独歩の独り世界・旅世界

他のサイトに書いていた'独歩の独り世界・旅世界'を移転しました

ミャンマーの旅 12) バガン 4日目

 4日目の朝を迎えたが3日間とも快晴で気持ちのよい朝だった、朝食のとき3つしかないテーブルはすべて埋まっており、一人で朝食をとっていたヨーロッパの若い女性のテーブルに相席させてもらった、自然と自己紹介からこれまでの旅の話しになり、彼女がロシアの人だということがわかった、これまでわたしもけっこういろいろなところを旅してきたがロシア人と話すのは初めてであった、それにしてもロシアの小説に出てきそうな優雅さを兼ね備えた超美人が一人で?もちろんそんなことはなかった、実は夫は昨日仕事のため先に帰国されたとのこと、これまで1ケ月近く南太平洋から東南アジアを回ってきたこと、その間日本人ともたくさん出合ったことを話してくれた、おまけに日本の事情をよく知っていてたいてみんなショートバカンスしか取れなくてかわいそうだと言っていた、いやまったくその通りで今回の旅で日本人に会ったのはヤンゴンで会った女性一人きり、それも仕事があるから次の日帰国すると言っていた、1月5日ごろまでには世界の観光地から日本人はみんな姿を消してしまうのだろうか?それを知ってて彼女はわたしがここにいることを不思議がった、いやわたしはリタイアしているからと答えたが、そんな歳には見えないと言ってくれた、確かに半分お世辞が含まれているにせよ、これまでに出会ったすべてのミャンマー人からもわたしの推測年齢は10~20歳も若く見てくれていた、実年齢を言っても信じてくれなかったが、それは若者と同じようなスタイルで行動していたからというより、わたしは実際旅に出ると自分が若返ってしまうのではないかと思っている、こうして若い美人と朝食を取れるのもその秘訣のひとつだ

 すがすかしい朝にもう一人の美人との再会があった、その日最初に現れたのはわたしをこのホテルまで連れてきてくれたリキシャマンであった、彼曰くTUNTUNは具合が悪く今日は来られない、自分がトライショー(自転車リキシャ)で案内するという、えっ、そんなバカな!そんなはずはない、まだ時間が早いからもう少し待ってみる、と請合わなかった、しばらくしてTUNTUNは現われ、早速馬車に乗り込み出発、TUNTUN曰く彼はしばらく売り上げがなく商売上がったりだったのでそんな嘘をついたのだろう、いずれにしろ彼とは兄弟でもなんでもない、悪い人間だ、自分の稼ぎから20%もピンはねしていると初めて打ち明けてくれた、いずれにしろ自分もカートのオーナーにさらに稼ぎの何分の一かを払わねばならない、だから客の取り合いになることもあると現状の厳しさを訴える、このリキシャマンにしてもマンダレーのTUNTUNにしてもiその構図は同じようだ、そしてそれらを牛耳っているのが中華系の人々?馬車が最初向かったのはそこの多くを中華系の人々が仕切っているニュアン・ウのマーケットであった、まず両替をし次に切手を買いにとある雑貨屋に、実は昨日どこかに切手は売ってないかとかTUNTUNに探してもらってやっと見つけたお店だった(どういうわけか郵便局は閉まったまんまだった)、そこは何やさんだったかよくわからないのだけれどともかく日本まで100K(10円?)の切手2枚売ってくれた、おまけに糊をさがしてきて封筒に貼ってくれるのだった、それがあまりにもきれいなミャンマー美人だったのでわたしはまた2通の手紙を書いてわざわざ会いに来たというわけであった、まだ歳若いTUNTUNはきっと呆れていたことだろうが、その彼にしたってこれまで何人もの日本人女性をガイドしていて日本人女性はいい、いい、といつも言っていたのだからお互い様というか男ってヤツは老若ところを選ばず、しょうもない生き物なのかもしれない‥

 切手のあとは地図を探す、昨日別れ際にTUNTUNに宿題を出していた、それはもしミャンマーへ陸路ではいるとしたらどこか可能なところはあるか、というものだった、それに答えるため彼はわたしにミャンマー全土が載っている地図を持っていないか、という、持ってなかったので、では買いに行こうということになったのだが彼は地図を売っているところを知らなかった、そこで市場中の人に聞いたが誰も知らない、と、あるおばさんが探してきてくれるという、しばらく待っているとどこからか手に入れてきた、そしてかなり吹っかけてきた、どう見ても高すぎる、変な話地図を巡っての交渉が始まる、たぶん定価はあったのだろうが要は手数料?探し賃を払えということだったのだろう、わたしも折れない1ドルぐらいの地図に倍の金額は払えない、そうこうしているうちにふとおばさんが持っていた手作りの手提げかごが目に入った、カラフルで素敵なかごだった、すぐさまわたしは方向転換してそのかごがほしいと言ってみた、ま、それにしたって普段の日用品だからせいぜい2~3ドルの代物であったろう、ただそれは現にこのおばさんが使っているものだったから果たして売ってくれるかどうか、結果的にわたしは高い買い物をしてしまったのだがその地図とかご合わせて6ドル払うこととなった、どうやらこの勝負おばさんの勝ち!

