独歩の独り世界・旅世界

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『独歩爺最後の旅』インド篇 その 2, ゴア Goa 1, Panajiまで

わたしが乗るはずだった飛行機より1時間45分早く14:45に無事Goaに着いたまではよかったのだが、そのあともなにがなんだかわからないごたごたは続くのだった。それはルワンダがそうだったように、事前に調べてもいなかったし(そもそも最初から予定していた目的地ではなかった)ガイドブックも、また頼りになる情報も何一つなく来てしまったが故の混乱でもあった(何とでもなるだろうと舐めていた部分もあったかもしれない)。いや先発隊がいっているから何とかなるだろうという想いは確かにあった、というのもGoa行きを決めたのも数日前からの友人の情報をあてにしてのことだったのは事実で、日程調整上どこでもよかったのと、他にいってみたいところが思いつかなかったのも前回述べた通りであった。で、Goaの空港を出たあたりから、空港に近い街Vasco da Gamaへ出るためのバス停の場所といき方を前日lineでもらっていたから、まずそこを目指す。はっきりしたバス停があったわけではないが、その辺りにバス待ちらしい人はいたから、そのうち来るだろうとあまりあてにせずに待つ、来なければバイクタクシーがやたらいるという彼女の情報はこの時は偶々外れたようで、その時全く目にしなかったし、バスもなかなか来なくて少し焦る。タクシーのシェアも考えたが、3人いたバス待ちは一人が車を捕まえて脱落したから、結局40分くらいバスが来るまで待ってしまった。Vasco行のバスは20Rp、30分くらい乗ってVascoのターミナルらしいところに着いた(あとでもっと大きなターミナルがあったことを知る)。わたしはこの時点でもまだGoaの中心がPanajiというところだということを知らずにいてオールドゴアもそこが歴史地区だということは知っていたが、それがどこにあるのかさえ知らなかったのである。なのでとりあえずこのVascoを拠点にすればいいかと、ここでホテル探しを始める。airbnbで予約した宿(3/1~3)もどこにあるのか全く調べておらず、それも次の日一日かけて探すつもりでいたのだ。で宿探しにはモト(バイクタクシー)がいいだろうと、その辺りにはたくさんのモトドライバーがいたので交渉し、50Rpで宿探しをしてくれるドライバーのバイクの後部シートに跨り、ともかく安宿に連れてってくれるようお願いした。が、意外にもすぐに見つかるだろうというわたしの思い込みは、たいしたことのない宿で2~3軒断られてしまう。理由はよくわからなかった、ならばと少し高級そうなホテルに連れてってもらった。1900Rpでエアコン付き、願ってもない中級ホテルであったが、パスポート拝見というので渡すと、ここでも断られることになった。モトドライバーも困惑していたからそのホテルの人に改めて聞いてみると何やら許可証がないとかいっている、どうもインドは州によって法律が違うのでそんなこともあるのかと呆れてしまったが、要は外国人を泊めるにはその許可証を持ってなければならない、つまり軒並み断られたホテルはすべてそれを持っていなかったのであろうことがこの時ようやく明らかになったのであった。このホテルでダメならVascoでいくら探しても無理かもしれない、ということで、ならばPanjiにいくしかないとドライバーに言われ、そこへ行くバスターミナルへ連れてってもらったのだった。もっと大きなバスターミナルがあってエアコン付きのバスが待機していた。かわいそうだったがそれほどの距離を走っていなかったのでモトドライバーには50Rpで納得してもらった。Panajiまではけっこう遠くて小一時間かかったか?48Rpだった。PanajiのバスターミナルはそこがGoaの中心だったようでインド各地への長距離バスの出ている大きなバスターミナル(KTCバススタンドといったか)であった。

 

ま、やはり情報不足、特にこの時は地図がなかったのが大きかった。また、スマホでの確認もわたしの場合WiFiが繋がってないところではチェックできなかったので、あてずっぼというか、まさにカンだけが頼りで、それがこの時は全くあてにならずに往生することになった。ここでもまずモトドライバーを探すのだがこれがハズレだったことが致命的であった。あとからそのターミナルの近辺にはいくらでも適当なホテルがあったことを知るのだが、夕暮れ近い黄昏時に、黄昏れジジイのバイクにまたがってしまった一方の黄昏れジジイ(わたし)は相変わらず軒並み断られるホテル探しに、Goaの中心の街Panjiを隅から隅まで2時間ほど走り回ったかもしれなかった。十数件は訪ね回ってくれたと思うが、すべてfull fullと断られたのはやはりわたしを見て外国人とわかったので断られたとしか考えられられなかった(これでわかるようにGoaのモトドライバーはほとんどこの許可証のことを知らなかったのではないかと思われる)。いい加減呆れ疲れ果ててたどり着いたところは、この爺さんが最初に連れてってくれた1500Rpの宿であった。その時はまだ明るかったのだが、この時NGにした理由は1500Rpの宿でエアコンがなくWiFiもつながってなかったからだった。が、今思うとそこは許可証を持っていたと思われる、断ったのは宿の方でなくわたしの方だったからである。モトドライバーはここしかないという感じでそこへ戻った、その時数m手前にもう一軒宿があったのを見つけ、わたしは勝手にバイクを降りて歩いてそこへ行ってみた。見た感じが直感的によかったのだ。で、受け付けで聞いてみると、たぶん幸運が巡ってきたのだと思う、その時そのホテルのオーナーがそこにいて、もちろんわたしはPanaji中宿探しをしたが見つけられなかったというと、確かに哀れんでくれたのかもしれないが、彼がスタッフに確認していうには、その時空き部屋は3人部屋しかない、もしわたしが二人分の料金1600Rp払ってくれたらokだといってくれたのであった。部屋を見る必要はなかったが一応スタッフと一緒に部屋を確認、大きすぎるだけで問題ないことと1600Rp払う用意があることを伝えると、何やら書類を出して、必要なところをわたしに書き込むよう言う、たぶん名前やパスポート情報だった思うが、そこにすべて書き込んで彼に渡すと、裏表の書類に更に何かを彼が書き込んで全てokとなったのであった。つまり許可証がなくても書類の提出でその問題はクリアできたのかもしれず、ただそれが面倒ですべて断られた可能性もあったことをその時知るのであった。で、あとの問題はすでにこのホテルで交渉していることを知ったモトドライバーがそこに来ていて、約束の100Rpはすぐに払ったが、ま、2時間も走り回った身としてはそれで引きさがるわけにいかず、なんだかんだいってきた。しかし100Rpのバクシーシ(tip)には応ぜず、それでも50Rpは渡して納得してもらったのだった。いずれにしろ宿が決まり一件落着、思った通りそのホテルは当たりだったのだ。①その晩は食べなかったが、そこはレストランと一体になっていたこと②WiFiが繋がっていたのである③別にそこだけの話ではなかったが、Kingfisher(ビール、先にいったようにインドは州によって法律が違うので)がムンバイの半額、しかもその店で手に入ったこと等々が挙げられた。ようやくlineが繋がって、シャワーを浴びた後、その朝空港に行く前に仕入れてあった食料をビールのつまみにしてようやく落ち着くのであった。

 

しかしGoaの悲劇(どこかでこの言葉は使った覚えがあるが、そういう意味では今回の旅は失敗の連続、悲劇の連鎖だったかもしれない)はまだ続くのである。あくる日1Fのレストランでプーリ(マサラ?)とチャイの朝食をとってmail lineのチェックをして10時ころチェックアウトするのだが、なんといってもこの時WiFiの接続にこだわっていたのは、急遽予約した(3/1~3まで二泊)airbnbの宿の住所も連絡先も全くわかってなかったからであった。で、その朝初めてその所在が明らかになり、同時にgoogle検索でその場を確認すると、全くふざけた話でそこはなんとバスターミナルから歩いて10分くらいのところだったことがわかったのである。ところが前日2時間もかけて落ち着いた先(今いるホテル)はバスターミナルから歩けば30分、普通はバスを利用していく距離のところまで来てしまっていたのであった。しかしそれがわかっただけでもその日の行動は決まったようなもので、悔しいからチェックアウトしてその宿を探しに、つまりバスターミナルに向かって歩き出したのであった。すでにかなり暑くなっていた、そこら中にでこぼこのあるバス通り(Rio de Ouren オーレン川沿いの道)を北に向かって歩いていく、20分くらい歩くと前日にバイクに跨って通り過ぎた昔風の街並みの向こうに、見覚えのある湾のような川(Mandovi River もちろんこれらの名称はこの執筆時にgoogleにでていたものを載せている)が見えてくる、その大通りから一本路地を入ったあたりが情緒ある昔風?ポルトガル風?の古びた建物の並ぶ一画があった。どうやらその一画のどこかにairbnbのホテルはあるはずだった。うん、この場所なら雰囲気があって面白そうだ、とかなり期待した。そしてどのホテルかを探すのだが、この時ほどairbnbといえどもピンキリで、おそらく最悪のホテルにあたったことを知らされることになるなどとは思ってもいないことであった。まずまず住所がでたらめではっきりしていなかったのだ、ただホテル名だけは出ていたから、150mほどの一画、通り3本を隈なくチェックしたが見つけることができなかった。わたしのケータイは海外使用できなかったから連絡の取りようがなく、もう誰かに聞くしかなかった。何人目かで近くにお住まいだったご夫婦が、そのホテル名を知っていてそこへ連れて行ってくれた。そこは古い建物だったが確かにそのホテル名は出ていて受付は2階のようだった。外階段を上がって2階へ、呼び鈴もなく、ただ扉は開いたので中に入って<こんにちは>と声をかけるも応答はない、しばらく待ってみるが誰も現れない、そんなホテルってある?もっともairbnbはホテルとは限らない、普通のアパートの一室の場合だってあるのだから、だが、散らかしっぱなしの事務所兼応接間の一室に誰もいないとはどういうことなのか?不安になってくる。しばらく勝手にその応接間のソファで待つしかなかった。するとしばらくして、わたしの来訪を知って出てきたという感じでもなく、ひょっこりとおっさんが顔を出した。来意を告げ名前をいうも、何かよくわかってない感じ、ここはairbnbのホテルですよね?と聞いてみるがはっきりした答えはなかったのだ。あとでわかったことは、このおっさんはネパール人の使用人で英語がほとんどわからなかったということだったのだ。しかし、彼はわたしが来ることはわかっていたようで、部屋の場所を教えてくれ、鍵だけは渡してくれたのだった。わたしはそこがairbnbの宿であることを疑ったのである(それはそのオーナーよりも、こんな宿を認可しているairbnb、この場合airbnb Indiaに対して、とでもいった方が適切か?)。オイオイオイ、である、こんな宿があっていいのか ! ?こんなんで金取っていいのか ! ?

ようやく落ち着いたホテルのレストランで朝食をとる 3/1朝 

airbの宿の近くの湾のような川(Mandovi River) なかなか風情のあるところではあった ↑↓ 

人に聞いて連れてきてもらったairbnbのホテル

ホテル前の路地

冷静に振り返ってみると、こんなのも含めてインドなのである。インドならありうるという話でもある。当たりはずれが多すぎる、振幅の幅が大きすぎる。だから面白いのかも知れなかった。しかしここまでひどい目(宿)に出会ったことはなかった、この無責任さ、腹立たしさのぶつけどころがなかった。その使用人を責めても暖簾に腕押しなのでどうすることもできない、もっとも堪えたのはせっかくWiFiが通じていたのにパスワードがわからなかったことであった。そのことをその使用人にいってもチンプンカンプンだったので、とうとうわたしの堪忍袋の緒は切れて、オーナーに電話するよう迫る。何回目かで繋がって、わたしのいっていることは相手に伝わったようだったが、それに対する返答がきつい訛りのため全く聞き取れなかったのだった。万事休す、わたしの呪いの言葉はどこかで好き勝手やっているであろうこの無責任オーナーの耳には届いたと思っているが‥??

 

為すすべなく思案に暮れる、さてどうしたものか?とりあえず薄汚い小さな部屋とはいえ、一応バストイレ付き、シングルベッド、エアコン付きで寝床は確保できたのである(椅子もテーブルもなし)。問題はWiFiだけのようであった。ならレストランかカフェにいけば・・日本のようにネットカフェがあったり、必ずしもレストランやカフェにWiFiが繋がっているわけではなかったのである。だから繋がっていそうな場所、繋がっていそうなレストランを探すしかなかった。そこにいても仕方ないからバスターミナルにいってみることにする。そして比較的大きなレストランがあったので入店する前に確認すると、やはり無理であった。ターミナルには大小さまざまの店がでていたが、その最も可能性のあった店がダメだったのでWiFiはあきらめ、飲み物やパンを売っている一軒の店で適当にパンと飲み物を買って、その店付設のテーブルと椅子を借りてそこで昼食とする。そこの店員にオールドゴアOld Goaにいくバス乗り場を聞いて、ともかくターミナルを脱出することにしたのだった。

 

Old Goaまでは2~30分20Rpだった。湾のようなマンドヴィ川 Mandovi River沿いの道を行くOld Goaへの道はまだMumbaiしか知らない身にはそれなりに新鮮であった。左手に白亜の教会、右手に古めかしい教会が見えてくるとそこがOld Goaだった。やはり観光客は多く、目に入ったその二つの教会の写真を撮って、古めかしい方のボンジェス教会Basilica of Bom Jesusは中に入れたので近くまでいってみた。Old Goaの情報も持っていなかったから、そこだけかと思って少し歩き回ってから、川の方にいってみる。その道は川で行き止まりになっていたが、対岸に渡る渡し舟が往来していて、タダとのことだったので乗せてもらって写真を撮って戻る。川風がとても気持ち良かったので、もう一往復させてもらった。わたしにとっては教会よりよほど興味のある被写体となった。さらに人通りの全くない森の中の道を行って、遠回りしてBasilicaのところへ戻る。大きな敷地の角の一画に観光客用の立派なレストラン&土産物屋があって、覗いてみるとメニューは高かったので、いつもなら入らなかったと思うが、WiFiは繋がっているかという問いに、もちろんと若いお兄ちゃんが答えてくれたので入ってビールとちょっとしたスナックのようなものを注文し、そこで結構な時間潰しをさせてもらった。それまでの未読を確認し、重要なものはほとんどなかったので、ビールとWada?というスナック代として約200Rp払って店を出、またバスでターミナルに16時頃戻る。そこからホテルまでは14,5分だったか?ホテルまでの間にRio de Ouremオウレン川にかかる橋があってそこからの眺めは悪くなかったのだけれど、その川沿いの道に数件立派なホテルが建っていた。バスターミナルそばのこんなにいい立地に、なかなかいいホテルがあったではないか、昨日のモトドライバーは何で最初にここへ連れてこなかったのかと怒りを覚えたが、もしかしたら近すぎて、それなりの代金を請求できないとでも思ったからなのか、ま、あり得ない話ではなかった。それよりも、今のところがひど過ぎるから、参考のため聞いておこうと2軒あったホテルの受付で事情をいって聞いてみると、それぞ2000~2200Rpとのことであった、いずれもエアコンWiFi付きである。この時ここでもわたしの選択が失敗であったことを知るのであった(この時思った選択ミスとは、①まずGoaの選択②airbnbの宿の選択③前日のモトドライバーの選択)。いずれもこういうものは当たりはずれがあって、時の流れがあって、運不運があって、偶々の結果なのだけど・・・、、

