独歩の独り世界・旅世界

他のサイトに書いていた'独歩の独り世界・旅世界'を移転しました

『独歩爺最後の旅』インド篇 その 3, Mumbai 再び、Vile Parle; Locomo Hostel

前回の最後は、Puneに降り立つことができなかった・・だったが、これも負の連鎖の後遺症のようなもの、失敗の延長であったのだ。どういうことかというと、ま、想像はつくと思うが、要は寝過ごして、気が付いた時はすでにMumbaiらしい大都会をバスは疾駆していた、ということだった。意図的にやったわけではないが、意図的かと疑われたとしても反論はできなかったと思う。もうそれならそれでもいいか、とすぐに諦められたからであった。Goaがそうだったように、Puneもどうしても何が何でも行ってみたかったわけではなかったからだ。寝過ごすくらいだから疲れていたのかも知れなかったし、逆にいうとよく眠れていたということでもあった、Puneでどうしても降りなければという緊張感は、もしかしたら最初からなかった?ともいえたかもしれない。ただそのあともまだ問題はあった。気づいた時は何時頃だったのか、外は明るくなり始めていたから、窓外の様相からすると都会の大通り(あるいは高速道路)を走っているのは明らかだった。そういえばその時気づいたのはPuneには何時ころ着で、Mumbaiには何時着ということも聞いてなかったこと、そしてMumbaiはどのあたりに着くのかも当然知らなかったのだった。しかし、その時の窓外の感じと明るさからPuneは過ぎてしまっただろうと感じていたから、わたしは余計なことを聞かないことにし(今更どうしようもなかったであろうし、下手すると追加料金を請求されかねなかったから、しかしそれはある意味いかにこのバス会社の乗客管理がいい加減かという証左でもあったように思う)、ともかくそのまま黙って終着地までいってしまうことにしていた。しかしその終着地がどの辺かということは、全く想像すらできなかったし、聞いてもわからなかったと思う。それでもかれこれ2時間近くは大都会の街中(あるいは高速道だったか?)を走り続け、どんどん中心から離れていっているようにも感じていた。そしててっきり大きなターミナルに着くと思っていた予想は見事に裏切られ、とある大通りの道端に停車し、ここが終着地なので皆さん降りてくださいと告げられる。4~50人乗りのバスにそこまで乗車していたのは4~5人だけだった。そこがどこかもわからず時間もわからず聞くに聞けずにいると(スマホはバッテリー切れだったと思う、場所については聞いてもどこかわからなかったと思うから)逆にそこに待機していたTukTukドライバーが大挙押し寄せてきてどこにいきたいのか聞いてくる。仕方なく出まかせで、というか、以前からMumbaiで時間が余ったら行ってみようと思っていたところの地名をいってみた。その場所はMumbaiの真北にあったSuratという街で、ゾロアスター教徒のパールシーが多く住む街と聞いていた。たぶん列車で4~5時間でいけるのではないかと推測し一泊二日で戻ることができるのではと考えていたところだった。するとそのTukTukドライバーの一人が、バス乗り場まで送る、20Rpといってきた。やはりそこがどこだかわからなかったのが致命的だった、その案に乗ってみるしかなかったからである。そして騙されたと思って乗ったら、やはり騙されてしまったのだった。ほんの数百m先にあったTravel Agencyに連れていかれ、そこから出ている乗り合いタクシーを紹介されたのだ。確かにSuratへ行くという乗り合いタクシーであったが、その料金はわたしの想定外のものであった(700Rpといってきた)。もちろん断ると同時にそのモトドライバーには悔しいけど10Rpは払った、完全なぼったくりであった。そして少し冷静になって、この近くに鉄道の駅はないのか聞いてみた。そこの前を通る幹道に交差している道を西方向に少し行くと鉄道駅があるとのことだった。先にそれを聞けばよかったと思う、とりあえず多くの人が歩いていく方向にわたしも歩きだした。思ったより近かったのである、1kmくらいだったか、15分くらいで着いた。初めてその辺りの場所をその駅名で確認することができたのだった。かなり大きな駅でBorivaliとでていた。そこから電車に乗ればAndheriやVile Parleが数駅先だったので、だいたいの場所がわかったのであった。が、自ら招いている受難 - ちょっと大げさに言ってみただけでたいしたことではなかったのだが - は、まだまだ続くのだった。

