独歩の独り世界・旅世界

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デリー Delhi 2) 8/24~8/27

 それから8月の27日まで、わたしはデリーにいた、、その間なにをしていたかと、たいしたことはやっていない、、ほとんどだらだらしていたのだけれど、何もしてないということもありえない‥24日は二人の知人と会う段取りをとっていた、、一人とはそれ以前からお互いの都合を確認し25~27日の間デリーにいて、フリーであることを伝えていた、、もう一人とは逆に28日以降フリーになるので会えますかという、お伺いmailをその前日に入れたばかりだった、、そして前者とは26日に会うことに、後者からは偶々そのときインドにおらず日本にいるのでインドでの再会は無理との返事が送られてきていた、、

 そのホテルはバス・トイレ・エアコン・テレビつきで800Rs、ま、安宿だったがそれほどひどくはなかった、、ただ、ひとつだけ不便だったのは部屋でWiFiが繋がらなかったこと、、なのでわたしはほとんど1Fロビーにいることになった、、時にチャイまたはコーヒーを飲みながらPCチェック、mailの送受信で時間は過ぎていった、、それに飽きると、いつも雑然として喧騒かまびすしいホテル前の通りMain Bazaar Roadを流していた、、いつリキシャやバイクや人がぶつかってくるか知れないゴチャゴチャした通りは、その危険と埃っぽささえ我慢すれば、そぞろ歩きが楽しくなるようなところであった、、ピンからキリのホテル、レストラン・カフェ、みやげ物屋や両替屋、路上の物売り、洋品店靴屋・サンダル屋、雑貨屋・薬屋、本屋・CD屋、紅茶屋・タバコ屋、ちょっと入ると果物屋・八百屋、ありとあらゆる商品が並ぶデリーでも特に賑わいのある通りのひとつであった、、ニューデリー駅の駅前通りのひとつでもあったから、全国各地から上京してきたインド人、そして外国人旅行者のたまり場でもあったのだ、、その通りを一日何回か、毎日行ったりきたりしていた、、たいていは何かを買いにいく用事があったのだけれど、何の当ても目的もないときもあった、、そこではいろんな物売りから声がかかるのだが、そのときは初めて日本語で声をかけられ一枚のチラシを渡された、、そこには英語で‘indian classical music SARANGI  CONCERT 25/8/2013 15:00 Start , pass the hat style admission‥’と書かれていて、そのあとに日本語の説明があり場所の略図が載っていた、、それを配っていた彼はもちろん日本人で30代?の若者、よくいる旅崩れでインドにいついてしまった風でなく、なんか目的を持ってこの地に住んでいるような、こういういい方は失礼かもしれないが真面目そうな青年であった、、簡単な挨拶をして事情を少し聞いてみた、、彼がいうには、この通りから少し入ったところに日本レストランを何ヶ月か前から始めた、、自分は今は商売を始めたがずっとインドに住んでいたわけではない、それでも18年前からインドに通っていて、インドの大学を出ている、とのことでヒンドゥー語はペラペラ、インド通インドフリークには違いなかった、、そして店の宣伝とインドアート(伝統芸術)の紹介も兼ねてサランギコンサートを企画してみたとのことだった、、

