独歩の独り世界・旅世界

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Guatemala 国内の旅 6)Carolina(サンフアン)、聖子さん(サンマルコス)と再会

 Casa Andreaの朝は素晴らしい、前にも書いたかもしれないが日の出前の小鳥のさえずりと肌寒さでどうしても6時には目が覚めてしまう、そして日の出を拝む、、7時半頃に朝の散歩に出かけ、初めて(サンペドロでは朝食を外でとったことがなかった)朝食を取れそうなところを探した、パナハチェルピア近くにいくつかレストランやカフェのようなところがかたまってあるのだけれど、メニュウを見てもいまいち入る気になれなかった、ちょっと外れたHotel San Antonioに誰も客がいなかったので、そこで15Qで朝食をとる、湖が眺められて静かなところだった、それにしても一時に比べると観光客の姿が減っている、そろそろ観光シーズンの終わりなのか、それとも皆Antiguaに移動してしまったのか?午前中は特に用事がなかったので、通い慣れたサンペドロの街をうろついてネットやさんでmailのチェックをしてからマヌエルの家を訪ねてみた、彼は屋上にいて上がってくるように言っている、彼はそこでなんと自分の家の増築をしていたのだ、そこには娘のダンナもいてどうやら仕事のないときはそうやって自分たちで増築 - 鉄筋を通してブロックを積んで行く作業に励んでいるようであった、すでに3階部分までは完成させて現にそこに住んでいた、それはその土地の(グアテマラ全体の?)経済の厳しさを物語っているようだった、ひとつには絶対的な仕事の不足(失業というよりは仕事そのものがない?)、よって経済状態は厳しく、出来ることはすべて自分でやる、、、余裕はないが慎ましく生きる姿にその日いくつか遭遇することになる、、、

  マヌエルに娘のCarolinaが待ってるよ、と言われたのでそろそろ出かけることにした、が、手ぶらではいけないので手土産を探す、すでに何度か、例えばAntiguaで世話になったなったホームステイ先のMoreno氏とか彼の息子宅を去るときにわたしはデコレーションケーキを探して、それをお礼としてもっていったことがあってそれはおおむね好評であった、もちろんケーキはこちらでも一般的であるがやはり丸ごと買える層は限られている、それでも12等分されたものが1ヶ10Qくらいであったから、それほど高価なものとも思えなかった、しかしAntiguaでは、それこそケーキ屋さんはそこら中にあったがここサンペドロでは街中探してやっと一軒見つけたきりであった、そこには誰が買うのかわからないがカットされていないデカいのが90~100Qくらいでいくつかショーケースに陳列されてあった、そのうちのひとつを選んででかい箱を抱えてピックアップを待つ、すぐにやって来たピックアップのドライバーに後ろの荷台でなく運転席に乗せてくれるよう頼んだ、たまたま客の少ない時間帯であったのでそれは可能だった、ドライバーがわたしが抱えていた箱を見てパステルかと聞くので、そうだ、サンフアンの知人への土産だといって了解してもらった、もちろんCarolina一家にも歓迎され大変喜んで受け取ってくれた、彼らはわたしのために昼食を用意していてくれ、食後のデザートにわたしのおもたせを分けてくれるのであった、、そして新たに描きあげてくれたCarolinaの肖像画にわたしは言い値の200Qを払った、本来芸術作品(かどうかは?だが)に値をつけるのは難しいものである、だから高いの安いのは言うべきでないと思ったからである、しかして正直いってその出来栄えはわたしには余り満足のいくものではなかった、ま、それでもそれが彼らの生業だ、少しでも生活の糧になればと思ってのわたしの気持ちであったが、それが通じたかどうかはわからない~

   田代には富永mapだけでなくさまざまな情報が3階のキッチンに貼ってあったが、そのうちのひとつが気になっていた、クリスタルビーチ・モンテローザMonte Rosa・日本人宿 !?、サンペドロにかつて1ヶ月以上滞在したが、そんな話聞いたことがなかった、が、どうやらそれはサンペドロのことらしかった、しかし今はオーナーの日本人は日本に帰国中で管理人がいるだけ、でも泊まれます!!とのあらたな情報も書き添えられていたが、どちらにしろ行ってみるしかない、聞けばクリスタルビーチはサンフアンとサンパブロララグーナSan Pablo la Lagunaの中間にあって歩いて15分くらいで行けるとのことだった、本来ならば5Q払ってトゥクトゥクで行くの普通のようだったが(その間民家はなく人通りもなくて危険とのことで)歩けない距離ではなかった、しかし確かに埃っぽく歩いている人のいないその道は、ま、多少景色はよかったがあまり勧められる道ではなかった、クリスタルビーチと呼ばれる小さな浜辺も新たに手が入れられ公園のように造られていたが、そこに戯れる海水浴客?観光客は皆無であった(まウイークデイだったからかもしれないが??)、そこまでの道沿いに民家はなかったがクリスタルビーチに接する道沿いにレストランが一軒あって、その先、道の湖側に大きな敷地を持つ別荘のような建物がいくつか現れてきた、しかし入り口も表札もない、注意深くたどって行くと一軒の大きな敷地大きな門構えに出くわす、よく見ないとそれとはわからない感じでたしかに日の丸があった、その道はバスで何度も通っていたが、バスからでは決してわかりようがない、知らなければただ通り過ぎてしまう、そんな感じの宿?をやっと見つけることができた、その日そこに泊まるつもりではなかったが偵察のつもりでベルを押した、しばらく待つとその大きな門構えの一角の小さな扉が開いた、中から顔を見せたのは中年?初老のおじさんであった、日本人ではなかったのでスペイン語での会話となった、だからそこで話されたことをどこまで聞き取れたかの自信はない、しかしおおよそ以下のようなことであったと思われる、まず彼はその広大な敷地にわたしを招き入れてくれた、そしてその一画に建つ母屋へ案内してくれそこで写真を見せながら説明してくれた、確かにそこは日本人の所有する敷地・建物で泊めることはできる(食事の提供はできない)とのことだった、オーナーである初老のご夫婦は今日本に帰っておられる、息子さんが一人いてこちらで結婚されて子供もいる、どうやらそのおじさんはその息子さんが結婚されたこちらの女性のお父さんのようであった、で、その息子さん一家も今は日本らしかった、しかしいつ戻られてもいいようにそこはそのおじさんによって保たれていて、実際ちょっと出かけてて留守しているといった感じのたたずまいだった、湖へと続く広大な敷地、何不自由なさそうなすべての設備が整った家屋、景色も環境も申し分のない最高な立地、誰もがうらやむような生活を放棄して日本に戻られたのだとしたら、いったいそれはどういう理由からだったのだろうか(もちろん一時帰国だったのかもしれないが)?その辺の興味は尽きなかったが、そこまでは聞けなかったし聞いても答えはなかったであろう、、ただ確かにそこに日本の方が住まわれていたという確認はとれたのであった、、、

