独歩の独り世界・旅世界

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Guatemala/San Pedro 6)ホテルペネレウとサンマルコスあじゃら

 ホテルペネレウPeneleuはサンフランシスコの先20mくらいのところにあって、それほど有名ではなかったがホテルサンフランシスコがいっぱいのときサンフランシスコを訪ねてきた旅行者はたいていそこに落ち着いた、価格もそれほど変わらず(少し安かった?)部屋によっては湖の眺めも悪くなかった、キッチンも付いていた、オカアサンの話ではホテルサンフランシスコと親戚だとか言っていた、、で、そこの主人ともオカアサンは顔なじみだったようで妹さんを送った後そこに長期で滞在する約束を交わしていたようだった、その日の午後学校通いを決めてサンフランシスコに戻ったとき、予想通りすでに満室で、わたしもペネレウに行かざるを得なくなった、その時すでにオカアサンはそこに移っていた、わたしが先だったか、カナダから来たという日本人のSさんが先だったか、いずれにしろその日ペネレウに日本人が3人となった、オカアサンの提案で夕食を一緒にということになり、市場で買い込んできた食材で何品ものおかずを作ってくれるのであった、わたしはビールを提供するくらいしかできなかったが、その夜は宴会となった、いつもは欧米人に占領されていたテーブルを独占してしまって彼らに苦い顔をされたがわれわれの盛り上がりを誰もとめることはできなかった、Sさんはわたしよりは若かったが年配者でカナダ在住35年カナダでプロスキーヤーとして成功した人であった、日本のテレビ局を案内して各地で撮影の仕事等に携わり知見も交流も広い人で、その話は面白かった、またオカアサンも豪快な人で、それまでの波乱万丈の人生を聞かせてくれるのであった、話はGuatemalaの話から中南米の話、そして地球、宇宙へと広がっていって、最後は日本人の井の中の蛙・世界(観?感?)の狭さを嘆いて終わりとなった、、、

 次の朝、朝食もオカアサンと一緒にとった、そしてわたしは初登校となる、授業は8時半から11時半、ホテルから10分くらいのところにあったその学校とはまったく名ばかりのところへ出かけた、マヌエル氏はすでにそこにいてひとつの屋根の下で欧米系のかなり年配の方と話しをしていた、その時紹介された彼はアメリカ人で70歳を越えていた、博識で日本のことも詳しくスペイン語はペラペラ(アメリカでスペイン語を教えていたとか?)だった、今はマヌエルについてツトゥヒル語を学んでいるとのことだった、名前をジョンJohnといった、彼ともその後友達になった、ちょうど8時半に現われたわたしの先生は若くて美人のセニョリータだった、その後彼女は結婚したばかりのセニョーラであることを知るがそんなことはどうでもよかった、この学校を選んだのは正解だったかもしれない‥この美人マエストラ(maestra先生)は名前をカロリーナCarolinaといった、もちろん休まず遅刻もせずに毎日通うことになった~

 その日の午後また一人の日本人がやってきた、オカアサンがまた張り切ってくれてその日の夜も宴会となった、最初にわたしと出あって自己紹介やら情報交換していたとき彼はびっくりすることを言った、なんと彼はわたしと同県人だったのだ、それだけでなくわたしよりも30年後輩の高校の同窓生でもあったのだ、偶然というか奇縁というか、そういうこともあるもんだと余計彼を歓待する気持ちになった、しかし彼の話によると偶然・機縁はそれだけでなかった、彼はアンティグアでわたしが敬遠していたペンション田代に宿泊していたらしいのだが、その田代さんも実は同県人、ましてわたしとは同市の人だということを教えてくれるのだった、だからというわけでなくとってもいい人だったとも言っていた、えー?そうだったのか ! ならば今度アンティグアに戻ったら是非訪ねてみようとその時思った、また彼は30歳前後でまだ独身、わたしのよく知る某大手の会社に勤めているとのことだった、ということはサラリーマン?よく旅ができるね、という話になり、そのための苦労話も聞かされたがわたしにも覚えのあることだったので身につまされた、、なので彼にはそんなに時間がなかった、が、流石にしっかりプランニングしていて効率よく旅をしているようだった、それにオカアサンが適切なアドバイスをし、その後しばらくサンペドロを案内してくれていたようだった、、