ホテル前のMain Bazaar Rd.(別名Pahar Ganj)004_640x427

上の道と直角に交わるRajguru Rd.
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屋上からコンノート方面
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Sarangi Concertのチラシ
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 Sarangiとは、そのチラシには‘サランギは40本近い弦を持つ北インド擦弦楽器で、シタールやタブラといった楽器と比べると演奏者が少なく、インドでもめったに聞くことのでない楽器’とあつた、、もしそんな貴重なコンサートでなかったとしても、25日-つまり次の日だったが、まったく予定がなかったのだから好都合(good timing)というものであった、、必ずいくからと約束してだいたいの場所を教えてもらったが、明日の14:45にこの場に来てくれれば自分が案内するとのことだった、、その界隈には日本食を食べさせるレストラン・食堂も何軒かあった、、結局一度も行ってなかったが、次の日に日本食が食べられるかも知れないという期待も大きかった、、で、その夜は例によってその界隈の路上で仕入れたオムレツパン(正式な名称を知らない、このオムレツパンは去年もけっこう食べているのだけれど、屋台料理の優れもの、その特徴はオムレツパンというとパンでオムレツをはさむと想像されるかもしれないが実際はオムレツでパンをはさんでいる、、一個20Rsだったが、それだけでけっこう腹にたまる)とトマト(5個10Rs)とモモ(チベッタン料理の餃子?5個15Rs)それに缶ビールで夕食代は105Rsだった、、ちなみに前日のレストランではビールを頼んだので二人で700Rsを越えてしまったが、こうしてtake outして部屋食にするとビール(なんといってもこれが高い、500ml ;60Rs)を飲んでも100Rs(170円)くらいであがってしまう、、一人になったのでこんな生活が始まった、、ま、やっと自分らしくなった、ということでもあった、、

郵便局のあったRamdwara Rd.(Neuru Bazaar)の夜023_640x480

上記周辺をうろついて仕入れた夕食(オムレツパン;左、モモ;中とトマト)004_640x480

 こうして次の日25日は午前中洗濯と日本へ送る紅茶の買い物、そして午後に日本の若者がはじめたという日本食レストラン‘Kamalkakri’に出かけることが主な予定となった、、ホテルの部屋での洗濯は基本的にはNGなので、普通は街の洗濯屋に出すべきところ、ここはバスつきだったので風呂場で自分でやって倹約した、、なので問題は外に干せないので部屋干しとなったが、風通しが悪く乾くのに時間がかかりそうだったこと、ま、あと3日滞在を予定していたからできたことでもあった、、紅茶の件は前日に街ブラしていたときに冷やかしでよってみた紅茶の茶葉屋?さんで紅茶は郵送で送れること、ただしちょっと面倒なこと、送るとしたら郵便局が近くにある、といった情報をもらっていて、そのときはどうするか迷っていたので結局は買わずじまいだったが、その近くにあるという郵便局は探して、いくらくらいで送れるのかを聞いてみたのだった、、そのとき面白いことを教えてくれた、、その郵便局には局員ではなさそうな男が一人いた、、よくわからないまま局員に尋ねると彼はこういった、、まず送る紅茶の包みを持ってきなさい、、その重さで料金を調べる、、そしてそこにいる男に包んでもらいなさい、、彼がすべてやってくれる、、‥??どういうこと??、、インドにはいろんな商売があると以前聞いたことがあったが、これもそんな商売のひとつのようだった、、彼はパッキングマン(packer?包装屋さん)で送る品物の包装を請け負う人だった、、なんでそんな商売が成り立つのか不思議に思われる方もおられるかもしれないが、その包装とは布でくるむことを意味していた、、では、その包装代はいくらかとその男に聞いてみると、大きさによるが100~150Rsとのことだった、、そのときはまだ決めていなかったが、それを聞いて面白そうなので品物を仕入れて月曜に来るといってその場を去った、、その日本に送る紅茶を買いにその店にまたいってみたというわけだった、、そこではミルクティ用が100g ;50Rs、レモンティ用が100g ;100Rsくらいだったと思う(詳しくは控えていない)、、あわせて1kg近くを500Rs(少しまけてもらった)で仕入れる、、日曜は郵便局がしまっているので郵送は次の日となった、、

茶葉屋のとなりは八百屋だった、、帰ろうとしたとき雨が降り出し、3,40分も動けなくなった、、005_640x480

 14:45に約束の場所にいってみる、、ほかにも場所のわからない人がいるのかと思いきや、わたし一人だった、、連れてったくれた場所は去年ここでクリーニングを頼んだ洗濯屋のさらに奥で、初めての人には絶対行きつけないような迷路の奥の奥にあった、、マンションの1Fの一室をレストランに改装したそこは、何でも彼で2代目(彼の知り合いが初代のオーナーとのこと)で彼の相棒のKidoさん(同世代の日本人)との共同経営とのことであった、、すでに何人かの客とシャランギ奏者(彼も日本人)とその師匠?そしてその息子のtabla(indian drum)奏者とその友人-やはりシャランギを奏でるという少年がすでに待機していた、、