浜辺からではなかったが、内陸の高速道路からアラビア海に沈んだであろう日没

Borivali駅 たぶん来ない急行列車を待っていた時に撮ったもの(失礼、10番線だったから
写真に残されていた時間からするとこの駅に到着したときに撮ったもののようだった)

その時余計なことを考えなければよかったのだ。が、Puneで下車しそこなった失態を取り戻そうと、その時大きな駅舎でインド全国への長距離列車のticketを扱っていそうな窓口があったので、Suratへ行く列車があればticketを購入したいといってみたのだ。すぐ調べてくれて9:40の急行があると教えてくれたのだった(ということはその駅に着いたのは9時頃だったことがこのことからわかった)。lucky ! いくらですか?103Rp、もちろんその場で購入してしまったのであった。そしてプラットホームナンバーを聞いて、6番ホームに駆けつけたのだった。しかし結論を先にいうとその列車は来なかったのである。遅れているのかもしれないとかなり待ってみたが、それらしい列車は来なかった。いや、この辺はインドの列車のわかりにくさである。特に途中駅から乗る場合に混乱させられることが多いのだ、もちろんそれらしきアナウンスはあったのかもしれないが、ほとんどは聞き取れなかったのである。(列車が来るはずの時間から)1時間ほど待ってみて諦めて先ほどの窓口にいってみた。会話になっていたかどうかわからないが、少なくともわたしのいっていることはわかってくれたようだった。が、わたしが相手のいうことが聞き取れず、どうしてこうなったのか、列車はきたのか来なかったのかもわからなかった。わたしの返金要求は聞き入れらず、なんと手書きで次の列車を教えてくれたのだった。今手元にある、窓口の駅員さんが書いてくれた手書きの文字には(スペルが何文字も判読不明だが)最初の9:40 Sayvastra? Expを棒線で消してその下にPaschim? Expの文字があって、11:55と書かれているのである。つまりこの列車が1時間後に来るからそれに乗るように、ということのようだった。もちろんそれも待ってみたが、結果は同じだったのだ ! ! どうなっているんだインドの鉄道は ! ? あるいはもっと突っ込んでちゃんと確認できなかったわたしの語学力の問題だったのか !? が、 この時もこの時点で諦めが先に来た、もう一度窓口に行くことはしなかったのであった。

Borivali駅発行のticket 表 ↑ 裏 ↓ 



まさに、これがインドだ ! では済まされないように思うのだが、もうわたしの能力・気力・体力を越えていて、諦めを選ぶ年齢になっていた。100Rp?it's okだった。その次の問いは、ではどうするか?であった。最初に解決すべき課題は、まずその日の宿をどうするかであって、そうすると自然にVile ParleにあるLocomo Hostelにいってみるしかないかということで、当然持っていたticketは有効だろうからと別にticketは買わずにVile Parleに向かうのだが、この時も快速、鈍行の複々線であることを忘れており、快速の停まるBorivaliから快速に乗ってしまってなかなかVile Parleに行き着けないのであった。荷物を預けてあったLocomo HostelのあるVile Parleに着いたのは14時ころになっていたか?幸いドミは空いていたが一泊1400Rpになっていた。が、他に安く泊まれるあてがなかったから追加で三日分(3/7~9の間は予約済みだった)を支払った。こうしてAurangabadオウランガバードへ出発の日まで、部屋の移動はあったが都合五日間、二回目のMumbai数日をこのVile Parleのドミで過ごすことになったのであった。ただほとんどすることもなくグダグダ過ごしてしまったが、それらの日々を以下簡単に・・

 