 Sさんも学校へ通っているということで、わたしもSさんもその後オカアサンと夕食を共にすることはなかったが、彼(Tetchi君)のいる間オカアサンと付き合ってくれていたようであった、その2日後にSan Marcos la Lagunaでオカアサンの知り合いが日本レストランをやっているけど一緒に行かないかと誘われた、それはもう是非ご一緒させてくださいとお願いした、その前日つまり2月の16日の水曜日、学校の帰りにサンフランシスコのカナダ人のオッサンに出会ったとき、部屋が空いたことを知らされる、彼には空いたら教えてくれるよう前に会ったときに頼んでいた、いずれにしろ狭い街だから一日に一度くらいはどこかで出会っていた、それは彼だけでなくオカアサンとも街で出会うことがよくあった、その知らせを受けたその日わたしはまたホテルサンフランシスコに戻った、前の隣の部屋(K君、Cさんがいた部屋)だったが異存はなかった、前回よりも安く10日分250Qをすぐに払った、わたしがいた部屋には若い美人のグラマーが一人でいてずいぶんと気になった、しょっちゅう顔をあわすので自然と話すようになったが、彼女はオーストラリア人で仕事(病院でボランティアとか)でここに来ていると話してくれた、またこの部屋が気に入ってしばらくここにいるつもりだと言っていた、たぶんしばらくという意味は3ヶ月くらい?、その10日後にわたしはその部屋を出ることになったがサンペドロにはまだしばらく滞在していた、彼女とも街中でしょっちゅう顔を合わせることとなった~

 サンマルコスへ行く当日(17日)われわれは市場のお弁当屋さんで待ち合わせをしていた、そこでもう一人の若者に出会った、彼のことはサンペドロで貸家を借りて住んでいる日本人がいると誰かから聞いていてその彼だった、彼もここの弁当屋の常連だったのだ、彼はその日サンマルコスには行けなかったがその2ヶ月後にわたしがサンマルコスの彼女のところへ行ったとき、その彼(Teppei君といった)が次の日にお手伝いに来るといっていたから彼はサンマルコスの常連でもあったのかもしれない??いずれにしろサンペドロは狭い街・狭い世界であった、、、全員がその弁当屋で簡単に昼食を済ませサンマルコスへ行く各停のボートに乗った、、

 わたしも、Tetchi君にとってもサンマルコスははじめてだったので、オカアサンについて行くしかなかった、ただ3時からの開店にはまだだいぶ時間があったのでサンマルコスの村巡り、小さいながらも教会を中心として静かな村という印象だった、高台からの眺めがよい、桟橋近くには土産物やレストランホテルなどもあったがその数は多くなく、観光客は少なかった、むしろここに住み着いてしまっている外国人が多そうな、そう欧米人が好みそうなところ?、メデイテイションセンターとかヨガ、マッサージなどの看板があり、いわく言いがたし隠れ家あるいは穴場といった形容があてはまりそうな感じがした、そんな一画というかはずれに、いや地図があったとしても初めてでは行けそうもない、人一人がやって通れる細い道を抜けてグラウンドを突っ切ったところにそのエイシアンレストラン(comida oriental)‘あじゃら’はあった、そう知っている人でないと行けない場所だった、そこのオーナーの聖子さんはつまらないガキ供なんかに来てもらわなくて結構と、ガイドブックなどで紹介されるのをよく思ってはいないようであった、いや肝っ玉の据わったお姉さんだ、でなければこんな地で一人でジャパニーズレストランなんかやってはいけない、エルソルの村岡さんと同期で友達だといっていたからこの地に住んでもう20年くらい??いやはや大変な、すこぶる面白いおネエーさんではあった、しかし結論を先に言ってしまうがそこで食べた魚のあんかけフライ定食はまさに絶品であったのだ、、、聖子さんいわくお客さんは欧米人が多いとのこと、ま、何とかやっているけどやっぱり厳しいといっていた、そうだろうな、あの値段では、魚フライのあんかけ定食が35Q ! 安すぎる、夕方からお邪魔してお茶飲んでお茶菓子食べさせてもらって、ビール飲んで一人50だか60Qくらいしか払っていない、、、また店のつくりが凝っていた、美大出身だけあってアート感覚満載のお店は行ってみる価値十分ありであった、しかしそう簡単に行けないところ、またそんなに来てもらいたくないってところがミソだ、こんな素敵なところを紹介してくれたオカアサンとはもう何年もの付き合いとのことであった、もう一度来よう、しかし来られるかな?そんな思いを引きずって真っ暗な夜道を薄明かり頼りに船着場に向かう、19時の最終ボートを逃すと帰れなくなる(もちろんホテルはある、ここは少々高くてだいたい50Q~)、夜のボートでサンペドロへ、それもまた趣があった(湖から眺める夜景も素敵だった) ! !‥

(写真説明 ; 上 : 一応学校の事務所? 中 : 右上の屋根の下に机あり、つまりそこが教室?下 : サンマルコスの船着場)

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