独歩の独り世界・旅世界

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カトマンドゥ Kathmandu 1) 2013/9/3~9/5

  天気の見込みがたたなかったので、もうカトマンドゥKathmanduへいってしまおうと思ったのは二つの可能性に賭けてみたかったからであった、、ひとつは単純にカトマンドゥの天気はここよりましかもしれない、ということ、、もうひとつはモンスーンの影響を受けないチベットへのツアーでもあればそれもこの際一案かもしれないと思ってのことだった、、少なくともここネパールからのチベットツアーは日本からよりは安いのがあるのではないかと‥??

 その朝も雨だった、、だからというわけでなくホテルからバスターミナルへバスで行くには少し歩かなくてはならなかった、、タクシーでいくことを勧められたのでそうした、、それは正解だったようだ、、Pokhara~ Kathmandu間のバスは3タイプあった、、デラックスなバスとしてGreen LineとGolden Travels社が運行する昼食つきで1500Rs~が上クラス、、昼食はつかないがいくつかの私設バス会社が運行するPokhara~Kathmandu間ノンストップのバスだと6-700Rsくらい、あと公営のバスも走っていて、それは途中のバス停をすべて停車していくので時間はかかるがその分安く4-500Rsと聞いていた、、たぶんMadabu君から買ったticketは700Rsだつたから、昼食なしの直行バスだったと思われたが、それらはバイラワからのバスがついたところ、Torist Bus Parkからでるようで(Public Busは別のターミナルMain Bus Stationから)彼が呼んでくれたタクシーは黙っててもそこに運んでくれ、そしてわたしが乗るべきバスのそばまでいってくれたからであった、、それはまったく雨に濡れずにバスに乗れただけでなく、そうでなかったらその手の直行バスは十社くらいが運行していたから、どのバスがわたしが乗るべきバスかを探さなければならなかったからだ、、タクシーも使うべきときにはそれなりに利ありか?ずいぶんと助かったのであった(しかしタクシー代150Rsはやはり高すぎ‥)、、

 しかしポカラ~カトマンドゥ間も200km少々なのにやはり6-7時間もかかるというのはどう考えても異常である、、バイラワ~ポカラ間はかなり厳しい山道だったからまだ納得がいったけど、少なくともカトマンドゥ~ポカラはこの国の最も重要な幹線道路だったはずだ、、それに山間を走っているがそれほどのアップダウンはなかった、、道も35年前より格段に改善されていなければおかしい、、確か当時はまだ未舗装ではなかったか?それが当時とそれほど時間的に変わらなかったのはどういうことなのだろうか?ひとつだけ感心したことがあった、、それは途中で昼食休憩に寄ったドライブインが、ビュッフェ形式だったこと、けっこうメニュウが豊富だったこと、故に高くてわたしはまともに食事ができなかったのだけれど、けっこうネパール人はそれを利用しているのを見て、少しは彼らも豊かになってきたのかなぁ、と貧乏旅の惨めさを味わう、、が、その後がいけなかった、、カトマンドゥに入る手前に峠があってたぶん道路工事中で片側通行となっていた、、峠の下で動かなくなった渋滞は山の上まで連なっているのが見えていたが、そこを越えるのに3時間はかかった、、恐らくそれがなければ午後の3時ころにはカトマンズについていたと思う(それでも7時間だ)、なので朝7時半に出たバスは、たった200kmの距離を10時間もかかってしまったのだ、、そのバスは峠の渋滞を抜けたと思ったら今度はカトマンズの市内の自然渋滞にはまってまったく進まなくなってしまったのだった、、

 ところがそこに、3時間も遅れたのでまさかとは思っていたが、ポカラのMadabu君が紹介してくれたゲストハウスのオーナーが、わたしを待っていてくれたのである !!、、これはわたしを感激させた、、そんな人がいるんだ!?、、しかもそこはバスターミナルでもバススタンドでもなく渋滞激しい道路端であった、、ま、そこがPokharaからのバスの降車場だったのかもしれないが、そんなとこにいつ来るかもしれないバスを3時間も待っててくれた‥、、そこまでしてくれたのだから、多少高くともカトマンドゥにいる間は彼のホテルに滞在しようとそのとき決めたのであった、、そこから5分くらい歩いたところが、今やツーリストエリアとしてその名を(バンコクのカオサンと並んで)世界に轟かすタメルTamel地区であった、、その中心部に彼のホテルはあった、、

