独歩の独り世界・旅世界

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2014の旅 21 , ウカヤリRio Ucayali コンタマナContamana/Amazon、そしてリマ Limaへ

 その報告書にあった40年前のコンタマナContamanaについての記述も紹介しておこうと思う、、こんな内容のものだった、、『 5,13<前回の引用箇所の二日前> - 中略 - 8時30分、コンタマナ着。人口7,000~8,000とのこと。大通りは舗装こそしてないが、中央帯は花壇で仕切られていて街灯も並んでいる。乗用車はないが、トラック、バイク、ブルドーザーが目立つ。ジュート麻、材木などがここの産業であるらしい。ここは野菜も豊富だ。ガソリンも安くなり200リットルで600~700ソーレスだ。』

 当時からプカルパ下流にあって最初の大きな街であったようだが、船外付きボートでもコンタマナ~プカルパ間は2日(途中2泊)かかったことがわかる、、いつごろから導入されたか知らないが、大型のエンジンを搭載した高速艇はその間を7~8時間で結ぶという、時代の推移を感じないわけにはいかない‥、、その日はあいにくの天気だった、、それでも夕方までは何とか降られずにすんだ、、その朝目覚めは早く5時には起きて6時にはバックパックを明日の夕方まで預かってくれないかと頼んでホテルをでた、、通りにでるともうその時間には、屋台の朝飯屋?さんがでていて、もちろんコーヒーなんかはなく、名前は記憶にないがどこにでもあった飲み物(メキシコやグアテマラで飲んでいたアトゥルと同じようなもの?とうもろこし飲料?)とパンをもらって1.5ソルで立ち食い朝食(これは庶民の一般的スタイルだったと思う、わたしもカハマルカやワラスで、この朝食をとっていた)、そして船着場に向かった、、

