプはもらうことができ無事国境は通過できたのだけれど、まぁ、何と冷や汗ものだったことであろうか‥!?、、危うく40年前の二の舞になるところたったのである‥、、バスの座席に戻って安堵とともに40数年前のことがいやおうなく思い出された、、それはわたしの初海外で、そのときも今と同じスタイルで南米を歩いていた、、もちろん右も左もわからずに、しかし基本的には今と変わらないバックパッカー一人旅であった(そのときから旅のスタイルは変ってないということになる‥??)、、そしてコロンビアから陸路でエクアドルに入国する際、その場所も状況もすっかり忘れてしまっているが、エクアドル側イミグレは時間的にか曜日的にか開いてなくて、スタンプをもらわずに入国してしまったのだった、、それが後々どういうことになるかまだ知らなかったといっていい、、その地にとどまって次の日入国スタンプをもらって行動すべきだったところ、そのまま通り過ぎてしまったのでその後にえらい苦労することになった記憶は - 他のことはすべて忘れてしまったが - 忘れずに残っていたのであった(たぶん当時の日本大使館に迷惑をかけ、助力してもらった記憶がある)、、それが同じエクアドルでのことだったのだ ! ! 、、そんな昔を思い出しながら、しかしなぜこんなに早く国境に着いたのか?国境といっても、ここはいったいどこだったんだ?という疑いも消えなかった、、それは今でも変っていない、、今地図を見てもそんなところ(クエンカから3時間くらいのところ)に国境は引かれてはいない、、それに実際地図上にある国境の街Macaraに着いたのはそこから2時間後のことだった、、ということは実際の国境地点ではないところに国境手続きだけをする車専用の特別の場所が設けられていた、ということなのだろうか?それしか考えられないが今もって謎のままである‥??、、

 さて、で、何とか無事にスタンプはもらえ、バスがその国境と思われるところを出発したのはわたしの知るところでは夜中の2時頃だった、、また漆黒の闇を行き、少しうつらうつらしたか?バスは4時頃、ドライバーがマルコウ(?とわたしには聞こえた)と告げたところに停まって旅行者が何人も降りた、、たぶんそこがMacaraではないかと思われたが(もしかしたらわたしの持っていたおおまかな地図<コピー>にあった道とはまったく別の道をいっていたのかもしれないが)先に述べたようにそこは出入国手続きをしたところから2時間も走ってのことだったからそのときは確信が持てなかった、、ただ、これは確実だがそのあとに寄ったペルー北部の大きな街Piura到着が、そこから2時間かかっていることを逆算するとやはり4時頃ついたところが国境の街Macaraで、国境手続きをしたところは実際の国境からとんでもなく離れたところではなかったかという推測は成り立つように思われた、、ともあれピウラPiuraをでてしばらく走ると車窓左手の砂漠から日が登り、そのあとほとんど砂漠地帯を走ってバスは8時半にチクラヨChiclayoについた、、

