独歩の独り世界・旅世界

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Guatemala/San Pedro 8)Casa Andrea カサ アンドレア③地震

 ほとんどの日本人がグアテマラのことをよく知らないように、グアテマラ人も日本のことをほとんど知らなかった、理由は簡単でどちらの国も相手の国について報道することがほとんどなかったからだ、情報の行き来が(だから人の行き来も)ほとんどなかったといってよい、ところがその日からテレビ・新聞等のメディアのトップは連日日本の地震関連のニュースで埋め尽くされた(正確にいうとわたしはそれを見ていないのだけれど)、その後(知人だけでなく)会う人会う人わたしが日本人だと知るとその話題となりお悔やみとお見舞いを言ってくれたりした、、、はっきり覚えてはいないのだが、その日の朝(現地の3月11日、時差15時間だから日本だと同日の夜くらい?)誰かがちょこっとそんな話をわたしにしたのが最初だったと思う、たぶんまだ詳しくは報道されておらず、ただ日本で地震があったということをわたしに教えてくれ、わたしはよくあることと聞き流してしまったようだ、で、それから数時間後われわれ3人がマヤ聖地のSanta Maria Chi Kaqajaayから戻ったとき、わたしはとんでもない話を聞かされることとなった、もちろん今どきグアテマラ国民も100%近くがテレビを所有していたから、いまや知らない人はいないビッグニュースになっていたのだ、彼らは一様にテレモト(terremotoスペイン語地震のこと)‥、ツナミ‥と言っていた、マヌエル宅で昼飯をご馳走になった後すぐにネット屋さんに飛び込んだ、一通だけmailが入っていた、自宅からでその地震の大きかったこと、まだ余震が続いていて恐い、恐いと訴えていた、それを見たのが現地時間の3月11日午後3時ころ(時差が15時間だから地震発生から15時間後くらい?)、発信時間は3月11日20時頃だったことが後でわかった、だからわたしは日本で地震が起きた当日の夜半にはその情報、それが大地震だったことを知っていたことになる、ただその被害状況が想像を絶するものになるとは、もちろんそのとき知る由なし、それでもまず自宅の主(わたしの奥さん)が無事だったことは確認できていたのであった、、、

 フクシマの名が世界に知れ渡ったのはそれから何日後くらいのことであったか?翌日もまずmailのチェックから始まった、テレビも新聞もなかったが(あっても読めない聞けない)これがインターネットの力だと思う、逐次日本からの生情報が送られてきた、その頃何人かの友人と定期交信していたから、その被害状況が刻々と伝わってきた、大変なことになっている‥どうしよう、、、??まず家族全員が無事だったことはすぐに確認できた、交信していた友人とは3日以内くらいで全員と連絡は取れた、今回被災された方々にはまことにお気の毒なこととお悔やみ申し上げるしかないのだが、幸いにして我が家はフクシマからは多少距離があったのでその後の原発の被害からもかろうじて免れそうだった(これを書いてる今、震災後5ヶ月が経とうとしているのに未だにそれは未解決だし、今後どういう事態になるのか、また後遺症等がどのように表れてくるのかまったく不明だが)、で一時は帰国も考えたが友人に相談したところ、帰っても義援金を寄付する以外それほどやれることはないだろう、と、そのころ毎日のようにGuatemala通信を送っていたもっともわたしをよく知.る友人S氏がアドバイスしてくれたのでその意見に従うことにした、余談だが15年前の神戸の時には救援ボランティアに行っていた、そこで大して役に立たなかったことは自分でも承知していたのだ、その後しばらくして落ちついた後は家族も別にすぐに帰ってくることもない、と言ってくれていた、被災地の救援はおろかいまや家族にとってもなんの役にも立たない存在でしかなかったようである、、、??

 今回の震災で日本がすっかり変わってしまった、衝撃・ダメージが大きすぎたという声をその後よく聞くようになった、遠く離れたグアテマラでわたしにとってもひとつの面白い?変化が生じていた、その時以来わたしは報告する側から報告を受ける側に代わったのだった、前述したようにグアテマラからは何人かの友人と定期的に交信していたのだが、それ以来帰国するまでわたしは日本の状況を聞く側になったのだ、もちろんこちらの動向を伝えることもあったが完全に立場は逆転していた、そうして日に日に増す被害状況、ツナミの恐ろしさ、原発事故、それにしても遅々として進まない救援・復興の実態をつぶさに報告されることとなった、報告を受けてももとよりなす術なし、わたしは自分の予定を遂行することにした、、、

