独歩の独り世界・旅世界

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グアテマラへ 6)サンペドロSan Pedro に10日間

 9ヶ月ぶりの再会だったから特に感激があったわけではない、、そのまま、自然にサンペドロの生活に入っていけた、、その間に起こったことを、といってもほとんど目新しいことは何もなかったのだが、どうでもいいようなことを少し書き留めておく、、

038_640x480去年とダブルかもしれないがLago Atitlan(アティトゥラン湖、上、正面の丘がインデアンの鼻nariz de indigena)とVolcan San Pedro(ボルカンサンペドロ、下)
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 たった9ヶ月間の間に起こった最大の変化はなんといってもアティトゥラン湖Lago Atitlanの水位が2~3mも上昇していたこと、そのためせっかく去年新しくした船着場Panajachel Dockの桟橋は沈んでおり、新たな浮き橋floating dockが設えていたこと、当然それはもうひとつの桟橋Santiago Dockも同じだった、いやそれは湖畔の桟橋すべてが作り直されていたと思われる、桟橋だけでなく水没した家が何十戸?サンペドロだけでも三十戸くらいあったらしいから湖全体では百以上?自然の驚異というか単純に去年の雨季は雨量が多かったらしく、川・出口のないアティトゥラン湖では、昔からこういうことはあったらしくて湖岸が何十mも近ずいたり遠ざかったりしていたということを知らされた、、

017_640x480パナハッチェルドック(去年の桟橋が沈んでいるのが見える) 015_640x480
016_640x480ドックからの風景

 去年なかった店がオープンしていた、これは新しいみやげ物屋や食べ物屋が結構できていたということで、閉店したところがほとんどなかったからサンペドロの発展ぶりが窺われた、、とくにわたし関連で言えば、サンペドロ在住の日本人の若夫婦NaoさんMayumiさんが経営するコロッケバーガー屋さんがオープンしていたこと、、彼らのことは去年聞いていたけれど彼女が妊娠中で休んでいて会ってはいなかった、、その店がパナハッチェルドッグの前の坂を上った右手にオープンしており早速伺って話を聞く、、なかなか面白いカップルであった、、まず彼らの本業はお豆腐屋さん、それも一日そんなには作っていないとのこと、その豆腐はサンペドロの主要レストランに卸しており、主なレストランにはどこにも豆腐料理のメニュウが確かにあった、、そしてこのコロッケバーガー屋さんも、週に2日だけ、それも11時から15時まで、お客さんは絶えないのにそれ以上は働きたくないとのこと、食えているうちは食える範囲で働けばよいというポリシーらしい、、いや、いいスタンスというか感性というか、素敵な生き方だなぁと感心させられた、グアテフードに飽きていた身にとってはもちろんコロッケバーガーもメンチバーガーもうまかった、ただ開いていれば毎日昼食にしてもいいくらいだったが、なにぶん限られた日時だったのであと一回しか寄れなかった、、彼らがここに住みついてから4,,5年以上になるって言っていたから、もちろんサンペドロ事情・情報も詳しかった、もしサンペドロに行かれる方はパナドックに着いたら、前の坂を上って2,3分、右側の空き地に屋台が出てます、まずそこに行ってみることをお勧めします、ただし金曜と土曜だけですが‥