最初に目に入った白亜の教会 Church of St. Francis of Assisi 2枚 ↑↓

 

右手に見えたフランシスコザビエルの遺体が安置されているというボム・ジェズ教会
Basilica of Bom Jesus 2枚 ↑↓

川への道左手にカテドラル Se Cathedral 2枚 ↑↓

Viceroys Arch (何の門だったかはわからず)ただアーチの向こうに川が見えている

Arch の説明が書かれていたが読んではなかった

フェリーが行き来していた 4枚 ↑↓ 

わたしも車と一緒に乗せてもらった ↑

森の中のヤシの実とり? 2枚(順序が逆のようにもみえるが
この人は降りるところだったのかもしれない) ↑↓

 

観光客用レストラン、少々高かったが休憩&WiFiチェックのため利用した

逆光になってしまったが(要は写真は知識もなく下手なのである)Rio de Ourem
オウレン川沿いに建つホテルは立地もよくreasonableなホテルだった ↑

Panajiに2泊した辺りの街並み ↑

さてホテルに戻って、シャワーを浴びて洗濯して一休みしてから、再び街に繰り出す、というか界隈の食べ物屋のチェックとなったが、この辺りは昔のいかがわしさ残るエリアの感じで、やたら飲み屋というかBarが多く、すでにその時間店開きしていた。もちろん興味がなくはなかったが、ま、一見さんの入れそうな感じのところはなく、せいぜいKingfisher75Rp(Mumbaiの1/2~1/3であった)と、この時はファーストフード店で珍しくハンバーガー50Rp+チップ10Rp+水1000ml/ 20Rpなんぞをtake outして夕食代わりとするのであった。

(ともかく今回は写真が全滅で、街の写真等が全然残って<写って>おらず、これもスマホでの写し方を知ったが故?の最大の失敗の一つと思っている)

『独歩爺最後の旅』インド篇 その1,ムンバイ Mumbai (Bombay) 2/25~2/28

いよいよ!というか、やっと!というか、漸くインドまで来た。今年(2023年)もあと一ヶ月になってしまった。何とかこのtabirokuを年内には終わらせたいと思っているのだが、なかなかその目処が立たないできた。時間は確かにあったのだけれどこれは集中力、あるいは気分(気持ちが乗るか否か)の問題で、その辺の調整はまったく不得手であった。いずれにしろ早く片づけたいのだけれど(もうほとんど記憶が薄れてきているので)そのため少しばかり言い訳というかズルすることになる、いくつかのお断りをさせてもらおうと思っている。1,として、まずインドはすでに多くの日本人がいろいろ書かれていると思うので(すでに目新しいものはないと思うし、何より面白い旅ができてないので)略記になると思う。つまりグダグタな文章はできるだけ飛ばしていくことにする。2,インドはすでに数回訪れており、インドに対するカルチャーショックはとうに失せている。当初はとても興味深い国として、わたしはインドを好ましく思っていたが、今回はいろいろあってインドももういいか、どうでもよくなったという感想をもった。インド卒業記になるかと思っている。で、前もって言っておくと今回訪れたところもMumbai、Goa、Aurangabadの三ヵ所に絞ってしまった。ま、それでもいろいろあったのだが、その前に一応ルワンダKigali~Addis Ababa~Mumbaiまでの報告を簡単に・・・、、

 

2/24 17時にKigali離陸、エチオピアAddis Ababaまでは2時間のフライト、19時着は現地時間20時だった。意外と近く感じた。Addisの上空からはやはり街の照明は暗くて街の輪郭はつかみえなかった。が、空港はそのデカさに驚かされることになった。いや、Kigaliと比べたら失礼になるのだけれど、ある意味Kigaliは素朴なlocal 空港で、利用者もまばらといった感じ、発着便数の数も数十件くらいではなかったか?ま、そののんびり感は悪くなかったが、一方その時初めて訪れたAddis Ababa Bole国際空港は、知らなかったが故にそのデカさに驚かされることになった。何より人の多さ、乗り換え客も含めて入出国の利用者の数は改めてこの空港が恐らくアフリカ一のハブ空港だったのではないかということを知らされたのだった。規模、利用客数ともKigaliの10倍くらい差があったのではないかと思わされたが、実際の発着件数差は5倍くらいだったことを後で知る。しかしこの時乗り換えのための荷物検査等に延々長蛇の列で1時間も並んで待つことになったのだった。そのため驚きより疲れが勝って、それでも時間的には余裕があったので、混乱極める搭乗gate付近で、ほとんどは出稼ぎに来ていて母国へ帰るインド人たちに混じってじっと搭乗開始を待っていた。まず黒人とインド人と褐色のエチオピア人ばかりで、旅行者ビジネスマンを含めても西洋人、東洋人の姿を見かけることはなかった。たぶん22時ころに搭乗、定刻23時頃には発ったと思うが、あまりに疲れていて離陸後すぐに食事の用意がされていたようだがそれも断ってしまった。それでもいつものように熟睡までに至らず結局浅い眠りで7時頃ムンバイ着、5時間半のフライトだったようだ。

牧歌的なKigaliの離陸時 ↑↓

 

2/25 ま、半分寝ぼけた状態でインド入国(早朝のイミグレは驚くほどスムーズだった、エチオピアと違ってインドのVISAは九段のインド大使館に出向いてに正式に取得していったからか?)、久々のインド、勝手知ったるインドのつもりでいたが、どうも最初から勝手が違っていたようで小さいミスが重なることになる。もうそれは飛ばさせてもらうが、まずATMでまごつくのだ。何回かやってようやくインドルビーを手に入れる(特に失敗、損失はなかったが)。次にMumbaiセントラル(中心部)へはどうやって行くかだが、インフォメーションも見つけられなかったので、日本で一応ガイドブックやムンバイ出身のゲストが来た時に情報を聞いていたので、それを思い出しつつ、まずオートリキシャ乗り場を探す。インドの足といえばオートリキシャ(TukTuk、わたしの記憶では今や世界に広まったTukTukのoriginはインドだったと思っている)の出番だった。そして人に聞いてその乗り場へ、きちんと順序正しく次々とでていくのでほとんど待つことなくわたしの番はきた。ドライバーに一番近い駅までいってくれるようお願いする。メーターがついていたが一応いくらで行くのか確認すると、なんとメーターだと向こうからいってきた。で、いくらくらいなのか念を押す100Rp(ルピー 100Rp=180円くらい)くらいとか言っている、相場がわからなかったから、100Rp以上は払わないよといって乗車した。案の定(これはよくある手だが)途中でこのメーターは壊れてると言い出す、そんなことには耳を貸さずに20分くらいでAndheri駅まできちん届けてくれたが問題は支払いの時で、たぶん何らかの細工をしてメーターは確認できなかったのだ。で、ドライバーは120Rpといってきたが、もちろん100Rpしか払わない、かなりうるさく言いだすからプラス10Rpバクシーシ―して、たぶん普通のインド人の倍くらい払わされたと思うが、ま、インドの洗礼としては安いものと、むしろ昔のインドらしさが健在なのを喜んでいた。そして次の関門は電車のticket購入で、ここでは窓口もあったが、たぶん駅員が手に切符をもってRpと引き換えに手渡しで次から次へとさばいていて、これもCST(ムンバイは鉄道の始発駅が二つあって、その一つがChhatrapati Shivaji Terminusといった)まで10Rpですんなり手に入れることができた。次は乗り場の問題だったが、電光掲示板にCSTとか他の略字でていたが、そのときはその意味が分かっておらず、どの電車に乗ればいいか迷っていたら親切なおばさんがどこへ行きたいのか聞いてくれて、助けてくれたのだった。こうしてCST、昔のヴィクトリア・ステーション(Victoria Terminus 1887年完成)まで無事にたどり着くことができた。もう全く覚えていなかったが、わたしがこの駅に初めて降りて以来50年振り、その壮麗さを再び目にすることができたのだった。

インド初日 CSTに降り立つ

チェックイン待ちの間にCST付近をうろつく↑↓3枚

 

ムンバイ駅の真ん前にあったairbnbの宿を予約してあった。いや、それでなくとも日本でムンバイの宿を物色していた時、ムンバイ宿が高いことに驚いていた。ムンバイはこの時が(1973年以来)二度目だったが、これまでインドは何回か訪れていて、一人の時はだいたい飛び込みで宿探しをしていてたがいずれも安宿はすぐに見つけられていた。が、今回ムンバイはそんなに簡単ではなかったのである。そもそも昔の安宿というのがなくなってきているのかも知れなかったが、特にムンバイのような大都会は、ビジネスマンや旅行者の多いところで物価もそれなりに高くなっているところだから、昔の感覚で宿探しをするのは無理なようであった。同時にairbnbの宿も結構増えていたようでこの時はヴィクトリア・ステーション(正式にはとテルミナスと表記すべきところ、この名称でいきます)前の宿を多分に幸運に予約できていた。しかし、あまりに簡単に見つけられるほどの好立地だったので逆に疑ってしまう、で、付近をうろついてから躊躇いつつレセプションの2Fまで上がってみる。ここはよくあるホテル型のairbnbだったようで間違ってはいなかった。が、チェックイン時間は1時間半ほど早すぎたようで、12時から受け付けると例のインド人特有の高飛車な言い方でいわれる。no problemで荷物を預かってもらってすぐに街に飛び出す。やはり懐かしき、ある意味ムンバイの名所の一つでもあったヴィクトリアステーションとその周辺に林立する歴史的建造物等々の写真撮影の時間となった。12時前に戻って1Fの食堂で一応本場のカレー<ターリー(セットメニュー)>を注文してみたがそれほどうまくはなかった。12時過ぎにチェックインした部屋は7Fにあり、エレベーターは5Fまで、超狭い部屋でトイレ別だったが、エアコン付きでかつ展望もよかったから、わたしの基準ではお値打ちもの(1500Rp)だった。まずシャワーを浴びてさっぱりして荷物整理して昼寝、17時ころ起きだして、また街にでる。この時レセプションで延泊可能かと聞いたら、1日なら空きありということで2泊予定を3泊にしてもらった。そして街ブラ、地図がなかったが駅の真ん前というのは強みで、どこへ出かけようと帰れそうだった。この時はもうなんか自分の庭のようなつもりで歩く回って、屋台の食べ物やビールを売ってそうなところを探しながらの徘徊だったが、デリーでも経験した酒屋を探すのに苦労することになった。2時間くらいの徘徊でちゃんとビールとサモサと、サンドイッチのようなもの、それと水とコーラを仕入れて帰館、わたしの夕食としてはいつものことだがそれで十分なのであった。

(ちなみにこの日の支出はホテル代;1500Rp=2700円くらい、交通費(TukTukと電車);120Rp=200円くらい、飲食代計;500Rp=900円くらい、ま、4000円くらいだったから、まだインドの物価は安かったことがわかる)

 

インドでの最初の昼飯 味はいまいちだったが

初日の夕方の街ブラ 確か図書館だったと思う

夕暮れの街角 ↑↓

 

2/26 次の日はエレファンタ島Elephanta Island(7世紀ころに造られたというヒンドゥ教の石窟寺院群)を目指した。50年前に寄った時はそこには足を延ばしていなかったので、今回是非行ってみようと思っていた。何よりそこに行くには、これもムンバイの名所の一つインド門Gateway of India(我々は昔Indian Gateと呼んでいたが??)からボートでいかなければならないことも魅力の一つであった。ホテルマンにまずインド門のいき方を聞くと、駅前から乗り合いタクシー(スズキの軽ワゴン/昔からスズキはインドでの稼働率は高い)が、人が集まり次第でていて30Rpとのことであった。9時ころホテルを出、乗り合い軽ワゴンはすぐに見つかり、乗客もすぐに集まり9時20分にはインド門着、すでに結構な観光客の数(ほとんどインド人、その日は偶々日曜日だったようだ)、だが4時間半後に戻った時に比べたらまだそれほど混んではいなかったといえた。だからすんなりボートのticket(往復260Rp)も買えたし、9時半頃発のボートに乗り込めたのだった。

