独歩の独り世界・旅世界

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タイ・ラオスの旅 その4,ラオス入国、ルアンプラバンLuang Prabangへ

 そこまでの経過を時間順に辿ってみると、14時半にチェンライを発ったバスは16時半ころラオス国境へのジャンクションに着いて、トゥクトゥクで10分くらいでタイ・イミグレ、少しバスを待って16:55にはラオス・イミグレ、だからちょうど17時ころにラオスに入国していたと思う、タイ・ラオス間は時差はなかった。が、わたしはラオスの通貨キープを一銭も持っていなかった。そしてそこには両替屋もなく、確かではないが銀行のようなところはあったが、すでに閉まっていた。あるいはATMはあったかもしれなかったが、タイのバーツがあったので多少はそれで何とかなるかもしれないと思っていた。しかし、それにしても交通手段はなさそうで、交渉相手すらいなかったのだ。そのは時になって漸く、同じバスに乗ったツーリストは、いずれもチェンマイか、チェンライから国際バスで国境を越えたツーリストだったのではないかと気づくのである(つまりミニバンかマイクロバスの出迎えがあって、それでその場を去ったのではないかと)。

 すべて交渉ごとというのはやはり受けての方が(依頼される方が)圧倒的に有利である。この場合の交渉ごととは、トゥクトゥクドライバーとのことをいっているのだけれど、相手から乗らないかと誘われれば受け手として条件をだしうる。それが立場が逆転して乗せてください、連れてってくださいとなると、逆に条件を出されてしまうことになる。この時がいい例で、客なんかどうでもいいといったトゥクトゥクのドライバーたちが、この国境の建物から少し離れた駐車場で仲間同士博奕に夢中になっているところを見つけたのだった。交渉相手はいたのである、が、客なんてどうでもいいという連中ぐらい交渉しにくい相手はなかったのである。恐らく今時、ほとんどのツーリストは国際バスを利用していたのではないか?だから、すでに夕暮れ近くになって国境を越えてくるフリーのツーリストなんて全くは期待できなかったのに違いない、つまりわたしはまったく無視された存在になっていたのだ。そこを無理やり、誰か街まで連れてってくれと、ほとんど通じていない英語でいったところで誰も相手にしてくれなかったのだ。しかしこっちも必死だった、何とかこの場から脱出しないと、宿も商店もない山の中の野宿になってしまう。おまけにこちらにはいくつかの弱みがあって、言葉は通じない、キープを持ってない、しかもここからどこへ出ればいいかさえもわかってなかった。最寄りの街はフアイサイ Huai Xayという街で、そこまでいけば宿があることはわかっていたが、何もないその街まで行ってしまうのが得策なのか、あるいはその街からは少し離れているというバスターミナルへまずいってみた方がよいのかもわからないでいた。ようやく博奕の当事者でなくギャラリーだったトゥクトゥクのドライバーらしい男二人と何とか交渉にこぎつけることができた。が、言葉の問題でこちらの質問は聞き取れてなく、込み入った話は無理とわかる。こういう場合の対応は一応身につけているから、まずは行き先を決めることにするしかなかった。つまりフアイサイにするか、バスターミナルにするかだ。わたしが聞きたかったのは、フアイサイならいくらでバスターミナルならいくら、そして今の時間まだバスはあるのか、バスターミナル近くにホテルはあるか、といったことだったが、それへの返事は皆無で彼らはわたしがバスターミナルへ行こうとしていると思ってるらしいことをわたしは理解した。もうこうなれば仕方ない、バスターミナルにいってもバスはないかもしれないし、その近くにホテルはないかもしれないが、まずそこにいってみるという選択しかないようだった。で、次は料金交渉となった。彼らの言い値はいくらだったか?しかしその時キープは持っておらず、またキープというのが例えばUS1ドル当たりいくらくらいか全くわかってなかったから、いくらといわれても見当さえつかなかった。確かとんでもない数字をいってきたと思う。あとで知るのだが、なにせ1ドルは8500kp(あとでルアンプラバン等の両替所てみた最高値のレート、以後ラオス通貨キープはkpと表記、10000kpは日本円だと140円)ほどだったのだから‥、、そのときたまたまポケットに100B札が一枚あった。あいにくもっと小さい額のバーツがなく、それほどの額になるはずはないのだが(100Bは330円、キープだと24000kp?)、それでいってもらうほかなかった。タイのバーツは通用した、そして100Bしかないこともわかってくれたようだった。彼らはわたしを乗せてバスターミナルまで行ってくれたのだった。