 6時半には船着場に着いてしまったが、どれがコンタマナ行きの船かわからず、その界隈には人も集まっていたが乗船はできずにいた、、やっと乗船できたのは7時半頃、そして出航したのはその1時間後だった、、細く長い船(ボートといったほうが近いか?)は3人掛けの座席がしつらえてあって、20列くらいあったか?、で、ほとんど満席だったから少なくとも4~50人の乗客だったと思う、、ま、その乗客の集まり具合、そのころあいを見ての出発だったように思われたが、それでも確かに早い船で、40年以上前から使われていて今も現役で活躍するペケペケという小さなエンジンを積んだ船の速度に比べると、ま、原動機つき自転車と車くらいの差といったところか?たちまちプカルパの街は見えなくなってしまった、、すぐに川幅は海原のような広さになった、、流れもつかめないので素人では方向が全くわからない、、まして目印になるようなものは全くなく、どちらを向いても同じような形状のセルバが続くばかり、、この日は陽もでてなかったから、どうやって進路がわかるのか不思議だった、、それでも船首には見張りが立ち水路を先導していた、、これは主に流木チェックのためと思われたが、この広い本流から近道になるcaño(水路?自然につくられたものか人工的なものか不明)に入るためには欠かせない役割を担っているようだった、、わたしは昔アマゾンを下ったことがあると前回記したが、もう当時の記憶はほとんど消失していた、、が、この川幅の広さやうっそうと茂るジャングル、いくら走っても変わらない風景などに驚かされることはなかった、、ま、驚いたことがあるとすればこんなに速いボートが定期便で毎日運行されていることや外洋で見かけるフェリーほどの大きさの貨物船が航行していることのほうだった、、途中村々に寄っていったが、ほとんどの村にはすでに電気は引かれていた、、40年前にはまだ存在していた原始的な生活を余儀なくされていた一部のインディオたちは(わたしの友人達は当時その調査もしており、実際にそういう人たちに出会っていた)は今どうなっているのだろうか?まだ存在するのだろうか?今も昔と同じ生活を続けているのだろうか?‥、、つまりこのウカヤリは(昔から)この地域の大動脈になっていたから、少なくともその周辺・流域に住む人々は今はもう十分文明化してしまっているということであった、、貨幣経済に組み込まれたエリアといってもよかった、、もう、昔われわれが探し求めていた原始的桃源郷?というようなものはもはや存在しない時代になっていたようだった、、ま、当然といえば当然のことで、それが時代の趨勢というものだった、、そんなノスタルジックな想いに浸りながら、勢いよく進むボートの客となっていたのだが、そのボートの他の客はといえばすべて地元の人(ベルー人)で、商用か個人的用事でコンタマナあるいはオレヤナOrellanaや途中の村々に行く人帰る人だった、、その人々はあるいはその昔それぞれ独自の民族衣装を身につけた人々だったかもしれないが、今や身なりからそれを判断することは難しくなっていた(例の報告書によればこの辺りはコニボConiboシピボShipiboといった部族の居住エリアだったはずだが‥??)、、1時間と15分くらい進んだところで少し細い水路に入り、間もなく左手に村が現れた、、そこにいったん接岸して、すぐにまた本流に出、いくつかの村を経由し、時にはまた水路をいき11時半頃大きな村に着く、、そこでは乗客のほとんどが下船し、水に浸かった船着場の建物内で食事したり、あるいはそこで弁当を求めたりしていた、、そこがどこなのかどのくらい停船するのか情報が一切なかったから(適当な人がいなくて聞かなかった)、わたしはじっとして船が動きだすのを待っていた、、それがバスとの違いともいえた(簡単に乗り降りができなかったということ)、、そのとき実はけっこう詳しいウカヤリ県の地図を持っていたのだけれど、水路も村もまったく照合できなくて結局その地がどこかはわからなかった、、20分くらいでそこを離れたが、他に停まったところは、いずれも客の乗り降りが済むとすぐに桟橋を離れた、、そうやって何ヶ所くらい寄っただろうか?いまひとつわからなかったのは、乗客は降りる際はその旨告げればいいのだけれど、岸にいて乗りたいという表示をどうするのか?ということだった、、たぶんそれがない限りはすべて素通りしていたようだった‥、、ともあれ15時半、右手の丘陵に建物が見え始め15時45分コンタマナに着いた、、7時間の船旅はけっこうなlong wayであった、、その間風景はほとんど変化しなかったにもかかわらず飽きなかった、、行き交う船(これは結構あった)をみているだけでも十分楽しめたのであった、、しかし決定的にイメージと異なっていたことは、その報告書にあったプラヤを目にすることができなかったことだった、、そのときは増水期で、いくつか寄った村でも水没寸前といった状態だったから、時期によってこうも違うのかということがわかっただけだった、、そのためか、あわよくばと思っていた水鳥や野生動物に出くわすことがなかったのはちょっと残念だった‥、、

<もちろん今回もカメラは治ったわけではなかった、、何とか見られるものだけ以下に、、>朝の船着場、2枚目のロングボートが高速艇048_640x427050_640x427

出航してすぐ;2枚、1枚目に大型船が見えている、この写真では右がプカルパだが、2枚目は進行左がプカルパ052_640x427055_640x427

1時間15分くらい海のように広い川面をいき、水路に入った059_640x427

水路に入って左手に最初の村が出現060_640x427

3時間くらい走って、一番長く停船した村;3枚、あとでこの地を報告書と地図を照らして調べてみたが、もしかしたらTiruntanというところだったかもしれない??065_640x427雨期で増水していたため、水没寸前だった109_640x427船の先頭を建物横につけて窓から出入り?111_640x427


その他に寄った村;4枚、2枚目に写ってる女の子も現代風な服装をしているけど、もしかしたら昔からこの地に住むインディヘナだったかもしれない、なお、村は奥にあり、、
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マデレロ(maderero;樵?木材関係の仕事をしている人たち、あるいは広くセルバで働く人たち、といった意味)の仕事現場?101_640x427