 チクラヨについたはいいが実のところどうしてよいのか困っていた、、何よりその後ずっとそのために苦労し、苦々しく思うところとなったのが、ペルーのバスシステムだった、、それまで多くの国をバスで旅してきた者にとって、この国のバスシステムは感心しなかった、、つまりこの国の諸都市には総合的なバスターミナルといったものがなくバス会社ごとにターミナルを構えてて(そこに何社かが入っているミニバスターミナルみたいなものはあった)要するにバラバラだったことである、、それは大から小まであって(一社だけの営業所だったり数社が入っているミニターミナルだったり)、その数、数十社?全て一ヶ所にあるわけでないから行き先によって、そのバス会社を探さなければならなかったのである、、そのときわたしはどこへ行くかは決めてなくて、どうするかはインフォメーションで情報を得てから決めるつもりでいた、、が、わたしがエクアドルから乗ってきたバスの会社にはインフォメーションもなかったし、トルヒーヨTrujilloやリマLimaに行くバスはあったが、少なくともこのあとに行こうかと思っていたカハマルカCajamarcaまで行くバスはそこからは出てなかった(カハマルカもどうしてもいってみたいということではなく、候補地のひとつとして覚えていたにすぎなかったのだが)、、で、まず判断を迫られたのが、その日チクラヨに滞在するかどうかだったが、それは次に行く予定の地カハマルカへ行くバスの時間によってのことだった、、チクラヨがどういうところか事前情報を持ってなかったのでよくわかってなかったし、ここに泊まらなければならない理由もなかった、、ということはまず、カハマルカへ行くバス会社を探しバスの時間を調べることが先決であるということにやっと気づく(夜行バスで来て、ペルー初日で勝手が違って、少しボケていたのだ)、、で、降りたところのバス会社のフロントでカハマルカへ行くバス会社がどこにあるかを聞いてみると、近くにあるとのことだったので、では30分ばかり荷物を置かせてくれないかと頼んでそこへ行ってみた、、2ブロック先にすぐに見つけることができたが、その途中に他にもバス会社があったりして、そのあたりにバス会社が固まっているらしいことはつかんだ、、ところが教えられたところはそれこそ小さなバス会社が十いくつも窓口を構えている小さなターミナルで、そこにはカハマルカへ行くバスを出しているところが数社あって、しかもバス会社によって値段が違っていた、、あとでわかったことだが、ペルーのバスは会社によってだけではなく座席等によっても値段がバラバラで、さまざまなバリエーションがあった、、たとえば座席のつくりの違い、最も贅沢な背もたれが180゜フラットになる夜行バス型か、普通のリクライニングシートかの違い、2階建てバスも多く運行していて1Fと2Fの違い、食事つきかなしか、直行か各停かといった選択が可能だったのだが、それがまた会社によっても違うといった有様で、ターミナルが一ヶ所ならまだしもそこで比べようがあったのだけれど、それがまたまたバラバラにあるものだから、まさに客の立場に立ったシステムでないことがわかる、、ましてや言葉のハンデがあるわれわれのようなツーリストにはなおさらであった、、で、値段と時間を検討して安いほうでいくことにしたが、何社か聞いて判ったことはカハマルカへ行くバスは昼間の便はなく夜行バスしかないということだった、、それはチクラヨではホテルを探さなくていいということを意味した、、が、そのときはまだ9時半頃だったから、それから12時間どうすればいいのかという問題が残ることになった、、全く何の考えもないまま、まず荷物を取りに戻り、そこで両替できるところを聞くと、そこのお兄さんがやってくれるというのでレートもわからないまま少しばかり替える(後で聞いたレートよりだいぶ悪かったが、それは承知、荷物を預かってもらっていたのでチップのつもりだった)、、そして荷物をひきとって先の小さなターミナルに引き返し、ticketを購入するとともに夜まで荷物を預かってくれるように頼み、空身になって方角だけ聞いてあったパルケセントラルに向かった、、

 その日は日曜だった、、チクラヨのパルケセントラル付近はお祭り騒ぎで何かのパレードがおこなわれていた、、わたしはツーリストインフォメーションを探していたのだが、それは意外にも、意外な形のものがすぐに見つかった、、というのは、それまでエクアドルでもコロンビアでもツーリストインフォメーションといえばパルケセントラルの役場の一画や空港にあったオフィシャルのものを指したが、ここでは街のそこそこにブースを構えたプライベイトな形で、それでもあたかもオフィシャルであるかのように同じ制服を着た職員風ないでたちの人を何人もみかることになった、、で、最初に見つけたそのⓘマークの入ったインフォメーションスタンドで地図はないかと聞くと、地図はないがどこへいきたいのかと聞いてきた、、よほど順序が逆だろといってやりたかったが(どこへ行けばいいかを知るために地図を必要としたのだから)、どこか面白そうなところを探しているというと、その日のディリーツアーをいくつか紹介してきた、、最初は聞く耳を持たぬ振りをしていたが、よくよく聞いているとそれもいいかなと思えてきた、、まず、その値段がそれほど高くなかったことだった、、そのパルケセントラル近くには両替屋もあって、そこではだいたい100ドルが278~280soles(sol;ペルーの通貨単位、1ソル=36円くらい?)だった、、最初はまだ両替率がよくわからずその一日ツアーが40ソルといわれたとき、それが安いのか高いのかわからなかったのだが、10時~18時といっていたから8時間くらい、なんでも郊外の遺跡を回るという、時間潰しにはもってこいではないか、40ソルは1400円くらいだ、それなら高くないかもしれないと思えてきたのだ、、そこは確かに安かった、、即答を避けて少しぶらついて他の同じような構えのインフォメーションスタンドで、同じようなツアーを尋ねてみると50~60ソルといわれたから、すぐに最初のところに戻り40ソル払った、、どうやらそれはミニバスで回ってくれるらしく、パルケセントラルの一画にあった集合場所に案内してくれた、、しばらく待っていると定員になったのかミニバスがやってきて、その辺で待っていた地元の人たちと一緒に乗り込み、予定より30分ほど遅れてSipan,Sicán遺跡巡りツアーは出発した、、

