独歩の独り世界・旅世界

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帰国の途 2)エスクイントラ Escuintla、アカコヤグア Acacoyagua、プエルト・マデロ Puerto Madero

 おそらく中米・南米の観光スポット情報及びその地図に関して、世界で富永マップに勝るものはないと確信するものの一人だが(中南米以外の地については知らない、またほとんどは都市マップなのだがそれは驚異的に詳しい)、それでもそれはタパチュラの街案内地図だったから流石にエスクイントラ、アカコヤグアについての情報は載っていなかった、、また、浜田家は直接的には榎本殖民とは関係がなかったことが、その朝挨拶と礼を述べるために訪問したとき、少し話を聞かせてもらってわかった、、

 そのときわかったことはだいたい以下のようなことだった、、まずわたしがお会いしたたぶん50代と思われる現在の当主、浜田明広氏は日系2世で、当地でエンジニアをされているということだった、、予想外だったことは、わたしのスペイン語が通じるか心配していたところ日本語で話してくれたことだ、二世ということでそれも可能だったのかと納得した、それどころか日本語がわかる日系は500人くらいいるとも話してくれた、しかし今ではもう三世四世の時代で、場合によっては五世も誕生していて逆に一世はもういないとのことだった、、が、一世だった浜田氏の父親は日本でまだ健在だという話もうかがった、、そしてあくる日お別れの挨拶に伺ったときだったか、隣に住むというお母さん(現地の人)が出てこられて、そのご主人つまり浜田氏のお父さんが活躍されていたころの新聞記事を見せてくれた、、浜田氏のお父様は1950年代にこの地に住まわれ事業に成功されてその基盤をつくられたことをその新聞記事は伝えていた、、当時すでに日系の方が多く住んでいた土地とはいえ、日本から若い身一つでこの地に渡りご活躍された様子は新聞に載るほどのものであったようだ、、そんな話を聞いてると改めて感慨深くなってしまう、、その朝はまず地図のお礼を述べ、これからエスクイントラ、アカコヤグアに行くつもりであることだけ伝えてお暇した、、もちろんそれだけで彼はわたしの趣旨を理解してくれたようだった、、アカコヤグアへはエスクイントラまでコレクティボでいって、そこで乗り換えていけると教えてくれた、、

 宿の人にはもう一泊するつもりだが、やはり150ペソの部屋に移ることにしたと伝えた、その時点で150の部屋が空いてなかったので荷物を預け貴重品とカメラだけもってコレクティボターミナルへ、昨日調べておいたエスクイントラ行きのコレクティボに乗った、、エスクイントラまでは1時間10分かかった、原野を切り開いたハイウェイを飛ばしての話だから結構な距離(80kmくらい?)であった、、115年前、初めてこの地に上陸した榎本殖民の一行35名は小さな漁村サン・ベニート(現在のプエルト・マデロ)の港からタパチュラまでの20数キロを炎天下歩いたために、何人かが日射病に倒れるという最初の試練を受ける、そのため入植地とされていたエンクイントラへはタパチュラから夜間行軍して4日かかったという記録が残されている(もちろん歩きだ)、 、その115年前にエスクイントラに全員が到着した日、即ち1897年の5月19日が彼らの入殖記念日になったそうだ、、その後この一行はさまざまな苦難に直面し、結局榎本殖民としては失敗に終わるのだが、空中分解したメンバーの有志がそのあと協力しあってこの地に残り根付いていく、つまり日系メキシコ移民の礎を築いていくのである、その涙なくしては読めない榎本殖民物語は上野久氏の著書を参照していただくとして、その彼らが殖民のために第一歩を記した地がここエスクイントラだった、、未だ人家もない原野に放り出されて開拓民部落の建設にとりかかるが、その厳しい自然条件及び当初の榎本らのずさんな計画が結局彼らの努力を徒労に終わらせることになった、、が、不屈の闘志と精神力を持ちあわせていた当時の日本の若者たちは、決してその境遇に翻弄されることなくこの地に残り実力を示していく、その足跡・痕跡は随所に残されており、また現在までその子孫によって、有形無形で引き継がれているとのことだったが、もとよりそれらをすべて訪ね回る余裕はなかった、、わたしが目的としたのはエスクイントラ近郊の村アカコヤグアというところのパルケセントラルに建つという榎本殖民記念碑を是非この目で確かめたかったこと、そして彼らの苦闘した地を見届け、またその偉業を称え偲ぶことであった、、エスクイントラの街には10時半ころに着いた、、