いや、その間の日々はドミという制限はあったものの、それなりに快適に過ごせたといえた。まず、このドミ一泊1400Rp(2500円くらい?)には朝食がついたのだった。しかしどんな内容だったか、写真が残ってないし記憶も薄れており、ただ悪くはなかったということは、ま、それでなくとも満足な食事をしていないわたしのようなBudget Travelerにとっては、有難かったし美味しく感じられたのであった(そこのキッチンでは朝食以外の時間帯用のメニュウも揃っていたので、必要に応じてそこで食事やお茶をいただくことができた)。いずれにしろ空港近くのホテルは軒並み日本円で1万円以上したから、ドミトリーとはいえその1/4~1/5で泊まれて朝食付きのこの宿は、若者にはよく知られた存在だったかもしれない、なのでその日飛び込みで空きがあったのはかなり幸運だったのと、その次の日からの状況も確認してもらって、移動はあるが予約はできるということですぐに抑えてもらったのは正解だったと思う。そのドミも4人用、6人用、8人用があったりして若干値段が違った。それも上か下かは同じ価格だったが、早いもん勝ちで下があくとそこに移れたりした。わたしは年が年だったからもちろん安く泊まれるなら個室に越したことがなかったのだが、わたしなりの上限を決めていたので、その範囲内で個室がなければドミの選択も厭わなかった。要は他人への気遣いだけが面倒だったのだが、それは日本人だからのようにも思う。旅をしていると、日本人の他人に対する気遣いは大いなる美徳(特性)で、そんな習性を持っている人たちは本当に少ないとつくづく思うのだった(そういうことに気づかされるのも旅すればこそ、だとも思う)。

 

他にもこのHostelの良いところはいくつかあった、まず若者向けの宿だったから、スタッフも皆若く旅心を知る人たちばかり、必然的に建物全体に自由の雰囲気が漂っていた。わたしの場合例外的な年寄りだったから、特に友達をつくろうとは思わなかったが、ほんと皆親切にしてくれた。それと屋上のスペースに椅子・テーブル・ソファが置かれ(日中は暑すぎたが)自由に過ごすことができた、そこにマットを敷いてヨガのexerciseをやっている女性も多く見かけた。日中の暑い時間にはエアコンのきいたcommon roomもあって、そこでも自由に過ごすことができた。わたしはそこの本棚で<地球の歩き方インド>を見つけ(すでに遅しではあったが)この後にいくエローラ、アジャンタの情報を得ることができたので、その部屋にいることが多くなった。

 

さて次に、そのHostelのあったVile Parl駅界隈についての感じ、印象を少し付け加えておこうかと思う。駅から5分の好立地にあったこのHostelは商店街のど真ん中にあって、その界隈は路上商いが所狭しと店開きしていた。主に青果・果物類が多かったか、あとは日用品の類、いずれにしろ庶民の街、下町の感じがよく出ている、とても住みやすい街だったと思う。とても活気があって東京でいえば中央線沿線の街とか、ターミナル駅近隣の私鉄の駅前といった感じ?あとは学生が多く、学園町でもあったかもしれない。なので一日中人通り(電車の行き来も多かった)が絶えず、ありとあらゆる商店が軒を連ねていた。建物は近代化していたがそれほど高いビルはなく、空にはいつも鳥(カラス類?名前わからず)が舞っていた。そんなんで物価も安く、少なくともほとんどストリートフード好みのわたしにとっては、とても経済的で住み心地良し、あるいは長期滞在者向きとでもいえたかもしれない。総じて他ではいろいろあったものの、この街・このHostel滞在は、今回のインドでは当たりだったように思うのであった(すべてのことは、あまり期待しない、あるいは事前に予定しない方がいい結果を生む、ということなのかもしれなかった)。写りは良くないが何枚かの写真を以下に・・