 その彼-Daya Ram氏は、たぶんポカラのMadabu君の友人とのことだったのでやはり若かった、、といってももちろん30は越えていて2歳のかわいい女の子が、その彼の奥さんとともにいつも彼のそばにいた、、Madabu君と同郷のBahuns(ネパール人は30を越す民族グループ・カーストが入り組んでいて、そのうちのひとつ、ネワールNewarsと並んで構成人口は多い)と思われた、、若いころからインド各地で働き、苦労してこのホテルを持つにいたった、というような話をしてくれた、、Madabu君とは違って律儀で勤勉な人柄はインド・ネパールにあっては珍しい存在だった、、彼は二人のお手伝いさんと奥さんとでこのホテルを切り盛りしていおり毎日よく働いていた、、その実直な口から案内された窓際の部屋がバス・トイレつきで400Rsといわれたとき、わたしは素直に応じていた、、もうだいぶ古そうなホテルだったし、ポカラの新築のホテルからすれば施設・調度もそれ相応のものだったが、やはり1000Rsからすれば安く感じられた、、あーここなら一日1000円(1000円は1000Rsだったから、部屋代400Rsなら不可能ではなかった)で生活できるかもしれないとそのとき思ったのであった、、

 そのホテル-Kings Land Hotel はもらったホテルカードにカタカナでキングスランドホテルと書かれた表記もあって、わたしはそのときネパールのガイドブックは持っていなかったので情報をまったく持っていなかったのだけれど、どうやら隣のHolly Land Hotelと並んで日本人の宿泊者の多いホテルのようであった、、どちらも日本人の間ではタメルの安宿として知られていたのかもしれない、、もしもポカラのMadabu君の紹介がなかったとしても、タメルにくれば安宿はたくさんあることは聞いていたからどうにでもなると思ってはいたが、しかしこれほどまで多いとは知らなかった、、実は今でこそカトマンズのツーリストエリアといえば旅行者だけでなくネパール人の間でもタメル地区が知れ渡っているが、昔、わたしが最初に訪れた40年前・2回目の35年前には確かに今やタメルの中級ホテルの筆頭になっているカトマンズゲストハウスKathmandu Guest Houseはそのころから有名だったが、ツーリストエリア・安宿街は別の場所、もっとニューロードNew Roadの近くではなかったかと記憶していた、、なのでその後タメルのことは聞いていたが、35年ぶりに訪れた者にとってそこはまったくの未知の世界だった、、で、そのホテルの数、飲食店の数、そしてそのホテルと飲食店を合わせた数くらいあるのではないかと思われるトレッキング関連の代理店・トラベルエージェンシーの数々、確かにそこはカオサンと同じく他のエリアとは趣をことにした特異な顔をみせていた、、そしてホテルKings Landにはそのときわたし以外に3人の日本人が滞在していたのであった、、

Hotel Kings Landのある路地020_640x480
タメルのメインストリートTamel Chowk付近001_640x480


 わたしはオーナーのDaya Ram氏とは顔を合わすと、その1Fロビーの木株を椅子にした洒落たフロアでよく話をした、、また奥さんが朝食・昼食・夕食を注文に応じて外のレストランより安めに提供してくれたので、朝食や夕食は時々そこで食べるようにしていた、、最初の日彼からカトマンズ(ネパール)でどうしたいのか聞かれたので、トレッキングに行きたいけど体力的に無理だろう、、それでチベットツアーはどうかと思って探してみるつもりだ、というと、知ってる(旅行)代理店があるから明日そこへ連れて行ってあげるとのことだった、、次の日いわれた時間に待っていると彼は約束どおりそこへ連れて行ってくれたのだけれど、なんとそこは隣の建物の1Fだったのだ(ホテルのあった細い路地数十mの間に大小10軒近くの代理店があった)、、が、話を聞くと確かにチベットツアーは扱っていたが、わたしがいきたかったカイラス方面はなく、ラサ往復のツアーで1000ドル以上、下手したら日本からのそれと変わらない価格にびっくりして、チベットツアーは諦めることにした(そのあとも一人でぶらぶらしながらチベットツアーを扱っている代理店を何社か訪ねたがいずれも同じようなものだった)、、そこでわたしは長期戦を覚悟する、、安く滞在できる拠点はできたのだし時間はたっぷりあった、、焦ることはない、少しのんびりしながらカトマンズ(orネパール)でどう過ごすか、何ができそうでどこへ行けそうかを模索すればいいではないかと思って、まずはカトマンズの散策から始めることにしたのだった、、