コンタマナが右手に見えてくる;2枚077_640x427079_640x427



 プカルパもコンタマナも桟橋がなく、直接岸に接岸だったので、乗り降りは脚立を使ったりでけっこう危うかったが何とか下船、、たしかにプカルパ以降ここは最初の街らしい街で、商店が並ぶ通りが川沿いに走っていて車の往来があった、、それほど大きくないことはわかったが、どこにどんなホテルがあるかもわからず、ひとり知らない土地に放り出されたかっこうになった、、もちろん観光案内所があるわけでなく、船会社も関係先の事務所があるわけでもなかった、、誰に、どこに聞けばいいかもわからなかったが、ふと見ると、警官の制服を着た若者が交通整理をしていた、、ま、オフィシャルといえばオフィシャル、役人なのだから情報はあるかも?と思って聞いてみた、、宿はこの辺にあるか?それと明日またこの船でプカルパに戻るつもりだが、どこにオフィスがあるのか?と‥、、その若い警官はとても親切で、2箇所の安宿と船会社のオフィスはないがticketを扱っている店があることを教えてくれた、、早速聞いたばかりの、そこから1~2分のところにあった1Fが薬屋兼ticket販売所、2Fがホテル?になってるところにいってみた、、そこは、ま、これ以上簡素にしようがないほど、ただベッドがひとつあるだけの部屋しかなく一泊7ソル(250円)、まさに木賃宿という名称がぴったりの宿だったが一泊だけだったからOKした、、荷物はほとんどなかったけど、いらないものは置いて街ブラ?どんなところか偵察に出かけた‥、、

 コンタマナは、そういう意味では陸の孤島といえた、、つまり外部とは陸路では繋がっていなかったのだ、、アマゾン流域の大きな街、例えばいったことはなかったが有名なイキトスでも未だ陸路でのアクセスが不可能だったように、最近では大アマゾン横断道路(Trans Amazonica)も延長距離を伸ばしているが、ほとんどの内陸の街や村は、昔から世界との連絡通路としては水路(河)しか道は開かれていなかったのだ(今は空路で通じているところも多くなっているが)、、というより、いい方が逆で、それらの街、村はその水路によって開かれた(人々が住みついた)街、村といったほうが正確だった、、ただ、わたしの知りえた限りでは、今ではこのコンタマナはかなり奥まで道が通じていたから、今後もここを拠点としてどんどん奥へ道が延びていくことは十分考えられた、、ことほど左様に、冒頭で紹介したようにすでに40年前に『乗用車はないが、トラック、バイク、ブルドーザーが目立っ』たくらいだから、今ではもちろん乗用車も含めて、多くの車の通行があったし、港近くには交通整理のお巡りさんがいて、街の中心部には少なくとも2ヶ所信号機があったこと、そして舗装された道路は今も『中央帯は花壇で仕切られてい』たことなどが、それを証明しているようだった、、それでもその通行量はたいしたことはなく、街の規模も公園があってカテドラルがその前に立っていたが、どこが中心かよくわからないといった感じで、ある意味とってものん
びりしたところだった、、それでもこの街はけっこう産業があって、農産物等が豊富だったからか、経済的にはけっこう潤っている風で、それはウカヤリ川に沿って立派なプロムナードができていて、夕方から夜にかけては地元の人がけっこう集っているのをみて感じたことだった(次の日に乗った帰りのボートもほとんど満席だったから人の行き来が盛んということもその傍証といえた)、、しかしアマゾンの日没を見るにはそのプロムナードより更にうってつけのところがあった、、川沿いに沿って伸びる街の背後は丘になっていて登っていくと公園があった、、Mirador<展望台>とうたわれていたかどうかは忘れたが、近所の子供たちが遊んでいるだけで、誰もいないその場所からはウカヤリの眺めがよかっただけでなく、ずっと下流方向左岸セルバの奥に沈む夕日を拝するには絶好のポイントで、ツーリストにとっては目ぼしいものの何もないコンタマナの唯一目玉といえる場所ではないかとそのとき思った、、が、悔しいかな、その日の太陽は雲に隠れたままだった、、


コンタマナの船着場
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パルケセントラルとカテドラル?081_640x427

果たして中央分離帯があった、と書かれていたのはここのことだったのか?ただしここには花壇はなかった、、別の場所だったかもしれないが、ここは港前の大通り082_640x427

