独歩の独り世界・旅世界

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アメリカ・メキシコ・キューバの旅 17) ラカンドンの村

 今手元に‘最後のマヤ民族〈新潮選書〉’という本がある、1980年発行当時はまだお若かったと思われる若林美智子さんという方が書かれた本である、わたしより10歳も年配の方だが1975年から2年間、わたしがこれから書こうとしている村を含めたこのラカンドンの地に滞在されて書かれた旅行記で1978年の日本旅行記賞というのをとられている、わたしがこの本を手にしたのはいつだったか?もちろん1999年の旅のずっと前であったことは確かだ、この本を読む前からラカンドンについては多少知っていたしマヤにも興味を持っていたのでこの本に触発されてこの地にやってきたわけではない、しかし少なからずおもしろい本だったのでわたしの頭の片隅に残っていたのは事実だった(今はすっかりその内容を忘れてしまっているが)

 2000年1月1日午後ヤシュチランの遺跡を見学したわれわれは再び船に乗ってラカンドンの村に戻ってきた、ウスマシンタ川の船旅はその30年ほど前に何人かの仲間と下ったアマゾン川を思い出させた、ワニもいたし水鳥も多くジャングルに小動物(猿?)の動きを数回見る、それでも動力船の船旅は快適であった(われわれが下ったアマゾン川のゴムボートによる川くだりに比べて)、上陸した一行は小錦にそっくりな姿かたちのドライバーに明日の待ち合わせ場所(ピッキングポイント)と時間を告げられ、わたしとアメリカ人のカップルを残してパレンケの町に戻って行った、残されたわれわれはそれを希望していたわけだがその夜ラカンドンのマヤの末裔たちの村に宿ることとなった

 1975年に若林さんたちが訪れたときにはまだこのラカンドンの村までパレンケからの道はなく、そこに行く手段は軽飛行機であった、それゆえ未開状態がつづいており、逆に言えばだからこそわれわれ探検家も含め多くの人類学者や民族学者、未開を好む旅行形の興味を引いていたわけだ、が30年ばかりの間に様相は一変したに違いない、いつ開拓されたか知らないがジャングルの中に一本の道が通った、文明化の一歩が始まった、がこの道がそこの人たちに幸せをもたらす道であるかどうか、世界の多くで見られるとおり果たして誰にもわからない、しかしそれが歴史の流れというものか?歴史によしあしはないのだから(常に相対的であるから)世界の各地で見られるように文明化・近代化の第一歩は道と電気(一対となっている)にあると思われる、車が入る・テレビが入る、モノが入る情報が入る、人が押し寄せる、世界が相対化していく、それが良いのか悪いのか?誰にとって?先に文明化し近代化した文明人・近代人の驕りでなければよいが‥

 わたしに描写力がないのでできれば興味のある人はこの若林さんの本を見ていただきたいのだが、そこにはたくさんの写真や図が載っている、家は粗末だが立派なもの椰子で葺いた屋根、腰までの高さの板壁の何十人も入れそうな土間に大きなテーブルが置いてあった、旅行者用の食堂兼居間のようだ、風が通るので心地よい空間、住人はこのような建物にハンモックを吊るして寝室にもしてしまうのだろうが、われわれ旅行者用にはテントがいくつか設置されていた(これは明らかに民宿業をなすために新たに設けられたものだ)、わたしはテントには慣れていたので違和感はなかったがむしろハンモックで寝たい気分でもあった、夕食には骨付きの肉(何の肉だったか記録・記憶なし)ポテトフライ、トマト・たまねぎ・きゅうり・アボガド等の野菜たっぷり、立派に民宿業をこなしていた、食後にはどこからやってきたのか近所のおばさんたちが集まり、土産物の展示と即売会が始まった、素朴とはいえ貨幣経済の波にさらされているわけだ、そしてコカコーラありビールあり、彼らの住まう母屋では夜ともなればテレビにみんな夢中であった、そうやって彼らの世界が変わっていく、喜ぶべきことか悲しむべきことか‥しかしわたしが訪れた時点ではまだまだ素朴さは残されていた、服装も若林さんが訪れたころの写真にあったままだったし(単筒形の一枚布?)髪型もそのまま(長髪)何よりそこの人たちの顔立ちは若林さんの本の写真のままだった、マヤの伝統・文化・そして宇宙観といったものはいつの日まで生きながられる???その夜見た蛍の海を思わせる光の舞と満天に輝く銀河の瞬きはわたしにとって生涯忘れることのできない美しさだった‥