 カトマンズの街中は、いつころからかとてつもない交通渋滞が恒常化していて、交通ルールなんかあってないような、また信号なんかほとんどないから、道を渡るのもかなり危険な思いをしながら車をよけながら渡るといった、地元の人や慣れている人にはどうってないことが、カトマンズ初心者にとってはひどく恐ろしく映った、、ま、同じようなところはインドを初めアジア各地では何ヶ所も遭遇していたので、それにはすぐに慣れたのだけれど、その埃と排気ガスによる大気汚染に慣れるわけにはいかなかった、、しかし不思議なことにネパールに入ってバイラワで買った喉・鼻水の飲み薬はポカラで切れたが、様態は回復に向かっていて、ここカトマンズにきてすっかり治ってしまったのだった、、それ以来薬の世話にはならずに済んだが今度はマスクが必要になっていた、、偶々二つもっていた100均のマスクが貴重品となった、、またカトマンズは雨のポカラから逃れてきた身にはカラッとした快晴ではなかったが天気は悪くなかったのだ、、だからマスクさえあれば市内を何時間も歩き回ることができた(中心部は歩ける範囲にあった)、、多少遠くてもたいていは歩いていった、、最も遠かったところは昔もいったことのあるモンキーテンプルとして知られるスワヤンブナートSwayambhunath Templeで、ここへは歩いて片道一時間くらいかかったか‥??、、

最初に目指したところはRatna Bus Park(Old Bus Park)だったが、途中のラニポカリガーデンRani Pokari034_640x427

バスパーク前の広場Tundhikel(Parade Ground)からカトマンドゥ中心部を臨む
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ターパースクエアから斜めに延びる繁華街Asan Tole付近
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Swayanbunath遠景; 2枚
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Swayanbunath Templeも外国人200Rsだった、、;2枚052_640x427056_427x640

この寺の主は猿?モンキーテンプルとして親しまれている
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一望のカトマンズ市街、晴れてればその背景に雪山が見えたはず、、055_640x427_2



 そうやって初日だけは初めての街の感覚だったので少しキョロキョロしながら歩いていたが、二日目からはもうかって知ったるわが街気分で地図なしで歩けるようになっていた、、しかし一ヶ所だけは小さくならざるを得ないところがあった、、昔そこはカトマンズの中心ということで何度も訪れたところであったが、今はその旧王宮のあったダーバースクェアDurber Squareは外国人には開放されていなかったのである、、ここは多くの寺院や生き仏として有名なクマリの館Kumari Bahalがあるところで、今でもカトマンズの中心として夕方なんかものすごい人でにぎわっていたが、いつからかは知らないが外国人からは入場料をとるようになったらしいのであった、、しかもその額は750Rsと、その入り口に当たる周辺数ヶ所のゲートには明記されていた、、まったく理不尽な話であったが、どうやらそれがここだけではなく、ルンビニのときに書いたようにあらゆる名所・史跡で同様の処置(政策?)がとられていることがわかって怒りだしたくなったが、どうしようもなかった、、その額を払って入るか、そこは避けるかのどちらしかなかったのである、、しかし二日目にそこに訪れたとき、もちろんそのことは知っていたが知らぬ振りして中に入ってみた、、偶々気づかれなかっただけなのだが入れてしまった、、この機は逃せないと何枚か写真は撮った、、そして係りの人に見つかってticketの提示を求められるのを恐れてそそくさとその場を離れた、、だからこの場所だけはその後も大きな顔しては通れなかったのであった、、(そのあとも何回かいってみたが‥??)、、

ダーバースクエアBurbar Square(一番上の右側の白い建物が旧王宮);4枚
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下の3枚は別の日に訪れたときのもの
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 最初の3日間は人に聞いたり昔を思いだしながらカトマンズの街をうろついていたが、確か3日目の晩だった思う、強力な助っ人にであったのであった、、それは同宿の日本人で自称‘大阪のオバチャン’さんであった、、最初の遭遇はホテルの最上階のひとつしかないテーブルで、そこの奥さんが作ってくれたダルバートの夕食を食べていたときだったと思う、、そのとき以来会うたびに雑談し情報をもらい、時には一緒に食事に出かけるようになったが、いや、もちろんわたしより一回りも若かったが、ともかくそのバイタリティは半端な人ではなかった、、何しろ彼女は毎年ネパールに来ているようで、今年も4月から来ていて、しばらくインドへいっていて帰ってきたばかりだといっていた、、今回インドはリシケシュRishikesh、ハリドワールHaridwar方面に出かけていたらしかったが、コルカタマザーハウスにも毎年ボランティアにいってるという話もされていた、、詳しくは聞かなかったがたぶんカトマンドゥでもそのようなことをされているようだった、、だからもちろんカトマンドゥも隅から隅まで知っていていろんな情報をもっていた、、その中でもわたしにとって重要な情報が二つあった、、ひとつはその彼女の情報源となるある場所・人を教えてもらえたこと、もうひとつはカトマンドゥ郊外のお勧めの場所を教えてくれたことであった、、   ‥つづく