ウカヤリ;3枚、2枚目は上流方向、他は下流方向086_640x427085_640x427088_640x427

川から見た街の感じ、1枚目;船着場付近、2枚目;少し上流のフェリー桟橋とその背後が公園のあった丘
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 そのうち雨が降ってきていったん宿に戻る、、そこには何人か宿泊者がテレビのサッカーを観ていた、、もちろん現地の人ばかりだったが、ちょっと得体の知れない、商人なのか、出稼ぎなのか、単身赴任なのか、ま、それもわたしのスペイン語のレベルでは聞き取れなかっただけなのだが、もちろん旅人ではないのは確かだったが、素性はよくわからなかった、、それでもそのうちの一人が親切に、奥地に何か面白そうなところがあるという話やセビチェを食べさせるところがあるとか、いろいろ教えてくれた、、で、セビチェの話だけは乗って雨の中連れてってもらったが、あいにくその時間帯にはすでに終わっていた、、そのままわたしはその男と別れ、ひとりで夜の街を徘徊、例によってビールを探し、肉とポテトの屋台料理をtake outにしてもらって部屋食、、その部屋にはもちろんテレビもなにもなかったから食事を終えるともう寝るよりほかなかったのであった‥、、

 次の日1Fの薬屋でticketを購入し7時には港にいっていた、、帰りの船賃は90ソルだった、、やはり下るのと遡るのとでは燃料の消費が著しく違うからであろう、それは了解するしかなかった、、それよりも7:30に出るはずのボートはオリヤナからくるのだけれど、いっこうに姿を見せなかった、、ま、それはいつものことだったのかもしれないし、特に予定がなければどうということはなかったのだけれど、その夜のバスの時間のことを思うと、わたしにとっては気をもむ時間となった、、それも見越しての19:15のバスだったのだけれど、特にそのボートしか他に手段のない地にあっては気が気でなかったのだ、、昨日と同じ岡田ヘッド(頭の形が民主党の元委員長岡田氏にそっくり)の見張りの若者が乗ったボートはようやく8時に到着して出発は8:15になった、、45分遅れで出発したが、その日は前日より更に天気が悪く、1時間くらい走ったあたりから雨が本降りとなった、、雨除けのシートを降ろし、かつ徐行となった、、前日昼食時の停船となった大きな村まで、前日はそこからコンタマナまで4時間だったが、その日は5時間かかっていた、、ますますヤキモキしてくる、といってどうすることもできないから、その日は前日のように船旅を楽しむ余裕はなくなっていた、、途中で雨は上がったが、それでも上流に向かうのだからやはり時間はかかったのである、、15:00到着の予定が実際にプカルパに着いたのは17時半になっていた、、

<以下に今回のプカルパ~コンタマナ往復で行き交った船をまとめて掲載しておきます>

貨物船、商船?、フェリーの類;8枚061_640x427
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小型船3枚(それらに使われているmotor<エンジン>がペケペケ)104_640x427119_640x427080_640x427

以下4枚は固定された船?一枚目はなにやら監視船か作業船、それ以外はハウスポート?いずれもプカルパ近く、あるいはプカルパの対岸
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プカルパに近づく、この辺から給水塔が見えた123_640x427

