独歩の独り世界・旅世界

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『独歩爺最後の旅』アフリカ篇 <ウガンダ> その2, Jinja ヴィクトリア湖Lake Victoria、スピーク記念碑公園Speke Memorial Park

ますます記憶が遠くなる・・、、いや、毎日特にすることもなくグダグダ過ごしているだけだから、その気になってパッパッと記録の整理をしてしまえばいいものだが、ま、そのへんがなんというか根っからのぐうたら人間だからか、なかなかその気になれないのが欠陥人間の謂れである。そろそろ出発から一年が目の前に迫ってきて、ここにきてまた突然グアテマラの話が出てきたりして(その話がどうなるかは未定だが)いずれにしろこの旅のけりをつけられるのかどうか心もとなくなってきた、まだ半分も書き終えてないのだ。で、ウガンダJinjaである。かすかな記憶と断片的な記録を頼りに以下続きを・・、、

 

2月14日、いつものように早寝早起きである。ここはwifiが繋がっていたので、この旅のためにlineというものを教わって、友達として登録してもらった何人かにラインで報告。その日はスピーク記念碑公園に行って時間があったら街ブラするつもりでいた。有難かったのは、持っていた中古ガイドブックにはJinjaについての記事と簡単な地図が載っていたことだった。それによると街自体はそれほど大きくなく、また投宿したホテルもその地図に載っていたから(それでほとんど街の中心にあったことがわかったのだけれど)街の概略と方向をつかめたのだった。そこには一応観光案内所も記載されていたから、溜まった衣類の洗濯を頼んで一泊の延泊をお願いして9時ころホテルを出、まずATMでウガンダシリング(20万ush=約7000円)を引き出してから、その観光案内所を目指して歩きだす。Main St.というまさにメインストリートと思われる大通りを南方向に2~30分歩いたか、街はずれに近かったがようやくそれらしい建物を見つけ入ってみたが、どうも感じが違うというか郵便局のよう(あるいはギャラリーのよう)だった。で、そこにいた人に、ここに観光案内所があると聞いたのだが、と尋ねてみると、向かいにあった大きな建物を指してそれはあの建物内にある、と教えてくれたのだった。その大きな建物に行ってみるとそこは市役所だった。そして確かにその1階のフロアーの右手にtourist informationはあったのだがそこには誰もいなかったし、市役所といっても受付もなく人の往来もほとんどなく、誰に聞いたらいいのか、どこへ行けばいいのか途方に暮れてしまった。それでも、その前でウロウロしている見慣れない外国人に気づいてくれた人がいて声をかけてくれ、事情を話すとどこかに電話してくれ、すぐに担当者がくるから待ってるようにと言ってくれた。実はあとで知ることになるのだが、ウガンダ人というのはこんな国民性なのかと思われるほど、ほとんど皆親切だったという印象がことのほか強いのだけれど、それはこの時から始まったのかも知れなかった。

JinjaのMain St.を歩きながら ↑↓

ガイドブックにツーリストセンターと書かれていたところには郵便局があった

郵便局のはす向かいにあった大きな建物は市役所だった

最初に現れたのは観光課というセクションがあるのかどうか知らないが、おそらくそんな部署の職員で、担当の男性が今外出中で少し待てるかと聞いてきた。2,30分なら待てなくもない、てな返事をしたような記憶があるというか、いずれにしろその女性に2階のオフィスに連れていかれ何か話をしながらしばらく待ったようにも覚えているが、その時何を話したのか、その記憶は全く飛んでいる。あるいは一人ぽつねんと待っていたかもしれない、で、なかなか戻ってこないのでもういいですと断って1階に降りていく途中でその担当の男性職員は戻ってきたのであった。ようこそいらっしゃいました、と立話であったが、スピーク記念碑公園はどこにあってどうやって行くのかというわたしの質問に丁寧に答えてくれだのであった。どうやらパンフレットのような資料は全くなかったようで、その類のものは一切目にすることも手にすることもなかった。その分口頭でかなり詳しく説明してくれたのだが、いかんせんわたしの英語力では半分くらいしか聞き取れなかった、で理解できたことは、まずその場から歩いて行ける範囲にはないことがわかり、ではどうやって行くのか? ①なんでもボダボダ(確かそういったように聞こえた、バイクタクシーのことをここではそう言うらしい)で、こちら側の船着場までいってボートで渡る、②ここからボダボダでいく。ま、その二通りしか方法はないらしいことはわかったのであった。こちらも丁重に礼をいって市役所を出る。ただ市役所の前には(たぶん常時)1,2台バイクタクシーは待機していたので早速聞いてみた。中年のドライバーは英語を解したのでスピークメモリアルパークはわかりますか?そこまでいくらでいってくれますか?と、その交渉となった。こちら側の船着場がどの辺かわからなかったし①の場合、どうやら渡し船はしょっちゅう行ったり来たりしているのではないらしいことだけは聞き取れていたが、向こう側にわたってからどうするのかがよくわからなかったからであった(スピークメモリアルパークは湖岸にあって、そこに船着き場もあったことを後で知るが、料金的にはどうだったかの情報は得られなかった)。で②となるのだが、その市役所からボダボダでいくにしても、場所も距離感もつかめてなかったので相場がわからず、ほとんど言い値に従うよりなかったのだが、前日の感じから(3~40分乗って8000ushくらいだったから)少々高いとは思ったが最終6000ushで手を打つ、ともかくJinjaの目的はそこだけだったから、ま、多少高くてもという想いはあった。早速バイクの後ろの座席にまたがり、どちらの方向へ行くのかもわからないままバイクに身を任せた。

 

確かにその場(市役所)は街はずれにあったようで、その場からまず西に向かったのだけれどその道はいきなりダートロードのでこぼこ道になった。振り落とされないようにしっかりつかまってどんどん下っていくと橋があった。その辺りはまさにVictoria湖からキョーガ湖Kyoga Lakeを繋ぐ支流(つまりナイルの源流と呼べる辺り)にかかる橋で、右手には新しい大きな橋が架かっているのが見えていたが、一車線しかないその橋はたぶんその大通りにかかる橋ができるの前は唯一の橋だったと思われるような、まさに写真に収めたい橋だった。が、この国では交通の要所となるところの写真撮影は一切禁止されていると事前に釘を刺されていたから(あるいは密告されて罰せられるとのことだったから)どちらの橋も写真撮影はあきらめざるを得なかった。その橋を渡る間わたしはバイクから降りて歩いて渡った(一車線しかない木製の橋に毛の生えたようなものだったから)。バイクは対岸からは急な崖を登るような感じでダートロードを登りきると、新しい橋から続いているのであろう大通りに合流した。本当にこのドライバーはスピークメモリアルパークを知っているのだろうかと一瞬疑念が生じたが、それはそもそもわたしの目的地はどの方向にあるのか、そして今はどこを通っているのかが全くわかっていなかったからでもあった。そのうちバイクはその大通りから左に折れ、人も車の往来もない道を行く、すると鉄道がでてきた。かつてはイギリスの植民地だったから鉄道が敷かれていたとしても不思議ではない、が、それは現在も使われているのかは(たぶん聞いたような気がするが)定かでなかった。その踏切を越えたところでドライバーは、ここだといって降りるように言う、だが、待ってくれ、どこが入り口なのだ。看板も何もないし、入り口らしきところはどこにもない、周りには人家もなければ人通りもない、あとから思えばこの時のわたしはあまりにも愚か過ぎたのだった。

この方向(左)がたぶんJinjaの街の方向で、こちらの鉄道沿いの道を行くべきだったのだ

右方向(Kingfisher Resortのあった方向)、この左側はVictoria湖に落ち込んでいる崖だったはず

わたしはスピーク記念公園なるものはウガンダ(人)にとってもここJinjaの人にとっても知らない人はいないくらい超有名なところとかってに思い込んでいたのだ。だから公園は立派な柵で囲われていて、当然入場料を取るゲートがあって訪問者も結構いるのではないか?そんな思い込みを払拭するのにわたしはどのくらいの犠牲を強いられたか!?赤道直下の炎天下、人通りは全くなく人家もない田舎道(ダートロード、赤土の道)をその入り口を探して何と2~3kmは歩かされることになったのだった(更にオチあり)。要はこういうことであった、その事実を知らないわたしは、その踏切のところで降ろされたとき、近くに入り口があるのだろうから誰かに聞けばすぐにわかるだろうと思って、ドライバーには確認しないまま約束の6000ush+500ushをtipとしてわたして彼を解放してしまったのであった。で、近くに建物があって、そこに人がいたので聞いてみたが(英語は通じたと思う)誰もそんなところ知らないというのだった(もしかしたら工事関係の人で現地の人ではなかったかもしれなかった)。その踏切のところはちょうど四辻になっていて後ろは今我々が来た道、正面は急に下っていてヴィクトリア湖へ下っていく道のように思われた。そして鉄道に沿って右に行く道と左に行く道があった。さてどの方向に歩いたものか、選択は右か左と思われた(看板でもあれば迷わずに済んだものを ! )。結果論としては右を選んで間違えてしまったのだった。先にも言ったように人に聞こうにも人通りはない、家もない、その道が正しいかもどうかもわからずに歩きつづける。そのうち看板が現れた。Kingfisher Resortとあったから、そこまでいけば情報は得られるであろうと、だが、そこまでの道のりもやはり暑さのせいか延々と続く過酷な赤土の道であった。疲れ切ってやっとのことでたどり着き、たどたどしくそこにいた人にわたしの来意を告げた。その時踏切から左の道を行けばよかったことを教えられる。しかし同じ道を歩いて戻る気力は失せていた。ちょうどそこにモトドライバーがいたので(いや、もしかしたら、ただバイクがあったので誰か乗せてってくれないかと頼んだのかも知れなかった)交渉して2000ushでスピーク記念碑公園まで連れてってくれたのだった。バイクだとたった5分の道のりだったが、たぶん30分以上(実感としては1時間くらい?)は歩いたと思う、結局この失敗は1時間のロスと体力の消耗、2000ushの余計な出費といい思い出だけが残ることになったのだった。

 