020_640x480坂の上からパナハッチェルドックのほうを見下ろす、正面の屋台がバーガー屋さん

 022_640x480右がMayumiさん(写真を載せる許可はとってある)、左は常連さん
 023_640x480バーガー屋さんのメニュウ

 さて、去年友達になったカクチケルKaqchikelの若夫婦が、彼らは去年路上でみやげ物販売をしていたのに今年お店を持っていたのに驚かされてしまった、、しかもここはツトゥヒルTzutujilの地、よそ者が路上販売することすら難しいのではないかと心配していたのによくまぁ頑張ったと感心させられた、、詳しい事情聞かなかったがその辺のところを推測してみた、、彼らの出はパナハッチェルのとなり村サンタカタリーナパロポSanta Catarina Palopoであった、、そこはさらにその先のサンアントニオパロポSan Antonio Palopoとともにアティトラン湖の外輪山の傾斜地にへばりつくように拓かれている村で、そこにはほとんど耕作地がなかった、またパナからの交通手段もピックアップトラックの荷台に揺られていくしかなく、そこまで足を運ぶ観光客も滅多にいなかった、、しかし彼らの民族衣装や織物は他の村々のそれより格段にすばらしい(ついでに言うと、その両村もまたそこへ行く道も景色が大変すばらしい、&そのカクチケルの村にはかわいい娘さんが多かった)、ということで彼らの生活手段はみやげ物販売に頼るしかない状況になっている、が、パナハッチェルやサンチャゴアティトゥランSantiago Atitlan、サンペドロSan Pedro la Lagunaのように観光客が大勢訪れるわけでないからどうしても出稼ぎに行くしかなくなってくる、パナのメインストリート、サンタンデール通りに並ぶみやげ物屋はほとんどカクチケルの人たちだ、で、お店をもてない人たちはサンタカタリーナパロポからは2,30分サンアントニオパロポからは3,40分トラックに揺られて出稼ぎに来ている、去年写真を撮らせてもらったまだ10代の女の子たちも、たぶん土日のアルバイトで来ていたのだろう(彼女たちは高校もパナにしかないから毎日ピックアップで通っているのだけれど)、そうした出稼ぎは比較的近いサンチォゴアティトランでも見られたが、実はともにツトゥヒルの地サンチォゴアティトゥランとサンペドロでは少し事情がちがってくる、サンチャゴアティトゥランは宿こそそれほど多くないがパナからの観光客が日帰りで大挙押し寄せ、船着場からパルケセントラルまでの1kmくらい、そのメインストリートはみやげ物屋で埋まっている、当然ツトゥヒルの人たちのお店だ、従って彼らが出稼ぎに来てもパルケセントラルに隣接するカテドラルの前の広場あたりしか商売する場所がない、だからカクチケルの出稼ぎはそんなに多くなかった、一方サンペドロの場合出稼ぎには少し遠いのでどうしても住みつかないことには不経済になってくる、わたしの知り合いは当初どこに寝泊りしていたか詳しく聞かなかったが、たぶん同じカクチケルの人が経営するホテルの軒下を借りていたようだった、でも、そうして路上販売しながらどうして彼らが一年足らずで自分の店をもてるようになったか?‥こういうことでないかと思われた、実はサンペドロはサンチャゴアティトランほどおみやげ屋さんが多くはなかった、またサンペドロの人たちはサンチォゴアティトゥランの人たちと比べると(隣村なのに)少し性格が違ってて、よそ者に対してずいぶんと寛容であった、だからここは外国人の経営するホテルやレストランがたくさんあったし外国人の居住者も多かったのだ、彼らは決して排他的でなかった、逆に民族衣装なんかもサンチァゴの人たちは特に女性はその紫系のウィピル・コルテをほとんどの人が身につけていてそれがまたとても印象深いのだが、サンペドロの女性はほとんどコルテだけで上はなんかあまり特徴のないブラウス?であった(つまりあんまり伝統に縛られていないということ?)、、そんな違いが面白くもあったが、まして普通の観光客にとってはツトゥヒルもカクチケルもない、誰もそんなこと気にしてないし、そんな区別もしていなかっただろうから、彼らの路上販売にハンデはなかったのではないかと思われた、それが彼らの成功をもたらした?もちろんわたしも多少の貢献はしていた、だからわたしと再会したとき、‘日本の友達(こちらの人がよく言うamigoというやつ)いつ帰ったんだぁ?’とあたたかく迎えてくれた、、そう言われるともちろんうれしかったし、なんかわたしもここに帰ってきたんだ、という気がしてくるのであった‥

 わたしのamigaであり先生であったカロリーナは、去年わたしが出会ったときは結婚したばかりで無職であった、もともと大学をでて病院で秘書の仕事をしていたといっていたが、時々親父マヌエルのスペイン語学校の先生もやっていたようだ、外国人にスペイン語を教えるのに資格が必要かどうかは知らないが、そんな資格はなくてもスペイン語を教えるのは彼らにとっては一番楽な仕事だったのではないだろうか??、が、そんなスペイン語学校がサンペドロにもたくさんあって、あまり学校経営に熱心でなかったマヌエルのところは、たぶん去年わたしが去ってからずっと生徒がいなかったのではないかと思われた、だからカロリーナはその後ほかに仕事を見つけて、そのときパルケセントラルの脇にあったネットカフェでバイトをしていた、わたしが一週間分授業料を払ったので、通常昼間の勤務を夜間に代えてもらったといっていた、で、それはわたしにはありがたいことであったし都合のよいことでもあった、一泊20Qの宿ではネットがつながらないといって文句は言えない、そこで彼女の勤務時間を見計らって(わたしの授業は朝8時半から11時半だった、ネットカフェは16時から22時まで勤務していた)わたしは出かけていった、、そしてパスワードを教えてもらっていたのでタダで繋ぐことができたのである、、そんなんで一週間授業を受けたけど、もうあまり緊張感がなく身に入らなくなっていた、当初二週間くらいを予定していたところを一週間で切り上げることにした、そして次の月曜にサンペドロを発つことにした、去年隣室の客だったアメリカ人Johnが3月にまた来ることを聞いたので、そのころまた戻ってくることを約束して‥

 カロリーナの旦那の仕事は絵描きさんだった、、というかここサンペドロではそもそも仕事があまりなかった、で、サンペドロやサンフアンあたりではラゴアティトゥランやインディオの市場を題材にしたピントゥーラ(pintula 絵)が結構みやげ物として売られており、またこの辺の絵および絵描きさんはツトゥヒルの絵画として結構有名だとも聞いていた、が、ぜんぜん有名でもなんでもなかったカロリーナの旦那は毎日みやげ用の絵を何枚か描いていたのだけれどたいして稼ぎにはなっていなかったようだ、そこで少しでも収入の足しにとサイドビジネスをやっていた、近くの山に巣箱を置いて養蜂を始めていた、で、わたしがサンペドロを去る前の日にその現場へ連れて行ってくれることになった(カロリーナの親父マヌエルも同行した)、、日本でもやり方は同じだと思うがわたしはその現場を見たことがなかった、山の中腹で防虫ネットをかぶりて完全防備でその現場に臨んだ、巣箱は急傾斜の山肌に20箱以上あったであろうか、それは見事な蜂蜜が何万匹の蜂によってためられている光景を見ることができたのだけれど、よりによってその何万匹の一匹がほとんど隙間がなかったはずのわたしのズボンの裾から侵入して蜂の一刺し、というおみやげを頂戴してしまった、、痛みは一日で取れたが腫れは一週間も引かなかった‥そうして次の日シャトルバスで再び(去年長居した)アンティグアに向かった、、

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