インド門到着 ↑ 少しうろついてボートに乗る ↓  

Taj Mahal Hotel

インド門とTaj Hotel  ↑ ↓ 

インド門から遠ざかる(出航間もない)後ろがTaj Mahal Hotel

快適な船旅は70~75分でエレファンタ島着、しかし桟橋から山の上にあった入り口までが結構長かったのだ(歩きたくない人のためのmini trainあり)。これまでインドの暑さについてあまり言及してこなかったが、やはり2月とはいえ暑いのだ、日本で騒がれている熱中症の恐れは常にあるところであった。ま、それでもこういう時は歩く、mini trainの終点辺りに最初のゲートがあって入域料5Rp取られそこからは階段の登りとなる、両側は土産物店、レストランが上まで続く門前町状態、登りきったところが入場券売り場・入場gateとなっていた。この入り口まで3~40分かかったのでは?暑さもあってここまでで疲れてしまった。入場料600Rp払って入場し(ここでインドらしいトラブルに遭遇する、事後に発覚したことだがここで入場料600Rpの支払いに1000Rp札で払い、その時もらったお釣りの200Rp札2枚のうちの1枚は、その後別のところで古すぎるという理由で受け取り拒否にあった。こういう公的機関の窓口では、知っててこういうことをするようだから釣銭受け取りの際は要注意 ! )、しばしの休憩&朝食兼のランチタイム、つまり残り物を持参していてしばしの休憩とした。その後約2時間くらいかけて7屈あるという古代石窟遺跡群を一通り回ったが、第一屈以外はみるべきものはなかったように思う。それとやはり暑さのせいでだんだんどうでもよくなってくるのである、流石に途中で水分の補給をしたが、観光客も増えてきて、もういいっか ! で帰路につく。同じ道を戻り、また船に乗ってインド門に戻るのだが、インド門の後ろにそびえたつタージ・マハール ホテルTaj Mahal Hotelの雄姿も含めて、だんだんとそこへ近づいていく心躍るような接近感がたまらなくよかった(ほとんどビデオで撮ってしまったのでここでは載せられない)。14時ころ上陸、ところがその場の状況は(先にも言ったが日曜だったからか)ものすごい混雑を極めていたのだった。ともかくこの人混みから逃れるべく、高級ホテルから安宿までが建ち並ぶコラバ地区へ海を左手に日陰を求めて歩いていく。人混みは避けられたがどこへ行っても暑い、かといってわたしはカフェやレストランにすぐ入る人間ではないから公園を探すのだけれど、一ヶ所あったがなぜか入り口を見つけることができなかった。もう、ほとんどこの辺りに用事がなくなったので、ホテル(CST)に戻るかチャーチゲートChurchgate駅(もう一つの始発駅)付近にいってみるかで、乗り合いワゴン車を降りたあたりに戻ってみると、どちらも(CST or Churchgate)呼び込みがいて料金は同じ30RpだったのでChurchgateにいってみた。こちらは反対側の海に近く、そこからは歩いて5分くらいの海沿いの道マリンドライブMarine Driveに行ってみる。ここからのMumbaiの写真もよく目にしていたから、大体の感じはつかめ写真を撮って駅に戻り、そこからCSTまでの道をチェックしてみると近くはなかったが歩けなくもなさそうだったので、ぶらぶらと歩いて帰る。この道はスポーツグラウンドのある公園沿いの道だったのでブラブラ寄り道しながら30分くらいで帰りついたと思う。帰ってからシャワー、洗濯、十分な休息をとって2時間後くらいに今度は夕食をとりにまた出かける。その時はチャイニーズレストランで久しぶりに半チャーハン半焼きそばを頼んでしまったら、量が多すぎて食べきれずパックに入れてもらって持ち帰る。この時に100ルピー札の受け取り拒否にあったのだが、店に非はなく安くて良心的な店だったので、もちろん別のお札できちんと払った(200Rp=360円?安くてうまかったのだった。なお件の古いお札は、ホテルマンに話したところどこかで50Rpの手数料で替えてきてくれ、150Rpを手にすることになった)。

ちょうどそのころ友人がインドに来ており、ラインでやり取りしていたのだが、わたしがMumbaiにつく数時間前にMumbaiからGoaに飛び発っていた。その夜も何回か情報交換して、その情報に基づいてこのあとわたしもGoaに追いかけることを決めていた。というのもエチオピアに入国できなくなった煽りで、日程が大幅に狂ってしまっており、日程調整に難渋していたからでもあった。予期せぬ出来事に代替えプランがすぐ思いつくわけでもなく、またインドのガイドブックも持ってなかったし、持っていたとしてももう有名どころはほとんど訪れていたから、すぐに新たにプランは思いつかなかったからである。結局その後その友人に追いつくことはできなかったが、その情報には大いに助けられていた。その夜はほとんどラインの交換で深夜に及んでいた。次の日に航空券の手配をするつもりになっていた。

右手の山の麓までいくminitrain

第一屈全景 ↑ とその内部 ↓ 3枚 

奥の方へ行く↑ &公園内及び山から船着き場を望む ↓

迫りつつあるインド門(ほとんどビデオで撮ってしまってそれを表現する写真がなかった) ↑

と上陸後のインド門 ↓

 

インド門から逃げ出す ↑ ↓チャーチケート駅前のWestern Railway本社

 

Marine Drive 北 ↑ ↓ 南 

 

2/27 いろいろ作戦は練っていた。漠然と日程調整案の一つはGoa行きとしていたが、いつどうやってどんなルートで・・・?? その第一段階として、まず起きて早々Mumbai~Goaのフライトのチェック、宿探し(いずれも情報収集)、そしてその日はまず(アクシデントによる)日程変更以前の当初の計画段階ですでに予約を入れてあったMumbaiの宿(3/8~9 これは3/9のフライトが早朝便だったので空港近くに前泊の宿を予約してあった)にいってみることにしたのだ。その宿はMumbai初日、空港からオートリキシャで連れてったもらった鉄道駅Andheriの一つMumbai寄りのVile Parleというところにあって、駅近(エキチカ)でドミしかなかったが超安だったので一晩ならと思って検索サイトから日本にいたときに予約してあった。そこで例えば次の日からの予約状況等を確かめたくて現地にいってみたのだった。ただそこまでいくのが大変だったのである。CSTでのticketは少々並んだが簡単にget、さてどの電車に乗るか?プラットフォームはticket購入時に聞いていたから一番左のホーム(1,2番線だったか?)はわかっていたが、行先は何ヶ所かあって、行き当たりばったりで乗った最初の電車は途中から別方向にいったので途中まで戻ったりして(車内に路線図があったり、電光掲示板に行き先とか次の停車駅の表示はあったので)何度か行ったりきたり、しかもこの路線は複々線化してて日本でいう快速電車も走っていて、知っていれば40~45分くらいでつけるところを倍くらいの時間がかかって、ようやく10時半頃Vile Parleに着く。駅前はなかなか庶民的な街の感じだった。街をうろついて住所を頼りに探して何とか見つけることはできた。早速2階のreceptionへ、若い女性一人で結構忙しそうにしていた。最初は飛び込み風に明日は空いてますか、と聞く。次の日だけでなく、そのあともずっと予約で埋まっているとのことだった。納得というか、いかにも若者向きのドミしかないそのホテルは、ホテルがやたら高いムンバイにあって超人気の安宿として知れ渡っているようだった(Locomo Hostelといった)。それを聞いて作戦変更、実はわたしは3/8に予約しているもので、明日からGoaにいって3/8にここに戻ってくるのだけれど、できたら荷物一個をそれまで預かれないかと打診してみたのである。すると、わたしの予約状況を調べて間違いないことがわかると、いとも簡単にokといってくれ、その部屋の一画に山積みになっていた他のゲストの預かり荷物を指して、保証はないが、それでよければ同じようにその辺においておけば、と言ってくれたのであった。来た甲斐があったというものである。では、明日の同じ時間に荷物を持ってくるのでよろしくと伝え、その場を後にする。

Victoria Terminusヴィクトリアステーション ↑ 切符売り場に並ぶ、↓ 駅構内 2枚

郊外へ行く電車 ↑ と車内の路線案内 ↓

せっかくVile Parleまで来ていたので、帰りに寄れそうなところをチェックしてあった。帰りの電車も今度はCST行きと、チャーチゲート行きがあって、降りるべき駅はどっちだったかわからず混乱してまた何度も行ったり来たりすることになるのだが、それでも以下に行くことができた。①Mahalaxmi駅で降りてドービーガート Dhobi Ghat;壮大な規模の野外洗濯場が観光名所になっていた(駅からすぐ)②ハジアリー廟 Haji Ali's Dargah (ジャイナ教寺院、同じくMahalaximi駅から乗り合いで片道15Rp)、近くにあるはずのヒンズー寺院Mahalaximi寺院は探したが行きつけなかった③Mahalaximi駅(この駅はチャーチゲートChurchgateが始発駅のウエスタンレイルウェイWestern Railwayの駅だった)からはチャーチゲート行き電車で一つ手前のMarine Lines駅で下車、そこからはCSTまで歩きで約2km30分の道のりだったが、途中にゾロアスター寺院があるとのことだったので、その写真を撮りたくて歩いた。帰り道に水とマンゴ―ジュースを買って帰る、CST即ちホテル帰着は15時頃だった。

MaharaximiのDhobi Ghat ↑と ↓ Haji Ali's Dargah

Mahalaxmi Templeは見えていたが行きつけなかった(暑さのためでもあった) ↑ 

ムンバイ及びその近郊にはゾロアスター教徒(パールシー)が多く住んでいる

ゾロアスター寺院 2枚 ↑

別の道(Marine Lines駅)からCSTに戻る ↑ ↓

帰着してすぐ明日のGoa行きのフライトを再チェック、幸いまだ残っていてしかも4400円の超安値だった。それ故か次の日ドタバタが起きる。そしてairbnbで3/1~3でGoa Panajiの宿も予約する。何とか苦肉の策というか急遽Goa行きを決めて(昔からGoaの地名は知っていたが、未訪の地だったことと、友人が先にいって情報をもらうことができたのが大きかった)最後の夜、まずビールを買えるところを聞いて街にでる。帰りに近くのレストラン検索で出ていた店に寄ってカレー弁当をtake outする(ホテルマンに聞いた酒屋はちょっと離れていたが160Rp、カレー弁当は100Rpだった)。部屋食後珍しくアイスクリームとコーラ(40Rp+20Rp)なんぞを買いに出て久しぶりにぜいたくな食後(つまりめったにデザートは食べないのだ)を味わう、仮パッキングして早めに寝る。

夕暮れのCST付近、7Fから3枚 ↑↓

 

カレー弁当は安くてうまかった

2/28 だいぶMumbaiに慣れてきて面白さがわかってきたところだったが、朝8時半にチェックアウトして、前日のVile Parleに向かう。さすがに少しは電車の乗り方というか選び方も学んでいたので間違いはなかったが、この郊外電車の凄まじさについてはそれだけで一話できそう(混み具合他、東京といい勝負かも知れない)、だれか書く人いないだろうか?そう、このときはCSTから数駅はゆっくり座れていたのだけれど、降りる段になって一駅前からその準備が必要だった。まさに体力勝負、力づくで何とか降りることはできたが、確かインドの女性専用車両は日本より古かったはずだ。

幸いに前日の受付の女性がいてくれたので話は早かった。まず、荷物を預かってもらうお礼を言ってささやかな土産を渡し、ついでにもし3/7の予約ができるのなら今予約していきたいというと、すぐ調べてくれて、運よく部屋はあって2000Rpとのことであった。前日1600Rpくらいと聞いていたので少々高くなってしまったので確認すると、3/7分と現地払いとなっていた3/8の予約分とを合わせた2泊分とのことだった。あいにくRpが足りなくてATMの場所を聞いておろしにいく、支払いを済ませ11時ころにはホテルを出る。空港はどこでもモノが高いのがわかっていたから、昼飯になりそうなものを近くの食堂で仕入れて(サモサ×2+コーラ=40Rp)TukTukドライバーを捕まえてDomesticというと30とのことだったので交渉不要、すぐに乗車してものの20分ほどで国内線ターミナルに到着したのだった。えらく安かったし近かったなぁと思ったのもつかの間、いざ建物に入ろうとしたら、当然パスポートとE-ticketのプリントが必要とのこと、スマホの日本語の画面ではガードマンは通してくれなかったのだ。それよりもどこへ行くのかと聞かれたときに、Goaと答え、何航空かといわれ、Spice Jetと答えたところ、なんとそれはインドの航空会社でないから、Domesticではないといわれてしまったのである。聞くとインドネシアの航空会社とのことであった。まったく知らなかったのであるが、そんなことより、ではどこのターミナルへ行けばいいのか聞いて、少し早めについたことが功を奏し慌てて新しくTukTukを探す。今度は交渉となる、どうやらターミナル2とのことで4~5kmは離れているとのことだった。で、いくらでいく?ここでも最初の答えはメーターでいくとのことだったが、このドライバーの英語は訛りがきつく、ほとんど聞き取れなかったので、もう一方的にこちらから(前回と同じ)100Rp出すからといって、強引に乗り込み急いでくれるようせかす。案の定途中からあーだこーだといってきて500Rpという単語が耳に入ったが意味わからず、ともかく100Rpしかないといって無視しているうちに、500の意味が分かったのであった。到着寸前に出発ロビーまで上がっていく道があって、そこに行くには別料金で400Rpかかるというような掲示を目にしたのであった。ともかくno no noと言い続けて普通の降車場でおり、なんだかんだ言っていたがこちらにはチンプンカンプンだったので却って100Rpだけ払ってさっさとエレベーターで4階に登ったのであった(そこはエチオピアから飛んできて降り立ったところだったからすぐカンがつかめた)。ところがここでも入場をチェックするガードマン(軍人さん)と揉めることになる。例によって日本語のスマホの画面では埒が明かなかったのである。そこで多少のオーバージェスチャー(演技)を交えて、ともかく急いでいるということとパスポートとスマホを見せてSpice Jetのカウンターにこれをもっていけといったのである。そしたらそのガードマンはなかなか機転の利く男であった。彼が同行してSpice Jetのカウンターまでわたしを連れてってくれたのであった。ここまで来れればもう安心であった、すぐにカウンターの女性が調べてくれて、その場でボーディングパスをくれたのだった。だが、ここからがわからないのである。わたしは15:05発16:30Goa着の便だったはずである。ところがもらったBoading Passは12:35発となっていたのである、しかももうほとんどその時間になっていたのだ。それに異を唱える間もなく、今度は航空会社職員の誘導で先へ先へと急がされる、荷物検査で引っ掛かり鋏を取られたがナイフは助かる、そこを過ぎると緊急用カート?(遅れた人や体の不自由な人を運ぶ優先車?)が待っていて、そんな車に初めて乗ることになったのだが、gate 50に直行してくれたのだった。ところがなんとその便は30分遅れとかでまだ誰も搭乗していなかったのである。ヤレヤレである、何だったのか、このドタバタは?まさにこれはインドらしいのか、インドネシアらしいということなのか?今思い返すとなんか笑っちゃうのだが、その時の不可解さは未だ解せずにいるのだ・・??