スピーク記念碑公園は囲いもなく入り口もなく看板もなかったのである。バイクドライバーは綺麗に整地された、まさに公園と呼べる一帯の(ま、リゾートと呼ぶ方がふさわしいかも、実際宿泊施設も完備していたようだった)中の道を母屋(事務棟?)のあるところまで運んでくれたのだが、正しくその道を見つけていたとしてもそこまでの数百メートルに何の表示も看板もなかったから、果たしてその道でよいのかどうかもわからないまま歩くことになったと思う。ま、わたしにとっては極めて不親切に思えたのだが、それほど訪れる人もないところだったのかも知れなかった。その素晴らしい公園内にわたしは3,40分滞在していたが、その間に来場された方は一組あっただけであった。その話は後にすることにして、バイクで入場すると管理人のような方が出てきて、入園料を徴収された、言われるまま10000ush払う、ticketも公園の案内も何もなし、勝手にぶらついて勝手にお帰りくださいというような感じだった(先にいったように宿泊者だったら別扱いだったと思うが)。しかし湖岸の高台に造られたその公園は、やはりイギリスの息がかかっていたからであろうが、その立地といい、その敷地の整備具合といい、ま、素晴らしいものであった。そこからの眺め、あとで知ることになるVictoria湖に浮かぶsource of the nileの浮島あたりの展望、対岸の風景、絶妙な立地に建てられたスピーク記念碑公園はイギリスのスピークらの探検に対する称賛と誇示(あるいは栄光のイギリス時代の象徴碑として?)を偲ばせるに十分な建造物足りえていた。そんな立派なまさに自然公園といってよい、人っ子一人いない自然環境に心を癒されていると、一組の親子がどこからともなく、というかどうも湖岸からの階段を伝って現れたのであった。直接話はしなかったが、先に述べたようにわたしがその場居合わせたときに確認できた唯一の訪問者で、どうやら対岸からボートで来たようであった(つまり市役所の職員のいっていた①ルートで来られたということだと思われた)。そのあとに続いて現れたのがこの親子を連れてきたらしいガイドのような人であった。が、このガイドのような人はこの親子を連れてきただけだったようで、そんなことは知らず、ともかくそのガイド氏はわたしに話しかけてきたのだ。何をしている?どこから来た?この後どこへ行くのか?の類の話をする、わたしは適当に答えつつ、あなた方は対岸からボートで来たのかと聞く、彼らはどこの人?とも聞いたかもしれない。そんなことを話しているうちに、この人がボートに乗らないかといってきたのだ。どういうこと?そのあとの話でわかったことは、確かに彼は先の親子を連れてここまで来たが、ただそれだけの話、で、もしわたしがボートで対岸に戻るなら安くしとくよ、という勧誘だったのである。そう聞いて興味がないわけではなかったから値段による、と答えると、実は船頭は下で待っていて、料金は彼次第とのことであった。ではあと2,30分待っててくれるなら写真を撮ってから下までいくと答えたのだが、しばらくして失敗に気づく、下までいってしまったら交渉決裂した後この坂をまた登らなければならない、そのあとの足も確保できているわけでなかったから状況は50:50ではなくなってアドバンテージは彼らの方に移ってしまったといってよかった。で、ことはそのように進行したのだ。先の親子もVictoria湖を周遊してからここまで来たという説明から始まって、Source of the Nileを知っているか?そこに連れて行って、そこからVictoria湖を周遊して、対岸の村まで届けるという、ま、クルージングの話になってしまったのであった。そこからどうやって街まで戻るのかという質問には、村で彼がモトドライバーを探してくれるということだった。結局大金を払う目になってしまったからか、そのあと彼は実に親切にしてくれたのであった(この時も彼の個人的資質というよりこの国の国民性のようにも、この時はもう感じていた)。もう一つは実際の概要・時間等をよく聞かずに、ま、いいか ! で決めとしまったことも、振り返ってみればいいカモになってしまった己の落ち度であった。キスム(ケニア)のインパラ保護区同様外国人価格ということもあったであろうし、その時にVictoria湖の周遊はしていなかったことも脳裏をかすめた、ドル払いで約1時間の周遊に30ドルも払ってしまったのであった。

スピーク記念碑公園(対岸の船着場が見えている)  ↑ ↓ 何枚か

これはキャンプ施設の一部だったと思う

この方向に浮島が見えていた

上の写真を望遠で撮ったもの、これが浮島つまり(source of the nile付近)だったと思う

スピーク記念碑 ↑と脇に屋根付きで説明板が設置されていた ↓ 2枚

 

 

ま、負け惜しみでいうと、バカをやってしまったのだが、この周遊(クルージング)はすこぶる快適なものだった。ナイルの風に吹かれて気持ちの良いものであった。いろいろガイド氏が説明してくる、対岸の船着場にはボートがたくさんもやってあり、陸には人だかりがあった。ガイド氏の説明ではマハトマガンジー像が建っているということだった。ガンジーは知ってるだろ?と聞いてきたから、わたしは家ではガンジーというニックネームで呼ばれていると答えて(これは事実でその経緯はあるのだがここでは省略)笑いを誘う。が、なぜそこにガンジー像があるのかまでは聞き取れなかった、それでもなんとなくあってもおかしくはないような気はした(ガンジーさんは一時南アで弁護士として活躍していた時があったから?)。そのあとがsource of the nileである。この浮島はスピークパークからずっと見えていて、何だろうと思っていたのだが、彼の説明によるとそこがナイルの原点(源流?)ということらしかった。たぶんに眉唾というか、ま、観光地によくあるでっち上げの類にしか思えなかったのだが、その地点だけ常に波立っていて、おそらく湖底の地形による影響(あるいは湖水流の影響)だと思われるが、観光地伝説としてはその辺りの湖底から湧水が噴出しているというもので、それで波立っている、そこを商業目的的にsource of the nile<ナイルの原点>と呼称しているところが何とも商魂たくましいというか、涙ぐましくも思えたのであった。そしてその商標を背景に写真を撮れと、その浮島?に上陸させられたのである。

スピーク記念碑公園のLake Victoria湖畔の船着場 ↑ ↓

対岸の船着場(ガンジー像付近)

ガンジー像 2枚 ↑ ↓ <ボートから撮ったもの>

source of the Nile付近 ↑ ↓

浮島に上陸しての記念撮影となった

そのあと湖岸周遊をして、とある漁村に上陸する。わたしがこのクルーズで何とも感激したのは、すでに上陸した後だったからクルージング中ではなかったけれど、そのとある寒村のたたずまいがなんとも言えない風情があったのと、何より漂う焼き魚の煙とその香ばしい匂いにわたしはいてもたってもいられなくなったからであった。わたしはガイド氏に頼んでどこかにその焼き魚を食わせてくれるところはないかと聞く、どうやらその辺の長屋はどこでも簡単に地元民が食事をとれるところのようだった(restaurantと書いてあるところもあった;写真参照)。そんな一軒に入ると暗い土間にテーブルが置いてあるだけだったが、なんと冷えたKingfisherが置いてあるではないか(照明は木壁の隙間から入る木漏れ日?だけ、しかし冷えたビールを飲めたのだから冷蔵庫は備わっていたということ) ! !、もう感激で大げさにいうと今回の75日間の旅の食事でまさに最高の満足を得られたものとなったのである。そう、これで大金を浪費してしまった、という後悔はチャラとなったのであった(因みに焼き魚;2000ush、瓶ビール;4000ush計200円の昼食だった、しかしその時撮ったはずの焼き魚とkingfisher<ビール>の写真が見当たらず、その悔いは残っている)。

湖岸周遊 ↑↓ 何枚か

上陸した漁村で・・ ↑ ↓ 2枚

 この写真を見てハッとした、もしかしたらずっと焼き魚だと思い込んでいたのだが、フライだったかもしれないということである。確かアマゾンでもよく川魚を食べたが、たぶんどこでも何もつけずに油で揚げただけの素揚げだったような気がする、だとすると焼き魚の煙も記憶の妄想だったのか‥?? ↑

 

ガイド氏が手配してくれたモト(バイクタクシー)でホテルまで戻った(2000ush)、ことほど左様に先にいったように、気前よく浪費したからというより、彼はほんとに他意なく親切でよく気のつく男だったのである、そしてわたしは感性的にこんな旅(意図しない偶然性)を愛でているのであった。さて、ホテルにはたぶん14時ころに帰着したと思う。一泊の延泊料金30000ush(1000円くらい)を払って少し仮眠をとる。夕方に起きだしてまだ陽が明るいのをみて、残り少ない時間Jinjaでどう過ごすか?結局心残りはスピークの探検史にでてくるリポンの滝と(そこからケニアに電力を供給しているという)オーウェンフォールダムOwen Falls Damを写真に撮ることはできないが見ておきたい、ということだけだった。そのためにはモトを使うしかない、さっそくホテルを出てモトドライバーを探す、わたしの下手な英語をちゃんと理解してくれる人が必要だった。何人目かのドライバーは、わたしのオーウェンホールダムとJinjaの街を見下ろせる丘があると聞いているが、そこを往復してくれないかという希望を理解してくれた(リポンの滝は今は現存してないといわれたか、そこには行けないといわれたか、よく覚えてない)。料金は6000ushで交渉成立、早速バイクは大通りを西に向かい、交差する大通りを左折してしばらく行くとオーウェンフォールダムが現れてそのダム上の道を行く、そこからは次の幹道を右折してしばらく走って右折して細い道を、ま、丘と呼べるようなところまで登ってくれたのだ。つまりわたしが希望したところは例えば公園のような名称のついたところはなくて、このドライバーはわたしの希望にかないそうな場所を自分の頭の中で探して、まさに手探りでといった感じで連れてってくれたのであった。片道30分以上はかかったと思う、ほんとにちょっとした道端にバイクを停めた。そこからは確かにオーウェンフォールダムの遠景とJinjaの街の遠望が眺められたのであった。そしてそこからの写真は撮ったのである。それだけで十分であった、ここの人たちというかウガンダ人の素晴らしい心性の一端を垣間見ただけでもその日は有意義であったと思う。帰りは次の日カンパラKampalaに向かうバス(乗り合いタクシー)の出るタクシーパークで降ろしてもらいバスの時間乗り場を確認、ストリートフード(牛の串焼きとポテトフライで3000ush)とビール他(ビール4000ush、他の飲み物3000ush 水2000ush)を仕入れてホテルに戻る。それでもまだ18時ころで明るかった。屋上から街の写真を撮ったりしてビールを飲みながら寛いでいた。うん、ここはなかなかいい街だな、と思いながら・・

名もないドライバーが名もない場所へ連れてってくれた

Owen Falls Damの遠望とその向こうにJnjaの街、さらに奥にVictoria湖
これも処罰の対象になってしまうのだろうか??

Owen Falls Damカンパラ街道を走るJinja Nile Bridge<市役所からスピークパーク
へ行くときに通ったOld Bridgeから右手に見えたNew Bridge>も写っている ↑

New Bridge 2枚 ↑ ↓

上4枚の橋の写真の後方にJinjaの街があり、さらにその後方にVictoria湖が控えている
もっともこの橋の下を流れるR.Victoria NileもそのままVictoria湖に通じている

日没前に撮影したJinjaの街 2枚 ↑ ↓<屋上から>奥にVictoria湖が見えている

ビールを飲みながら寛ぐ










 

数々の御礼をまとめて“ありがとう ! ”

変なタイトルだと思うが、たまたまお礼を言いたくなる、あるいは言わなければと思わせる事象・対象が重なったので、しかも言いたい相手の存在が誰だかわからなかったりするので、一部を除いて対象不明の方にここにお礼を言わせていただきます。

1,たま&ほっしー(id:utsu-couple)さん & mika(id:mika16)さん

いずれも偶々今書いてるブログ(どこがよかったのかわからないのだが)に、はてな☆(スター?)というものをつけてくださいました。たま&ほっしーさんは今日のことで、mikaさんからは一週間くらい前にいただきました。正直言って本人としてはいずれも駄作、たまにはドーダ !といってみたくなるようなものを書けることもあるが、ここんとこ全く不調で、というのは自分らしい旅ができなくなって久しく、また写真の失敗も多いから見るに堪えないありさまだと思っているところへ、有難きプレゼントをいただいたようでお礼を言いたくなるのです。本来ならば直接本人に言うべきところ、その方法もあろうかと思いますが、それがわからないほどボケボケ老人でスミマセン、というこれはお詫びです。

そういえば、これまでにも何人かの方々から☆をいただいていたようです(恥ずかしながら数十人ですが)。それに気づくのも相当遅く、過去の方々にはお礼を申し上げておりませんでした、その方々にも遅ればせながらこの場を借りて thanks & sorry !です。

2,<はてなブログ>さんへ // いつもお世話になっております ! !