始まる前の会場(というか、ここがレストラン)、左から師匠のKhan氏、西沢氏、右が最初にわたしに声をかけてきたこのレストランのオーナー・タケシさん006_640x480

この少年たちは左が師匠の息子tabla奏者のAhmedクン15才とその友人?(名前不明)13才のシャランギ奏者、二人とも天才の誉れ高い、いずれ世界にその名が知れわたるかも‥
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 サランギ奏者は西沢信亮(Nishizawa Shinsuke)氏、彼も見たところこの店の日本人オーナーTaqueshi S氏と同世代か、もう少し若いか?30代前半とお見受けしたが、いずれにしろ日本人の青年だった、、経緯の説明もあったと思うがよく覚えてない、、が、そのとき同席していた彼の師匠Nabeel Khan(当代のサランギ奏者として第一人者らしい、その師が巨匠Ustad Sabri Klanとの説明あり)のもとで修業をつまれたとのこと、、ここではその音の再現はできないが、それは見事なものだった、、その音楽は中央アジアの西域の音色を思わせるような幻想的で、うっとりさせる、なんかアジアの音の原点を聞く想いだった、、伴奏の打楽器tablaは、若干まだ15才のNabeel Khan氏の息子Jawad Ahmed君が勤めたが、これも15才にしては抜群の技量でわれわれを圧倒させた(後半にもう一人の13才の天才少年がシャランギ奏者として加わる)、、いずれにしろこの演奏会は素晴らしかった、、観客は10人足らずの日本人(わたし以外はみんな若者)と一組の欧米人だけだったが、これは知る人ぞ知るといった価値あるコンサートであった、、なので御代はhat style admission(投げ銭ライブ)と書かれていたので随意ということだったけれど、わたしとしては破格の寄付をしてしまった、、久しぶりに充実した日曜の午後だったので‥、、

‥ということでそのときの写真と日本レストラン(彼らはbook cafeと称していた、、その名の通り日本の書籍が山ほど置いてあった)Kamalkakuriのアドレスを以下に載せておきます、、E-mail : Kamalkakri@gmail.com 、、facebook;BookCafe.Kamalkakri、、お問い合わせはmailで、インド情報はタケシさんが完璧に教えてくれると思います、、

シャランギ奏者、西沢信亮氏(無断で写真をアップロードしてしまいました、、スミマセン)013_480x640

後半が始まる前の休憩時間012_640x480


 実はそのときはコンサートということもあって飲み物としてコーヒーをもらっただけだったので、次の日わたしは友人のインド人Prakash氏をそこに連れて行くことにしていた、、一緒に日本食を食べようと思っていたのだった、、が、その前に郵便局の包装請負人パッカー氏?についての補足を‥、、

 わたしが泊まっていたホテルからMain Bazaarをニューデリー駅のほうに向かっていくとちょうど真ん中辺りから右にいくNehru Bazaarという大きな通りがあって、その道沿い右側に郵便局がある、、ホテルからだと5,6分のところだった、、何時からオープンするのか知らなかったが、いってみるとたった一人の局員が掃除(埃を払っていただけ)なんかしていた、、わたしが最初の客で荷物を送りたいというと、土曜日にいた局員はおらず、パッキングマン氏は今コンノート(Connaught Place)のオフィスにいるからそっちへ行けとつっけんどんに追い返されてしまった、、仕方なく場所を聞いてたったひと駅だと思って歩いてコンノートに向かった、、20分くらいでそこに着くと見覚えのある顔がいた、、さっそくものをみせていくらでやってくれると聞くと、少し大きいので150Rsといわれてしまった、、もっともそれが高いのか安いのかわからなかったが、彼に頼むより他に方法はなかった、、すぐさま彼は彼の仕事バックから七つ道具(針・糸・はさみ・各サイズの布・ガムテープ等)を出し、厚紙を探してきてそれで包みガムテープで止め、その上から端切れの布で包んで裁縫を始めた、、その手際のよさには見惚れるほどのものだった、、そのとき気づいたのだが、またしてもわたしはカメラを忘れていた、、彼はたぶんその模様を撮影することを拒むことはなかったと思う、、その貴重な仕事師の写真もものにできなかったのであった、、まったく隙間なく包みあがった布製の包みに直接アドレスを書けとサインペンまで渡してくれる用意周到さ、、で、出来上がった小包を窓口に持っていくと量りにかけ日本までの航空便876Rsをいい渡される、、それとPacker氏への支払いで、約1kgの輸送費は1000Rsかかったこととなる、、しかし実はそれでその荷物が日本に無事に届いたかどうかは不明なのだった、、ちょっとわけありで送り先がそれを確認できる相手ではなかったからである、、