 市場を後にした我々は閉まったままの郵便局の前のポストに手紙を投函し(ここから出した手紙はそれでも1ヶ月かかってちゃんと日本の友人に届いた、ちなみにマンダレーの郵便局から送った手紙は切手代が30K3円?だったにもかかわらず2週間で届いた)とある茶店の前で停まった、茶を飲みながら早速ミャンマー全土の地図を広げてTUNTUNの情報を検討することにした、それによるとタイ北部ラオスとの国境近くのメーサイから陸路でミャンマーのタチレイに入りチャイントン経由でタウンジーへ出られるとのことであった、今度来るときはタイから陸路で入りたいというわたしの希望は可能性をみつけ出したかに見えた、しかし帰って調べてみると確かにメーサイからタチレイに入れるのだがタチレイから先はチャイントンまでの観光ツアーしか認められておらず、いずれにしろタチレイからタイへ出国しなければならない、ということがわかった、ま、それはともかくこの3日間いやミャンマーに来て1週間、いつかもう一度来ようという気持ちが湧いていた、バガンをTUNTUNをそしてこの馬車を名残惜しむように最後の半日ツアーに出発した

 残りはわずか2~3時間、しかし主なパゴタ゜・寺院はすべて昨日までに見終えていた、その日向かったのはミンナントゥ村方面ほとんど観光ルートから外れており砂地を行く馬車は誰ともすれ違わない、しかし行く手にはいくつもの遺跡が残されていた、それぞれに番人がいて彼らは鍵を持っていて中を見せてくれ説明してくれる、フレスコ画がきれいに保存されている遺跡がいくつかあったが、いずれのところでも1975年の地震でかなりダメージを受け、ここの部分はそのあと修復した部分ここは昔のまんま、といった説明を何度も聞かされた、できる限りチップを渡したがそのうち小銭がなくなってしまって最後はゴメンナサイしてしまった、最後のほうに寄った遺跡はかなり大きなところで土産物売りがいた、どこにも置いてそうな布地に描いた絵を売っていたのだが、その絵柄がどこも同じに見えたので、すべて自分で描いたとみんな言ってるがきっとどこかで大量生産したものであろうと冷やかし半分で覗き込んだら、こちらの疑いを見透かしたようにその場ですらすらと絵を描き始めたのにはびっくりさせられてしまった、そのとき描いてくれた売り物ではない簡単なデッサンとミャンマー伝統宗教に則った8つの守護動物が描かれた1枚の色彩鮮やかな絵が今わたしの手元にある‥ またこんなこともあった、それはその前日であったか、とある寺院の上からその眺望を楽しんでいたら地元の小学生低学年くらいの女の子が寄ってきた、片言英語で話ができた、なんかくれという、たたではあげないというと、やおらわたしの持っていたノートをひったくって絵を描きだした、それがなかなかのものだった、で仕方なしにチップを少し上げたらこんな小額!と憎まれ口をたたかれてしまった、そんな話をTUNTUNとしていて、そういえばマンダレーからバガンに来るバスの中でずっとビデオで音楽番組を流していて乗客もけっこうそれにあわせて歌っていたがあれはミャンマーの歌かと聞いたら、そうだという、わたしはもしかしたらミャンマー人は相当に高い芸術的センスを持っている民族に違いないと彼に伝えた

 それは彼に紹介され馴染みになったバスターミナル前の食堂で別れの宴を開いたときにもあらためて思ったことだった、宴といってもいつもの定食にビールだったのだが、料理のセンスに関しても我々日本人に劣らぬ美的感覚を持っていることに気づかされた、名前は忘れたがそのときのデザートの豆菓子がとっても美味だった、こうして3日間単なる旅行者とガイドといった関係を越え素晴らしい付き合いができた彼の人柄人間性をたたえ充分でなかったかもしれないがそれなりの礼をし再会を約束して別れた、バスは定刻15時にバガンを離れた

2010_0109001jpg_blog 2010_0110004jpg_blog 2010_0109007jpg_blog