今は上記1のブログは<はてなブログ>さんにお世話になっております。はてなさんからも数日前に(一昨日でした)<一年前の記事>というのを送っていただきました。実は数年前の今頃、ほとんどブログから遠のいていた時に、同じような喚起のメッセージをいただき、再び少しづつ書き始めた経緯がありました。それ以前の10年くらいは(別サイトだったのですが)わたしのブログの全盛期?で毎日数十人とみてくれた方がおり、けっこう燃えてましたが、そこのトラブルで移転してからは気力も衰えネタも尽きて以前の意気込みは消沈していきます、ダラダラ状態でした。それから数年、ま、マイペースでつまらない旅録を書いていますが、喚起のメッセージを年一でも送っていただいて、やはり有難いことだと思っております。

3,トラベルコ特派員ブログを見てくれた方30000人に !

ちょうどはてなさんから一年前のブログというものを送ってもらった日(10月11日)にこれもブログですが、オープンドア―のトラベルコ特派員ブログから30000アクセスに達しました、というお知らせをいただきました。だから対象は30000人かどうかはわかりませんが、この場を借りてアクセスしていただいた方にお御礼申し上げます。このトラベルコ特派員ブログは、masomenosというhandle name?nick name?で十数年前から数年間書かせてもらったものでグアテマラ情報に特化したものでした。しかもここ何年かは更新してなかったのでアクセス数は当初より限られていました。それでも遅々としながらも、ま、15年で30000人として一年で2000人、一日5人くらい見てくれた人がいるという計算になります(たぶん今のはてなブログより多い)。もちろん今は一日何千人というアクセス数の方が普通かと思いますが、耄碌爺さんのアクセス数としては、ほんとに涙が出るくらいうれしい数値で有難く思ってます、感謝に堪えません。もしはてなブログの読者の方で、トラベルコブログも見ていただいた方がおりましたら、重ねて御礼申し上げたいと思います。thanksの二乗表現はどうやってやるのでしょうか??

4,藤井さん、大谷さん、、

もう説明はいりませんよね、このお二人にはthanksの二乗、おめでとうの三乗でも足りないくらいです。特に一昨日八冠達成した藤井さんは(大谷さんもそれ以上だけど直接的には縁がなく)もちろん一ファンに過ぎないけれど、これも偶々一応愛棋家として2年前の11月に4冠達成おめでとうをはてなさんで言わせてもらっていたという縁だけで、心からお祝い申し上げる次第です。が、本人は八冠全冠達成しても飄々とされているところがまた凄いところ(ほんとにこの人の平常心は異次元ですね?)、いずれにしろお二人とも閉塞感漂う日本に、わずかながらも生気と喜びと慰めをもたらせてくれたことに、やはり感謝 ! 感謝 ! せずにはいられません。

『独歩爺最後の旅』アフリカ篇 <ウガンダ> その1,ウガンダ国境 ~ ジンジャ Jinja へ

Kisumuのマタツパークは、そのあとに知ることになるアフリカにおける乗合ワゴン車のターミナルらしさの一つの典型のようなところだった。前回カオス的と書いたが、以前グアテマラのブログでも触れたことがあるが、ま、いわゆる発展途上国の乗り物のターミナル(特にバス、そしてマタツのような乗合ワゴン車)の賑やかさ、複雑さ、ごちゃごちゃ感において、わたしはこれほど楽しいところはないと思っているくらいだった。何より人も多く、車の出入りも激しく騒然としてアクティブな場所はなかった。わたしのような貧乏旅行者にとってはなぜか安心できるところであったのだ。まず、わたしのようなよれよれ老人(or弱者?異邦人等)でも必ず助っ人が現れてくれるからだ。そう、こちらから出向かなくても必ず声をかけてくれるところが、安心できるというか助かるといった感覚が自然と生じてくるのである。時にいろいろトラブルが発生するところでもあるのだが‥、、

Kisumuのマタツパーク ↑ ↓ 数枚 

歩いて5分のところにあったそんな感じのKisumuマタツパークに、その朝(2月13日)7時前に着いてみると、前日に国境の街Busiaまでいくマタツはここから朝の7時頃にでると教えてもらった場所には、そんな車は影も形もなかったのである(たぶん早くに席が埋まったのであろう)。確かここだったはずだがと周辺をウロウロしながら、耳はブスイア、ブスイアと叫んでいる呼び込みはいないかと聞き耳を立てている。うろ覚えに記憶していたSacco(マタツの会社名)の車も見当たらない、いや、困ってしまう・・どうしたもんか??そうしているところに助け舟は現れる・・どこへ行きたいのか、と聞いてくれる、Busiaと答える、こっちへ来いと別の会社のマタツのところに連れてってくれた。が、これが救いの神だったかどうかは、最初はそう思ったが結果的には何とも言えなかったのだった。むしろ失敗だったように思う、そもそもの失敗の因は前日Busiaに行くマタツを探していた時に、きちんと会社名、発車時間等を確認してなかったことにあったのだが‥で、結果的に失敗と思ったのは、前日の情報ではそのマタツは国境までは2時間くらい、料金は400kshと聞いたように記憶していたのだが、そのマタツを逃して新たに教えられたマタツのドライバーとは時間については確認せず料金交渉しただけだった。その時そのドライバーは500kshといってきたので、わたしは通常400kshと聞いているが?といって400kshに負けさせたまではよかったのだが、結局客の集まるまで1時間半待ちで(ま、これはどこでもそうだったから、しょうがなかったのだが)その車はDirect(直行)でなく、やたらに停まっては客を乗り降りさせ、おまけにどこかの街に着いた時には今度は我々が別の車に乗り換えさせられたりして、なんと3時間もかかって漸く11時半ころ国境の街にたどり着いたことにあった。つまり7時にでて2時間くらいで国境着という最初の(安易な)目論見から2時間半も延着したことにあったのだった(最初の車も結局は3時間くらいかかった可能性もあるが)、つまり最初の車を逃したことで予定が少し狂ったことを失敗であったと判断してのだが、そんなことはよくあることの一つ、後悔するほどのことではなかったと今なら思えるのだ‥、、

Kisumu~Busia 沿道から ↑ ↓ 数枚

 

どこかの大学?

しかしそのあとすぐ、それよりももっとバカみたいな失敗を犯すことになった。陸路の国境越えは旅の面白いところの一つではあるが、やはりここでも年齢的な衰え?つまり緊張感をなくしていて、最近はよく騙されるのであった。この時も、ま、だいたい常に親切な人が現れて、いいように乗せられてしまうのだが、一つは両替所で、次にイミグレーション通過時に、まんまと引っかかってしまったのだった。彼らにとっては耄碌爺さんを騙すことは赤子の手をひねるくらい簡単なことだったかもしれない、何しろ1ksh=30ush(ウガンダシリング 30ush=1ksh=1円ということは1000ushが35円くらい?)が交換レートだと言われても全く計算ができずにいたのだから、あ、あの時と10000ush少なかったことに気づくのはだいぶ後になってからであったのである。で、え?10000ushも騙されたと気づいて相当ショックを受けたのだが、それが350円くらいなものだったと知ってヤレヤレと胸をなでおろすのであった。ケニアの出国スタンプを押してもらってウガンダのイミグレに向かっていると(とても暑いところで、両替を手伝ってくれた人に飲み物を2本買ってもらって1本を彼に与えて歩いていると)イミグレーションの制服を着た人が現れて、次にどこへ行け、この書類を用意しろと荷物を持ってくれたり入国カードの書き方を教えてくれたりして小一時間かかったが無事にパスポートチェックは終え、やけにここのイミグレは親切だなと思っていると、その人はイミグレのオフィサーでもなんでもなかったのである。が、さすがにそこまでしてもらって無視するわけにいかず、大金(と思って)5000ushのtipを渡すのだが、それは200円にも満たない額だったことを後で知るのであった。しかし何事につけ国境通過は手間取るのである(だから後から思えば面白く感じるのかもしれないが)。次は近場の街に行くマタツ(ウガンダではそれをタクシーといった、タクシーはすべて乗合タクシーというか乗合ワゴン車を意味していた)を探さねばならず、それがどこにあるかもわからなかったのでモーターサイ(モトといったか?)を使うことにする。その時点でずっとついてきてくれた親切なケニアの若者と別れるのだが(この男は両替屋とグルだったのかどうかはわからない)結局彼には1000ushしかtipとして渡さなかったが、何も言わなかったからグルだった可能性もあった(つまりあとから若干小遣い銭をもらうとか)、でないとすると彼の親切心の真意はわからなくなる。ウガンダ側のタクシーパークはすぐ近くだったから2000ush(70円というところか?ま、これはまっとうな取引だったように思う)でジンジャJinjaへ行くタクシーを探してくれて(というのもウガンダのタクシーはすべて同じデザインで、会社表示も行先表示も出てないからこういう時はモーターサイの利用価値大ということがわかる)そこで降ろしてもらったのだった。ワゴン車のドライバーに出発時間の確認するもどこでも同じ、客が集まったら、ということのようだった。Jinjaまでは15000ush(500円くらい?)ウガンダは少し物価は安いかもしれないと期待したが、その後いろいろアクシデントが起こることになる。あとは出発を待つだけとなり、ウガンダ側のタクシーパークでうろついたり写真を撮ったり、朝から何も口に入れてなかったのでサモサなんかで多少空腹を満たしたり・・ともかくここは暑いところでむしろ車の中の方が涼しそうだった。待つこと1時間、14時頃おんぼろタクシー(ワゴン車)は漸く出発したのだった。

ウガンダ入国、ウガンダのタクシーパーク

さて、そのJinjaというところである。ケニア国境とウガンダの首都カンパラKampalaの中間あたりにあって、その沿道では最も大きな街だつたかもしれない。この街については中古ガイドブックにも載っていて、そもそもウガンダケニアと同じでどうしても訪れてみたいという場所が特になかった中で、唯一事前にわたしがここへは寄ろうと思っていたところだった。その理由としてはまずVictoria湖岸にあったこと、国境からカンパラへ直行も可能だったが、距離的にいって国境から3時間くらいで、ケニアの街Kisumuを朝出ると夕方にはJinjaまでなら着けそうだったこと、何より最も期待していたのはスピーク記念碑公園があると聞いていたことで、その公園があるということはそのガイドブックで初めて知ったことだった。白ナイルの源流の発見者とされているスピークJohn Spekeについては、19世紀中頃同じ英国人のバートンRichard Burtonと当初二人で源流探しをしており1858年にタンガニーカ湖を発見、そこをナイルの源流と主張したバートンに対してスピークはそれに同意せずさらに奥地を探検しヴィクトリア湖を発見、そこをナイルの源流とした白ナイル発見の探検史においてその名を知らされていたので、ま、そこは見逃すまいと思っていたのだった。

