独歩の独り世界・旅世界

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『独歩爺最後の旅』アフリカ篇 <ケニア> その1,ナイロビの衝撃

今回の旅で最も期待度の高かったところはアフリカであった。というか唯一の未訪地、そう、わたしはあまり興味を感じなかったオセアニア(と南極)以外の大陸はほとんど訪れていたが、アフリカは地中海沿岸地帯の国々(エジプト、チュニジア、モロッコ西サハラ)は訪れたことがあったがサヘルの地はわたしにとってずっと憧れの地であった、特に西アフリカのマリが今回の世界一周の目玉で、だからこそ世界一周券にした理由でもあったのだった。

思えばもう10年くらい前になるだろうか、一度陸路でモロッコから西サハラ(帰属不確定地)を経由してモーリタニアに入ってセネガルに抜けられないだろうかと偵察に行ったことがあった。その時のブログも残っていると思うが、西サハラ南部のモーリタニアとの国境に近いダフラDakhlaという街までは行けたが、その先は道はあるのだが砂漠を踏破するグループを組織(踏破隊;それなりの車とメンバー・装備、出入国の手続き等を含めた計画・準備)が必要と判断して諦めたのだが、実際そんなグループ(ほとんどヨーロッパ人だったが)を見かけ羨ましくも未練がましく想いながら引き返したのだった。その時以来アフリカ中央部はわたしにとって残された最後の地として機会があればとそのチャンスを狙っていたのだった。なので世界一周案を思いついた時は、先にも言ったが、わたしにとってはたった2ヶ所のための世界一周券、つまり一ヶ所はグアテマラでもう一ヶ所がともかくアフリカ中央部がmust visitだったから、この二ヶ所をそれぞれ個別にいけばそれだけで世界一周券より高くついてしまうことが明白だったが故に世界一周券になったというのが実際の経緯だったのである。こうして、当初のルートとしては→メキシコ→グアテマラ→メキシコ→リスボンダカールバマコアジスアベバ→ムンバイ(以下略)で確定し発券段階まで進んでいた。それはちょうど一年前の9月か10月ころだったと思う、ところが発券を依頼した旅行会社からマリの入国は難しいとの連絡があり、すぐに調べてみるとコロナの状況だけでなく政情が不安定で確か外務省危険情報で渡航中止勧告のレベル3から退避勧告のレベル4(最も危険な状態)になっているのを知り、つまり旅行会社が発券できないといってきているのだから、今回は諦めざるを得なくなったのであった(どうしてマリだったかは、まだ希望を捨ててないので実際訪問した後でも遅くないのではないかと思って保留とさせていただく)。もちろん話は進んでいたから、その時点で世界一周券を使った旅を諦めたわけではなかった。急遽代替えブランの検討に入り、瞬く間に西アフリカ(セネガル・マリ)プランは東アフリカ(ケニアウガンダルワンダ)プランへとシフトしたのだった。そこでの問題はメキシコからアフリカへの経由地で、西アフリカの場合はこれも好きな国の一つであったポルトガル/リスボンがピッタリであったが、ケニアに飛ぶとするとスターアライアンスで調べてもなかなかぴったりのところがなく(米国・ヨーロッパ乗継ぎはそこそこあったが)、寒いけどトルコにするしかないかとイスタンブール経由に決めた経緯は前回お話した通りである。で、トルコの話は終えているから、ここからアフリカ篇が始まることになる。2月6日21時にイスタンブールを離陸したTK607は深夜3時半ころケニアJOMO KENYATTA国際空港に着いたのであった。経度は同じくらいだったから時差はなく6時間半の飛行、着陸前のケニア上空からの眺めた感じは照明が少なく暗い感じの街で、だからこそわたしにとっては好ましく思えたのであった。

 