『独歩爺最後の旅』アフリカ篇 <ルワンダ> その3,ルワンダ (におけるわたし) の悲劇

ルワンダの悲劇ではありません(もちろんGenocideは悲劇でした、それは30年前の話です、今は見事に復興したアフリカの希望の星になってます)、以下はルワンダにおいてわたしが遭遇した悲劇の話となります。

このつかみどころのない街Kigaliは当初より情報が不足しており何も期待はしていなかった。なのでそもそもルワンダ滞在は3泊4日くらいしか考えていなかった。つまり2月21日にはKigali~Addis Ababaへ飛ぶつもりでいたから20日が最終日となるのだが、その日も特に予定はなく行ってみたいところがあったわけではなかった。いや、それより問題は、そのつもりで降ろしていたRWFが尽きかけていて、ATMの手数料を考えると再引き出しはしたくなかったので、いかに持たせるかで苦心惨憺していたのである。例えば朝、朝食をもってきてくれた例の使い走りくんに、今日は夕食を昼食にしてくれないか(夕食分を昼に出してくれないか)と頼んだのだが、彼にはそのへんのこみいった話が通じたかどうか、でladyは来ているの?と聞いたが、まだとのこと、とりあえず彼にはこちらの希望は伝え、後でもう一度ladyに話すからとは言っておいた。要はこういうことだった、食事つきにしてもらってきちんとそれは用意してくれていたが、ともかくわたしには量が多かったのだ。で食費を浮かせるために昼食として出してもらえば、半分を残して夕食とすることができると考えたのだ。そして出かける際にladyがいたので正直にもうrwfが尽きたことから話し始め了解してもらった。10時ころに出かける、出かけた先は前日最後にいったキミロンコマーケットKimironko Marketだった。というのも前日は場所がわからなかったので、そこからバイクタクシーを使って最初のバスパーク(Remera Bus Parkという名称だった)まで戻ったのだが、意外に近いと思ったからそのあとGoogleで調べてみたら、なんと歩いて行けそうなことがわかったからであった(その時そのbus parkの名称も知る)。わたしの宿泊していたホテルをA点とすると、そのRemera Bus Park(B点とする)まではたぶん西に1km強(ただしホテルからは登り)で、キミロンコマーケットをC点とするとB~Cは2kmくらい、B~Cの中間をD点とするとA~D間が1.5kmで、ABDの三角形ができる。で、A<ホテル>~D<中間点>~C<キミロンコマーケット>は約2.5kmで、つまりA~DにKK13アベニューという道があり、その道を見つけたのが大きかった。ただその道はけっこうなアップダウンがあったので、A~D~Cは2.5kmくらいだったと思うが45分くらいかかった。前日Bus Parkを確認しただけだったが、その後ろにあったほんとにないものはないほど雑多の商品を取り扱っている超でかいキミロンコマーケットを小一時間かけてうろついていた。が、いかんせんに単なる時間潰し、そう、お土産になりそうなものを探してみたもののrwfが尽きていたので冷やかしで終わってしまった。そこから大通りKG11アベニューに沿った一本東側の道KG208ストリートをRemera Bus Parkに向かって歩いていったら30分で着いてしまったから前日のバイクタクシー10分(もかかってなかったかも)500rwfに納得がいったのであった。そこからは通いなれたホテルまでの下り坂15分で12時半ころホテルに戻る。シャワーを浴びて着替えしてlady自ら持ってきてくれた昼食をいただきながら少し雑談したが何を話したかもう覚えていない。このladyにうまく乗せられて結局ここに3泊してしまって、挙句残金2500rwf(300円ほど)残すのみとなっていたが、果たしてそれが正解だったかどうか?ま、あまりいい流れではなかったようにも思うのだった。ただ、やはりそれは事前情報をしっかりし取得してなかった己の失敗に起因するものであることは明らかというか身に染みて感じていた。

その日の午後はいつものように少し仮眠(昼寝)をとってから、Rwanda情報としてタケダ ノリヒロさんというルワンダ在住の日本人の方が発信しているRwand NoteというYou Tubeチャンネルを発見し拝見した。遅ればせながらRwanda Genocide &諸々について少し学ばせてもらったし、いろいろ得るところは大であった。ま、そんなんでルワンダの数日を振り返っていたのだが、どうもあまりパっとしたよい印象は甦ってこなかった。そして夜、なけなしの2500rwfを持ってビールを買いにでたら、冷えてないから30分後に来いといわれ、残り1500rwfになる。昼の残りの冷や飯とビールで最後の晩餐となるのであった。

A~D地点はいったん坂を下るのだが窪地の湿地帯? ↑ ↓ ある意味市街地の中の緑地は驚き

 

Kimironko Market  ↑ ↓

Kimironko Marketの土産物屋で ↑ ↓

 

KG208ストリート

KG208ストリートには小洒落たお店が結構あってその一軒の看板メニュー

やはりKG208ストリート沿いにあった邸宅

翌21日、この日のフライトは17時ころだった。朝はいつものように朝食をいただいて、そんなに急ぐ必要はなかったのだが、何となく早くそこは出たかったのだと思う、10時半にはチェックアウトしてしまった。なけなし1500rwfは最後のボダボダ用に残しておいたのであったが、交渉の結果500rwfでいってくれたから最終的には1000rwfは残ったのだった。下見をしていたから11:00には歩行者用ゲートでチェックを受けていた。そして早すぎるのはわかっていたが、チェックインできないものかと、どこへ行けばよいものかわからないままウロウロしていた。いや、まず小さなlocal airportでおそらく発着便もそれほど多くなかったと思う。利用客はままばらにしか目にすることがなかった。そしてカウンターに通じる入り口のところにはセキュリティの軍人さんが乗客をチェックしている。まず何航空のどこどこへ行くのか聞かれ、エチオピア航空Addis Ababa行きと答えると、13時までは外で待つようにとのことであった。つまり建物内には入れませんということで1時間半も早すぎた、ということであった。あとでわかったこととしてエチオピア航空の最初のチェックインカウンター(ブースは二つ、最初の検問所のようなもの)はそこからすぐのところにあったのだが、そこの職員が来るのは13時ということのようだった。為すすべなく、そのへんに屯するしかなく、かといってそんな場所もない、しかしその脇にコーヒーショップみたいなのがあって、そのテラスがはみ出していて、お客さん用の椅子とテーブルが置いてあったのでそこを無断借用する、しばらくはそこの従業員も見て見ぬふりをしてくれていた。しかしその1時間半はほんとうに為すすべなく途方もなく長く感じられたのであった。で、13時前に職員が来たので最初の乗客として入館許可がそのセキュリティの軍人さんからでた。中年の男性の職員だった、パスポートとE-ticketを提出、しばし書類・パスポートと搭乗リストを確認し、VISAは?と聞いてきたのだ。え、どういうこと?もちろんエチオピアもビザが必要なことは知っていた、しかしわたしが出国前に調べた限りでは、エチオピアはインドやネパールと同じくarriving visaを空港で取得できると、少なくとも外務省情報でチェックしていたのだった。なのでその旨その職員に伝えた。が、しかしこんな答えが返ってきたのであった。確かに以前はそうであった、が、今はアフリカ国籍を除いてそれはできなくなった、というのだ。そんな馬鹿な ! ? それっていつからと聞いたと思うが、その時はもう動転していて、相手のいうことは耳に入ってこなかった、必死に食い下がる、もっとよく調べてくれ、と。そして彼もいろいろ調べたり問い合わせたりしてくれたのだった。数十分粘ったと思う、ではどうすればいい?と聞いてもvisaを取ってくるしかないとの一点張り、まさにその場では為すすべはなかったのであった。幸い最初の客で後ろに並んでいた人がいなかったのは少し救われた。他の人に醜態を晒したり迷惑をかけることはなかったと思う。意気消沈してその場を去るしかなかったのであった。

 

しかし動揺は激しかった。少し落ち着くために先ほども借りていたコーヒーショップのテラス席をまた無断借用した。そこは空港のwifiが繋がっていた。まずやったことはその日から予約してあったAddis Ababaの宿のキャンセルで、これはぎりぎり間に合ったようだった(数十分遅れたら没収、これだけでも数万円の損害を免れていた)。次は世界一周券を発券してくれた日本のエージェントに、ことの報告とどうすればいいかのお伺いmailを送る。そして少し落ち着きを取り戻し、ではどうすればいいだろう、と考えをめぐらす。しかしわたしの経験上、この事態はわたしの力、あるいは金銭の力では打開できそうにないと悟る。ルワンダでの度重なる失敗は、これをもって最大となり、おそらく今回の旅の最大のものだろうということもはっきり自覚できたのであった。問題は少なくともその日は飛べないことがはっきりしたのだから次善策をどうかするかにあった。その時点ではっきりしていた次善策は2点、1,はこの際ルワンダエチオピアのビザを取得すること、それに何日くらい日数を要するかは不明、2,先のエチオピア航空の人の言によれば、エチオピア滞在を飛ばして、乗継ぎならvisaなしでも次の目的地に飛ぶ飛行機に乗ることはできる、ということであった。

 

どうしていいかわからず、1時間以上空港内にいたと思う、wifiが繋がっていたのでそれまでラインでわたしの旅を見守っていてくれた人たちにも報告する。しかし誰もこの事態を打開する妙案を知っている人はいなかったのである。いずれにしても滞在延期が確定したということなので宿探しをしなければならなかった。それには何日か前に近くの宿探しをしていたことが少し役に立った、何軒かの候補が空港近くにあったからだ・・、だが実際は意外な展開になったのであった。

 

実は今ではその時のことをよく覚えていないのだが、また、どうしてその人と知り合えたのか記憶から落ちてしまっているのだけれど、その時一人の紳士に出会う。まるでどん底に落ちた人に手を指しのべるように(つまりわたしがどん底に落とされたことを知っている、あるいは見ていたかのように)一人の紳士が現れてその人の車で、その人の知り合いがやっているというHotelに連れてってくれたのであった。可能性としては以下が考えられた。空港gateの真ん前にあった高そうなホテルに情報だけでももらえないかと入ってみたような気がする。で、事情を話してこの辺りに安宿はないかと尋ねたのではなかったか?ところがそこのオーナーさん(この人が紳士だった)は、わたしの話を聞いて、自分のところがホテルだったにもかかわらず、その人の知り合いのやってるもっと安いホテルに案内してくれた、というストーリーだったのではないかとあいまいな記憶から推測するのみなのだが、それにしても親切な人に出会った、いや、その彼だけでなく、彼が連れてってくれたHotelのオーナーがまたとんでもなく鷹揚というか、わたしには救いの神のように思えたのだあった。たぶん近くに住む知り合い同士でどちらも成功者で大邸宅の持ち主だったのである。どうも彼らがこれまでのわたしのルワンダでの悪い流れを変えてくれた、そしてルワンダの芳しくなかった印象も変えざるを得なくなったと、その時も今も彼らへの感謝の気持ちは変わることなくつづいている。おそらくその辺りは成功者の住む別荘地であったように思う、とんでもなく立派な大邸宅であったが、その数部屋をホテルとして30ドルで貸し出していて、このHotelのオーナーはわたしの話を聞いて30ドルをさらに25ドルに減額してくれたのであった。部屋は5スター級、建物は金持ちの大邸宅、朝食もついてだ。価値的にいえばそれまで宿泊していた宿の3倍以上の価値があって、それでなおかつ安くなったのである。結局そこに3泊させてもらうことになったのであった。

 

そのHotelの名は大いに宣伝させてもらおうと思っている、まさに空港からそれまで滞在していたホテルの前の道KK3ロードに下っていく細いでこぼこ道沿いにあってホテル名を<Airport hill motel>といった(写真参照)。それまで滞在していたホテルの隣といっていいくらいの近さであった。そこで巻き返しの策を練ることができたのだった。その日はそこで、まずginger teaをいただき、これが超美味しくて心を落ち着かせてくれた。もちろんwifiは繋がっていたので、ラインとmailのチェック、その中にはagentの返信もあって、ANAに連絡を取ればルート変更は可能とか言ってくる。日本国内でさえANAのカスタマーセンターとの連絡は不可能に近いのに、どうやって連絡を取れということなのだろうと思う。16時ころ再び空港にいってみることにした。再度エチオピア航空と折衝してみたが、どうにもならないという回答しか得られず、帰りにATMで若干のRWFを引き出して、食料(パン類)と飲み物(コーラ)を買って帰る。帰り道に土砂降りの雨に見舞われ、まさに泣きっ面に蜂とはこのことだと逆に笑ってしまう。帰るとバスであった若者の一人写真家でない方、ジャーナリストのBenjamin君からのmailが入っていて、一部始終表現できる範囲で現状をしたため、あなたがたが連れてってくれたひどいホテルから漸く抜け出して、今凄いホテルにいるから可能なら尋ねてこないかと追記した。そして日本のagentの直接の担当者に改めて窮状を訴えるmailを入れて床についた(ちなみに夕食にしたパンは結構うまかったし、ベッドの違いか前日よりよく眠れたのだった)。

Airport Hill Motelの入り口

2月22日~この後の顛末はさらっと流していきます。

心身を落ち着ける宿だったおかげで少しづつ冷静さを取り戻し、しかしのんびりしているわけにもいかず、日本のagentからの情報をもとに最終判断を迫られていた。1,2,どちらにすべきだったか、今でもわからないのだが苦渋の選択は2,にしてしまったのである。せっかくエチオピア入国直前まで来ていて、しかもエチオピアは持っていたガイドブックにも詳しい情報が載っていたので、十数日の滞在を予定しホテルも予約し、国内線の予約も取ってあったりで、それを放棄する悔しさは自分の落ち度とはいえ耐えられないことであった。ただ、ルワンダKigaliのエチオピア大使館を探し、そこまで赴いての手続きも、すんなりいくとも思えず、ともかく早くルワンダを出てしまいたいという想いが勝っていたのかも知れなかった。それまでの旅の疲れと、その時は自覚していない病状の悪化で体調は万全でなかったようにも思えたし、もうエチオピアは飛ばしてもいいかという想いも芽生えていた。それで多少の手数料がかかってしまうこと承知で(ペナルティも含むと安くなかったが)、今のticketで飛べる便を探してもらっていたのだが、午前中に2/24なら飛べそうだという連絡が入り、それが決め手となったのであった。この日(2/22)は午前中日本とのそんなやり取りで過ぎ、2/24のKigali~Addis Ababa(乗継)~Munbai(2/25 AM7:00着)の座席を確保したという知らせでやっと安どのため息をついたのだった。