 

が、だいたい国境から120kmくらいだったから3時間くらいだろうという想定は大幅に狂うことになった。交通量の少ない幹道を特に飛ばすでもなく、国民性か(とも思ったのだが)真面目なドライブだったが、もしかしたら真面目だったからでなく、単に車の性能の所為だったのかもしれない、Jinjaまであと30分ほどのところ(と誰かがいっていた)でとうとう車は止まってしまったのであった。もちろん現地語なので原因はわからなかった、いや、こういうときほど言葉が通じないが故に焦ることはない、わたしはどうしていいかわからないのである。だから乗客の反応に従うのだが、最初沿道の民家に助けを求めたりしてドライバーと助手は修理らしきことをしていたから、ただ待つしかなかった。が、それも30分経ってもうんともすんとも言わなくなると、一人抜け二人抜けであとから来る車を捕まえてどんどん先にいってしまった。もちろんドライバーが少しでも返金してくれるわけないのはわかっているから自前である、貧乏旅行者としてはさらなる出費はできるだけ抑えたいから、なかなかその踏ん切りがつかないのだが、より大きな懸念は言葉の問題であった。あとから来る車のドライバーにたどたどしく聞きながら交渉しても嫌がられるだけなのはわかっているからじっと待つ選択をした。十数人乗っていた乗客は最終的に4,5人となり1時間ほどしてようやく動き出したが、登り坂の途中でエンコした車は何とかその坂は登り切ったがあとは下り坂の惰性で走っているといった按配だった。そして10分くらい走ると大きな交差点があってその付近で再び止まってしまったのだ(あるいはそこまでは何としてもたどり着こうとドライバーは頑張ったのかも知れなかった)。他の乗客も皆諦めたようで、わたしもここからはモーターサイ(バイクタクシー)を利用した方が賢明と思え、ジンジャの街中ではなかったが、もうジンジャには近そうだったこともあってモーターサイを探すことにした。で、すぐにバイクドライバーは現れたが、あいにく年配者で英語が通じなかったのである。また、その場からジンジャまでの距離も方向もわからなかったから値段交渉するにも相場がわからなかった、で周りにいた人に少し手伝ってもらって、ジンジャの安ホテルまで連れてってもらいたいということは理解してもらった。で、いくらでいってくれるの?本来ならタクシー会社が持つべきものという頭があるから交渉にも難儀し最終的に7000ushで合意に達し、バイクの後ろに跨りスタート、まだ明るかったからウガンダの田園風景はなかなか美しく思えたのであった、そしてジンジャの街は思ったより遠かったのであった。さて、そのドライバーにはやはり正確に伝わってなかったのか、そこしか知らなかったからか、最初に連れてってくれたホテルは見ただけで高級?というかわたしの希望しているところではないと判断できたから、中にも入らずNGを出しcheap hotel , cheap hotelと連呼してみたが通じてなかった。二番目も入らずにNG、そのうち街に近づいてきてゲストハウスの看板がでてきた。それを指してこれこれといってみたが通じたのか、ある一件のhotelに停めてくれ、そこで初めてバイクから降りて交渉してみた。だいぶ街中に近づいてきた感じがあったが料金的にはまだ高かった。次に行ったところでようやく、ここならというホテルに巡り合える、周りには結構お店があったし、規模も大きくその割に安かった。ようやくOKを出しそのドライバーはわたしから解放されたのだった。7000ush+2000ush(tip)で納得してもらった。

 

Jinjaまでの道中 ↑ ↓ 2枚 

 

その時手持ちのウガンダシリングushは底をつきかけていたのでバスなしの部屋30000ush(約1000円)で了解するしかなかった。が、wifiもつながっていたし街の中心にも近かったし、屋上からの眺めも良かった。あとでそのホテルが持っていた中古ガイドブックにも載っていたことを知るのであった。すでに暮れかかっていてシャワーを浴びて買い出しに街にでる、いや、街の灯はどこに何があるかがわからないくらい暗かったが、どこから流れてくるのか音楽の騒音はやたら大きかった。それでも店舗の照明は明るかったので、人通りでごったがえす大通りに沿って2,3ブロックを歩いて食べ物飲み物を扱っている店をチェック、あとストリートフードも結構あることをつかむ。ともかく人も車もごちゃごちゃといった感じ、これがアフリカらしさなのかもしれなかった。もっとも重要だったビール/7000ush、他の飲み物2本(ともかく暑いところだったのだ)/3000ush、ストリートフードのポテトフライ/3000ushとチャパティ/1000ushをtake outしてその夜の夕食とし、ま、無事ウガンダ入国を祝ったのであった??

投宿したHotel Bellevue (4階建て)の屋上から、到着した日の日没と思っていたら翌日の
日の出2/14の7時半ころとデータにあった、街の中心部と遠くにVictoria湖が見えている

 

『独歩爺最後の旅』アフリカ篇 <ケニア> その3,キスムKisumからウガンダへ

当初行ってみたかったマリという国は、アフリカ諸地域の中でもダントツに見どころの多い国だったのだが、そこへの入国ができなくなって急遽変更した東アフリカは、ナイロビは面白かったし居心地も悪くなかったのだけれど、その他の見どころはにわかに手に入れた、すでに古本レベルになっていたガイドブックを見ても行ってみたいところは特に見いだせなかった。というか、やはりこの辺りはサファリ客がメインターゲットのようだったし(ましてコロナ禍も明けきれてなかったりして)、わたしのようなバックパッカーに出会うこともなく、つまり旅すがらの生情報を得ることも全くなく、さてどうしたもんか?とナイロビに着いてから頭を悩ましていた。で、一ヶ所は前回記した通りタンザニア国境へは割とすんなりいってみる気になり、一泊二日の旅を経験して国内移動の感覚・距離感はつかめ、ま、アフリカ旅の感触をつかめつつあった。で、一旦ナイロビに戻るのだが、その後の行程はケニア入国前に決めてあったわけではなかった。

 

今回のアフリカ旅は、当初の目的地を変更せざるを得なくなった時点で、行先を東アフリカに変更し一応ケニアウガンダルワンダの三国とエチオピアを回るつもりで東アフリカ3か国VISAというものは取得してあった。ただ、それぞれの国のどこへ行くか、何日滞在するかといったことは全く決めてなかった。が、世界一周券取得にあたっては発券時点でルートと日程は決める必要があったので(後で変更は可能とのことだった)とりあえずはケニア着が2月7日で、そのあと2月21日にルワンダの首都キガリKigaliからエチオピアAddis Ababaへ飛ぶことだけは決めてあった。つまり2週間かけてケニアウガンダルワンダを回ってみようという全くラフなプランだけで中身については現地に着いてから考えることにしていたのだった(2週間というのも全くあてずっぼで、それで足りるかどうかも予測がつかなかったので、とりあえず決めておこうという感じ、それがま、世界一周券の制約だったのだけれど・・)。で、現地に来てもこれはという情報にありつけなかったので、ならば当初の予定通り陸路でウガンダに行ってしまおう、ということになって、ウガンダ国境までいくマタツもあったけれどせっかくだから一か所くらい寄り道してみようと例の古本ガイドブックでそのルート上にありそうな街を探してみて見つけたのがキスムKisumuかナクルNakuruという街だった。時間距離でいうとナイロビ~ナクルが2.5時間、ナクル~キスムがさらに2.5時間、キスム~ウガンダ国境が2時間という感じだった。で、少ない情報ながら比較検討して、何やらキスムというところはビクトリアLake Victoria湖岸にあるらしいということがわかったので(一方のナクルは行ってみたかったケニア山には近かったが、それでもけっこう距離がありそうだったので)、ま、アフリカ中央にあるアフリカ最大の湖は見逃すわけにはいかないという理由だけでキスム経由でウガンダ入りすることにナマンガに行く前に決めていた(なのでナマンガ行きのマタツ乗り場を探していた時に、キスム行の乗り場も探したのだった)。

 

2月11日の朝(ナマンガから戻った次の日)は夜通しのボリュームいっぱいの音楽でほとんど眠れなかったので、せっかくいいホテルだったのにと怒りをにじませて5時には起きだす、そして荷物の仕分け。実はケニア入りしてからずっと頭の隅に引っかかっていたことがあって、それは日本出国前から考えていたことだが、要はようやくアフリカに到着してこの先防寒衣料は不要になるだろう、旅の要諦として特にバックパッカーにとっては(&年寄り旅人にとっては)荷は少しでも軽く少なくする、が基本中の基本、なのでそれらは初めからナイロビで処分するつもりだったのだが、では、どのように?という問題が残されていたのである。それらを有効に活かすにはどうすればいいか、つまり黙って置いていくか、あるいは捨てていくのではなく誰かに託せないか、その人が自分のものにしようが売り払おうか誰かにあげてくれようが、それはその人の自由にしてもらっていいのたが、誰かそれを引き受けてくれる人はいないかと、ま、探していたのだった。が、しかしそれは取り越し苦労だったことが前日に判明、何のことはないそれまでにけっこうざっくばらんに会話を交わせるようになっていた女性が三人いて、たぶんその話をすれば誰でもすぐにokしてくれたであろうとはあとからは思ったが、偶々頼んでおいた洗濯物をもってきてくれたルームサービス担当の彼女にその話をすると二つ返事だったのである(どうでもいいことだけれどあとの二人は、一人は最初のの日の受付嬢 - わたしの一番のお気に入り、もう一人は前回写真を載せた食堂の彼女)。それはそうだろう、決して豊かな生活をしているわけではない庶民にとって、好きなようにしてよいといわれれば、たとえ金目のものはなかったとて断る理由はなかったと思われるからだ。で、そのための荷物の仕分けをして、置いていく荷物を彼女に渡し出発の準備を整えてから朝食をとりに上の階へ、そのとき、あ、早まったと後悔したのだった。その悔いとは、その置いていく荷物は結構あったのだから、一部はこの食堂の彼女へ、そして受付の彼女へも何かを置いていくべきだったということに気づいたのだけれど、時すでに遅しであったのだった。結局彼女ら二人には言葉だけの礼を告げるしかできず、この辺がわたしに女性運のなさを物語っているようだった。