夜の屋上からのVile Parleの街並み 2枚 ↑↓

こちらは同じ場所の朝の様子 ↑と日の出 ↓ 



さて、それらの日々でちょっと特別なことがあった日のことをもう少し、まず3月4日にチェックインし、3月5日は時間はたっぷり、しかし暇つぶしの方法が思いつかず、これまで何度も乗り降りしていた郊外電車の終点までいってみることにした、確かVirarビラーというところが終点だったようでVile Parleから北に1時間くらい乗っていたか?どこかで海が見えるところはないかと左側を注目していたが、列車が混みすぎていて収穫は何もなかった。

 

因みにインドの郊外電車は列車内検札なく、時々駅で抜き打ちの検札をやっているのは目にしたことはあった。わたしはこの時もし検札が来たら、前日のSurat行のticketを持っていたので言い訳はできるのではないかと乗車券は買わずに無賃乗車したことになる。駅舎での改札はなくほとんど無賃乗車し放題だから、切符を買って乗車している人の率はどのくらいなのか興味深いことではある。次の日(3/6)は最初に滞在した場所CSTにいってみた。一つは、暇つぶしに日本で世話になっている友人に絵葉書を送ろうと思い立ったのだが、近くに絵葉書なんぞ売っているところがなかったのである。そのときMumbai初日にCSTの駅舎の写真を撮りに行ったとき、観光客用に写真撮影のためのViewing Stageというのが駅前に造られていて、そこから写真を撮っていた時に観光客相手に絵葉書や土産物を売り歩いている男がいたことを思い出した。いや実際絵葉書を買わないかと声を掛けられていたのだ。その時はその写真がかなり古かったのを理由に断ったのだが、それを思い出してもう一度行ってみたらいるかもしれないと思って出かけてみたのであった。すぐにその男を見つけることはできなかったが、しばらくウロウロしていたら同じような身分(下級カースト?)と思われる女性がやはり観光客に土産物を売り歩いているのを目撃、しばらく様子を見てから声をかけてみた。絵葉書持ってない?と、そしたらしばらく待てと言ってどこかに姿を消した。ものの10分か15分のちに、もしかしたら夫婦であったかもしれない、わたしの方では見覚えのある男が現れて、最初に見せてもらったのと同じものを持ってきたのだ。値段を聞くと300Rpとのことだった。もちろん相手は覚えてなかったであろうが、わたしは前に彼が150Rpでいいといったのを覚えていた、が、それは言わずに200Rpなら買うといったら彼はokしてくれたのだった。ま、これが時の運(タイミング)というやつで、それでもとりあえず同じ古い写真の絵葉書であったが、10枚つづりの絵葉書は手に入ったのであった(それを書くのは次の日になった)。再び電車に乗って(無賃乗車で)Vile Parleに戻るのだが、その日はやけに電車がすいていたのである。もしかしたら次の日のHoliの祭日前でその前の3/4の土曜日のSurat行の電車に乗れなかったのもその影響だったかもしれず、この数日間がhiliday weekだったのかもしれなかった。例によってVile Parle駅からはすでにroutine routeになっていた揚げ物屋(玉ねぎ揚げとサモサが抜群)、Kingfisherを売っている酒屋、露天の八百屋で瓜を何本か買って(計180Rpくらい)宿に戻り、シャワーを浴びて屋上での昼食のひと時は、そのころの至福の時であった。その日は偶々下段のベッドがあいたとのことで、下段に移動してそこで昼寝、またその日がcommon roomで地球の歩き方を見つけた日で、そのあとはずっとそれをチェックして過ごすこととなった。そして問題の3/7はある意味インドでの(ヒンドゥ教の)最大の祭りの一つHoliの日で、朝はみんな遅かったのだが、そのうち大騒ぎが始まった。このホテルでも屋上に舞台が設えられて、特別の催しが行われたようだが、こういう時は静かにしているに限るとわたしは自室に引き籠って過ごす、やたら嬌声が聞こえ、音楽が鳴り響き、色水?色粉?の掛け合いが始まったようだ。色水色粉を掛け合った男女でホステル内だけでなく路上でも、街中・インド中がどこも乱痴気状態、その間わたしは自室またはcommon roomで絵葉書書き、色水と色粉の被害は免れたのだった。あくる3/8は世間は正常に戻っていて、朝一で調べてあった近くの郵便局を訪ねる。そこで思いもよらぬことが起こる。これもインドらしいといえばインドらしい珍事であった。絵葉書を日本に送りたいというと、一通30Rpとのことであった。7通分210Rpを払うが、当然30Rp切手7枚くれるものと思っていたところ、なんと3Rp切手70枚渡されたのであった。それしかないとのこと、絵葉書だったから貼る場所がないではないかというと、ともかく空いているところ全部使って貼るようにとのことだった。そんな作業その狭い郵便局ではできないと思い、一旦宿に持って帰ってcommon roomでそれをやった。いや少々はみ出したのもあったが、それでも一枚の絵ハガキに10枚の切手を貼って、これでいいかと確かめてもらうためにもう一度郵便局にもっていく、一応受け取ってはくれたが、あれで届くのだろうかと半信半疑だった。数週間後に日本に戻った時、それらはすべて無事に届いていたことを知って、送った相手と笑ってしまったのであった。