国境~バスターミナル間の一風景Img_6352

バスターミナル;3枚(写真をよく見ると国内、国際バスステーションとなっていた)Img_6356Img_6355Img_6354

   そのバスターミナルがどこにあって、どこ行きのバスが出ているか、全く不明のままそこで降りた。そこまで12~3分でなかったか、あとからそのバスターミナルから出ているバスの時刻表があったことを知るが、わけわからず降ろされて、わけわかりそうな人に聞くと、ticketの窓口を教えてくけれた。英語が通じたので、ルアンナムター Luang Namthaまで行くバスがあるか聞いてみる。ルアンナムターという街は、フアイサーイには滞在しない選択をしたので、その日のうちに着ける次の大きな街として、つまりそこまでいけば宿があって、もしかしたら次の日ルアンプラバンまで入れるバスを捉まえることができるかもしれないという可能性(ともう一つ、後述)に賭けて、そのターミナルまでに来る間にガイドブックを見ながら急遽探し出した街だった。その答えは、ある、しかもそのバスは18:00発とのことだった。まさに絶妙なタイミングといってよかった。が、キープを持っておらず、パーツで払えるかと聞くと、OKとのこと、ただし1000B=230000kpとのことだった。多少レートは悪かったと思うが、いい・悪いをいっていられる立場になかった。で、幸いに残っていた1000B札で払って、お釣りをキープで170000kpもらった。バス代は60000kpらしかったが、この0の多さに当惑するのである。ベトナムなんかでもそうだったが、にわかに換算ができず、この通貨になれるのに2~3日を要した。ターミナルには一台の大型バスが停車していた。そのバス一台しか停まっていなかった。待合場所らしいところには、そのバスに乗るらしい人たちが大勢いて、その半数は外国人ツーリストだった。見覚えはなかったが、そのうちの何人かは国境越えの国際バスに乗っていた人たちかもしれなかった。わたしはわたしが乗るバスはそのバスとは違うものと思っていたから、窓口に戻ってわたしの乗るバスは何時頃くるのか聞いてみた。と、今停まっているバスだと教えてくれた。けっこういいバスだな、それにしてはなぜみんなバスに乗らないのか(もっとも発車まで、まだ30分くらいあったのだから後から思えば当然のことだったが)と、改めてそのバスを見にいって驚くのである。わけのわからないラオス文字があって、並記される形で英語で行き先がでていて Luan Prabangとなっていたからだ。わたしは、まさかそこからルアンプラバンまで行くバスが出ているとは思ってもいなかったし、ガイドブックにもそんな情報は載っていなかった。で、もちろんわたしの目的地はルアンプラバンであって、日数もなかったからはっきりいってあとの街はどうでもよかったのだ。ただ、そのガイドブックには一つだけ気になる情報が載っていて、それはフアイサイ~ルアンプラバーン間を2日かけてスローボートでメコンを下っていくというものだった。これは面白そうだったので、チャンスがあれば一日でも乗ってみたいと思っていた。で、そのためにもその日のうちにバスでルアンナムターというところまで行っておけば、次の日、そんなバスがあるかどうかわからなかったが、ウドムサイ Oudom Xay というところを経由して(フアイサイ~ルアンプラバンのメコン川の)中間の街パークベンPakbengというところまでいければ、3日目にはボートでルアンプラバン入りができるかもしれない、という可能性にも賭けていたのだった。しかし、もしそのバスが夜行バスで明日朝にルアンプラバンに着けるなら、そのあとの予定がずっと楽になることは即断できた。え、そうだったのか、ならば、そうするに越したことはない、すぐにまた窓口に引き返した。あのバスはルアンプラバンまで行くのか?もしそうなら、行き先をルアンプラバンに変更できないか聞いてみた。ラオスは長距離バスといえどまだコンピューター管理にはなっていなかった。残額を教えてくれ、それを払うことによってルアンプラバンまで一気に行けることになったのだった。しかも先ほどのつり銭のキープでそれは足りたのだった。最終的にフアサイ~ルアンブラバーンは145000kp、おおよそ2000円?、しかしそれはびっくりするような夜行バスであったことを30分後に知ることになる。

ターミナル画像の追加と18時発の夜行寝台バスImg_6357Img_6353

 その時点でまだ30分の時間があった。それにしてもツキ過ぎているとその時思っていた。どうなるかわからない国境越えの後、移動の足もままならなかったのに来てみれば30分後にでるルアンプラバン行きの夜行バスにタイミングよく間に合うなんて、まったく予想も期待もしていないことだった。その間岐路はいくつかあったのだが、えてして何も企図せず期待せず流れに任せた方が結果がよくなるという僥倖は今までも何度か経験していた。この時も旅の神に感謝せざるを得なかった。もちろん気分を良くして、改めてそのターミナルの写真なんかを撮っていて、初めてそこから出るバスの時刻表と価格表があったのを知る。もっと余裕があったり情報があれば、慌てることもなく簡単に進路を決められたものをと思いながらその写真を撮って、残り少なくなった時間を食料・水分の補充のため売店に出向いてみた。が、そこでも売っているものが安いのか、高いのか値段を聞いても判断できず、特に空腹感はそれほどなかったのと腹の足しになりそうな適当なものが見当たらず、結局ビールだけ購入、暑いところでの悪戦苦闘していたので、このビールはことのほかうまかった。が、それは15000kpして、いったいいくらか後で計算してだいたい200円くらいと知り、思いのほか高かったことを知るのである。もっともそこは辺境の地故だったからと思うのだが、ルアンプラバンではどこも10000kp、つまり140円で、その後も毎日のようにbeerlaoを飲むことになった、、