 恥ずかしい話、そのときまでそのシパン遺跡、シカン遺跡については何も知らず、それがどれほどアンデス文明の歴史の中で重要で、貴重で価値の高いものだということを、そして見ごたえのあるものだということを知らなかったから、正直いってそのツアーに時間潰し以上のことは期待していなかった、、だから最初に寄った博物館Museo Nacinal Sicánで入館料(8ソル)が別途かかることを知って、どうしようかと迷ったほどであった、、添乗の女性が一生懸命説明してくれたがほとんどは理解できずに、ただ陳列物を見て回るだけ、でも、そこはただ事ではないということがだんだんわかったきた、、しきりに日本人の学者の名前がでてきて、そのとき初めてここが南イリノイ大学島田泉教授によって発掘された遺跡であったことを知ったのであった、、しかし、その遺跡の歴史的背景、考古学的位置づけ等の詳しいことは今もってわたしはよくわかっていない、、続いていった、これは野外のピラミッド群のあるTucme Valle(Museo de Sitio Túcume)も、最後に寄ったMuseo Tumbas Reales Señor de Sipanも同じことで、素晴らしい遺物・展示の貴重であることはわかったし見ごたえも十分あったが、その真価については猫に小判であった、、後付(帰ってから)で得た知識で多少理解できたことは以下のようなことであった、、まず、似たような名前のシカンとシパンであるが、まったく別のものでその関連はなかったらしいこと、、時代はシパンが先でAD1~8世紀のモチェ文化期のもので、シパンの王墓はエジプトのツタンカーメンに比する発見だったらしいこと、シカン遺跡はモチェ文化のあとAD8~14世紀に興ったシカン文化期のもので、いずれにしろこの地は文化発生の地理的要因(モチェ川河川流域)・条件を備えていた地域だったらしいということくらいで、それでもこの二つ遺跡(文化)は、そのほかに数多勃興したペルー各地の先進文化と並んでインカ帝国以前、膨大なプレインカ時代に築かれた高地アンデス文明のひとつであった、ということくらいだった、、

チクラヨパルケセントラル(正面カテドラル)ではこの日パレードが行われていた068_640x427

Museo Nacional Sicánと展示;4枚070_640x427076_640x427 074_640x427 080_640x427 082_640x427

野外のTúcume遺跡群;3枚(小山、発掘現場はピラミッド跡?)086_640x427 088_640x427 090_640x427

(そのあとにいったMuseo Tumbas Reales de Sipan シパン王墓博物館は撮影禁止だったため写真はありません)

 わたし以外はすべてペルー人ツアー客だった(大型ワゴン車だったからトータルで15人くらい?)、、特に若いカップルが多かった、、一般のペルー人にとってもたいへん興味深い史跡であることがよくわかった、、そのとき一人の男性と知りあう、、それは最後のMuseoに行く前に寄った地元のレストランで、単身参加者がそのペルー人中年男性とわたしだけだったので相席となった、、拙いスペイン語ながら多少会話を交わす、、それでわかったことは彼はプカルパPucallpaから単身赴任でこの地にやってきた技術者で、偶々日曜で暇だったからこのツアーに参加したらしいということだった、、もちろんわたしも自分のことを話せるかぎり話したと思う、、そして彼はそのレストランで注文のときなどいろいろわたしを助けてくれたのだが、わたしは彼のいった言葉の一つに驚いていた、、彼はプカルパの人だといった、、その場所は普通の日本人は誰も知らないところと、たぶん彼は思っていたと思うが、実にそこが今回のわたしの旅の目的地のひとつだったからである、、こういうのを偶然というのかわたしは早速いくつかの問題を尋ねてみた、、そのひとつがプカルパまでの行き方だった、、リマからバスがあるのはわかっていた、、問題はワラスHuarazからバスで行けるか?、それがわたしにとって空白で、ま、それは現地にいけばわかるとは思っていたが、これほどタイミングのよい情報源はなかったのであった、、たぶんいける、ワヌコHuanucoまでのバスがあるはず、ワヌコまで出られれば、そこからはバスがたくさんあるということだった、、後々それは貴重な情報となった、、