お気に入りの3人とは縁もゆかりもないが、ナイロビの女性のセンスの良さには
感心させられていた

そのお気に入りだった受付の彼女にチェックアウトを告げ礼をいってそのホテルを後にしたのは8時半ころだったか、そして数日前に調べてあったKisumu行きマタツ乗り場へ、20分くらいでその場所に着いたがその時選んだSacco(会社?)はこれまた失敗だったかもしれなかったのである。というのもやはり言葉の問題というか(英語は公用語なのだが、マタツ関係者だとほとんど現地語<スワヒリ語>での会話なので)同じ所へ行くマタツの会社は通常数社あって、それぞれ呼び込み合戦をやっていて競争は熾烈である。で、わたしのような旅行者はナマンガでもそうだったが、だいたい最初に声かけた(orかけられた)会社にどうしても誘導されてしまうのである。料金的にはだいたい同じ設定だから問題ないのだが、問題は集客力、つまりここのシステムは(他の国のマタツのような乗合もどこも大体同じだが)客が埋まり次第出発となるから、待ち時間が異なってくるということだった。前回のナマンガに行くときは30分待ちだったが帰りは1時間待ち、そしてこの時も1時間待ちで9時に乗り込んだ車が出発したのは10時過ぎになっていたのだ。ま、これは運次第というか、もしかしたら地元の人はそういった情報も知っていて(あるいは現地語で情報を確認して)選択しているとも思われるので、我々は多少ハンデを負っているとはいえるように思う。それは途中途中の街の情報にしても、また到着予測等にもいえて、わたしはKisumuまでは5~6時間と聞いたように思っていたが、実際に到着したときは17時になっていたので7時間かかったことになる。あとからナイロビ~キスム間は350kmくらいと知って7時間かかって当然、むしろ早いくらいだったことを知るのだがけっこう疲れたのも確かだった。それでも道中は、ま、幹道だったから全線舗装で道は悪くなく、アフリカ・サバンナらしい景観もなかなか楽しめたし(今回の旅の失敗の一つに、スマホのビデオ機能を知ったので、車窓の風景は主にビデオで撮ったため、ここに載せられる写真があまりないのだ)路上を移動する羊の群れの一頭が、われわれの車に体当たりしてきて即死するといったハプニングがあったりしてマタツによる移動はそれになりに楽しめたのだった。Kisumuのマタツターミナルは、そのあとに経験するウガンダカンパラのターミナルに比べるとまだましという感はあるのだが、ま、それなりにカオス的で異邦人にとっては好奇心で目を瞠るという要素を十分備えていた。乗ってきたマタツのドライバーに近くに安ホテルはないかと聞いて、5分のところにあったホテルに投宿、1000kshとのことだった。因みにナイロビ~キスム間のマタツ料金は1200kshだった。

道中(沿道)の風景 ↑↓ 多数

 

 

だいぶケニアにも慣れてきて、近くにスーパーもあったりしたのでビールはそこで手に入ったしストリートフードも大体わかってきて、その日の夕食はビール200ksh+ストリートフードで300kshくらいで済んでいた。そしてあくる日は朝方、歩いて2~30分のところにあるというVictoria Lakeを見に歩いて出かけたのだが、残念ながら浜辺へは出られなかった。そのエリアは私有地か企業の社有地になっていて普通は公園か何かになっているのではないかという期待は裏切られ、Victoria湖そのものの写真も撮れなかったのである。そればかりでなくVictoria viewを売りにしていたであろうホテルもほとんどは閉じているか廃業していて、また古ガイドブックにあった魚料理のレストランも一軒も見当たらなかった。おそらくコロナの影響だったと思われるが、そもそもここでも旅行者らしい人にはひとりも出会わなかったのだから、、チェックアウト時間が迫っていたのでまた歩いて安ホテルに引き返すが、その前にこれでは何のためにこの街に来たのかわからないでないかと思って、せめてVictoria Lakeは見たい、そのためにはもう一泊する必要はあるがもう少しましなホテルはないかと探してみると(lake sideにいったのはその為でもあったのだが)何と近くにより見栄えの良いホテルが数件建っているではないか ! ?どこでもよかったので値段で決めることにして端から聞いていくと、2軒目が今のホテルと同額でよりきれい、それでwifi付きだったので即決、2,3分のところのホテルに戻り荷物を取ってチェックアウトし、新しいホテルに移った。ま、その界隈は、要はマタツターミナルに近接している安ホテル群、つまりラブホのようなところだったのである(海外で安ホテルを探すとこういうのにはしょっちゅう出くわすことになる、数多くそういうところに泊っているから、わたしは別にどうってことはないのだが‥)。

 

居を定めてから出直しである。その古ガイドブックにはKisumuから3km南にキボコベイKiboko Bayというところがあって、Victoria湖の周遊や、魚釣り船を出しているところがあると出ていた。そこへ行ってみるしかない、しかし日中の暑さを考えるとそこまで歩く気はせず、この場合はモーターサイ(バイクタクシー、現地で何て言っていたかは忘れた)を使うしかなさそうだった。モーターサイはいくらでも走っていたが相場はわからなかった。交渉するしかなく、まずKiboko bayというと200kshといってきたので、150では?と振ってみるとokになり、すぐに乗車、ところがバイクだとものの15分くらいで着いたそこは、やはり閉鎖になったのか何もないところだった。ドライバーはもう一ヶ所lake sideがあると教えてくれたところはDunga Beachというところでさらに1km先とのことだった。仕方がない、プラス50kshでそこまで連れて行ってもらった。途中これも古ガイドブックには出ていたが、インパラ保護区があると教えてくれた。Dunga Beachは確かに地元の観光客らしい人もいて、魚料理の煙が香ばしいにおいを運んでいた。ドライバーには礼をいって200ksh払った。漁民はボートに乗らないかとしきりに誘ってきたがそれは断り、なかなか見事なVictoria湖(ま、デカすぎて海という感じなのだが)の写真を撮ったり、香ばしい焼き魚の間を徘徊していた(焼き魚の誘惑には負けそうになるも、付近にビールを売っているところがなかったので耐えられた)。帰りにまた失敗を犯す、つまり外国人は22ドル(3000ksh)だったので普通はパスするインパラ保護区に入ってしまったのであった。インパラ以外は檻にいるのだが、豹やチーター他猛獣がいるとのことで、サファリに行けなかった身としてはやはりある種、後ろめたさ?物足りなさ?があったのか、ま、Victoria湖岸にあって、 湖を背景にした写真も撮れそうだ、ということでついつい支払ってしまったのだが、ま、おおよそ見当はついていたが、失敗といってよかった。そこまでのバイクタクシー50ksh、そこから街までは100kshで帰った。

どこから撮ったか不明だが、またピンボケしているがLake Victoria

Dunga Bechのシンボル ↑とDunga Beachから何枚か ↓

<インパラ保護区>

以上 インパラ保護区 何枚か ↑

昼過ぎには一旦ホテルに戻り、まずは行きつけになったNaivasマーケットでビール200kshとサモサ×2/100ksnを仕入れてのホテルに戻ってシャワーを浴びて気持ちの良く昼食をとって午後は休息とし(wifiが繋がったので結構日本とやり取りしていた)、夕方になって再び出動、この時は次の日に向かうウガンダの国境Busiaに向かうマタツをチェックし、その乗り場・マタツの会社・出発の時間・料金を確認しビールをNaivasで仕入れ、某レストランでケニアシリングの調整も含めて牛の煮込み料理とチャパティをtake outしホテルに戻ってケニアおける最後の晩餐としたのだけれど、何故か次の日、ことはなかなかうまく運ばなかったのであった。

この夕食はけっこう金かけたのだが、いまいち印象の薄い食事となった。

 

『独歩爺最後の旅』アフリカ篇 <ケニア> その2,タンザニア国境の村ナマンガ Namanga

また日にちがあいてしまった。それでなくとも物覚えが極端に悪くなっているのに、どんどん記憶が遠ざかっていく。いや、忙しさ(とか暑かったこと、no aircon主義なので)を理由にできるが、それよりも気力(やる気・書く気)の衰えだと思う。いや、なにより歳の所為だと思っている。さて、でナマンガ、タンザニアとの国境の村までいってみた話、訪ねたのは2月の9日だった。

 

その時滞在していたナイロビのホテルは、とりあえず日本から2泊の予定で予約してあったホテルで、下町のど真ん中辺りにあって、一泊2300円くらいの(ま、日本だと10000円では泊まれないような設備・調度を備えた)中級ホテルで朝食もついていた。が、ここもコロナの影響で客はおらず、わたしは一人展望のいいレストランで朝食をいただいて、一日か二日後に戻るからといって、軽めのバックパック以外はすべて預かってもらって8:40にチェックアウト、前日に探してあったナマンガ行きマタツの乗り場まで歩いていく、ホテルの裏側の大通りRiver roadをそのまま東に1kmくらいのところにそれはあって9時には着いていた。たしか2社が呼び込み合戦を繰り広げていて、たぶん料金的には変わりないだろうと思って前日に情報をもらったSuper Coachに声をかけてみた。空席はあって座って待てとのこと、乗客は9時半には埋まり出発となった(ナマンガまで700ksh)。街中はどこでもそうだがここも激しい渋滞に巻き込まれたが、2~30分で原野というか砂漠ではなくサバンナ?要は郊外にでて、車は少なくなってあらん限りのスピードで飛ばす飛ばす。ところどころに街があり沿道には建物も結構建っていたが、すぐに何もない原野を行くことになった。景観が素晴らしいというようなところは特になく、2時間半走ってちょうどお昼頃ナマンガ着、長距離トラックの国境越え待ちの長蛇の列でそれとわかる、が、マタツのたまり場のようなところに降ろされたはいいが果たしてどうしたらいいのか皆目見当はついてなかった。いや、ほんとにどうしたい、どこへ行きたいというプランは何も持っていなかったのだった。だから、こういう場の常で、マタツから放り出されれば、タクシードライバーとかが寄ってくるのはわかっていたし、いつもなら彼らから情報を聞いてそれから考えるのだが、この時は何をどう聞けばよいかすらはっきりしてなかった。なのでわたしが口にしたのは国境はどこ?ホテルはどこ?と聞いたくらいでそれらはすべて視界内にあったので、彼らにとっては商売にならないと相手にされなくなる、で、これ幸いとばかり、その時は荷も軽かったのでともかくウロウロ歩き出したのだった。

この部屋はナマンガから戻った時にあてがわれた部屋だったが、最初の2泊もこの程度の
部屋だった(2350ksh)

2350kshで朝食付き

食堂担当の女性、あと二人の女性(受付嬢と部屋担当の女性)ともに感じがよかった)