 途中、右手にシェラマドレの山並みが続き、大きな川を何本も渡った、、今は開拓されているようだったが、未開の原野も多く残されていたように記憶している、いずれにしろ緑豊かな空気の澄んだところであった、、エスクイントラの街は上野氏の本によると、日系の名士が多く輩出したところで、かつての面影も多く残されているとのことだったが、それらを確認することはできなかった、、また大きな街であったが日系と思われる顔立ちの人とは会わなかった、、その本にも書かれていたが多くは血が混ざってそれとはわかりにくくなっているようだ、上野氏がその地を訪れてからもすでに25年、1/4世紀を経ているのだから、なおさらであろう、、ここではむしろドイツ系のそれとわかる子孫が多かったように思えた、一通りメインストリートを歩いてみる、晴れ上がった青空に遠く高い山が見える、あれが文中にでてくるオバンド山なのであろうか‥??、 30分くらいメインストリートを往復しただけでアカコヤグアに行くコレクティボを探す、、聞いてわかったのだけれどアカコヤグアはエスクイントラからはコレクティボで5分くらいのところにある小さな村で、ほとんどのコレクティボはもっと先の街へ行くものだった、そういえばその時持っていたメキシコ全土の地図にもアカコヤグアの地名は見出せなかった、、そんなところだから地元の人しか知らない地であった、そこへ行きたいというわたしをそのドライバーはちゃんと承知しているといった風で、この車がそこを通る、もうすこしで出るから乗って待つようにといってくれた、実際そこはエスクイントラの隣村といった感じでその途中にはほとんど人家はなかった、、5ペソ5分のところだった、、

2012_0305_104619p1040297_640x480エスクイントラのメインストリート 2012_0305_103107p1040295_640x480エスクイントラのパルケと、遠くの山がオバンド山? 下 ; アカコヤグア方面行きコレクティボ乗り場2012_0305_105258p1040298_640x480
 2012_0305_113335p1040312_640x480アカコヤグアの辻(四つ角)南、パルケセントラル方面と、下、北オバンド山?方面
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  パルケセントラルはその角を曲がってすぐだ、エスクイントラに帰るには、ここを通るすべてのコレクティボがエスクイントラまで行くからここで待ってればいいと、アカコヤグア村の辻で降りるとき、ほんとに親切にそのドライバーは教えてくれるのであった、実際すぐのところに公園はあって、その真ん中に榎本殖民記念碑は建っていた、、そこにはその碑だけでなく、秋篠宮殿下植樹記念碑、松田英二博士<チアパス州の植物学の先駆者>の碑などもあった、、それらを何枚も写真にとり、碑の前で手を合わせた、、訪れる日本人は少ないのかそんなわたしを見て地元の若者たちが寄ってきた、、お前はあの碑に書かれている文字が読めるのかなどと聞かれた、、わたしは日本人だから当然読めるよ、この辺に日系人が多いと聞いているが、どこに住んでいるの?などと聞き返したが、その答えはよく聞き取れなかった、いずれにしろ何人かいた若者の顔立ちは少なくとも日系ではなかった、が、もちろんその碑の意味するところは当然全員知っていた、、わたしはそれらの写真をとって、そこに書かれたいた芭蕉の句‘夏草やつわ者共の夢の跡’、まさにその遠い日を偲べただけで十分に思われた、、アカコヤグアはそれこそ榎本殖民ゆかりの地で今もその子孫が多く住み、彼らの代から続く農場は未だ現役で営まれていると聞いてはいたが、それらを訪ねるすべもわからず、去りがたくもあったが滞在30分でエスクイントラに戻った、、

2012_0305_110914p1040299_480x640榎本殖民記念碑と、その碑文 2012_0305_111006p1040300_640x480_32012_0305_111032p1040301_640x480
2012_0305_111736p1040302_640x480秋篠宮殿下、榎本殖民100周年記念植樹
2012_0305_112458p1040308_640x480松田英二記念碑
2012_0305_111929p1040304_640x4802012_0305_112202p1040306_640x4802012_0305_112256p1040307_480x640 公園全景と殖民記念碑の裏側

 昼をだいぶ回っていたので何か食べようと思った、コレクティボの乗り場辺りには結構食べ物屋があった、、さんざん迷った挙句はいったところはドイツ系の親子でやっているタコス屋?といってもそれまで食べたものとは違ってもっと大きなクレープ状のもので、いろいろ聞いてみたがちゃんと通じなかったようだった、、そこからもう一ヶ所エスクイントラの南にあるアカペタア村という、やはり日系の足跡が残っているところ、今もその子孫が多く住んでいるというところがあって、そこへも行ってみようかと思ったが、そのときすでに詳細を覚えてなかったので諦めた、ところがタパチュラに戻ろうと乗ったコレクティボは来たときと違ってアカペタア方面に向かった、、結局村までは行かなかったがその近くまで行ってそこからタパチュラへ戻った、なので大まかにはその辺の地理をつかむことはできた、、