 夜行バスできて、そのまま予備知識もない、ガイド付きでも言葉もわからない、といったハードな一日ツアーは、それでも有意義な暇つぶしであった、、18時半ころチクラヨパルケセントラルの集合場所で解散になった、、そのあと少しその公園のベンチで休んでからチクラヨの繁華街をぶらついてみた、、やはりエクアドルとはだいぷ雰囲気が違っていた、、それはそうだ、前日までのエクアドルは山岳・高原地帯だったのが、ここは海岸・砂漠地帯である、、暑いところであった、、それに街自体がもう大都会といった感じで、ある意味面白さはなかった、、ペルー人の気質もエクアドル人とはまた少し違うようにも思えた、、物価はエクアドルよりやはり高めか?、、そうやって街ブラしながらだんだんペルーの風に馴染んでいった、、

 カハマルカはどうしてもいってみたかったところではなかったが、振り返ってみればなかなかいいところだった、、というより、個人的な好みとしてペルーもインディヘナが多い山地、高原地帯のほうが人々の印象がよかった?好感がもてたということである、、わたしが乗った夜行バスはどうも朝方の3時か4時にはカハマルカに着いてしまったようだった、、ようだったというのは、おそらく二日続きの夜行バスですぐに寝込んでしまったわたしは、他の乗客ととも6時頃までそのバスの中で寝ていたからであった、、逆にいうとバスは終点に着いたが寝ている乗客を無理に起こさず、2~3時間寝かせておいてくれたということのようだった、、なかなかありがたき計らいであった、、で、着いたところも数社のバス会社が入っている小さなターミナルだったが狭くてごちゃごちゃしていた、、荷物を取ってその人ごみから抜けだし今日こそどこかの宿で眠ろうと、寝ぼけ眼をこすりながら宿探しを始めた、、歩き始めてわかったことは、ホテルはすぐに目に入らなかったが、その付近は何社かのバス会社が固まっていたことだった、、ここは一泊のつもりでいたので、それならやはり近くに宿があれば一番いいのだが、と改めて見回すと、その界隈の端に一軒の立派なホテルが目に止まる、、どうも他はなさそうだったのでとりあえずいって交渉してみた、、そのときはまだペルーのホテルの相場がわかっていないからそれが高いのか安いのかわからなかったが、若いお兄さんがいて一泊35ソルといった、、バス・トイレ・WiFi付だったから約12ドルはそれほど高くはないかもしれないと思えた、、しかも造りはこのあたりでは最も高い5~6階建てで、いってみればビジネスホテルといった感じだった、、他のホテルが見えてなかったからそこに決めてしまう、、あとで街ブラしたときに反対方向にもう少し安そうな宿を見つけるが、いくらかは聞かなかった、、