ただそのあとも、結構忙しかった。ムンバイの日程が早まり、それまで確保してあったホテルの予約のキャンセルとか、新たに2/25からの宿を探さねばならなくなった。が、それは何とでもなることだったし、次の日(2/23)もう一日余裕があったのだ。ともかく2/24に発てることが決まって肩の荷が降りたというか、心は晴れ晴れしてきた。そこで午後にはそのホテルの周りをうろついてみた、大邸宅ばかりhigh classの住人のエリアであることはすぐにわかる、そして赤道直下のはずだが、比較的標高があるからルワンダはそれほど暑いところとは感じなかったのである。何回もいうようにごちゃごちゃした下町風のところを目にしていなかったし、比較的民度も経済も豊かなのところだということに改めて気づくのであった。ダートの細い道を歩いているともうもうと煙を立てて香ばしい匂いがしてくる。どうやらバーベキューの屋台のような店を見つける。もちろん早速一本(けっこう大きな串だった。一串1000rwf 超安 ! )仕入れてホテルに戻ってビール2本(1000×2)もらって昼食とした。ルワンダで食べたものの中で最高(超美味)の食事となった。

22日の朝食

飛行場の近くをうろつく、丘からの遠景

 

2月23日は主にムンバイの宿探しと、日本とのラインのやり取り、Benjamin、Kevin君から今日こちらへくるというmailをもらったので宿の若い従業員の男の子に電話してもらって場所の説明をしてもらった。夕方にやってくるとのことだった。午後は丘の中腹にあったこのmotelから下の方へ下ってみた。すぐにKK3roadにでたが、やはり商店のようなものは一軒もなくGSがあってそこにショップが併設されていて、ケーキとパンを売っていた。他には何もなく仕方なく、ケーキのようなパンとコーラを買って帰って昼食とするのだが、その帰り道の登りがきつかったこと、その傾斜は半端ではなかった。夕方頃Benjamin君とKevin君登場、ま奇縁なのだが懐かしの再会となった。わたしの拙い英語でしばしの会話(これまでの経緯とか、次の日去ることになるといった)、オーナーやその奥さんたちも顔を出してくれた。ここでも昨日食べた串焼きのべーぺキューが食べられるとのことだったので、注文してビールも何本かもらった。有難いことに彼らは割り勘にしてくれたのでしばし楽しいひと時を過ごせたのと、ここの串焼き料理セットもかなり美味しいものだった。その料理名を聞いたがニャマチョマといったか?あっているかどうか定かな記憶ではない。これで彼らともメルアド交換もしたしお礼と別れを告げることができ、心残りなくルワンダを去れそうな気になった。これも流れを変えてくれた二人のルワンダ人のおじさんたちのおかげだったように思う。久ふりに酔いが回っていい気分で床についた。

ホテルのわき道のダートロードの急坂

出かけて戻ったとき邸の全景を撮る

 

last day 2月24日 この時点で前日の飲食代を払っても(宿泊代はCCで済ませていた)5000rwf残っていた。その日のフライトは2/21と同じフライトだったから17時でカウンターが開くのも前日の経験で13時ということがわかっていた。なので午前中は時間があった。実はこのmotelからもキミロンコマーケットへ行く近道をみつけてあったので、8時半ころ歩いて出かける。この道もアップダウンのある道だったが、前のホテルからより近くて3,40分で到着、前回と違って若干の余裕があったので土産になりそうなものを探し、値切って2個で2200rwf、さらに奥へ進んでairport hill motelで味を覚えてしまったginger teaを探す。これも市場ではかなり安く手に入れることができた。その帰り道には道沿いの商店で1パック500rwf(60円?)のginger cokkieを数個と昼食用のサモサ×2とチャパティで500rwf+コーラ900rwfで(もちろんその場で計算しながら)ぴったり使い切ったのであった。11時にホテルに戻りパッキングして、サモサ&チャパティとコーラで昼食をとって、12時半にオーナーにお礼と別れを告げて空港へ向かった。この日も一番乗り、少し待たされたが13時半に第一関門は突破、第二関門(荷預けのカウンター)でインドのビザ、イエローカードのチェックを受けそれもクリアして荷物を預け、ようやくKigali空港のラウンジに到着できた。そこでそれまでのうっ憤を晴らすようにお酒をいただいて16時には1Fのgateからよろける足取りで駐機していたエチオピア航空ET806便に歩いて向かったのであった。

最終日に出かけたKimironko Marketの野菜市場

Kigali Airport ↑ ↓

 

『独歩爺最後の旅』アフリカ篇 <ルワンダ> その2, Kigali 街ブラとGenocide Memorial (虐殺記念館)他

Kigaliはちょっと変わった街だったように思う。当初3日間くらいの予定だったがアクシデントがあって(たぶん次回詳述することになると思うが)都合一週間近く滞在したか?しかし結局この街のいわゆる中心といわれるところがどこだったのか、詳しく歩いたわけではないがわからずじまいになった。要は地図が手に入らずガイドブックにも記載なく、Googleで見てもよくわからなかったのである。わたしが最初の日に滞在したホテルは国際空港の近くだったことを後で知ったが、前日に下車したバスターミナルも街のはずれにあったのだと思う。しかし、では中心がどこだったのか?そこへはどうやっていけばよかったのか知るすべがなかったのだった。それとこの街で何をするか?見どころはどこだったのか?わたしが事前に知っていた情報は、今回表題にした Kigali Genocide Memorial (虐殺記念館)の他には何も持ってなかったのであった。

 

わたしはその朝この宿をcheck outするつもりでいた。理由は山ほどあった、1,価格が高かった。そもそもわたしが了解する価格の倍はしていたし(前日遅かったし他を探す余裕なく一泊のつもりで決めてしまった経緯あり)、その朝スマホでチェックしたらけっこう周りに安ホテルがあったことを知ったのだが、そもそもこのホテルがbooking .comでは半額近い値段で出ていたからだった。2,これも前回書いているが周りに食堂も食料品店の類も何もなかったこと、3,今回の旅で初めて蚊に食われて眠れなかったこと、4,やはりスタッフに若干問題あり等々で、考えてみれば3については赤道直下のこのエリアで蚊帳が備わっていたところもあったが、偶々中の上のホテルがわたしの安宿レベルの価格で泊まれていたのと、それらのホテルはビルの高いフロアにあったからだと思う。しかしこのホテルは明らかにホテルランクでは0~1程度で、そのくせ2~3レベルの料金だったからわたしは腹を立てたのだった。つまりぼられていたのであった。それでも朝食付きだったのと、その内容は悪くはなかった。で朝食をいただいてから、チェックアウト時間前に近くのホテルを探しに行こうとしてフロントにホテル代の清算にいったら、なんとそこにはフランス語を話す若き美形の女性が控えていたのだった(もしかしたらこの人が支配人かも知れなかった)。宿代を払いに来たというと、いつまでKigaliにいるのかと英語で聞いてきた(使い走りくんと、もう一人いた鍵番のような男の子はフランス語しか話せなくてわたしとはコミュニケーションがとれずにいた)。三日位の予定でいるが、ここは高いからもう出ようと思っているというと、安くするといってきた。前日の話では一泊3500rwf(ルワンダフラン、1000rwf=120円くらいだったから4000円くらい?)とのことだったが、それを3000rwfにするから延泊しろと素敵な微笑を湛えて説得してくるのである。もちろんもう年だしその手には乗らず、それだと食事代が残らないから無理だと断る。ここで断固断わるべきだったとあとで後悔したが、優柔不断のわたしは、それでは食事も提供しましょう、という言葉にほだされてしまったのであった。さすがに3食付きまで要求はしなかったが朝晩付きで30000rwf(3600円?)なら、ま、いいかと了解してしまったのであった。もちろん蚊帳を攣ることも要求したら、それは日本にあるような電源を差し込むだけの蚊取りを用意してくれたのだった。結局その場で三泊分90000rwfを払ってしまったのである(両替は前日使い走りくんとバスターミナルに買い出しにいったときにATMがあったので結構降ろしてあった)。ま、そんなんで一件落着?10時ころにようやく外出しKigaliの白日のもとの姿を見ることができたのだった。

Kigaliのホテル付近から見えた街?というか、どうもKigali街の中心部はこの写真の
左手奥の方にあったようだ  ↑↓ 街というかのんびりした田舎といった風景

 

まず向かった先は、空港が近いということを聞いていたので二日後に飛び立つはずのKigali国際空港の下見に出かける。一つには荷物をもって空港まで歩いていけるものかの下検分のようなものであった。が、その道はまずバスターミナルへの登り坂をいって途中で左に折れてさらに登り坂か続いた(つまり空港は丘の中腹にあったということ)。歩きだとずっと登りで30分くらいかかったか?結構疲れたので荷物を持っていたらボダボダを使った方がよさそうであった。空港の歩行者用のgateを確認し、次にどこへ行くか?わたしはともかく街らしいところへ行ってみたかったのだ。空港通りは普通のバスが走っていて、たぶんそのバスは街に向かうだろうと予測する。それでなくとも下り坂とはいえ30分の道のりを歩いて帰りたくなかった。バス停にいた人にこのバスはどこへ行くのかと聞いてはみたが通じなかったようだ(通じたとしても今度はこちらが理解できなかったと思うが)。一台目を見送り次に来たバスに、いずれにしろ方向的に街に向かうだろうと賭けた。ドライバーにどこへ行くのか聞いてもその答えは理解できないだろうからともかくいくらかだけ聞いて、300と聞こえたのでそれをを払って乗り込む。そしてどこへ行くかじっと外の景色を注意してみていると、正解だったようで、昨日のバスターミナルまでいったからそこで降りた。その時そのバスターミナルとその付近の写真を撮る、しかしそこも街の中心のようなところではなかった。先にも言ったように丘の中腹にある街はずれのターミナルのようであった。そこからはすでに二度も通いなれた道だったから15分くらい下り坂を歩いてホテルに戻った。途中にGoogle検索で見つけた安ホテルがあるはずだったが、それは見つけることができなかった。ちょっと高かったがそのホテルにするしかなかったようだと諦めもついたのだった。

前日の夜到着したバスターミナルに次の日行ってみた

バスターミナルの入り口付近で待機しているバイクタクシーの群れ

ホテルに戻ったのがお昼頃で、シャワー、前日の食べ残しのまずいパンで腹を満たししばし仮眠をとる(この頃夜半に何度も起きざるを得ない症状が続いていて、昼寝は必須となっていた)、1~2時間の仮眠で3時前には起きだして再び出動、予定ではKigaliは二日しかとっていなかったから、まずは何はともあれGenocide Memorialへは行っておかないと話にはならないだろうとマドモアゼル?(今やこの言葉も差別語だとか?ladyといいなおそう)にボダボダで行くとしたらいくらくらいか聞いてみた。この人はボダボダなんかには乗らないだろうが、ま1500~2000rwfくらいではないかと・・、礼をいって出かけた。今やこのバイクタクシーは先進国以外世界中どこへ行っても見られるようになったが、わたしにとっても東南アジア、アフリカは重要な交通手段<足>となっていた(わたしの好きな中南米やインドはTuktukの方が主流)。もちろんこのKigaliでもその数は多かったが意外にもこの時はなかなか捕まらなかった。やっと止まってくれたお兄さんと交渉、2000rwfはその後走った距離からしたら(30分はかかったと思う)安く感じたのだった。この時の感じでルワンダのボダボダの交渉の目安をつかむ。いや、ともかく遠かっただけでなく、この街は山というか丘だらけ?で、近代的なビルも建っているのだけれどまとまりがないというか、先にいったように結局どこが中心なのかが掴めなかったのである。Kigaliの全貌もつかみ損ねたのであった。

 

さて、Kigali Genocide Memorialである。正直ルワンダのジェノサイドは映画にもなったいたようだが<ホテル ルワンダ;Hotel Des Mille Collines>わたしはそのことを知らずにいた。ま、アフリカ諸国(中南米も)は独立時、あるいは独立後に内戦のなかった国は皆無なのだけれど、ルワンダの場合は主流民族が二つだったので、かくも悲惨な民族抗争になったことを知ることになった。いずれにしろ歴史上いつの時代どこでも人間の愚かさは、このような形で残さない限り繰り返されていく(いや今でも別のところで繰り返されている)のだが、ここでもその悲惨さ残酷さを確認させられるのであった。負の遺産はどこでも見るたびに暗澹とした気持ちにさせられる、展示されている写真を直視できなくなる。しかし当事者にとっては生き残りをかけた生存競争(戦争)だったのだろうから、人間は集団になると歯止めが利かなくなるのだろう、他人事のような安易な論評は控えなければなるまい。