 さて、タパチュラに戻って、その足でパルケセントラルにでる、ひとつは富永マップで観光案内所の場所をつかんでいたこと、もうひとつは両替の必要があったからだった、、まずいくつかの銀行をあたって両替できそうなところを探すも、あのBancomerでもT/Cの両替は断られてしまった、となるとどこでできそうか?とりあえず観光案内所にいってみる、そこではすでに必要はなくなっていたが一応観光マップをもらう、次に両替所を聞く、何ヶ所か教えてもらったがT/Cの両替ができるところまでは把握していないようだった(というか、それは無理だったのかもしれない??)、そしてもう一問、エアポートに行くバスについて聞いてみた、タクシーとか言っているのでコレクティボがないのか聞くと、あるような返事だったがはっきり理解できなかった、、前にコレクティボターミナル聞いたときの返事やこの観光案内所で聞いた情報を統合すると以下のことがおぼろげながら見えてきた、つまりエアポートに行くコレクティボはない、が、プエルト・マデロへ行くコレクティボがその近くを通る、その近くで降りれば歩いていける‥、のではないかというものだった、その降りたところから空港までどのくらい離れているかはわからない‥、、そのときまだ3時前だった、T/Cの両替は諦め手持ち少なくなった現金のドル少しと残ったケツァールを少し合わせてペソに換え、いったんホテルに戻り、部屋を移って再びコレクティボターミナルに向かった、、プエルト・マデロ行きのコレクティボも昨日のうちに調べていた、榎本殖民一行が上陸したところ(当時のサン・ベニート港)を見ておきたかったからだが、そのときもうひとつ理由が加わっていた、もしかしたらその車が空港近くを通るかもしれない‥??、行ってみるしかなかったのだ、、その車(コレクティボ)も15~20分おきくらいにでているようだった、プエルト・マデロまで13ペソ、そのドライバーには今プエルト・マデロまで行くのだけど明日エアポートへ行く、その際はどこで降りたらいいか場所だけ教えてくれるよう頼んでおいた、、で、エアポートの近くのバス停(?、降りるところ)を教えてもらい、だいたいそこまでは30分くらい、そこから飛行場までは歩いて5分くらいだということがわかった、、そこからプエルト・マデロまでは10分くらいだった、、

2012_0306_095151p1040332_640x480プエルト・マデロ行きコレクティボ

 夕方の4時半ころ着いたプエルト・マデロは閑散としたというか、まったく何もない小さな村?、しかしそのあとメインストリートのようなところ歩き回ってわかったことだけれど、今は漁村の面影も港の施設もまったくなく(埠頭も船着場もなかった)ただのリゾート地、といっても週末にタパチュラ、その他の近郊から海水浴・磯遊びにくる客目当てのレストランが数軒並んでいるだけの、ひなびた寒村であった、、だから週末以外はまったく閑散としている村(街?)のようだった、、それでも太平洋の海原をゆっくり見渡せるかと期待して、コレクティボの終点、降りたところにあったコンビニでビールだけ買って海辺へ向かった、、歩いて5,6分のところに海はあったのだけれど、そこは浜ではなく、護岸工事されてるわけでもなく大石の堆積している磯だった、、そこにはのんびり座って海を眺める風情はまったくなかった、、そこから港らしき場所も探してみたが見当たらない、通りかかった若者に聞いてみたが、かなり遠くにあるような答え??、少なくとも歩いていける範囲にはそれらしき影も形もなかった、、首をかしげながら人通りのまったくない海に沿った道を行く、、と何軒かのレストラン(オープンレストラン?海の家をかねているような)が出てきた、、週末にはかなりの賑わいがあるのかもしれないが、この日一組か二組の家族連れを眼にしただけであった、、そして最後のレストランがあるところで道は途切れていた、、よく見るとその大石の磯もそこで終わっていて少し下ると浜が広がっている、それまでとはまったく違った光景だった、そこは砂浜でそこでも何組かの家族連れが海水浴か磯遊びに興じていた、うん、ここならよさそうだ、適当な場所を見つけて座り込み待ちに待ったビールを開けた、、しばらく時に身をゆだねる、、折からの落陽、、ちょうど日が沈むあたりが日本か‥?? 、、そして、まさにこの浜こそ、あの榎本殖民の一行が、その前途を知らずに、まだ意気揚々とこの地の第一歩を踏みしめたところではなかったのか?と、想いを馳せながら‥、、

2012_0305_170856p1040315_640x480左 ; コレクティボを降りて突き当たったあたりの海岸、下 ; その突き当たったあたりを右方向に15分くらいいったところにあった浜
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