独歩の独り世界・旅世界

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パレンケPalenque~フローレスFlores 2012,09,30~2012,10,01

 パレンケでも遺跡巡りはひとりで行かせた。遺跡まで行くコレクティボに乗せればあとはもうどうなろうとわれ関せずで、わたしは次の日のフローレスまで行くへシャトルバスを探していた。それはすぐに見つかったが、ここもシャトルバスででなく普通の乗り合いコレクティボでいけた可能性があったことをあとから知る、、つまりその昔まだ開発道路だったころは、その道をパトカー誘導で何台かのシャトルバス(ワゴン車)が後に続き、国境付近まで猛スピードで走りぬけた記憶があったが、いまや開拓村があちこちにできていて、その道はすっかり生活道路に変わっていたのである、、

<パレンケの教会Catedralと街並み>041_640x480 043_640x480


 パレンケはだから一泊しただけで次の朝迎えに来たシャトルバスで国境に向かっていた、、が、あまりの変わりように少し戸惑いはあった、、当時<12,3年前、1999年だったか?>まだ開発間もないその道は折からのチアパス騒動からも日が浅かったので、対ゲリラ対策のための護衛つき移動であった(わたしは前に述べているが心情zapatistaなので、そういう意味ではゲリラ派であったが)。わたしがそのとき向かっていた先は国境でなくラカンドンの村であった。だから国境に向かう車やボナンパック・ヤシャチュラン遺跡へのツアーの車が一団となって進んでいったのである。当時はまだ途中の開拓村も少なく商店などもほとんどなかったから、それこそ未舗装路を時速100kmくらいのスピードで飛ばしていった。それがわたしには弾丸道路という印象として強く残っていた。が、今回すっかり舗装されたその道は開拓村があちこちにできていて、勤め人や学生を乗せたコレクティボがしきりに走る生活道路に変わっていたのであった。ということは国境まで行くコレクティボもあったかもしれなかったのだ、、そうとは知らず以前同様シャトルを使ってしまったが、道は完全舗装で快適になった分、往来も激しくなり、交差点も多く結局国境までの時間は当時とそんなに変わらなかったように思う。途中朝食休憩も入れて、それでもジャングル道(といってもだいぶ開けた感じの)を3時間の道程であった、、

 途中一ヶ所、思いで深い場所があった。そこはボナンパックへ向かう分岐点で、当時わたしはそこで帰りのシャトルを待つこと数時間、店も何もない三叉路で待ちぼうけしていた。今回もそこで少し休憩があり、当時と変わらない面影はあったものの、何件かのお店があったり立派な待ち人のための建物があったりして、通ってきた道同様その変わりように感慨があったが、もっとも顕著な思いは、当時まだ真っ白な単筒衣装だったラカンドンの人たちの服装がいまや他のメキシカンと見分けのつかない服装になっていたことである。道路ができてすぐに電気とテレビとコーラが入って、その変化が現れだしていた当時から見ると、その後の10年でもうあのラカンドンのプリミティブな生活はすっかり失せてしまったように感じられた。文明化・近代化のスピードは車のスピードに比して早い、、つまり道路一本が世界を変えてしまうのである。そして同じようなことにその後グアテマラに入って遭遇することになる、、

<何もなかった三叉路に何軒かの商店が‥>054_640x480


  国境の手続きはきわめて簡単であった。イミグレオフィスの先に船着場があって、グアテマラへ向かう人とヤシャチュランに向かう人でボートが分かれる、即ちグアテマラは右方向・上流へ、ヤシャチュランは左方向下流へ向かうはずであった、、が、われわれのほか5,6人の欧米旅行者を乗せたボートは同じく左方向というか直線的に進んで対岸にわたっただけであった。いや知らないのはわれわれだけだったのかもしれないが、息子が持っていたガイドブックにはそこから4,50分ほどボートで遡ってグアテマラ側の国境Bethelという村につくとあり、そのボートでの移動が少なくともわれわれにはひとつの楽しみでもあったのだった。マヤ史の中でも重要な位置づけあるそのウスマシンタ川の遡行は前年のセイバル・アグアテカ遺跡めぐりのとき、また13年前のヤシャチュラン遺跡めぐりのときに経験していたが、ま、川遊びというか舟遊びというのかいわゆる一種の川下りでそれはそれは興味深いものがあった。水鳥観察やジャングル景観だけでも十分に楽しめるものである。それがグアテマラまでの道すがら味わえるはずであったのが、たった5~10分の渡しで終わってしまったのである、、どうなってるんだ‥??

<メキシコ側の船着場>058_640x480

 ここも変わっていたのである、、たぶんこの何年かの変化だと思われる、、少なくともガイドブックの情報は数年のタイムラグを考慮にいれる必要はある。考えられるのは以下のようなことであった、、われわれが渡った先はLa Tecnicaという寒村であった。もちろんイミグレはそこになかったが、迎えのバスが待っていた。それはわれわれだけでなく一般の乗客も乗せるグアテのミニバスであった。そのバスでそうとうひどい悪路を1時間かかってイミグレのあるBethelという村までいった。そこで入国手続きを済ませ、少し走ると今度は未舗装ながら少しましな道になった。さらにその道を1時間ばかり走ってようやく舗装路・幹線道路にでたが、要するにこの何年かで悪路ながらメキシコの国境の村の対岸にあったLa Tecnicaという村まで道が通ったということではなかったか?聞くところによると船の燃費と車の燃費では一桁違うそうだ、、ならば同じ1時間の行程を輸送する側は車通行が可能になればそちらにシフトすることは十分考えられることであった。が、それは運ばれる旅行者にとっては価値が1/10になったことに他ならない。それでもきっとそれは、そこに住む人々特にLa Tecnicaの住民にとってはかけがえのない価値をもたらすことになったことであろう、、??

<Bethelのイミグレーション>060_640x480

 こうしてその日の午後(10月1日)われわれはフローレスに着いたが(フローレス着15時はグアテマラ時間14時だった、全行程9時間、400~500ペソ)、途中から乗ってきたツアー会社の回し者のような青年(ティカルツアーの売り込み)に安いホテルを紹介してもらったら、そこは前回わたしが泊まったところであった。ひとつだけ違ったのは前回はひとりだったので、それこそペテン・イツァ湖も望めない暗い一室だったが、今回は眺めのよい部屋が空いていたこと、それでそこに二泊することにした。それこそ価値的には雲泥の差で息子はそこがだいぶ気に入ったようであった。一泊120Q、メキシコの同レベルのホテルに比べると1/2~2/3の値段であった‥、、