Kigali Genocide Memorialの建物

遠くにこの街の中心部にあるらしい高層ビル群が見えていた

たまたまその日(2/19)は日曜だったからか、ここには大勢の観光客の姿もあった。この建物の見学順路等があったようだし、オーディオガイドも備わっていたようだが、それを知ったのは一回りしてからであった。閉館時間も近かったので、その場を後にしフリーのモトドライバーを探した。幸いその時はすぐに次のドライバーは見つかり、ここまで来たからには是非帰りにはホテルミルコリンズにいってみたかった。まずその場所を知っているか確認して料金交渉となった。1000rwとのことだったのですぐに出発、ところがこの若いドライバーは正確にはその場所を知らなかったようで誰かに聞いて、丘の上のホテルまで連れて行ってくれた。そこで下車しガードマンに断って証拠写真として写真を一枚撮らせてもらった(現役の高級ホテルなのでrich travelerならいつでも泊まれるようだった)。その辺りは丘の上だったが、Kigaliのhigh class zoneだったようで高級ホテルが立ち並ぶエリアだった。Kigaliにこんな上流人種が住むエリアがあったんだと感心しながらそんな界隈をしばらくぶらつく、しかしそこもいわゆるKigaliの中心といえるようなところには思えなかった。その時間でもまだ明るかったので、持っていたガイドブックにあった断片的な記事(そのガイドブックのルワンダの記事はほんとに断片的にしか記載がなかったのである)の中のもう一ヶ所にいってみることにした、が、それもその場所からどのくらい離れていてどの方向にあるのかさえ分かっていなかった。再びモトドライバーを探してキミロンコマーケットKimironko Marketって知っているかと交渉してみた。ホテルミルコリンズを知らないドライバーはいてもキミロンコマーケットを知らないドライバーはいなかったと思う。いくらでいってくれる? 1500rwf。1000rfwにならないかと一応聞いてみたが無理のようだった。しかしこの時も走った距離からしたら安すぎるくらい遠かったのであった。結構時間もかかって着いた時は夕暮れ近かった。イメージからしたらこの辺りこそわたしが求めていた場所で、雑然としてごちゃごちゃしてて少々下街っぽかった。そしてそこは初日に下車したバスターミナルよりも大きなバスターミナルKimironko Bus Stationでもあったのだ。むしろそれが驚きで、こんなところもあったのか、ここなら安ホテルもあったかもしれない、思えば昨日のあのバスもここまで来たのではないか?そう思うと旅の流れというのはちょっとしたことで変わってしまう(わたしはあの若者二人と出会ったことが流れを変えたかもしれない)と改めて思ったのであった。その時は遅い時間になっていたのでマーケットを確認せず、このバスターミナルから前日のバスターミナル(そこまでいければホテルは近かったから)へ行くバスはないかと何人かに聞いたが、そのターミナル名がわからなかったので、説明不十分で誰も理解できなかったようだった。でバスは諦め再びモトドライバーを探して、英語は通じるはずなので何とか、もう一つバスターミナルがあるだろう、そこへ行きたいのだと説明していたらようやく一人がわかってくれたようで、連れていくとのこと、いくら? 500。え、なんでそんなに安いの?と日本語でつぶやきつつ半信半疑ながら後ろの座席にまたがると、すぐに出発して裏道をいったのかどうか、ものの10分もかからず、まさに見覚えのあるバスターミナルまで届けてくれたのであった。そう、わたしが地理をわかってないだけでその間はかなり近かったのだった。そこからは通いなれた下り道で15分でホテル着。その時ホテルの手前に前日は気づかなかったが小さなバー?のような店があってビールの広告がでていたので、覗いて聞いてみると中瓶?の大きさだが1000rwfでビールを手に入れることができたのだった。その時は19時ころだったが、もうすっかり外は闇の世界になっていた。戻ると使い走りくんしかおらず、それでも彼が作ってくれたのか夕食の用意ができていた。で久しぶりにまともな食事というか、ま、アフリカらしい食事をおまけにビール付きで味わうことができたのだった。

Hotel Des Mille Collines ↑↓

Kigaliのhigh class area ↑ ↓ 2枚

 

前回使い走りくんが写っていたものと同じものだがこちらにはビールも写っていた



『独歩爺最後の旅』アフリカ篇 <ルワンダ> その1, ウガンダの奇跡、ルワンダの衝撃

少々大げさに、奇跡が起こったと表現してしまったが、実際わたしの生涯で、あるいはわたしの旅でこんな経験をしたことがなかったのだから、あり得ないこと ! 奇跡的なこと ! に思えたのだったが、それで一件落着したわけではなかった。二台のバスはその先30分くらいは前後して走っていった。乗り換えたバスの方は比較的すいており、後ろの方の空いてた席に転がり込むと、ほどなくして車掌がやってきて支払いを請求される。もちろんその地点からKigali(ルワンダの首都キガリ)までのバス代であるが、それは先のバス会社に払ったといっても当然通用しない、で、いくら? と聞くと50000ushとのこと、騙されて80000ush払わされた身としては何とも悔しい通告で、高すぎると抗議しても始まらない話であった。が、それよりそのときわたしはすでにUSH(ウガンダシリング)を持ち合わせていなかったのだ。手元にあったのは10000ush残すのみで、ドルしかないというと、車掌はドライバーに確認する、ドライバーとしては有難迷惑な珍客としか見ておらずnoの返事、ないものはないの押し問答しているうちに、今度はこのドライバーが後ろを走っていた元のバスを止めて、さっさと降りろと、わたしに告げる。いやはや、わたしも困り果ててしまう、そしてもう一度車掌を通して国境で両替すれば払えるといってみたが、ドライバーは了承せず降りろの一点張り。荷物を放り出されそうになった時、再度後ろの方にいる乗客にも聞こえるような大きな声で、『 国境で両替する、それまでドルを預ける』と叫んでみた。そのとき、わたしとドライバーとのやり取りをずっと見守っていたバスの乗客がなんとわたしに加勢してくれたのだった。わたしは今一度後部座席に戻ることができ、車掌に30ドルを預けたのだった。

 

最初にKigali行のTrinityのバスに乗り移ってから30分くらい走ったあたりで、二台のバスは別々の道を行くことになった。最初のKabale行のバスは直進し、Kigali行のバスは左折した。その場所は後からgoogleで調べてみると、Ntungamoというところではないかと思う。Kabaleへはそこから2時間半から3時間くらいかかると聞いていた。左に折れた我々のバスは30分くらい走って、ルワンダとの国境に着いた、ウガンダ時間14時半ころだった。山の中の何もないところ、街でも村でもない、静かなところだった(Mirama hillsとスタンプにあった)。国境を行き来する人はほとんどおらず、両替人だけ何人かいた。早速車掌から30ドル取り戻し、まずウガンタシリング40000ushに14ドル、そして手持ちの10000ushを足して、車掌に50000ush払い清算を無事済ませることができた。が、ここルワンダ入国には考えられないような問題が残されていたのだ。その情報はガイドブック等から得ていた、即ち、ルワンダという国は何やらビニール袋(&プラスチック袋?)の持ち込みが一切禁じられているということだった。なのでもちろんその対策をして臨んだ。ただ正確には、どこまでどのくらい厳しいのかは現場にいってみないことにはわからないことだったので、ぶっつけ本番のところも多々あった。ルワンダ人もいたと思うが皆チェックを受け、担当官がすべての入国者のバッグを開け調べていたが、どうもそれほど厳しくはないようだった。わたしも自主的に2~3枚提出し廃棄処理してもらってその場を通過、そのあとパスポートコントロールになったが、この時は同じバスに乗っていた若いルワンダ人がいろいろ助言をくれたりして、サポートしてくれたのだった。全く静かな国境エリアに一張りのテントがあってそこで食事や飲み物を提供していた。他に何も設備はないからみんなそこで食事していた。わたしも10ドル分ルワンダフランRWF(10ドル=10000rwfだった)に両替して食事をとろうとしたが、他人の食事のボリュームをみたら食べきれそうになく、食事はとらずに飲み物とバナナを仕入れただけだった、が、これが後々失敗となった。結局バスはそこに2時間停車していて、ウガンダ時間16時半の出発となったが、それはルワンダ時間15時半ということらしかった。

これも写真撮影禁止エリアだったかもしれないが、ウガンダルワンダ国境の写真を
びくびくしながら撮った、これはルワンダ側 ↑↓ 奥に見えているバスがKigali行のtrinityのバス

このテントで皆食事をしていた

国境をでてからはほとんど田園地帯というか丘陵地帯を行ったが、ま、ケニアウガンダを旅してきた身からするとやはり、ルワンダの衝撃は確かにあったのだ。正直言うとこういう国はわたし向きの国には思えなかった。曰く、アフリカのスイス、アフリカのシンガポール、言わんとすることがお分かりだろうか?きれいすぎる国、ゴミ一つ落ちてない国、こういう国は苦手なのである。そしてそれはバスの車窓から見る限り間違いではなかったのであった。逆にいうと何ともアフリカらしくない、内戦(ジェノサイド)を経験して見事に復興した国、アフリカ一の経済成長を誇る国、それを如実に示しているような街々、風景、人々、センスの良い服装、確かにそれはアフリカの奇跡だったかもしれない。そんな矜持を自然に体感しているような若者がわたしの隣に座ったのだった。彼らは国境付近から乗車した二人の若者で旅行者ではなくルワンダ人のようだった。彼らは英語で話し、わたしのものよりずっと高級なカメラを二台も携えていたのだった、で、あなたはフォトグラファーphotographerか聞くと自信ありげに、そうだと答える。わたしもその辺の事情は無知だったから、この国でphotographerという職業が成り立つのか、それで食っていけるのかと聞いてしまった。いとも簡単に成り立つと言ってのけたので、胡散臭くなったのでしばらく彼らとの会話は途絶えた、一つにはここでもわたしの英語力の未熟故のことで、それ以上ツッコんでいろいろ話す自信がなかったからであった。わたしは時々自分の安カメラで写真を撮ったりしながら、ウガンダルワンダの違いに目を瞠っていたのだった。

Kigaliに向かうバスの車窓から何枚か ↑↓

どこかの街のバスターミナル

そのうち夕闇迫り景色を楽しめなくなり、なかなか街らしい明かりも見えないので、どんなところを通っているのか想像するしかなかったのたが、ともかく街の灯が全くないので想像もできなかった。いったい何時に着くのかも聞かなかったし、Kigaliがどんなところかもガイドブックにはルワンダの情報が全く欠けていたので、それも想像できなかった。だから少し不安にもなってきて、Kigaliには安宿はあるかと、わたしから話しかけた。それから少しまた話すようになって、宿は予約してないのか、自分たちが探してやるといった話から、お互いの話になり、わたしは日本のじいさんで一人旅をしているといったことや、彼らはジャーナリストで一人がどこかの企業の取材に出かけてもう一人は写真家としてコンビを組んでいるらしいことがわかってきた。そのうち漸く、街らしい明かりが見えてきて20時半にバスターミナルのようなところに着いた。国境から5時間の長旅のうち2時間は闇の中を走っていたことになる。

バスターミナルに着いた時に撮った写真

だが、そのバスターミナルも灯りが煌煌としていたわけでなく、広場のようなところの周りに高い建物があるわけでなく、ホテルの看板も全く見当たらなかったのである。一人だったら、こういう時は迷わずボダボタ(これはウガンダの呼び名でここではなんていうのか知らなかったが)を探したと思うが、そして結果的のその方が正解だったようにあとから思ったが、幸か不幸か偶々その時親切心で自分たちでホテルを探してくれるという若者二人が一緒であった。もちろん彼らも二人であったから自宅に帰るにタクシーを使ったと思うが、まずタクシーを探してきてドライバーに近くの安宿にまずいってくれと頼んでくれたようではあった。が、実際にそんな安宿が近くにあったかどうか知らないが、いずれにしろこのタクシードライバーは、わたしが納得するような安宿を知らなかったようであった。少なくとも次の日、いや数時間後に知ったことだが、わたしの感覚ではバスターミナルの付近には安宿、安食堂があっておかしくない、といった先入観は、見事に裏切られる場所だったことがそのあとでわかったのである。が、その時はそんなことは露知らずで、わたしはタクシーを使うまでもないのではという想いもあったのだけれど、言いなりにその車に乗ってしまったのであった。そしてすぐにそんなホテルは見つかるだろうという想いは、その場所を離れた途端、また暗闇になって食堂はおろかお店も一切ない丘の中腹を下っていったのである。で、確かに車で5分くらい走ったところで一軒のホテルを見つけてくれて、わたしは直に交渉してみた。が、高すぎた。それだけでなく価格もさることながらいわゆる商店が周りには一軒もなく、ま、街道筋のホテルといった感じ、ところが別のホテルを探すにしろその付近にはホテルらしい建物も商店すら見当たらない、若い二人も成り行きを見守っている(要は彼らもそんな情報を持っていなかったのだ)、時間も時間だったから、一泊だけは仕方ないかと諦めることにする。そして彼らにお礼をいうと(これもわたしの思い過ごしだったのだが)タクシー代を払えといってきた。てっきりわたしは彼らの帰路の途中で親切心で乗せてくれたものと早とちりしていたのだが、やはりそこはそんな余裕のある世界ではなかったのである。もちろんほんの一部だが、タクシーを使ったことのない貧乏旅行者にとっては大金を払わされることになったのだった。で、彼らとは別れたが(また、その後再会もすることになるのだが)わたしにとっての驚きはまだ続いたのだった。その時のフロントのお兄さんに、食事をしてないので近くにお店はないかと聞いてみた。と、彼はそこの従業員が案内してくれるといって、使い走りのような若者を連れてきた。そしてついて来いというからその彼に従う、なんと親切な人たちだというこれも驚きの一つだったが、その時向かった先はタクシーで5分くらいで降りてきた長い下り坂を20分もかかってバスターミナルまで登り返したのであった。さすがにその周りには若干商店はあったが、3軒目くらいでやっと手に入ったのはパン1000rwfとコーラ1000rwfだけだった。往復1時間かけて手に入れたそのパンは、失礼ながらお世辞にもうまいといえる代物ではなかったのである。で、その時バスターミナルの周りをうろついてわかったことだが、付近に食べ物屋さんはおろかホテルも一軒もなかったのである。こんな国もあるのか ? 凄いところだ ! といった、いい意味も含めた驚きを今回は衝撃という言葉を使ったが、ま、それは偶々のこと、あくまでわたしにとってのことであったことは言うまでもない、だが、旅全体を通してもこの日はハイライト<特異日?>だったかもしれないと今でも思っている・・。

後日の写真だが、この男が使い走りの若者でわたしをバスターミナルまで夕食になりそうなものを探しに連れてってくれたが、言葉はフランス語しか解せずほとんど役に立ってない。

 

『独歩爺最後の旅』アフリカ篇 <ウガンダ> その4, 2/16~17 Kampalaでグダグタ、2/18 ルワンダ Rwanda へ

今年2023年1~2月はまだほとんどのところでコロナ禍は明けていなかったのだと思う。この後3月にインドに入るが、そこまでの約2ヶ月、グアテマラ~トルコ~アフリカと旅していて、少なくとも日本人の旅行者、いやアジア人ヨーロッパ人も含めた旅行者らしき人には一人も出会っていなかったのである。だからこの中の上クラスのホテルは朝食がついていたのだけれど(ナイロビでも・・わたしが泊まった中の上クラスはだいたい2500円~3000円くらいのホテルだった)朝食をとるレストランで他に宿泊客らしい姿を見かけることはなかった、ほとんどいつも一人でいただいていたのだった。なぜこんなことを言うかというと、貧乏旅行者にとって朝食付きのホテルにはめったに泊まらないから、たまに宿泊するとその豪華さのためついつい写真を撮ってしまって覚えているのである。16,17日はその素晴らしい朝食を食べ逃すまいと定時(7~8時)にきちんといただいてから外出した。

2/16の朝食

2/17の朝食、内容は同じだったか?