フアイサイからのバスの時刻表と運賃表、最初にこれを見ておけば何度もやり取りする必要はなかったのだ、、Img_6358

 17:45くらいから乗客が動き出し乗車し始めたが、客の半分以上を占めるツーリストからあちこちで歓声が上がっていた。わたしもその一人でこんなバスを見たこともなかったからである。いや、夜行バスであることはすでに承知していたが、それが寝台バスであることは知らなかったのだ。しかし、寝台バスといったらどんなものをイメージされるのだろうか?最近は日本の長距離夜行バスにも新たな仕様が登場しているとも聞いているが、そのバスは完全な寝台バスだった。つまり相撲の桝席みたいな感じの、大人二人が十分に身体を延ばせるスペースが上下2段で片側4スペース設えていて、それが左右にあったから計16スペース?つまり32人が完全に身体をフラットにして眠ることのできるスペースを備えた寝台バスだったのである。これは楽だった。それまでにそのような寝台バスに乗ったことがなかったのと、まさかラオスでそんなバスに乗ろうとは思ってもいなかったから、たぶんそれはわたしだけでなく他の欧米人ツーリストにとっても同じだったらしく、皆はしゃぎまわっていたのだった。あとからやってきたわたしの相席の男性は(もちろん夫婦やカップル以外で男女同席になることはない)まだ若いラオス人で英語が堪能だった。わたしは彼がラオス人であり、英語が話せることがわかって、ずいぶんいろいろ話しした。彼にとっても日本人が珍しかったからかもしれない、そして彼にはいろいろ助けてもらうことになった。彼はお兄さんと従兄と旅をしていて、ルアンプラバンに帰るところだといっていた。何かの用事があってその地にきていたようだが、詳しくは聞かなかった。それと全員が英語ができたし、どうみてもラオスでは上層階級の人たちという感じはした。外が暗くなる辺りまで話してて、そのうち自然と寝てしまった。何時ころだったか、バスが停車しみんな降りだした。夕食タイムだと教えてもらい一緒にバス降りた。初めてのラオスでの食事、何をどう頼んでいいかわからずウロウロしていると、彼らから手招きされ、彼らが頼んだ食事を食べろと勧めてくれた。印象的だったのは、小さな籠に入ったもち米を各自が一口サイズくらいづつ指でつまんで、何品かの皿のおかずにつけて食べる食べ方だった。見よう見まねで、もち米をつまんで目の前の魚だったか、野菜だったかにつけて口に入れると、なんか日本の寿司をつまんで食べているようで、日本人の口にあった。周りを見ると他の多くの外国人ツーリストはやはり頼み方等がわからず、食事の注文はせず菓子類と飲み物を購入するのが精いっぱいという風であった。だからわたしには彼らがとてもありがたかったし、自分の食べた分くらい支払いしようと思ったが、彼らは受け取らなかった。そしてバスに戻るとまたすぐに寝付いてしまったのだった。

桝席の並んだ寝台バスImg_6359

夕食時彼らの食事の相伴に与る、右が彼の兄、左が従兄とのことだったImg_6367

 次に目を覚ました時、バスはすでにルアンプラバン北バスターミナルに着いていた。朝の5時ころだった。その時も彼らがいたから、そこがルアンプラバンだということを知らされ、一緒にバスを降りる。普通ならそこでまた、街に出るためにまごまごするのだが、この時も彼は、自分の奥さんが車で迎えに来るから、それに乗っていけばと誘ってくれたのである。しばらくすると新車のヒュンダイに乗った彼の若い奥さんが現れ(この車を見てラオスではかなり地位の高い家柄ではないかと改めて思う)、全員を乗せて市街に向かった。そして誰かがいってくれたのだと思うが、できたら安いゲストハウスに泊まるつもりだから、適当なところで降ろしてくれたら‥というわたしの希望に適った、とある宿の前で停めてくれ、そこで彼らと別れた。別れ際にわたしは例の名刺を渡して、日本に来るときは連絡するようにといって、彼のアドレスも教えてもらった。その名刺を見て彼らはたいそう喜んでくれ再会を約束した。その宿はエアコン、ホットシャワー付きで100000kpといわれたが、相場がわからなかったのでとりあえずそこに決めることにした。ちょうど6時ころだったがチェクインOKということだったので、さっそく荷をほどきシャワーを浴びる。気のいいオヤジが、インスタントのコーヒーは自由にどうぞ、といってくれたのでそれで一息つきながら、ずいぶんとラオスは幸運が続いているな、改めて思ったのだが、ツキはその辺りまでだったのかもしれなかった‥、、

ルアンプラバン北バスターミナル;5枚Img_6369Img_6370Img_6371
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Img_6375わたしと相席になったPhongsavanh君(珍しく自分の写真を公開)