独歩の独り世界・旅世界

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Guatemala/San Pedro 4)サンペドロであった日本人

 次の日(2月11日、金)、それまで一通りサンペドロの街を歩き回って右左がわかるようになっていたが、ひとつの道だけ不明で気になってたところがあって出かけてみることにした、サンペドロには他の町村とつながっている道は3本しかなかった、1本はすでに何回か通っているサンフアンに行く道、もう一本は前日に行ったボルカンサンペドロへ行く道で、その道はそのままボルカンサンペドロを囲むようにしてサンチャゴアティトゥランに続いている立派な舗装道路だった、そしてもう一本わたしが持っていた地図にはやはり立派そうな(地図上では他の2本と同じ太さで)道が、ボルカンサンペドロの湖側のヘリを囲むようにやはりサンチャゴアティトゥランの町まで繋がって描かれていたのである、しかし不思議なことに同じツトゥヒルTz'utujilの村でここサンペドロよりも人口が多いと聞いていたそのサンチャゴアティトゥラン(パナハッチェルについで大きな村)とサンペドロの間を結ぶバス、ピックアップの運行はなかったのだ、後で聞いたことだが、それは二つの理由からだ、とある人は説明してくれた、ひとつは両村間にそれほど人の行き来がなく利用者が少ないから、もうひとつはボルカンサンペドロを経由して行く立派な舗装道路は明らかに比較的新しく作られたものであった、その道路が開通するずっと前から両村は船・ボートで結ばれていた、現在も1時間に1本運行しているそれら船・ボートの関係者従事者の権益を守るためにピックアップの運行は予定されていないとのことだった、もう一本の道のことはそれまでに何人かに聞いたのだけれど言うことは皆同じだった、湖のふちを通っていく道はサンチャゴアティトゥランまで通じているが途中からは車の通行はできなくなるとのことだった、その途中というのだがどのへんだかわからなかったので、ま、行けるところまで行ってみようというつもりで歩き始めたのだった、、、

 その道はわたしのいたホテルからしばらく行くと舗装道路ではなくなった、建物もまばらになり欧米人の別荘風の建物が少し目についた、もちろん湖岸だから別荘としては理想的な立地であった、人々は確かに自転車・バイク・歩きで往来していたが時々明らかにピックアップらしい小型トラックも行き来していた、ただそのピックアップがどこから出ててどこまで行くのかがわからなかったので、その時は利用せず3,40分ひたすら歩いてみた、が、その道はまだまだ続いていそうだった、地図によるとその先にPlaya Doradaという浜があるとのことだったが、歩ける距離ではなさそうだったので諦めた、日を改めることにしてとりあえず街まで歩いて引き返した、街に戻ってnet屋さんに寄って買い物してホテルに戻った、そしたら階上から突如日本人の若い男女が降りてきてびっくりさせられた、えっ?確か上のフロアはカナダ人のオッサンの部屋しかなかったはず?どういうこと??

 わたしがそのホテルに着いた翌日、一部屋しかなかった3Fの部屋が空き、われわれの2Fよりはるかに眺めがよく広いベランダがついているその部屋にカナダ人のオッサンはすぐに引越し、そのあとわたしの隣室にはフランスの若者が入ってきていた、その彼もどうやら後ろの棟に移ったようで、たまたま空いたその部屋をその日本人二人がタイミングよくgetしたらしかった、その時着いたばかりでちょっと上へ行ってそこからの眺めをチェックしていたとのことだった、しばしお互いの自己紹介・情報交換を日本語で交わすことができた、それによると彼らはいわゆるカップルでなく、お互いのスケジュールが一致しているときだけ旅を共有するシェアカップル?(そういう言葉があるかどうかは知らないが、旅人、特に若い人の間ではかなり一般的な方法論のひとつ、ホテル代をシェアする便宜的カップル)でシェラのTハウスから一緒に行動していると話してくれた、彼(K君)のほうはまだ30代前半?京都の人で今北海道で夏場だけ農作業の仕事をしていて農閑期の冬場に世界中を旅しているとのこと、なかなか面白い生き方(やり方)だなと思う、一方まだ20代の彼女(Cさん)は世界一周中でアジア・ヨーロッパ・中近東・アフリカを経由してイスタンブールからカンクンに飛んできたこと、これから南米まで行くつもりだと話してくれた、これまたスゴイ ! 、 確かにこの辺で会う日本人は皆旅のベテランというか強者‹ツワモノ›ぞろいだ、うれしくなってくる、サンペドロ一日の長であるわたしはサンペドロの情報と明日ここからの日の出が素晴らしいことを彼らに伝えた、、、