さて以下のKampalaでグタグダは、要するに目ぼしい話も絵になる写真もあまりないので、読み飛ばしていただいた方がいいかもしれない、いや体調もいまいちで疲れも溜まってきていたのか、ともかく旅の冴えがないのである。体力の限界(その時は自覚のなかったが後に発症する病状と疲労の蓄積があったのかも?)にきていたのか、改めて振り返ってみると、どうもそのころから流れが変わったようにも思う、以下面白くない記録が続くが、失敗等が多くなってくるのである。だから今後の展開はあまり期待しない方がいい、どうでもいい記事ばかりになるだろう・・、ま、それでもその失敗の記録もつぶさに綴っていくつもりであるが‥、、

 

で、サファリを諦めるとウガンダというかカンパラの見どころはどこなのか、まずその手掛かりとなりそうな観光局をまず目指そうとガイドブックの地図を頼りにそこに行ってみることにしたのだが、そこまでは歩いていけそうになかった(この記事は前回とダブります)。こういう時はそこら中に待機しているボダボダドライバーとの交渉となる、が、彼らに観光局といってもわからないから、それが入っているらしい建物名(Garden cityと記載されていた)をいうとにすぐに理解してくれ、交渉で3000ushで了解された。途中にカンパラ駅という鉄道駅の記載があったので寄ってもらったが、どうやら運行されてないようで閉まったままであった。で、ガーデンシティというところまで連れてってもらったが、大きなショッピングモールのようなところで、そのどこにあるのか、古い本なので実際今でも入っているのか不明のまま、そのモールのインフォメーションのようなところはないのか何人かにも聞いてみたがチンプンカンプンだったので、たぶん既に別の場所に移っているのではないかと諦めた。なだらかな丘陵地帯にできている高級住宅街、高級ホテル、官庁などの立ち並ぶエリアで、人通りも少ないその一帯を巡りながら歩いて帰ることにした。7~8kmはありそうな道程であったが寄り道しながらブラブラと2時間くらいかかったか?その時途中に前日にいった独立記念碑、郵便局辺りを通り、エチオピア航空を見つけたが祭日で休みだったことは前回述べている。そのエチオピア航空を何故探していたかということを簡単に述べておくと、前にも言ったと思うが世界一周券は発券時にルート日程をすべて決めて発券してもらうのだけれど、それは途中で変更が可能と聞いていたから、可能なら少し日程変更をしてもらおうと思ってのことだった。結局3日目に(次の日も暇だったから歩いていってみたのだ)ようやく職員に会うことができたが、Addis Ababaで聞いてくれとあっさり言われてそれで終わり、ま、暇つぶしでもあったがこの件は3日間通ったが無駄骨に帰す、ま、そんなもんだろうと思う、一旦ホテルに戻って作戦の練り直しであった。

カンパラ駅は閉鎖中、鉄道が再開することはあるのだろうか?

 

そうなると情報源は中古のガイドブックしかなく、それでも記事内容はケニア程ずれはないように思え、それを参考にするしかなかった。しかしアフリカ4ヶ国を一冊で扱っているのだからそもそも情報量は限られており、カンパラの見どころとして紹介されていたのは4,5ヶ所しかなかった。文化センターとか博物館はどうでもよかった、となるといってみてもいいかなと思ったところは2ヶ所に絞られた。一ヶ所は①カスビトーム Kasubi Tomb、もう一ヶ所は②キブリモスク Kiburi Mosqueだった。①については植民地以前の王国ブガンダの王が祀られている墓所と記されていたが、このブガンダ王国についてはSpekeの白ナイル探検時に多大な協力を惜しまなかった王ムテサの名は知られいたので、是非行ってみたいと思ったのと②については、実はタクシーパークからの写真やホテルの屋上から撮った写真にも遠くにそのミナレットが望まれていたので、さぞあの上からの展望は素晴らしいだろうな、と思ってのことだった。いずれも方角は北西の方向で②は①の帰りに寄れそうでもあった。また①に行くには前日見つけたルワンダ方面に行くバスパークの近くにNew Taxi Parkがあったのを覚えていて、そこからタクシー(乗り合いワゴン車)が出ているらしいこともわかったので、午後に早速出かけてみた。実際このカンパラには大小合わせていくつくらいのタクシーパークがあったのだろうか?ガイドブックに記されていたNew Taxi Parkは規模こそ、最初に紹介した0ld というかBigというか、いわゆるカンパラ(大)タクシーパークに比べると1/2くらいだったと思われるが、一見さんのわたしにはどの車がどこへ行くのかは皆目見当がつかず、人に聞くよりなかった。で、唯一Kasubi Tombの単語をたよりに、声をかけてくれた人に聞いてみると、これまた親切にそれはここからではないといって、わたしを大通りまで連れだし通りの右手を指して、あそこに待機タクシーの列が見えるだろう、あそこに待機しているタクシーの先頭までいきなさいと説明してくれるのであった。で、そちらへ歩き出して、ようやくその先頭の車がいる乗り場までいきつくのだけれど、その先頭の車までの長い待機タクシーの列を見たとき、果たして最後列に並んだ車のドライバーは、いったいどのくらいの時間を待つことになるのだろうかと心配するほどの待機車列だったのである。何せ客が集まらないと発車しないのだから、わたしのおおざっぱの計算で、その時たぶん午後1時ころだったと思うが、もしかしたらその日のうちに次の客を乗せることができるのだろうか、といったレベルであった。つまり我々の感覚からするとその非効率を気にするのだが、この国ではそれはそれほど重要なことではない、あるいは他に仕事がないor他に選択肢はない、ということなのかもしれなかった。乗客としてのわたしは、その先頭車両に乗り込み10分くらいで発車、助手に料金を払うときにKasubi Tomb近くでおりたいと告げておいたから、そこまで15分2000ushでいきついた。降りるときにどっちの方角かだけ教えてもらってその方向に歩き出す、10分くらい坂道を登ったからか暑さのせいかなんだか相当疲れたのであった。で、ようやくその入り口らしきところに着いたのだが門は閉ざされていた。入り口は違うのか、ticket officeとかないのだろうか、誰かいないのかとウロウロしてみる、そのうち中から人がでてきたので、いい塩梅と思って聞いてみると、なんと今は休館中とのこと。オイオイオイ、めったにそんな発言はしないのだが、この時はそれはないだろうと思って大げさに、わたしは日本からわざわざここを目的に訪れたのに、それはないだろう、ちょっと見せてよ、と食らいついたが、そんなことが許されるはずはなかったのだった。ただ、その時その人は近くに似たようなところはあるからボダボダのドライバーが連れてってくれる、というようなことを言ったのだ。その場所名が聞き取れず、近くにいたバイクドライバーにそのままその話をしてみたが、やはりすぐにそんな場所は思いつかなかったようだった。悔しいが諦めるよりなく、ならばとドライバーに聞く、ここからNew Taxi Parkまでいくらでいってくれる?来る時使ったtaxi(乗り合いワゴン車)で帰るとしてもその乗り場まで結構距離があったし暑かったし、帰りの乗り場もよくわかってなかったからである。4000ushとのことだったので即決して、もう一つ希望を述べてみる、その途中に有名な建物とか場所があったらちょっと寄ってくれないか、写真だけ撮りたいのだが‥と、そしてそこがどういう所かよくわからなかったが、一ヶ所それらしいところに寄ってくれたのだった。どこをどう通ったかはわからないが(後で調べてわかったことだが結構遠回りしてくれたようだ)、そこで一枚写真を撮らせてもらった。後にその写真からわかった建物名はKabaka's Palaceというところらしかった。ただそれでもその建物が何だったのか?どうやら元大統領 Idi Aminの邸宅?王宮?だったようだが、いずれにしろ全て後でわかったことだった。そんな感じのボダボダによる市内見物になったが、最後はNew Taxi ParkまでいかずにKiburi Mosqueで降ろしてもらった。そこからなら歩いても帰れそうだったし、何ならボダボダでもたいした距離でないことがわかっていたからであった。確かにミナレットの聳えるKampala Hillからは、ミナレットに登れば価値ある展望をものにできたかもしれないが、その場からでもなかなか展望の良いところであった。で、受付で入場料を聞いてみる、外国人は25000ushとのこと、うーん迷う、その時すぐに日本円換算はできなかったので、ただ直感的に他の諸物価に比べて高すぎのように思えてミナレットには登らずにそこを後にする。30分くらいの道のりをNew Taxi Parkまで歩いて下った。

Kasubi Tombは休館中だったのだ ↑ ↓ 

どこだかわからないまま写真だけ撮らせてもらった

Kabaka's Palace ; Idi Aminの王宮だった?

<ここで重要な訂正;ここまでそのモスクがガイドブックにでていたKiburi Mosqueだとずっと思っていたのだが、どうやらわたしの勘違いだったようだ。Kiburi Mosqueというのは別のところにあって、到着初日から見えていたそのモスクはUganda National Mosqueだったことを、これを書いている今(ちょっと確認してみて)知るのであった。>

Kiburi Mosqueだと思って書いてきたが、Uganda National Mosqueだった ↑↓

宿泊していたホテルからはこんな感じで見えていた

↑の2枚の写真はUganda National Mosqueから南西に見えていた建物で、これもなんだか
わからず望遠で撮ったものだが、あとでこの建物がガイドブックに載っていた
ナミレンベ大聖堂Namirembe Cathedral だったことを知る

で、New Taxi Parkまで戻って、そこからはすぐのところにあったBus Parkに再び行ってみた。すると早速新手のお節介者が現れて、どこへ行くと聞いてくるから、いつものようにルワンダと答えるとついて来いといって、前日に行ったバス会社とは別のところへ連れて行くのであった。そこで聞いた情報はキガリまで80000ush 朝の5時7時9時にバスは出るということであった(この話も前回とダブります)。そこの帰りに近くにあった安食堂っぽいところで昼食をとってホテルに戻る。帰りに飲み物等の買い物、帰ってからはシャワー・洗濯と夕方まで休憩・仮眠、そして日没前に起きだして、また屋上から写真を撮ったりしてから街に出た。この時は二つの目的があった、一つは夕食ののネタ探し(take outできそうなもの)、ところがKampalaはわたしの愛するストリートフード(つまり屋台)が、近くにあったOwino Marketといった超込み合う市場辺りをうろついてみたけれども、ほとんど目にすることができなかった。飲食店(食堂、飲み屋)が少なかっただけでなく食料品を扱うお店自体が著しく少なかったように思う。結局パン屋さんのようなところでチャパティのようなものを適当にみつくろって仕入れ、昼食が遅かったのでそんなもので夜食とする。もう一つの目的はホテル探しであった、というのもその時点でもう一泊する必要があるだろうと、近くにあった安宿(guest house)がどんなものか探ってみたのだった。が、例え1/2くらい(30000ush 1000円くらい)で泊まれたとしても、それが中の上クラスの今のホテルが70000ushで泊まれて、その設備・豪華さ・きれいさ&朝食付きと比べたら雲泥の差となって、比べ物にならなかったのであった。で、その件は次の日ホテルのフロントと再交渉することにし、おおよそその日は終えるのだが、そんなホテルでもケニアと同じ問題は起こったのであった。それは騒音問題で、そこでは夜通しの音楽の騒音公害ではなく、宗教関連(たぶん近隣のビルの一室からの)早朝からの得体のしれないお祈り?あるいは説教?繰り返される祈祷?呪文?のような騒音で朝早くに起こされたのであった。

 

17日朝、早速フロントに出向いて騒音について苦情を言ってみたが、やはりどうにもならないような返事、たぶん難しいだろうとわたしも思ったので話題を変えてというか(別にそういう作戦で臨んだわけではなかったのだが)、ところでもう一泊延泊させてほしい、ついては明日早朝にチェックアウトするから朝食抜きで構わない、ついては70000ushを60000ushに負けられない?と聞いてみたのだ。すでに顔見知りになっていた年配の女性はすんなり承諾してくれたのであった。そして素敵な朝食をいただいて、まずその日に出かけた先はすでに記したエチオピア航空だった。結果はさんざんで帰りにATMでUSHを引き出し(手数料が半端でなく、これにも怒ったが)から、前日訪れたバス会社に出向いたのであった。そう、この時はまだ気づいていないのだ、わたしは前日情報をくれたお兄ちゃん(バス会社の人)がいたので、昨日の情報に従ってRwanda/Kigaliまでということで朝7時発のバスを予約、ticket代として80000ush(2800円くらい?)払ってticketらしきものを発行してもらったのだった。いずれにしろバスは明日の朝この場から出るから、6時半ころまでには来るように言われ、その時は何ら問題はないだろうと思っていた。そのままホテルに戻り延泊代60000ushを支払うと、もう特にやることもなくなって、あとはパッキングしたり、日本にラインを入れたりAddis Ababaの予約してあったホテルに現状報告をいれたりして、それこそグダグダしていたのだった。