 偶々だったが、その日この界隈はインディヘナの朝市でごった返していた(後で聞いてわかったのだけれど、それは週一の朝市で次の日はなかったから、これもタイミングがよかったようだ)、、ホテルを探していたときは(6時台)まだ店作りの最中だったが、1時間後に街ブラにでたときはもう売り手と買い手で取引が始まっていた、、主に野菜等の青果が中心だったが、売り手と買い手との交渉といったのは小動物の取引だった、、これは直接当事者が現物を見せながら交渉していて、その動物はもっともポピュラーなポヨ<Pollo;鶏>、他はウサギ、クィー<Cui?モルモットのような小動物 >等々で、そこでは豚は目にしなかった、、というのもグアテマラでは豚やもっと大型動物もこのように取引されていたからだったが、もしかしたらもう一本裏手の道がその場であったかもしれなかった、、青果の商いもかなり活気があり、また食べ物屋の露店も多くでていた、、その中でソラマメを見つけ、うまそうだったのでそれを買って(0.5ソル)食べながら教えられたパルケセントラルの方向に歩きだした、、たぶん乗り合いのコレクティボがあったかもしれないが、よくわからず歩くしかなかった、、いや多少遠くとも歩くつもりだったが30分はかかったと思う、、けっこう遠かったのだ、、しかしその間に凄い発見をする、、このカハマルカはわたしが気に入る街の条件としていた項目のひとつが近かった、、信号のない街というのがそのひとつだったが、ここには信号があった、、しかしその数5ヶ所に満たないくらい少なく、その意味では合格点に近かった、、問題はそのあとである、、信号はないが今や交通量が多い、で信号のない角々でそれを捌いているのが交通ポリスだった、、その警笛のうるさいこと ! !、、が、よく見るとそれはみんな女性だった、、更にハッとさせられる、、みんな美人! !、、どうみても意図的に美人しか採用していないとしか思えないほど揃いも揃っていたのである ! !(それで事故や渋滞、トラブルが減るとしたらこれはかなり高度な戦術である ! !)、、それに気づいて今度はわたしが意図的にその彼女達をネライだした、、もちろん写真でだが、こういうのは正面から堂々と撮るわけにいかず、やはりいいショットは撮れなかったのだが‥、、いや、しかしこの発見はわたしを嬉しくさせ街ブラを楽しくさせた、、この街の印象をよくさせたのであった(嘘だと思うならいってごらんなさい、とまでいいたかったのだけれど、実は後日談があった、、そんな美人交通婦警は他の街でも目撃することになったのである、、それで思い至ったことがあった、、もしかしたらあの制服と深めにかぶったヘルメットもしくは帽子、そして丸く結って後ろで留めてる髪型、それらが女性を美しく見せるのではないか?というクエスチョンだった、、が、その信憑性も闇の中である‥??)、、

朝市の様子;4枚と小動物の取引;5枚093_640x427097_640x427099_427x640108_640x427

101_640x427105_427x640110_640x427096_640x427095_640x427(左は南米にしかいないクィー<cui?>;テンジクネズミ=モルモットの仲間)