 翌日朝からそのつもりで出かけた、つまり昨日の道を行けるところまで行ってみよう、ピックアップが来たらそれに乗ってみようと‥、ホテルを出るとすぐにピックアップが来たので飛び乗る、ともかく行き着くところまで行ってみるつもりだった、小型トラックは15分くらい走ったところで終着となった、そこはそれこそ人家も何もないところで、昨日引き返したところはちょうどそこまでの中間地点くらいだったことがわかった、そこまで2、3人の男たちが同乗していた、果たして彼らはこれからどこへ行くのだろう?と興味をそそられ彼らの後を歩きだす、道は、確かに車道はそこまでですぐに人一人が通れる巾の細い砂道に代わった、少し登ると湖の眺めのよい高台に出た、右手がボルカンサンペドロの斜面になっていて山道が上に向かって延びていた、男たちはその道を登って行った、そうか、彼らは山仕事(その斜面はコーヒー畑となっていた)に入ったんだとその時わかった、ということはピックアップは彼らにとって通勤トラックであったわけだ、なんか微笑ましかった(が、見方を変えれば彼らはいつ強盗に豹変するかもわからない、ということもできるのだ)、、、わたしはそのまま湖のヘリに沿った道を行く、そこからは一人になった、人家はまったくなく人通りもまったくないところ、つまりいつ強盗に出会ったとしてもおかしくないところであった、誰もこんな道を行くことを勧めない理由が納得された、が、しかしだからこそ行ってみたくなってしまうのだ、性分とはそういうものだ、あるときは草原、あるいは疎林・藪の中のしかししっかりした踏み跡、車は通れないけれどちゃんとした道だった(アップダウンはほとんどなかった)、しばらく行くと二手に分かれる、標識はない、一方は少し登り気味、もう一方は湖に沿っていた、迷ったが左の道、湖に沿ったほうの道を行くことにする、そうやってそんな道を30分くらい歩いたか(もちろんその間誰とも出会うことはなかった)部落のようなところに出た、石造りの建物が2,3あったが人の気配はなかった、が洗濯物が干されていたのでそこに人が住んでいるのは間違いなかった、そこを抜けるとさらに道は細くなったがそれでもずっと湖沿いに続いている(湖沿いといっても湖岸までは多少距離があって降りられそうもなかった)、サンチャゴアティトゥランの街はまだ見えなかった、どこかで引き返したほうが良さそうだった、区切りになりそうなところはないかと歩いていると今度は石造りの倉庫のような建物があった、それは現在使われている様子はなかった、何のための倉庫だったのであろうか?見当もつかない、、、それよりも、そろそろこの辺でいいか、という思いがあったのでそこが折り返し地点となった、来た道を戻ったが帰りも誰とも出会うことはなかった、来たときに左の道を選んだ分岐点まで戻って、もう一本の道を少し行ってみることにした、その道はボルカンサンペドロの中腹?少し高いところを巻くように続いていた、しかしこちらもしばらく行ってみたが、人が住んでいる気配のない建物が1,2軒あったきりで特に湖の展望がよくなるというのでもなかった、で10分くらい行ったところで引き返した、その時初めて人と出会う、まだ少年のような若者だった、突然だったので逆にちょっと驚いてしまった、聞くまでもないことであったがどこまで行くのかと聞いてみたらサンチァゴアティトゥランまで行くと返事した、やはり行けるんだ、しかし物騒な道をよくまあ、と思ったがそれ以上は何か話したかもしれないが覚えていない、いずれにしろ驚いたのはもしかしたらわたしよりも彼のほうだったかもしれないと、その後思った、結局1時間半あまりそのあたりをうろついていたことになるが、出会ったのは一人きり、帰りに湖の展望がきく誰もいない丘(行きに見つけていた場所で、わたしのお気にいりとなった)で写真を何枚か撮って、またピックアップに乗って街に戻った、、、

 そのピックアップはどこから出ているのかを知るために、終着まで乗っていたらやはりパルケ脇(サンフアンに行くピックアップが出ているところの近く)で乗っていた人たちは皆降りた、2Qだった、公園脇の屋台でセビチェ(魚貝のマリネみたいなもの)を売っていた、たぶん湖で取れた魚貝ではないと思うのだが(いや海岸地方からは結構距離があるのでもしかしたらアティトゥランで取れた魚貝を使ってる?)、それまでにもこの地で何回か売られているのを見ていたし実際食べたこともあった、生の魚貝が食べられるのは嬉しい、その日も昼食のおかずに買って帰る、帰って飯を炊いてセビチェ飯&ビールは簡単で最高の贅沢であった、、そして昼寝、、、その日の午後また一人(正確には二人)日本人がその宿にいたことを知る~

 そのおばさん(おばあさん?)は確かに日本人ぽい顔つきであったが、結構達者なスペイン語で宿の主人と話をしていたから最初は日本人だと思わなかった、わたしを見て日本人かと聞いてきたので、やっと安心して日本語で話すことができた、なんでも昨日から後ろの建物(4棟あるうちのひとつ)に妹さんと二人で滞在しているとか、言われなければそんなお年とはまったく想像できなかったが彼女は70歳だと言った‥70歳?スペイン語が達者?相当分けありでここにきていることが容易に想像できたが、よく喋るそのおばさんはわたしが聞く前に自らその生い立ちや経緯を語ってくれるのであった~それによると、ま、いろいろあったようだが何でもお若いときにブラジル人のお医者さんと結婚されてブラジルにずっと住んでらっしゃったとか(日本で生まれているので日系ではない)その後死別か離別かわからないが、別かれられて、たぶん財産をたくさんもらって悠々自適の中南米暮らしをされてきたことを知る、前にエルソルの村岡さんが日本人で永住ビザをとって住んでいる人がいるといっていたのはまさにこのおばさんのことだったのだ、、、、名前をS子さんといった、だからもちろん村岡さんもシェラTハウスのTさんも、その後にあったグアテマラ在住の日本人の中で彼女のことを知らない人はいない、という有名おばさんだったのである、その後このオカアサン(わたしは彼女のことをそう呼んだ)としばらくお付き合いすることになる、で、たまたまやはりブラジルに住んでいた妹さんを呼んでグアテマラを案内しているところだと言っていた、その妹さんは次の日だったか翌々日だったかにブラジルに戻ることになっているということだった、またシェラにもしばらくいたということでシェラから来たK君Cさんのことを話すと知っているという、その晩彼ら二人を交えて、口から生まれてきたと自称していたオカアサンのおしゃべりはととまることがなかった、、、

 どうもこのオカアサンは人を呼び寄せる力があったのかもしれない、その2日後にはカナダ在住の日本人Sさん、その次の日にまだ若いT君に出会い、わたしとオカアサンを含めた4人はホテルサンフランシスコの近くホテルぺネレウで偶然というか必然というか一緒になる、その経緯は次回に‥

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