プカルパの船着場;夕暮れ近い到着となった127_640x427


  いや、焦っていた、、当初は遅れたとしても1時間半くらいであろう、、それならたぶん軽く食事するくらいの時間はあるだろう、ということで、途中で寄った大きな村でこの日もみんなは昼食を調達していたが、わたしは食べずにいた、、が、その時間はもうなかった、、ホテルまでダッシュで戻り、昨日の朝預けたときの従業員はいなくてバッグを受け取るにも時間がかかり、けっこう濡れたり汚れたりしていた服を上から下まで着替えてパッキングを終らせ、それでも18時にはホテルを出ていた、、すぐに下でトゥクトゥクをつかまえ18時15分にはバス会社Transmarのターミナルに着いていた、、そこでまず荷物を預け食事はそれからと考えていた、、で、カウンターでticketを見せ荷物はどこに預けれはいいのか聞いてみると、驚くべき返事が返ってきた、、最初は耳を疑ったというか、聞き間違いかと思って何度も聞き返す、しかし何度聞いても答えは同じだった、、19時15分のバスは土砂崩れのため欠行になりました、、明日の13時に代替便がでます(これは臨時便でなく、その時刻発のバスに乗れますという意味だったことに後で気づく)‥、、それを繰り返すばかり、、で、わたしはどうしても今日のバスに乗って明日にはリマに着きたいのだ、ということを一生懸命伝え、それは相手には伝わったようだったが、彼女にもどうすることもできなかったのだ、、途方に暮れとりあえず仕方ないか、とその場を離れ、ではどうすればよいか思案してみた、、しかしどう計算しても明日の13時のバスでは明日中にリマまで着けないのはわかっていた、、‥ではどうする?今日の宿は?、、‥少なくとも何らかの補償、例えばその日の宿、あるいはそれに見合う補償があってもいいではないか?それがないのはおかしいではないか?いろんな想いがわいてくる、、しかし生半可の会話力ではそれをぶつけられない‥、、しかし考えれば考えるほど納得がいかなくなってもう一度詰め寄る、、そして日本でならやったであろう手を使ってみた、、即ち上司を出せ ! ってやつである、、この辺の問題となるとカウンターの女性と話していても埒があかないと思ったからであった、、ただし怒り心頭に発して、ではなかった、、やってきた男性に冷静に、まず自分はスペイン語はあまり話せないと断って、こういう事態になったが宿代くらい出したっていいのではないか、ということがいいたかったのだが、その前に前段として、わたしは明日までにリマに着かなければならないのだ、何故なら明後日の飛行機に乗らねばならないからだ(もちろんそれは詭弁だが)、と拙いスペイン語で話してみた、、そのあとで、だからどうしてくれるんだ!?、といいたかったのだ、、ところがそれに対する答えを聞いて唖然というか呆然というか‥!?、、彼はそうでしたか、それでは今からでる各駅(comarcal;スペイン語で地方・地域?、といったような気がする、二等バスあるいはローカルバスといったところか?)のバスに乗りなさい、というではないか‥!?、そう、それは二日前にその場で予約したときにどちらにするか迷って選ばなかったほうのバスであった、、‥??何故それをもっと早くいってくれなかったんだ、、最初にそのバスがあるがどうする?と聞いてくれなかったんだ‥?、とそのとき思ったが、それに対してどうのこうのいってる時間はなかった、、そのときすでに発車予定の6時半は過ぎていて、いつ出てしまってもおかしくない状態にあったからだ、、すぐ予約のticketを変更してもらって差額30ソルを返却してもらい、荷物をバスの腹(荷物室)に収めそのままバスに乗り込んだ、、わたしを待ってそのバスは発車したのであった、、

 走り出して、すぐにそのからくりに思い至った、、と同時に怒りもこみ上げてきた、、要するにこういうことだったと思う、、ただしあくまで想像だが‥、、これは意図的な、会社側の一方的理由による欠行に思えた、、つまり赤字便を出すくらいなら二つをまとめれば採算がとれるのではないか?という‥、、そのための理由として、崖崩れは実際わたしも来るときに遭遇していて、その頃頻発していたようだったから、もっとも納得させやすい理由だったと思う(しかし、それが事実であったなら、わたしが乗ったバスも出る筈がなかった)、、それには前にも書いたがペルーのバスシステムに問題があったように思う、、つまりあまりに過当競争が過ぎた、、供給過剰、それはわたしが遭遇した崖崩れ現場での動けなくなったバスの数珠つなぎ状態からも、また、ほとんどのバスがだいたい半分くらいの乗車率しかなかったことからも容易に想像できた、、ましてやプカルパ~リマ間のバスは、普通の会社は日に1,2本しか出してなかったのに、この会社の場合一日10本くらい運行していたのであった、、どう考えてもプカルパ~リマ間にそんなに利用者がいるわけがなかった、、わたしが怒りを覚えたのは、それならそれで何故この二等バスを最初に提案してくりなかったのか、ということだったが、それをやってしまえば欠行の理由が崩れてしまうのと、せっかくの一等バスの客を二等バスに回したくなかったのではないかと考えられた、、しかしわたしのかなり切迫した状態を見、また言葉が十分でないのがわかって(つまり勘ぐられたり、そのことを触れ回ったりしないということで)その上司は、わたしにこのバスをあてがってくれたのだと結論づけた、、それはありがたい処置だったのか?怒るべきことだったのか?、、それにしてもあと10分わたしの到着が遅かったら、この話も何もなかったことになって、わたしはまた同じホテルに戻って、リマ到着は一日遅れるということになってたかもしれなかったのである‥、、