<ナイロビ~ナマンガ間の沿道の様子>

           行きのマタツ ↑ 風景など ↓ 4枚

<ナマンガ Namanga 村>

Namanga村付近 ↑↓

タンザニア国境ゲート付近 ↑↓3枚

↑ 遠くに見えている山はキリマンジャロではない(Mt.Orok?) ただキリマンジャロもこの方向

この時わたしは(前にもいったかもしれないが)古いガイドブックは持っていたが、地図を含めた情報は何も持っていなかった。ガイドブックには、わずかながらナマンガの情報は載っていたがほとんど役に立つものはなかった。ただケニアタンザニアの国境は緩そうなことが書かれていたが、実際ゲートではそれは感じられた(いや、そこはゲートではなかったのかも知れなかったが)。わたしがこの時そこまで来たのは、ただその国境付近からキリマンジャロを拝めないか、ということだけだったのだが、残念ながら事前にその距離感をつかめる地図はもっていなかったので全く当て外れだったことを知ることになった。その前に寄ってきたタクシードライバーは、わたしが旅行者だと知るとみんなアルーシャかと聞いてきたので、その時アルーシャというところがタンザニア側の街だと知ることができたが、言葉の問題でビザがなくても行けるのかといったことまでは話せず、いくら緩いとはいえ、もしもの時には大ごとになってしまうことを思えば、ビザなしでの越境はさすがにやめておいた方がいいだろうと判断した。とするとキリマンジャロは諦めるしかないのか?と国境の村を歩き回りながら考えていた。写真を撮りながら村内を歩き回ってて、まだホテルも決めずにいたが、食堂を見つけて昼飯を70kshで食べられたので少し気分がよくなる。ちょうどその付近がモトドライバー(バイクタクシー)のたまり場になっていて、マサイの若者たちがたむろしていた(マサイの勇者たちは仕事がないからかモトドライバーになってるものが多かった)。そのうちの気のよさそうな一人に声をかけてみた。どこか安いホテルはないか?すぐ近くのホテルを教えてくれた。そのあと、この辺からキリマンジャロは見えないのか?どこまでいけば見えるのか?わたしはキリマンジャロの写真を撮りたくてここまで来た、といったことを話してみた。即答はなかった、わたしはバイクならその場所まで簡単に連れてってくれるのではないかと思って聞いてみたのだが、意外と遠いことがその反応からわかった。端的にいってそこまでどのくらいの時間がかかって、いくら出せば連れてってくれるのか聞いてみた。彼の話からわかったことは、今の季節、近くまでいったとしても必ずしもはっきり見えるかどうかはわからない、比較的確率が高いのは朝方であること、その場所まではバイクでも2時間くらいかかるであろうということ、バイクよりは車で行った方がいいのだが、バイクでも往復するだけで5000ksh(聞かなかったけど車だと倍か?)だしてくれるなら行ってもいいというのが彼の最終的な答えだった。一応の目安を聞いてあとは彼の仲間も集まってきて雑談となった。なかなか気のいい連中で、時々仕事で客を乗せて出かけて行っては、ま、暇だったからかみんなすぐに戻ってきてワイワイガヤガヤやっていた。わたしは5000kshどうするか悩んでいた、というのも行くとなれば今日中に回答して明日の朝方迎えに来てもらわねばならなかったからで、一番のネックは要するに5000kshの賭けの確率は半々だということにあった。budget travellerでなければ躊躇はないところ、わたしにbudget travellerとしての矜持もあったから、最終的に断念したのであった。一つの言い訳としてケニアが気に入ったのでまた来る理由を残した、というところだった。仕事で出かけたJoel君(こいつなら、と思って話しかけた相手)が戻るのを待って、戻ってきた彼に諦めたことを話し明日会えたらまた会おうと約束して彼らと別れ、彼に教わったホテルに行ってみる。どこも外国人旅行者はゼロだったからもちろん空き部屋はあってトイレ付で600kshとのこと(ベッドがあるだけだったが600円、グアテマラ並の安さだった)もちろん即決した。この安さでwifiが繋がったのはうれしい驚きで、おかげでライン等で夜の暇つぶしも可能だった。昼食をとった食堂も近かったのでお茶とパンをtake outして夜食として何人かとラインのやり取りをして早めに寝る。

村の散策 ↑ ↓ 3枚 

      民族衣装(たぶん)が素敵だったので写真を撮らせてもらう ↑

安くてうまいこういう食事がわたしの好み、その日の昼食70ksh=70円

国境付近の長距離トラックの待機群 ↑ ↓

タンザニア側国境オフィス ↑とタンザニア側風景 ↓

 

<マサイの若者たちに出会う>

young Maasaiの戦士たちは今はモトドライバーが多いようだった

わたしの隣がJoel君

一泊650ksh トイレwifi付きだった国境の村の安ホテル

せっかくタンザニア国境まできたのに冒険せずに帰ることに少々悔いが残ったが、ま、歳も歳だから無理をしないという基本方針に従い、朝方もう一回村を一周して集まってきた昨日の若者たちに礼をいって、Joel君にはボールペンを記念にわたして写真を撮って別れる。マタツのたまり場へ行くと客の取り合いの犠牲になる、こちらはどこの会社でもよかったのだが、勝手にもめているのでわたしがどちらにするか結論を出さなければならなくなった。仕方なく来るときに乗ったSuper Coachにしたが、正解だったかどうか、というのもどうやらこちらの方が客の集まりが悪くこの時は約1時間待ちとなったからである。それとナイロビの渋滞で帰路は3時間くらいかかったか(往路は2時間半くらいだった)?ホテルHemak Suites着は14時ころだった。最初の日のお気に入りの受付嬢は同額(2350ksh=2350円)で新しい部屋をあてがってくれ、その部屋は前よりも上等だったので、ますますのお気に入りとなる(ところがその夜は近くのナイトクラブなのかディスコなのか、夜通しのボリュームいっぱいの音楽で眠れなかったのだが)。ま、それでもなぜかここの女性たちは、みな愛想がよくて親切で人懐っこくてしかもみな美人ぞろいだったのである(3人)。もし若かったなら、わたしももっと積極になったかもしれないと思わせるくらいだったから、それもケニアが気に入ってしまった理由となったのかもしれなかった・・??その夜はストリートフード(bread with vegetable)とGuinnessの黒を買い込んでの夕食にも満足していた・・、、

Namanga Guest House 翌日撮影 ↑ 

ま、これは世界中の問題かもしれないが、重要なNOTICEかもしれない?

翌朝もう一回村を回って帰路につく ↑ ↓

スーパーコーチのライバル会社NAEKANA わたしにとってはどちらでもよかったのだが

<帰路の風景(道は同じ)他>

タンザニアに向かう待機車両の列 ↑

沿道から ↑ ↓ 2枚

ナイロビ市内に入ると馴染みになったこんなバスが・・

その日の夕食はストリートフード+Guinness

 

『独歩爺最後の旅』アフリカ篇 <ケニア> その1,ナイロビの衝撃

今回の旅で最も期待度の高かったところはアフリカであった。というか唯一の未訪地、そう、わたしはあまり興味を感じなかったオセアニア(と南極)以外の大陸はほとんど訪れていたが、アフリカは地中海沿岸地帯の国々(エジプト、チュニジア、モロッコ西サハラ)は訪れたことがあったがサヘルの地はわたしにとってずっと憧れの地であった、特に西アフリカのマリが今回の世界一周の目玉で、だからこそ世界一周券にした理由でもあったのだった。

思えばもう10年くらい前になるだろうか、一度陸路でモロッコから西サハラ(帰属不確定地)を経由してモーリタニアに入ってセネガルに抜けられないだろうかと偵察に行ったことがあった。その時のブログも残っていると思うが、西サハラ南部のモーリタニアとの国境に近いダフラDakhlaという街までは行けたが、その先は道はあるのだが砂漠を踏破するグループを組織(踏破隊;それなりの車とメンバー・装備、出入国の手続き等を含めた計画・準備)が必要と判断して諦めたのだが、実際そんなグループ(ほとんどヨーロッパ人だったが)を見かけ羨ましくも未練がましく想いながら引き返したのだった。その時以来アフリカ中央部はわたしにとって残された最後の地として機会があればとそのチャンスを狙っていたのだった。なので世界一周案を思いついた時は、先にも言ったが、わたしにとってはたった2ヶ所のための世界一周券、つまり一ヶ所はグアテマラでもう一ヶ所がともかくアフリカ中央部がmust visitだったから、この二ヶ所をそれぞれ個別にいけばそれだけで世界一周券より高くついてしまうことが明白だったが故に世界一周券になったというのが実際の経緯だったのである。こうして、当初のルートとしては→メキシコ→グアテマラ→メキシコ→リスボンダカールバマコアジスアベバ→ムンバイ(以下略)で確定し発券段階まで進んでいた。それはちょうど一年前の9月か10月ころだったと思う、ところが発券を依頼した旅行会社からマリの入国は難しいとの連絡があり、すぐに調べてみるとコロナの状況だけでなく政情が不安定で確か外務省危険情報で渡航中止勧告のレベル3から退避勧告のレベル4(最も危険な状態)になっているのを知り、つまり旅行会社が発券できないといってきているのだから、今回は諦めざるを得なくなったのであった(どうしてマリだったかは、まだ希望を捨ててないので実際訪問した後でも遅くないのではないかと思って保留とさせていただく)。もちろん話は進んでいたから、その時点で世界一周券を使った旅を諦めたわけではなかった。急遽代替えブランの検討に入り、瞬く間に西アフリカ(セネガル・マリ)プランは東アフリカ(ケニアウガンダルワンダ)プランへとシフトしたのだった。そこでの問題はメキシコからアフリカへの経由地で、西アフリカの場合はこれも好きな国の一つであったポルトガル/リスボンがピッタリであったが、ケニアに飛ぶとするとスターアライアンスで調べてもなかなかぴったりのところがなく(米国・ヨーロッパ乗継ぎはそこそこあったが)、寒いけどトルコにするしかないかとイスタンブール経由に決めた経緯は前回お話した通りである。で、トルコの話は終えているから、ここからアフリカ篇が始まることになる。2月6日21時にイスタンブールを離陸したTK607は深夜3時半ころケニアJOMO KENYATTA国際空港に着いたのであった。経度は同じくらいだったから時差はなく6時間半の飛行、着陸前のケニア上空からの眺めた感じは照明が少なく暗い感じの街で、だからこそわたしにとっては好ましく思えたのであった。

 

いずれにしろ機内では眠れないわたしはほとんど映画を見て暇はつぶれていた。深夜機外に放り出された感じの我々は、少なくとも初めてのわたしはともかく他の人たちの後についていくしかなく、なんかみすぼらしい建物の中に流れ込んでいった(たまたまだったのか、空港ビルでなく仮の簡易バラックのような建物だった)。パスポートチェックの前に何か求められたのだが、空港職員の女性のいっていることがわからない、もちろん英語なのだけれど聞きなれない言葉で、何度か聞きなおしてようやく理解できたのはワクチン接種の証明書のことだったのである。もちろんそれは持参していたから事なきを得たが、それを求められたのはその時が初めてだった。しかしそこを通過して次のパスポートチェックまで、まぁかれこれ一時間以上遅々として進まぬ列に並び続けた。外国人用laneはたった二列しかなく、その手際もあまり要領がいいとも思えなかったのである。ま、こんなものかとほとんど諦めに近かかった、それでもわたしの番になって、苦労して取得した東アフリカ3か国通用のE-VISAは日本のケニア大使館が発行した単なるプリントに過ぎなかったので、それを提出してパスポートにEAST AFRICA TOURIST VISAとして添付されることによって初めて有効になるのであるから、特に問題なくそれが添付されて戻されたときにはほっとしたものである。なにしろ前にも言ったが、その日本のケニア大使館発行のE-VISAプリントの有効期限が2月の8日までだったからなおさらであった。そのあと荷物を取って20ドルの両替をして表に出たときはすでに6時に近かったか?さてそこからは、おそらくタクシーしか移動手段はなさそうだったので、毎度のことながらドライバーとの交渉になった。ただ、この時はホテルの予約はしてあったが、そこまでのタクシーの相場は確認していなかった。いや、それだけでなく実はそんなことよりわたしが恐れていることが一つあったのである。

E-VISAのプリントの上にパスポートを開いて写す

 