だが、どうも気になって仕方なかった、なんかすっきりしない感じ、で、そのticketを見直してみる。会社名の入ったticketらしき紙片にまずBUS no.とPassenger Name 欄があって、FromとDepature Time欄は印刷されていてそこに手書きで埋めていくといった、ま、ある意味アフリカらしきticketであった。問題はそこに書かれていた文字で、その時ようやくおかしいことに気づくのである、そういうことだったのか、しかしどういうことなのだろう?そこに書かれていたfrom はKampalaになっていたが、行先のtoに書かれていたのはルワンダの首都Kigaliではなく、ウガンダ南部にあるルワンダとの国境近くの街Kabaleという街名になっていたのだ。すでに夕方近かったが、もちろんすぐに出かけた、人混みをかき分け通いなれた道を10分?15分?、しかしタイミング悪し、あるいはすでにトンズラされてしまったか、くだんのお兄ちゃんの姿はなかった。こういう小さな会社はことが起こると質悪くて、ごちゃごちゃの事務所にはだれが責任者なのか皆目わからず、これはどういうことなのかちゃんと説明してくれる人はいなかったのだ。その時点でわたしが理解できたことは、まず、わたしは詐欺とまではいわないが、どうやらここの連中、つまり皆親切だと思った連中に一杯食わされたらしいということだった。で、Kigaliまでいきたいといったときに連れて行ってくれたバス会社はKabaleという街に行くバス会社(Bismarkan Coachesといった、そんな会社が何社か固まっていた)で、KabaleというところからはKigaliに行くバスが出ているということらしかったのだ。Kampala~Kigali間の直通のバス会社も何社かあることは聞いていたが、どうやらそれらのバス会社はそれぞれ独自にターミナルを持っていたようで、このBus Parkにたむろしていたお節介野郎たちは、それを知りながら(たぶん少し離れたところにあったようで)そこまで連れていくほどの親切心は持ち合わせていなかったようだ。それでKabaleまでいくバス会社に連れて行って、ま、ぐるになってわたしにKabale行のticketを買わせたというのがその筋書きのようだった。気づくのが遅く後の祭りで、とりあえずその時点でのキャンセル希望は責任者不在でかなえられなかったのである(こんなところがウガンダらしいのかも知れなかった)。わたしのミスでもあったから、仕方ないとりあえずKabaleという街までいってそこでKigali行のバスに乗るしかないかと諦めてしまったのだ。ま、そんなことがあって、ウガンダももうどうでもいいな !  、カンパラいい加減にしろ ! という気持ちになっていた。あとは明日の成り行き次第ということにし、最後の夕食をとりに二日前にいったtaxi parkの食堂に出かけ(前回魚だったからこの時はmeat & rice で5000ush)、帰りにビールを売っている店を探すのだけれど見つけられずソフトドリンクと水を買って戻り早めに寝てしまうのだった。

ホテル周辺の雑踏

で2月18日、5時には目が覚めて5時半にはホテルを出、6時前にはBus Parkに着いており、すでに事務所内はごった返している。Kabale行のバスもすでに乗客を乗せていた。そこでもう一度そのときいた責任者らしい人に問い詰める、わたしは前日にKigaliにいきたいということでticketを買った、ところがこのticketにはKigaliとは書いてない、Kabaleと書いてあるではないか、これはどういうことだと詰め寄る。その人はKabaleでKigali行のバスに乗り継げるといったのだ。本当か ? ならこのticketはKigaliと書かれてなければおかしいではないか ! ? なんとその人はKabaleを棒線で消してKigaliに書き換えたのだった。いい加減だな、あり得ない、と思いつつもどうなることやらとわたしもバスに乗り込み自分の席を確保する。まだ、時間はたっぷりあり、少し食料を仕入れておこうかとバスを降りてぶらついて、このカオス的(グァテマラ的?)バスターミナルの写真を撮ってバスに戻る、とほとんど間髪を入れずに男が乗り込んできて、何やっているんだ、何を撮っているんだと凄まれてしまった。どうやらバスターミナルも撮影禁止の場所でだったらしいことを(Jinjaで橋の撮影は禁じられている言われたことを)すぐに思い出し、その人の見ている前でその写真を消去したが、まだ何か言っている。こういう時はわからない振りをするしかなかった。どうやらその男はinspector<検査官のような人>だったらしく危うく逮捕されそうになるところだったのだ。わたしがクレームをつけたバス会社の担当者がその検査官から何かを言われていた。いやはや、である。すったもんだの展開に我ながら少し怖くなってくる、で、このあとバスからの写真も含めて残っている映像がほとんどなかったのであった。

 

そのバスはほとんど定刻(7時)に出発したのだった。わたしは運転席の隣の場所を確保してあったから車窓は楽しめた。それだけでなく、気のいいドライバーが珍しい外国人が乗っているということで観光ガイドを始めてくれたのだった。最初は2時間くらい走った頃イクエイター<Ecuator>道路の右手に赤道のモニュメントが現れ、それをわざわざわたしに教えてくれたのだった。それ以降、River Katongaカトンガ川、左手にVictoria湖が見える、ライスフィールドがある、大統領が出た街がこの近くた、といったことをほとんど聞き取れずに相槌だけ打っていたわたしに聞かせるように説明してくれるのだった。そのうち助手の一人が(助手みたいなのが数人いた)ticketの確認に回ってきて、わたしのKigaliと書き換えられたticketを見て怪訝そうな顔をしたので、一応経緯を説明しKabaleに着いたらKigali行のバスに乗せてくれるよう頼む、これが数時間後に思わぬ展開を生むことになったのだった。そう、騙す奴もいれば善良な奴もいる、どちらかというとウガンダ人は極めて善良な奴が多かったという印象は前に述べたとおりだった。いずれにしろこの時のバス旅はかなりの長距離移動であった、途中大きな街が2,3あって、最初はMasakaマサかという街で10時頃、次がMbararaムバララというところでそれは13時ころだったと思う。その頃には周りの人たちもわたしがKabaleでなく、Kigaliに行くつもりだったのだが、ま、こういうことになってしまったことを知っていて(もうよく覚えてないが、そんな話をしていたのかも知れなかった)隣のおばさんが、今追い越していったバスがKampala発のKigali行のバスだ、あのバスに乗ればよかったのよ、と教えてくれたのだった。そうだったんだ、と悔しい想いでそのバス(Trinity社?)を見つめていたら先の助手がドライバーと何か話しだして、そのうちそのドライバーが前の車に合図を送り、そのバスを止めたのだった。そして助手がおりて前のバスにいってドライバーか向こうのバスの助手と何か話して戻ってくるや、わたしに向かっていったのだ。あのバスに乗り替えろ、あのバスがKigaliに行くバスだ、といってくるではないか ! !  Masakaであった、あり得ない、普通そんなことありえない。しかしぐずぐずしているわけにはいかなかった。わたしもすぐに理解できたので、この奇跡に感謝し、バスを降り際乗客に向かって、ウガンダ最高 !! ありがとう !!と叫んでBismarkan社のバスを降りTrinityのバスに駆け込んだのであった。こうしてその2時間後にバスはルワンダ国境に到着するのだが、その間にもう一波乱二波乱に見舞われるのであった。

Masakaで休憩、こんな写真も見つかったら面倒が起きたのかも??

当時のbus ticketがでてきたので写真に撮ってみた。そこに一緒に写っているのはグーグルでTrinityのバス会社がどこにあったか調べたもの、そしたらその会社はなんとUganda National Mosqueのすぐそばにあったことが判明、いずれも事後の発見であった



『独歩爺最後の旅』アフリカ篇 <ウガンダ> その3,カンパラ Kampala

ウガンダの首都はカンパラである。首都にふさわしいというか、流石に大都会、その極みはその混雑具合、その密着ぶりとでもいおうか、わたしはJinjaから乗り合いのワゴン車で着いた時、そのタクシー(前に言っているがウガンダでは乗り合いワゴン車をタクシーといっていた)パークの広さとその混雑具合・密着度に唖然とさせられたのであった。世界に誇れるタクシーパークのような気がしたのであった。写真で見てもらった方が早いかもしれない・・??

カンパラタクシーパークの全景でなく半景? ↑ ↓ あと2,3枚

 

 

最初に度肝を抜かれたからでなく、カンパラの街を歩き回って、やはりここが一番の目玉ではないかと思った、ま、東京なら渋谷が面白い、といったところか?あるいは東京の中心東京駅か? で、お分かりと思うが、これだけのワゴン車の出入りがあるということは、その付近の道路事情は推して知るべし、そしてそれは車だけではなく路上の人込みやいかん !?ま、想像を絶するものだったのである。

 

その日Jinjaのホテルをチェックアウトしたのは7時半頃であったか?Jinjaタクシーパークはホテル前の大通りをVictoria湖に向かって下り気味に10分くらいのところにあったが、ホテルの前で待機していたモトドライバーにタクシーパークまでいくらで行くか聞いてみると1000ush(35円くらい?)との答えだったので迷うことなく乗ってしまった。前日確認してあったカンパラ行のワゴン車は、出たばかりのようでまだ人がそれほど乗ってなかったので、ドライバーにすぐには出ないだろうと確認して、近くにコーヒー屋はないかと聞いてみると、例のごとく彼はわたしを連れて市場の中のコーヒー屋のまで連れてってくれたのだった。また、そのコーヒーが安くてうまくて(ジンジャー入りコーヒー1000ush)おまけにパンまで安くてうまいのを(500ush)そこで食べられたのであった。50円の朝食は改めてウガンダはわたし向きの国のように思えてくるのであった。1時間待ちで乗客は埋まり8:45Jinja発、Kampala着は11:45だったから3時間10000ushの移動費であった。

Jinjaのタクシーパーク 2枚 ↑ ↓

 

Kampalaまでの途上で 2枚、↑この時も主にビデオで撮ってしまって
ここで載せられるのは2枚しかなかった ↓ の写真はカンパラに近い


Kampalaタクシーパークで放り出されたとき、いったいわたしはどっちに歩きだしたらいいのか全く見当がつかなかった。ともかくどこでもいい歩いているうちにhotelの看板は見つけられるだろう、一泊目は高くてもかまわない、くらいの気持ちで最初の路地をタクシーパークを背に歩き出した、が、ものすごい人混み、何なんだこの街は ! ?と、ま、面食らっている感じ。で、左側に安そうなホテルの看板ありで、どうやら受け付けは2階らしく入り口を探し階段を登っていった。そのとき受付の人はいたが、何故だかわたしを見るともっといいホテルが近くにあるからといって、わたしを連れて何軒か向こうにあった、ガードマン付きのホテルに案内してくれたのだった。エレベーターで4階までいったそこの受付は、一見高級そう、これはわたしの(予算的に)泊まれるホテルではないなと直感したのだけれど、とりあえず宿泊代を聞くと80000ushとのこと、3000円以下だったから泊まれない値段ではないことがわかる。が、それでも一言聞いてみるのがbudget traveler<貧乏旅行者>なのである。二泊するから一泊70000ushにしない?と聞いたら、年配の受付のおばさんはすんなりokしてくれたのであった。いや、まだコロナ禍の影響があったのかどこも旅行者は皆無で、この中の上にランクされそうなホテルはたいそうお得感があったのであった。そんなんでKampalaはなかなか幸先の良い出だしとなったが、あとがいけなかった、まぁそうそううまくはいかないものだ。

 

前にも言ってたかもしれないがKampalaもこれといった情報は持っておらず、持っていた中古のガイドブックによればウガンダもサファリ<特にマウンテンゴリラの>がお勧めのようだった。それを見てて一ヶ所マチソンフォールス国立公園Marchison Falls National Parkというところはカンパラから行けるとのことだったから、行けるものなら行ってもいいかな、と思ってはみたが(2泊3日で500ドルは下らないとして)やはり一人旅、いや貧乏旅には向かないというか、なんとなく面倒になって断念していた。そうなるとあとは街歩きくらいしかすることがなくなって、ま、ダラダラ過ごすことになった。最初の日の午後は絵葉書探し、エチオピア航空探し、ルワンダ/キガリKigaliに行くバス会社を探しながらの街ブラとなった。もっともケニアでもそうだったが、いわゆる観光案内所のようなものは期待できず、地図も手に入らなかったから、頼りになるのはその中古ガイドブックにあった簡易地図だけであった。で、行きたかったところはすべて地図にはあったが、郵便局には絵葉書は売っておらず、どこで手に入るか聞いたがわからないとの返事、エチオピア航空はその場所にいってみたがやはりどこかわからず、次の日もう一度行ったときに見つけたが2月16日は祭日でお休みだった。観光局も地図には載っていたのでそこまでいってはみたが、見つけることはできなかった。問題はキガリに行くバス会社で、そこには毎日通うことになった(次回詳細を)。最初の日はほとんど歩いて回った、そしてタクシーパークを中心としたおおよその感じと方向はつかむことができた。その日の収穫は歩いているときに出会ったマウンテンゴリラの彫像と、その近くにあった独立記念碑Independence Monument、やはりそのすぐ近くにあったSpeke Hotelを偶然見つけたことだった。

 

独立記念碑

歩き疲れて休みたくなったところに彼はいたのだ

記念撮影をさせてもらった

その近くにSpeke Hotelもあった

夕方一旦ホテルに戻って少々休憩したのち、ホテルから見えていたスタジアムの後ろ辺りにキガリ方面に行くバスターミナルが載っていたので再び出かけてみた。いやそこまでの道の込みようといったらなかったが、人混みがなければ10分くらいと思われたそこになかなかたどり着けなかった。が、その近くまでいくともうすぐに人が寄ってきて何処へ行きたいのか聞いてくる。一応キガリと答えると、そこまでいくバス会社のオフィスに連れてってくれた。親切に、だったのだが、ま、余計なお世話ということもままあることを後から知ることになるのである。一応キガリまではいくらで何時にバスが出るか聞いたような気がするが、その時ticketは購入していない。場所がわかったので、明日来ることにして、帰りにATMでUSH(ウガンダシリング)をおろしてホテルに戻って支払いを済ませてから、夕食をとりに出かける。一階までエレベーターで降りるとガードマンがいて毎回挨拶していたのだけれど、その時近くに安く食事ができるところはないかと聞いてみた。実はこの街の特徴として食べ物屋や食料品・飲料品を扱う店が極端に少ない印象があった、その分衣料品関係や今どきのIT関連やエレクトロニクス関連の店が多いように感じていた、なのでいわゆる安食堂っぽい店を目にしていなかったからだった。ガードマンは二人体制の勤務だったが、一人が一緒に来いといって連れてってくれたのであった。もう何度目かの過剰サービス(我々からすると)だったから、あまり驚きもせずについていくと、例のタクシーパークの中に食事処が何軒かあったのである。そこで安くておいしい庶民の食事をとることができた。この時はさすがにガードマン二人分のコーラ2本を購入して、戻った時に受け取ってもらったのだった。

この様にアフリカも様々、国が違えば国民性も違うということがわかってとても新鮮な感覚で旅を楽しんでいたが、特に思ったのはこれらの国々を植民地支配してきた西洋近代国家の行き詰まりが見えてきた昨今、何ともすがすがしさ(新しい風)を感じることができたことであった。

郵便局近くの大通り

ホテルの屋上からタクシーパーク(一部写っている)方面を見る

スタジアムNakivubo Stadiumの後ろ辺りにバスパークがあった
(ホテルの屋上から日没を撮る)

屋上から見た真下の通りの様子

その日の夕食 魚スープご飯、こういうのがうまいのである(500ush=200円弱)