  さて、そこからサンマルコスに向かうのだが、もちろんそこからは歩いていける距離でない、が他に方法はなく、とりあえずサンパブロに向かって歩き出す、トゥクトゥクが来たら止めよう、しかしトゥクトゥクは通りかかるのだけれどみんな客と荷物で満載になっている、ま、30分も歩けば街まで行けそうなので特に焦りも心配もせず歩いた、サンペドロに戻るトゥクトゥクがやってきてわたしを見て止まった、料金の交渉となる、彼は外国人料金をふっかけてきた、15Q、先ほどの論理からすれば彼らも必死だから15Qくらい彼らのためと思ってOKしても良さそうなのだけれどそこはノー、相場を知っていたからぼられるわけにはいかない、わたしは5Qを譲らなかった、少なくともサンパブロまで行けば客待ちのトゥクトゥクはたくさんいて誰だって5Qで行くことがわかっていたから、そのまま歩き出す、トゥクトゥクのお兄ちゃんは渋々折れた、5QでOKと歩いていたら戻ってきた、トゥクトゥクだとそこから15分くらいでサンマルコスに着いた、降り際に1Qチップを渡したら少し気をよくしてくれたようだった、すでに3時を回っていたから‘あじゃら’はオープンしていた、が、その時間客はいなかったので聖子さんは話し相手になってくれた、わざわざ次の日15日を避けて前の日(その日は4月の14日だった)に来たのも聖子さんと話したかったからであった、次の日15日は毎月すしパーティの日で夕方6時から50Qですしの食べ放題になることは聞いていた、最初はそれにあわせてくるつもりだった、が、そうするとせっかく来ても彼女と話すことができないであろう、そう思って一日ずらして早い時間に訪ねたのであった、その辺のところを彼女もわかってくれてなんでも質問に答えてくれた、フローレスのお友達のこと、サンマルコスのこと、サンペドロでの日本人宿の可能性など率直な彼女の意見を聞くことができた、また、それだけでなく彼女ならではのもてなしにも改めて感激していた、ガロンのビールと甘酢あんかけ定食(味噌汁うまし)、デザートにおからケーキとアイスクリーム、瞬く間の3時間、おなかいっぱい満足いっぱいがそこにあった、素晴らしい女性だ ! !、だからこんな辺鄙なところなのにその日も5時頃からお客は絶えなかったし、そこで働いているインディヘナの女性たちもやりがいを感じているようだった、生き生きとして幸せそうであった(よく働いてくれると彼女も言っていた)、、、7時近くになると帰りがおぼつかなくなる、急いで暗い夜道をほんと手探りでといった感じで船着場に向かった、そこには地元のガキども(小学生くらいか?)が遊んでいて最終はまだあると教えてくれた、そして小遣いをくれとせがんできた、わからない振りをしていると諦めたようにまた3人で遊び始めた、何でこんな真っ暗な中で遊んでいるのか不思議であったが、まもなくそのわけがわかった、彼らも最終の船の到着を待っていたのであった、だいぶ待ってその船の照明が見えた、船着場といってもサンマルコスの場合照明はまったくなく、その船の灯りだけが頼りであった、その船が接岸しようとしたときその船に飛び乗ってもやうのが彼らの仕事(アルバイト)だったのだ、つまり接岸の手伝いをして1Qの小遣い銭をもらう、、たぶん彼らが小遣いをせびるのもそれなりの事情があってのことだったのだ、それだけ資本主義経済はこの国に浸透していた、金、金の世の中になっていく、、、彼ら(グアテマラ国民)に罪はない、彼らよりは少しだけ裕福なわたしは彼らに何ができるか?どうすればよいのか?(よかったのか?)答えは出せなかった、、、