何度も言ってることだが、この時東アフリカはわたしにとって初めての地で、いわゆる治安状況等の感じがつかめておらず(一度でも訪問すればだいたいはつかめるのだが)、また諸々の情報もほとんど皆無だったので、一応この三国とそのあと予定したエチオピアの情報が載っていた日本のガイドブックを持参していた。が、それでなくともそのガイドブックは高額だったので一世代前の中古を手に入れてあった。基本的にはそれほど情報の更新はされてないのを知っていたからだが、これが実は思わぬ落とし穴だったのだ。一世代前の古本は2014~2015年版で(ということは書かれている内容はかれこれ10年前の状況ということになる)そうとう間隔は開いていたのである。それこそ一世代10年の間隙で何がどう違っていたのか?また何でそんなに違ってしまったのか、ある意味それはケニアの(良い意味での)著しい発展を物語っていたのかも知れなかった。そこに記されていた10年前の状況というものは、今まで同じガイドブックの他の地域ものでは見たことないような警告であふれていたのだ。曰くナイロビの中心街は治安が悪すぎ、危険すぎるから昼間でも一人で歩いてはいけない、ダウンタウンには絶対行ってはいけない、といった注意書きが、かなり厳しくそこら中に見いだされたので、ま、10年前の情報とはいえ、わたしもかなり警戒してしまっていたのである。だからタクシードライバーとの交渉も値段だけでなく人物も観察するようにしていたし、値段交渉でも素直に応ぜず相手の反応を見たりしていた。しかしその時のドライバーは人のよさそうなおじさんで2500ksh(ケニアシリング1ksh=1円、以下kshで表示)を2000kshまでまけてくれたので、それでも高いことはわかっていたが全て任せたのだった。ホテルまでは30分くらいかかったか、まだ明けきらないナイロビの街の中心街らしい通りを、そして裏町らしい感じの通りを行き、もしガイドブックの記述が正しいなら物騒な界隈といった感じの通りをいって正確にホテル入っているビルに横付けしてくれたのだった。無事にホテルまで送り届けてくれたので少しホッとして多少だがもちろんチップを渡した。が、まだわたしの緊張はほぐれてなかった。それでも建物の出入り口にはガードマンのような人もいたし、ホテルの関係者だったのか皆親切にしてくれて7Fの受付までエレベーターでいくように教えてくれた。レセプションでは朝早いというのにチャーミングな女性が一人、どうにかわたしの下手くそな英語も理解してくれ、予約した部屋の価格からしたら上等すぎる部屋をあてがってくれたり何かと親切にしてくれるのだった(東アフリカは西アフリカと違って英語圏だったので、あとから思えば旅のしやすさはあったと思う)。こうしてだんだんナイロビの現代の素顔が見えてくると、このガイドブックの記述はひどいのではないかと思えてきて、最後には怒りを覚えるまでになっていった。実際ナイロビの街を気に入るまでに数時間もかからなかったのである。で、その日の行動は以下のようになった。

 

わたしが滞在したホテルはその意味ではまさに7~8年前のガイドブックに示された地図の危険地帯のど真ん中にあったといっていい、なので最初はホテルのフロントの女性に教えてもらったATMに行くのにも、たった一本先の通りでものの5分のところであったが、恐る恐るといった感じで歩いていった。人通りは多く活気にみなぎっていた、そう、まず感じたのは活気だった。明るい陽射しもあったが、街全体が(つまり人々が)活き活きしているのだ、いやー、これがケニアか ! これがアフリカか !? このバイタリティは久しく我々が失ってしまったもの(ま、コロナ禍もあったからだが)わたしが目にしていなかったものだった。危険地帯特有の、あるいはスラム街特有の鬱屈した暗さのようなものは微塵も感じられなかった。kshを手に入れ、商店で飲み物・水などを買い物して、一旦ホテルに戻りケトルで湯を沸かしサービスのスティックコーヒーを淹れて、飛行機の残り物のパンとゆで卵の朝食をとってから少し仮眠。昼前に起きだして、それほど用心深くする必要はないかもしれないとわかったので、本格的なナイロビ探索に出かけることにした。かなり暑くは感じられたがトルコから来るとこの乾いた暑さ、乾燥気候は何とも心地よかった。写真とビデオを撮りながらの街ブラ、全く危険は感じられず、だんだんこの国の明るさと活気に惹かれていくのだった。

<以下写真参照、実はその衝撃的な街の風景はどうしてもビデオに収めたいと思ってほとんどスマホで撮ったいたのだった、なので残念ながらそれらはどう載せたらいいかわからないでいる。ビデオはそのあと日本に送るとすぐに反響があったのだが、ここではあまり写りの良くない写真で想像してください‥。>

ホテルの10階くらいから撮ったナイロビ北側郊外 2枚 ↑↓

中心部はホテルからは南側にあってすぐ近くだった

階下に降りると(表に出るとこんな感じ、ちょうどその辺りもマタツ(後述)の発着地で
黄色い線の入ったワゴン車はマタツ ↑↓ 2枚

これがケニアの衝撃の一つ、ビデオにとって日本に送った動画はこんなサイケ?というかファンキーなバスが何台も走ってて、それをやたら撮って日本に送信したらそれが好評だったのである。なので静止画では少ないが、そんなところからこの国の自由度は高いのではないかと思ったわけ、あとでもう何枚か出てくるかもしれない?? ↑↓

ホテルの近くにあったモスク(黄色い建物)この辺りは最も渋滞の激しい場所だったようで、ナイロビの渋滞も半端でなかった

確か最高裁判所 2枚 ↑↓ 官庁街の中心辺り、ケニヤッタインターナショナルビル
Kenyatta Intenational Convention Centerに隣接

ナイロビのシンボルタワー Kenyatta Intenational Convention Center
ケニヤッタ国際会議場 、わたしはおのぼりさんだったからたいていはこういう建物には
登ってみるのだが、今回は面倒に思えて入場はせず、下の写真は次の日写したもの ↑↓

ジョモ ケニヤッタ Jomo Kenyatta像 1964~初代大統領 建国の父

Nairobi City Council ナイロビ政庁 

国会議事堂付近 右側にジョモケニヤッタ

わたしは鉄道駅には興味があり、ナイロビ~モンバサ間の運行があるように聞いたのでナイロビ駅に行ってみたが、撮影はダメといわれ駅構内には入れなかった。なので鉄道についての詳細は調べられなかった。

この消防署はホテルの近くにあったのでわたしにとってはいい目印になったのである

2~3時間歩きまわると疲れて、ホテルに戻って休憩or仮眠ということになったが、おおよその位置関係もわかってきて、また、最初に感じた如くこの界隈はけっこう下街っぽくて賑やかなところであることがわかり食べ物屋さんも結構あったりで、夕食はホテルの脇にあった安食堂でアフリカらしい食事もできたが、一つだけここも問題があることがわかってきた。インドと同じビール問題、そうビールは安くなかったのと簡単に手に入らなかったのである。最初の一本は他のものと比べて高すぎたから諦めたが、この乾いた暑さの中では我慢できなくなって、その食堂の隣にあった、これもインドと同じあまり大っぴらに商いしてない酒屋で次の日ようやく手にするのだった。ま、早い話一日でナイロビのおおよその感じはつかめたのであった。

階下の安食堂 英語表記は有難く写真にあったBeef Stew with Ugaliを頼んでみた

Ugaliはこの辺り常食で、小麦粉やトウモロコシ・キャッサバなどの粉を練ったもの
  らしかったが、あまり口にはあわなかった。しかし150ksh(150円?)で食事ができる
ことを知ったったのは一つの収穫で、この日はヒールは我慢したが、だいたいの物価が
わかってきて、次の日からはビールを我慢するのはやめにした。

次の日も前日に引き続き写真を撮りながら街ブラしてるのたが、いい写真は撮れてない。この日は主にマタツ(この国の近距離、中距離移動の主力の足、ま、他の国でもそうだが乗合ワゴン車による移動がこの国でも一般的なようで、競争はけっこう激しそうだった。料金的にはさほど違いはなさそうで、各社それぞれの発着場所で呼び込み等でしのぎを削っていた)の乗り場を探しながらの街ブラだった。この後ケニアは2ヶ所への移動を予定していたので、そこへ行くマタツの乗り場を探して、その日情報を得ることができたのだった。

 

<以下は2/8の街ブラから>

ファンキーなマタツ何枚か ↑↓

 

Kamukunjiロータリー付近 ↑↓(下2枚) この近くにナマンガ行きマタツの発着場があった

Kenya National Archives ↑ ナイロビ中心街のど真ん中にある博物館・美術館、価値ある
ところだったと思うが今回はすべてパス 

大通りを挟んでKenya National Archivesの向かいに建つ円形のビルはHotel Hilton

この広い通りKenyatta Avenue界隈は高級店が並び、その南が官庁街になっている。北側東側は商業地区?少し庶民的になる、そんな一画にシティマーケット ↓ があった。

シティマーケット(右側の建物) 要は土産物・物産マーケットのようなところだった。
逆にいうとここ以外に土産になりそうなものを置いているお店は皆無だったのだ。 

なるほど楽しいところだったが、結局冷やかしただけ(ほとんどお土産を買わない男なので)、しかし(全ての)写真を見てもおわかりのようにこの時期まだ観光客turistの姿は皆無で
この市場でも旅行者を見かけることはなかった。このマーケットもこのコロナの痛手は大きかったことと思う。↑↓

 

何年か前の古いガイドブックだったが、どうも想定読者は変更がなかったようで、ケニアあるいは他の国々でもその東アフリカというタイトルのガイドブックには、それぞれの国のサファリがやはりmain targetだったようで、それに興味のないわたしは(もちろん動物の生態に興味がないわけではないが、あまりにも観光化されていることの反発と、お金と暇をもてあます身分だったらいったかもしれなかったが)端から縁のないことと諦めつつも、もともと山には興味を持っていたからやはりアフリカ一の高峰キリマンジャロの雄姿だけでも一目拝めたらという想いはあって、せめてその近くまでは行けないかと策を練っていた。キリマンジャロの所在はケニアではなくタンザニア内だった。今回タンザニアのVISAは取ってなかったのでタンザニアへの入国は意図していなかったが、国境を接するケニア内にあるサファリパーク・アンボセリ国立公園からは、それを眺められるという情報は得ていた、ならばサファリはしないがその公園に入れないか?あるいはその公園の周辺からは見えないのだろうか?等々思案していたが、しかしこういう条件付き(めんどくさい?)ツーリストは最も嫌がられる存在だから、ともかく現地に行ってみた方が早いだろうと結論し、その日わたしは、そのアンボセリ国立公園への玄関口であると同時にタンザニアとの国境ゲートのあるナマンガNamangaという街までいくマタツの出る場所を探していたのだった。マタツ乗り場の情報はもちろん古いガイドブックにも載っていたので簡単に見つけることができ、ついでにそこから戻った後に向かう予定にしたキスムKisumuというところに行くマタツの乗り場も探してすぐに見つけることができた。