交通婦警を隠し撮り;4枚114_640x427118_640x427145_640x427
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 ともあれカハマルカは時々雨に降られたが、山間の、が故に気候温暖で気持ちのよいところで、インディヘナ、そして美人の多いところとしてわたしのお気に入りの街となったが、それは街の適切な規模・大きさという点でも、わたしの好む街の条件に適っていたのだった、、つまり主だったところは2~3時間で歩いて回れてしまうというのがよかった、、パルケセントラルまで行き、カテドラルやサンフランシスコ教会の写真を撮り、さてあとはどこか?Cuarto del Rescate<囚われの部屋?>インカの最後の皇帝アタワルパがピサロに囚われて軟禁されていた部屋というのがこのカハマルカの目玉であった、、が、その場所がわからない、地図がないのでまずはインフォメーションだったが、その場所もわからない、、で、ここでも巡回中のツーリストポリスに聞いてみると、何とそれは警察署内にあるとのことだった、、それはパルケセントラル(中央公園、Plaza de Armas;ペルーのパルケセントラルはたいていプラザデアルマスという名がつけられいた、、またここの広場は大きかった)に面したカテドラルの対面の端にあって、そこで地図をもらえたが、Cuarto del Rescateの場所を聞くと、何とこれもその警察署の裏手にあったのである、、ところがその日はあいにく月曜で休館日、中は見られないとのことだった、、‥どういうこと‥??、、そのため、その部屋を一目見に、そこの一枚の写真を撮るためにここまできたのではなかったか‥?、、とりあえずその場にいってみた、、そこは何度か通り過ぎたところだったが、まったくそれとはわからないほど小さな扉がひとつあって、そのときは中とその入り口は清掃中で、もちろん中には入れないし覗くこともできなかった、、その作業員に明日何時に開くのか聞いてみると8時か9時?、はっきりは知らないとのことだった、、いずれにしろここは明日一番でもう一回来るしかないことを了解した、、それでも、まだ半日あったので、あとはその警察署の脇から坂になっていてCerro Santo Apoloniaという丘の上まで階段が設えてあった、、オノボリサンとしては登らないわけにはいかなかった、、そこからは市内が一望でき、その階段の途中には観光客用のみやげ物ショップのマーケットがあったりして、この界隈はその建物自体が歴史を感じさせる観光スポットになっているようだった、、降りて1ブロックいったところにはベレン教会と付設の美術館 Igresia y Museo de Belen があったが、Museoはやはりその日休館日であった、、その脇に小さな公園Plazuela Belen があって、そこで休んでいると人だかりしている店があってセビチェCevicheありますの看板が目についた、、さすがペルー、こんなところでセビチェが食べれるとは!?とその行列のできるセビチェ屋さんの列に並んだ、、そこのセビチェはプラスチックのカップに入って1.5ソル(50円くらい?)、ここでは手軽に食べるファーストフードとして近くの学生たちに人気だったようだ、、わたしもそのころはたいていパンを買ってもっていたから(小さめのが4個で0.5ソル)手ごろな昼食になったのであった、、そうやってパルケセントラル付近を一通り見て、もう一回明日Cuarto de Rescateにきてみることにして、ビールやロン、ピーナッツなどの買い物をし、婦警さんをネライながらホテルに戻った、、途中で雨が降ってきたので午後は部屋でまどろんでいた、、夕方雨が止んだのを見計らって、まずバス会社に出向いて明日のトルヒーヨTrujillo行きのバス情報を聞いて回る、、トルヒーヨへ行くバスは何社かあったが、その中で時間帯もよく値段も安いバス会社に決める、、10時半発のバスがあったからだった、、そしてここでも屋台料理のうまそうなのがたくさんあって、串し刺しの肉(アンティクーチョ)とかポテトとかが、それぞれ露店は違ったがたいてい0.5~1.0ソルだったので、それらをtake out して部屋での夕食となった、、わたしが部屋食を好んだのにはひとつ理由があった、、それはここだけではなく中南米のどこでもほとんどそうだったのだが、安食堂ではアルコールが置いてないところが多かったからで、それはひとつにはルール(法的規制?)によるものと思われたが、そもそもアルコールは食事と一緒飲まないという習慣があったからではないかと思われた、、わたしは食事と一緒にビールを飲みたいたちだったから、時には自ら持ち込んで隠れて、それを押し通したこともあったが、それならどれだけtake out して部屋食にしたほうが安上がりで気楽に食事ができたか知れなかった、、なので部屋食は確実に増えていたのだった、、そしてそこはWiFiが繋がったので酒を飲みながらmail等のチェックができ夜の時間は過ぎていった、、あくる朝、早めにチェックアウトし、時間はたっぷりあったからまた歩いてパルケセントセルへ、8時には十分間にあったが、Cuarto del Rescateが実際に開いたのは9時だった、、その間しばし隣のカフェで暇を潰すことになった、、その日の一番客となったわたしは入場料5ソルのところシニア料金3ソルで入ることができ、ほんの一区画が残されているだけのその場を確認し写真をとっても5分もかかることがなかった、、バスの時間があったので、すぐにまた歩いて戻るが、ま、それでも10時半のバスを30分くらい待つこととなった、、そのバスのシートは初めて乗る2Fの一番前の席、つまりもっとも展望の利く特等席であった、、しかもカハマルカ→トルヒーヨはチクラヨ→カハマルカより距離が長かったにもかかわらず料金は同じ20ソル(700円くらい?)であった、、

Cajamarca、パルケセントラルPlaza de Armasとカテドラル140_640x427

その対面にサンフランシスコ教会Igresia SanFrancisco139_640x427

サンフランシスコ教会脇(上の写真でいうと右手)の通りにCuarto del Rescateはあったが、休館日で清掃中だった、、131_640x427

Cuarto del Rescateの裏手133_640x427

Cerro Santa Apoloniaサンタアポロニアの丘から;2枚、中央にPlaza de Armasが見えている122_640x427126_427x640

丘を下るとAv.Silva Santisteban通りは時代を感じさせる建物が並ぶ142_640x427

Plazuera Belén ベレン公園の行列のできるセビチェ屋さん;2枚とこの公園でパンとセビチェ(プラスティックの容器に入っている)で食事134_640x427135_640x427129_640x427

Cuarto del Rescate;3枚146_640x427150_640x427147_640x427