絵葉書売りの仲間か?路上販売のおっさんは突然ヒンズーの神様のポスターを掲げ、
それに向かって祈祷の儀式を始めたのだった

その日は最終日だったので、そのあとホテルで見つけた地球の歩き方で知ることになったMumbaiで行こうと思えば行けるかもと思ったところを訪ねてみた。そこはマハトマ・ガンディの住居跡でマニバワンMani Bhavanというガンディ博物館だった。そこへは電車でGrand Road駅までいって、歩いて15分くらいだと思ったが、道を一本間違えていきつけず(Nana Chowkという六差路で南に行くべきところを西にいってしまった)相当苦労して、1時間以上歩き回って何とか探し当てることができた。そこからは近かったChowpatty Beachという浜辺にでて、何日か前に見たMarine Driveを反対方向から写真に収めることができた。炎天下さらに歩いてRoyal Opera House前を通ってCharni Road 駅からVile Parleに戻るのだが、この時も快速と鈍行が混乱し、なかなか一筋縄では戻れなかったのである。しかしVile Parleに着いてからはいつもの<routine route>を通って食料とビールを仕入れてホテルに戻り、シャワーを浴びて遅い昼食となったのである。ま、そんな感じでそれなりに、そしてそれほどコストをかけずに数日間を過ごし、旅立ちの朝(3/9)は、後に詳しく述べるが病状が進んでいて、それ以前からずっと夜半に起きることがしばしばだったから3時ころには目が覚めて、そのまま寝ずにいて4時前には周りの迷惑にならぬようにと一旦すべての荷物を廊下に持ち出し、廊下で着替え洗面、最終パッキングをしているところに、一人のおっさん(スタッフでなく客だった)が起きてきてairport?と聞くからそうだと答えると、自分も飛行場へ行くのだがウーバーで車の予約をしてる、何なら一緒にどうぞといってくれたのだった。もちろんシェアは歓迎、わたしはTukTukでいくつもりだったが、割り勘で100Rpは有難かった。その車の中でいろいろ聞いてみると、わたしほど年寄りでなかったがそれでも中年一人旅でスペイン人とのことだった、多少スペイン語を交えての会話ができたのだった。5時にはターミナル2に着いて、行先は別だったので空港ロビーで日本に来ることがあったらぜひ来てくれと、この旅で初めてわたしの名刺を渡して別れた。そのあとセキュリティで少々問題がなくもなかったが、7時半頃漸くにしてAir India AI499便はAurangabadへ向けて飛び立ってくれたのだった。

Grand Road駅近くのNana Chowk(六差路)で道を間違える ↑ ↓

Mani Bhavan 6枚 ↑↓

 

Chowpatty Beach から 4枚 Marine Drive方面2枚 ↑ ↓

逆方向 西側