そんなことで全く白紙で入国はしたもののおおよその予定は出来上がるとともに、最初は危険情報に惑わされたが、そのガイドブックから10年後の姿は、むしろ最初に脅かされた分余計に、思った以上の過ごしやすさとリベラルな雰囲気、つまりわたしが最高の理念としている自由な雰囲気をどこよりも感じさせ、何だ、いいとこじゃないか ! という印象に変わるのにほんと数時間もかからなかったのである。いや危険なんてとんでもない、昔はそうだったのかもしれないが、安全性はもとより混迷を脱却した自信からか、人々の明るさと活気はなぜかこの国の明るい未来を象徴しているようで、余計この国から目を離せなくなる予兆を感じていた。たぶんアフリカのリーダー国の一つになっていくのは間違いないだろうと思わずにはいられなかったのである(すでにそういう存在なのかもしれない、わたしが無知なだけ、いや我々は本当にアフリカの真実の姿はわかっていないのだと思う。ついでに補足させていただくと、この2014~2015年版のガイドブックにあったケニアの危険情報は、2007年の選挙時の大混乱時の状況を写し取ったものかもしれないとあとから気づいた??)。

なお、気候的要因(暑すぎず、寒くなることはないさわやかな気候)及び経済状況(物価の安さ)にもこの国の魅力を見出していた、その日の夕食も昨日と同じ食堂でfish & rice(150ksh=150円)は誠にうまかったのであった。

この夜はfish & rice しかしビールの持ち込みはできなかった ↑

 

『独歩爺最後の旅』トルコ編 5, 最悪のイスタンブール Istanbul 3日間 

当初の予定では、トルコ滞在は2023/02/03~2/13の10日間の予定であった、その内訳はイスタンブールが2/3~2/6か7で、そのあと今回行ったサフランボル、スイノブ方面が4~5日で2/11か12に戻って2/13にナイロビに飛ぶ予定で航空券を手配していた。それが去年の10月頃で、そのあとにインド、アフリカ各国のVISAを手配することになる。そのケニアウガンダルワンダ3か国で使える東アフリカ観光VISAの取得手続きを確か10月の終わりころから始めていた。そしてこれはけっこう苦労したのだが、何とかそれも取得できていたのだった。同じころには各国の滞在先(ホテル)の手配も開始していた。トルコに関してはイスタンブールのみ2/3~6の3泊4日で、早い予約だったので結構安く予約がとれていた。ところが12月になって突然わたしの大チョンボが発覚したのだった。ま、やはり歳の所為か、今まで経験したことのないミスであった。そもそもやはりVISAはこういう面倒なことが起こりうるのである、だからVISAを要するところは要注意というか、なるべくなら避けたいのだが、わたしのいきたい国々は往々にして要VISAの国が多いのであった。で、そのチョンボというのは、何でも早め早めに手配したことが裏目に出たということで、11月初めに発行されたVISAは有効期限があって、発行後3ヶ月間に入国しなければ無効になるということに12月になって気づいたということだった。つまり当初の予定のままでは、せっかく苦労して取った東アフリカ観光VISAは無駄になってしまうことがわかったのである。まだ間に合ったからよかったのだが、すでに発券されていた世界一周ticketは若干の手数料を払って日程変更をしなければならなくなった。それに伴ってホテルの予約にも影響が出てきていたが、ホテルの場合はキャンセル無料だったり日程変更に手数料はかからなかったりしたので実質被害は被らずに済んでいた。ただ、イスタンブールの場合は(すでに述べたかもしれないが)イスタンブールの後に予定していたサフランボル~スイノプの予定を前に持ってくることによって、ホテルの予約は変更せずに済まないか、という観点で調整してみたのであった。それがこれまでの経過の中でも述べていた2月3日にイスタンブールに戻らなければならなかった理由なのであった。しかし、無事に?2月3日に戻りはしたものの、その後の3日間は最悪、何がって最悪の天気だったのであった。

 

元より2月にトルコは天候的にNGだろうとは思っていたが、それでも観光客は世界中から集まっていたのだから流石にイスタンブールと驚かされてはいた(もっともトルコに滞在した約10日余りの間一人の日本人・東洋人の姿を見かけることはなかったが)。寒さに弱いわたしにとっては、暑いアフリカに脱出する前の試練?というか捨て石のようなものとして捉えていたので、だから結果としてほとんど何も見なかったに等しい3日間となったが、ま、初めからやむを得ない選択と諦めていたし、ほとんどなにも期待はしていなかったのだ。やはり寒かったし、雨、そして霙まじりの嵐に遭遇して、特に記述すべき旅模様もないのだが、簡単にそれらの日々を追ってあとは写真の説明だけに終わることになると思っているのである・・、、

 

まず2月3日は、朝10時頃ようやくイスタンフール到着を告げられたが、全く見覚えのないところだったので、ここはイスタンブールのどの辺?どこに我々は着いたのか?その時のコンダクター(車掌さん)に通じないながらも聞いてみた。が、イスタンブールのオトガルという返事が返ってくるのみで、他の乗客は全員降りていってしまい、すでにどこかへ消えていたのだった。いやー、焦った、自分のいるところがわからないから、どっちに動き出したらいいのかがわからなくなっていたのだ。で、ともかく地下鉄の駅はこの辺にないかと、トルコ語を調べる余裕もないから英語で叫んでみた。すると上だ、と教えてくれた人がいた。上といわれてもそこは建物ではなく平地の単なるバスの溜り場(そこが降車場だったことを後で知るのだが)でしかなく途方に暮れていると、あっちだといってそこに至る道を教えてくれたのだった。半信半疑でそちらへ歩き出すと、確かに少し登ったところで道にでて、その向こうに駅のような建物が見えていた。ともかくそこまでは行ってみようと、その方向に歩きだすと何となく見覚えのあるような感じになってきて、そこがサフランボルに行くときに降りた地下鉄のオトガルの駅であったことがわかってきたのであった。そういうことだったのかと、その時なってようやくバスはイスタンブールのオトガルに到着していたことを(乗車時の場所・光景とは全く異なっていたのでわからなかったのだが)理解できたのであった。

確かに上に出てみると地下鉄の駅のような建物が見えた

近づいてみるとそこは数日前に下車した地下鉄のOtogarオトガル駅だった

そこからは何とかなった。まずイスタンブールカードにチャージして、帰りは別のルートで帰ってみることにし地下鉄M1でAksarayアクサライにでてみた。最初の夜空港からのバスが到着した場所、右も左もわからないまま降ろされたところだった。そしてそこからトラムに乗り換えてスルタンアフメトに帰り着くことができたのだが、スルタンアフメトのトラムステーションからホテルまでの間は、いやでもAyasofyaアヤソフィアの偉容が圧倒するような存在感を示していて自然にシャッターを切ってしまう、そうやって特に急いで戻らなければならない理由があったわけではないから、ぶらぶらとホテルに戻ったのであった。

見覚えのあったAksarayの駅、ここが空港バスの到着したところだった ↑

Aksaray駅周辺 ; 2枚 ↓下の写真はよく覚えてなくてなんという建物か不明
Pertevniyal Valide Sultan Mosqueの可能性あり

<ブルーモスク Sultanahmet Camii とAyasofyaアヤソフィア 何枚か>

たぶんこちらはブルーモスクだったと思う ; 2枚 ↑↓

 

Ayasofya Muzesi アヤソフィア博物館はいつも長蛇の人で、そもそも最初から
入館するつもりはなく、外から何枚か撮っただけ

これは翌日の朝ホテルの部屋から撮ったもので、朝焼けは天候悪化を予兆しており
その通りになった

ホテルではすでに顔なじみになっていた最初の夜のホテルマンがいて、彼が前回より素敵な部屋を提供してくれた。そこからもアヤソフィアの偉容は目と鼻の先だった。こうしてホテルの3日間は、むしろ外出するたびに寒さ、雨、突風を避けて逃げ戻るところとなった。その日は近くの洗濯屋に出向いたのと、昼食のケバブサンドとワインを買いに出たくらいで、久しぶりに湯船につかり昼寝して体を休めたのであった。

 

次の日は午前中キュルハーネ公園を散策し、スルタンアフメト広場、アヤソフィアの周辺をウロウロし午後はグランドバザールまで歩いて往復する。2月5日はマルマライ・スイルケジ駅、エミノニュ、エジプシャンバザール、そしてガラタ橋を渡ってガラタ塔を目指すも塔までたどり着いた時はすでに土砂降りの雨になっており、さるお店の軒下で雨宿りするも止む気配なく、こんな雨の中並んでまでして塔に登ってみる気にはなれなくなって退散することにし、橋の袂まで戻ってそこからトラムでホテルに戻る。夕方もう一度出かけてみたがさらに風雨は強まっており、傘も飛ばされる勢いだったので這う這うの体でホテルに戻る、ずぶ濡れになった。ま、こんな感じで寒さと風雨との闘い?と相成ったが、別に残念でも悔しくもなかった。最初にも申し上げたようにイスタンブールもどうでもよい部類に入っていたのだった。言葉が通じなかったり、やたら物価が高かったり何かと面倒くさかったりするところは、この年になるとツアーできた方がいいかもしれないと思うようになっていたが、やはり以前一度来ており、すっかり忘れてしまっていたが、前はトプカピもアヤソフィアも見たことがあったというのが大きかったかもしれないと思っている。

2月4日トㇷ゚カビ宮殿隣りのギュルハーネ公園 ; 2枚 ↑↓

対岸のカラキョイ方面を見る

再びアヤソフィア、ブルーモスク周辺をうろつく

アヤソフィア東面

ブルーモスク 2枚追加

 

トラムに沿ってグランドバザールまで歩く ; 2枚 ↑↓

 

確かグランドバザール近くのモスクだったと記憶しているが‥??

グランドバザール ; 2枚 ↑↓ 

コンスタンティヌスの円柱か?

2月5日 マルマライ駅とその付近 2枚 ↑↓

エミノニュ付近 2枚 ↑↓

ガラタ橋の袂にあるYeni Camiイェニジャーミィ↑とエジプシャンバザール ↓

エジプシャンバザール ;2枚 ↑↓

ガラタ橋から ;2枚 ↑↓

ガラタ塔 ; 2枚 ↑↓


そして2月6日である。この日ようやくにしてトルコ脱出の日であったが、なんだか朝からテレビが喧しく何が起こったのかと思っていたら、何とわたしがそのニュースの詳細を知る前に日本からのラインでそれを知らせてきてくれたのであった。トルコ東部とシリアとの国境地帯で地震が発生したらしく、心配してのことだった。一応それらにはここイスタンブールからは相当離れていることを伝え、わたしは今日にもトルコを去る旨返信したが、その地震の規模は相当大きかったようで被害も甚大であったことを後で知ることとなった。11時にチェックアウトして、来た時とは逆ルートで空港に向かったが、空港でもその話題はあちこちで聞くこととなった。心残りとしてはほとんど残金を使い切っていたので、せめてイスタンブールカードのデポジット(50TLだったはず)が還元されればそれを寄付しようと思っていたが、いろいろ訪ね歩いてみたが誰もその方法を知らなくて、イスタンブールカードのデポジットは戻らなかったのであった。ま、そんなんで数時間待ちの空港ではラウンジでこの時とばかり貧乏人は贅を尽くしていたのだった。