 つまり、すぐ帰国しても意味がないと悟ったのだが、それでも予定より少し早目に帰国するべきか?という考えは残しておいた、いずれにしろとりあえずアンティグアへ居を移すことには変わりがなかった、もし帰国する場合でもそのほうが地の利があったからである、ということでここサンペドロでの残された時間はあと2日となった、やり残していること、というか気にかかっている場所が2ヶ所残っていた、ひとつは昨日それに近いマヤの聖地には行ったが、そこは富永mapにあったChiutinamitではなかった、なんとしてもその情報を—輪郭でも何でも、あるいは位置を—探りたかったし、できることなら近くまで行って探索してみたかった、もうひとつはサンフアンの守護神ナリツデインディヘナ(Nariz de Indigenaインディアンの鼻)に登ることであった、それらの話はボルカンサンペドロのガイドであったフアン(マヌエルを紹介してくれたマヌエルの弟)と以前にしていた、で行けるとするとその日12日か次の日13日しかないとも伝えてあった、mailのチェックを終えてセントロから戻ったらフアンがいた、わたしを探していたか待っていたようだった、その日あいているということだったがちょっとタイミングがまずかった、もう昼に近かった、もちろん彼はその前から来て待っててくれていたようであったが、その日を約束していたわけではなかった、今からでは遅すぎるのでは?というと、そんなことないと言った、ナリツデインディヘナは登り下りで4時間、そのあとそこがChiutinamitかどうか知らないが、ボルカンサンペドロの山麓に未発掘のマヤ遺跡があるという、そこへ連れて行ってくれるとのことだった、もちろんタダではない、ある意味それは彼の仕事でもあったのだから、、、料金交渉で了解が出たのですぐにパルケセントラルに戻ってピックアップでサンフアンに向かった、そこで1本ペットボトルを買って登り始めた、入り口に小屋があってここも入場料をとる、もちろん外国人だけだが30Qだった、そこから急な登りになり頂上直下は特にきつかった(勾配はボルカンサンペドロよりずっと厳しい)、間違えようのない道であったが、やはりこれほどのきつい登りに彼がいてくれることは心強かった、また不思議なことにその頂上はサンフアンのエリアとサンタクラララグーナのエリアとに分かれており、そちらに入るとお金を取られるから注意するようにと教えてくれた、そのサンタクララララグーナ側には売店があって展望櫓?が建っていた、そしてこちらサンフアン側は絶壁となっていて真下にLago(湖)が広がり素晴らしい眺望が開けていたが、サンタクララララグーナ側はそのままなだらかな丘陵となって部落まで続いていた、サンフアンからは2時間の厳しい登りであったがサンタクララ側から登れば30分とのことであった、頂上(2600m?くらいだったと思う)からの眺めはまさに絶景であった、しばし休んで写真を撮って来た道を下る、サンフアンに降りついたときわたしは疲れきっていたが、それほどのんびりする間もなくピックアップでサンペドロへて引き返し、そのピックアップはそのまま以前わたしが歩いたサンチャゴアティトゥランに通じている浜辺の道まで連れて行ってくれた(われわれが頼んで連れて行ってもらったのではなく、そういう運行ルートであったようだ)、ちょうどわたしが歩いて引き返した辺りでわれわれは下車し、そして彼の先導で道なき山へと分け入った、しかしそれはだいぶ昔のことだったからと言っていたが、すんなりその場にたどり着けたわけではなかった、藪をこぐこと3,40分ようやく彼は明らかに自然のものとは思われない、こんもりとした小山を見つけた、それはコーヒー畑の中にあった、未発掘で盗掘跡もない、昨日マヌエルが連れて行ってくれたマヤ聖地にあったマウントと規模も形も似ていた、小さく無名ながらもマヤの遺跡には間違いなさそうであった、しかしそこがChutinamitだとも思われなかった、確認できるもの目印になるようなものが何もなかったからだ、が、それで十分であった、疲れていたこともあって、小さいながらもその辺にまだマヤの遺跡がいくつかあるらしいことがわかっただけでわたしは良しとしたのだ、やれるだけのことはやったのだから、、、フアンはその帰り街中にある、それこそCasa Andreaのすぐ近くにあるマヤのシンボル?名称は聞き忘れたが、なんといったらよいか礼拝対象となるような祠?のようなところにも連れて行ってくれた、それは民家の敷地の中にあって今はほとんど顧みられなくなっているような十字の石製の遺物であった、まさかと思うようなところにそうした遺品(?遺跡)が残されている、そう、ここはTzutujilマヤの村だったのである、、、

 しかしマヤの伝統・習慣がだんだん薄れていく、せめて言葉だけは残していかないと、先住民世界の最後の砦として‥(幸いにして1996年の内戦終結後、先住民としての意識化は促進しているように思われた、最後の砦という意味は世界の中でグアテマラが少なくとも新世界において先住民の比率がもっとも多く、今後も先住民国家として生き残っていく、あるいは発展していくる可能性がもっとも高いという意味で使った、なおここサンペドロにおいては一部の外国人を除けば住民は100%Tzutujilで、Tzutujil語を話せないひとはいない‥)~

(写真の説明、上から;正面の山がNariz de Indigenaインディアンの鼻、顔を90度傾けて見てください、その下;その頂上からの眺め、右下の街がサンフアンで中ほどがサンペドロ、下段左;マヤ遺跡と思われるマウント、映っているのは2枚ともフアン、下段右:マヤのシンボル?十字の石碑?、名称不明)

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