 コンノートの郵便局からは地下鉄で戻る、、12時の待ち合わせには十分に間にあった、、今回再会を約していたインド人パルカシParkash氏とも奇妙な縁であった、、その出会いは一年前、北インドダラムサラの上にある街マクロードガンジの道ですれ違ったとき、たった5分挨拶とここで何しているのかと会話を交わしただけの間柄であった、、ただ、そのときmailのアドレスをお互い控えたのだけれど、これまで旅の出会いでアドレス交換した多くの旅人たちのなかで実際そのあとmailで連絡をとりあうのは稀であったから、やはり奇縁ということになるのであろう、、ちょうど同じくらいの年で、お互い年金生活者だったから、お互いの境遇に関心があったということかもしれなかった、、その後彼からはよくmailがはいっていた、、写真つきで今どこどこにいる、、といった簡単なものだったが、こちらがすぐに返信しないと、どうしたんだといって催促がきた、、そんなんで月一回くらいのペースでお互いの状況を伝えていた、、で、そのうちまたわたしがインドにいけることになったので、会えるものなら一度会おうということになって、日程と場所の調整をしていた、、それがこの日になったのだった、、

 ま、老人どうし再会したからといって特別話すこともなかった、、お互い元気ならそれでよかった、、ともかく一緒に飯でも食おうと、いい塩梅に日本食レストランを知った矢先だったのでわたしがそこに連れて行く、、店に客はいなかった、、前日食事できなかったので、メニュウをみせてもらい、たぶん日本食を食べたことがないのではと思って、その日の定食と冷やし中華を頼んでそれを両方食べてもらうことにした、、もちろんわたしは満足、、彼も満足してくれたようだった、、で、彼の生い立ちなんかをもう少し詳しく聞こうと思っていたのだが、わたしの英語力の問題(聞くのも話すのも上手くない)で、いざとなるとあんまり会話は成り立たなかったのだ、、そこで助けてくれたのがオーナーのタケシ氏だった、、彼はヒンズー語に不自由しなかったからパルカシ氏とのヒンズー語の会話で盛り上がってくれたので場がもったようなものだった、、ということで彼のおかげでパルカシ氏との再会はなんとかめでたく?果たすことができたのであった、、

 彼をニューデリー駅まで送り、そこで別れてそのままわたしは外国人予約センターに寄った、、ここは去年世話になったところだったので場所は覚えていた、、意外だったのはそのときは15時くらいだったが、待つことなく順番が回ってきたことだった、、この時間がすいていることがわかったのだ、、そして次の日のゴラクプールGorakpurまでの夜行寝台も難なく取れてしまった、、もし、もう一人の知人、即ち大学の先輩でインド・ジャイプールでまだ仕事に就いていたY氏がそのとき在留していたのなら、次の日ジャイプールへ向かうつもりだったのだが、あいにく氏は今日本にいるこという返事をもらっていたので、もうインドで特にいってみたいところはなくなっていた、、わたしはインドを発つことを決めていた、、ゴラクプールはネパールに陸路で向かう最も簡単なルートの途上の街であったのだ‥、、