 しかし、その後の結論としては、やはりわたしは怒っていた、、そういう意味ではわたしの最初の選択は正しかったのである、、実際プカルパ~リマ間は20時間かかった、、その間をこの二等?バスではきつすぎたのだ、、最大の問題はトイレだった、、わたしはそのためにどれだけの時間我慢をさせられることになったか(一度はドライバーに直訴することになった)!?、、次はシートの問題、、いくら二人掛けに一人だったといっても(そのバスも乗客はプカルパをでた時点では20人くらいだった)、二等バスの狭い座席ではほとんど眠ることができなかったのだ、、そしてデラックスバス(一等バス?)は食事と飲み物がついたはずであった、、その内容はともかくとして、結局わたしは丸30時間くらい(その日の朝から次の日の昼まで)ほとんど飲まず食わずということになってしまったのだから、30ソルの差はそれだけでも十分見合ったはずであった、、しかしこれは結果論でいってることだけど、何よりも悔しかったのは、わたしが最初に手にしていたticketは2Fフロントの展望席だったことである、、わたしはそのルート、プカルパ~リマ間の車窓を期待していたわけではなかったし、どんなところを通るのかも知らなかった、、もし、その過程(行程?)を知っていたら、もしかしたら次の日の便の一等デラックス2FフロントシートでOKしたかもしれないほど(しかしこれは比喩的にいってるのであって、もし実際に13時発のバスに乗ったとしたらそのあたりの通過は真夜中だったが)展望に素晴らしいものがあったのである、、特にセロデパスコCerro de Pascoあたりからリマまでの6~7時間はどれだけ2Fフロントシートのバスでなかったことを悔やんでいたことか!?このバス会社の陰謀を恨んでいたことか!?その辺りはワラスに負けず劣らずの景観 - Cerro de Pascoの広大な高原地帯、遠くには雪山が見え空が澄んでまことに気持ちのよいところ(もしかしたらReserva Nacional de Junínというところだったかもしれない) - だった、、そしてオロヤLa Oroyaからリマへの道は実に4度目となる5000mに近い峠越えの道であったのだ、、ということはその辺りも5000m級の雪山が聳えていたということで、思ってもいなかったその素晴らしさに目を見張らされていたのだった、、

Cerro de Pasco付近;3枚、遠くに雪山が見えている、また道沿いに鉄道が走っていた(3枚目)128_640x427130_640x427133_640x427

オロヤ付近で、朝食トイレ休憩、、ここまで2時間くらいトイレを我慢させられる;20時間乗った二等バス
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La Oroyaからリマへの最後の峠越え、雪山は5~6000m峰?;6枚(4枚目が峠?)
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5000m近い峠からリマ150mまで一気に下っていく、、およそ3h158_640x427

かなり下ると大気は砂混じりになって霞んできた162_640x427

リマの手前30km付近、山の麓の街Chosicaのパルケセントラル、ここからリマまで1hだった164_640x427



 ま、旅は(人生も?)巡り合わせである、、あれもこれも、すべてがうまくいくことは珍しい、、ともかく、そうやっていい景色が見られて、何とか予定通り(つまり崖崩れの箇所はなかったのだ)リマに着けたのだから、それでよしとするのが旅の道理だったかもしれない‥??、、