いずれにしろ機内では眠れないわたしはほとんど映画を見て暇はつぶれていた。深夜機外に放り出された感じの我々は、少なくとも初めてのわたしはともかく他の人たちの後についていくしかなく、なんかみすぼらしい建物の中に流れ込んでいった(たまたまだったのか、空港ビルでなく仮の簡易バラックのような建物だった)。パスポートチェックの前に何か求められたのだが、空港職員の女性のいっていることがわからない、もちろん英語なのだけれど聞きなれない言葉で、何度か聞きなおしてようやく理解できたのはワクチン接種の証明書のことだったのである。もちろんそれは持参していたから事なきを得たが、それを求められたのはその時が初めてだった。しかしそこを通過して次のパスポートチェックまで、まぁかれこれ一時間以上遅々として進まぬ列に並び続けた。外国人用laneはたった二列しかなく、その手際もあまり要領がいいとも思えなかったのである。ま、こんなものかとほとんど諦めに近かかった、それでもわたしの番になって、苦労して取得した東アフリカ3か国通用のE-VISAは日本のケニア大使館が発行した単なるプリントに過ぎなかったので、それを提出してパスポートにEAST AFRICA TOURIST VISAとして添付されることによって初めて有効になるのであるから、特に問題なくそれが添付されて戻されたときにはほっとしたものである。なにしろ前にも言ったが、その日本のケニア大使館発行のE-VISAプリントの有効期限が2月の8日までだったからなおさらであった。そのあと荷物を取って20ドルの両替をして表に出たときはすでに6時に近かったか?さてそこからは、おそらくタクシーしか移動手段はなさそうだったので、毎度のことながらドライバーとの交渉になった。ただ、この時はホテルの予約はしてあったが、そこまでのタクシーの相場は確認していなかった。いや、それだけでなく実はそんなことよりわたしが恐れていることが一つあったのである。

E-VISAのプリントの上にパスポートを開いて写す

 

何度も言ってることだが、この時東アフリカはわたしにとって初めての地で、いわゆる治安状況等の感じがつかめておらず(一度でも訪問すればだいたいはつかめるのだが)、また諸々の情報もほとんど皆無だったので、一応この三国とそのあと予定したエチオピアの情報が載っていた日本のガイドブックを持参していた。が、それでなくともそのガイドブックは高額だったので一世代前の中古を手に入れてあった。基本的にはそれほど情報の更新はされてないのを知っていたからだが、これが実は思わぬ落とし穴だったのだ。一世代前の古本は2014~2015年版で(ということは書かれている内容はかれこれ10年前の状況ということになる)そうとう間隔は開いていたのである。それこそ一世代10年の間隙で何がどう違っていたのか?また何でそんなに違ってしまったのか、ある意味それはケニアの(良い意味での)著しい発展を物語っていたのかも知れなかった。そこに記されていた10年前の状況というものは、今まで同じガイドブックの他の地域ものでは見たことないような警告であふれていたのだ。曰くナイロビの中心街は治安が悪すぎ、危険すぎるから昼間でも一人で歩いてはいけない、ダウンタウンには絶対行ってはいけない、といった注意書きが、かなり厳しくそこら中に見いだされたので、ま、10年前の情報とはいえ、わたしもかなり警戒してしまっていたのである。だからタクシードライバーとの交渉も値段だけでなく人物も観察するようにしていたし、値段交渉でも素直に応ぜず相手の反応を見たりしていた。しかしその時のドライバーは人のよさそうなおじさんで2500ksh(ケニアシリング1ksh=1円、以下kshで表示)を2000kshまでまけてくれたので、それでも高いことはわかっていたが全て任せたのだった。ホテルまでは30分くらいかかったか、まだ明けきらないナイロビの街の中心街らしい通りを、そして裏町らしい感じの通りを行き、もしガイドブックの記述が正しいなら物騒な界隈といった感じの通りをいって正確にホテル入っているビルに横付けしてくれたのだった。無事にホテルまで送り届けてくれたので少しホッとして多少だがもちろんチップを渡した。が、まだわたしの緊張はほぐれてなかった。それでも建物の出入り口にはガードマンのような人もいたし、ホテルの関係者だったのか皆親切にしてくれて7Fの受付までエレベーターでいくように教えてくれた。レセプションでは朝早いというのにチャーミングな女性が一人、どうにかわたしの下手くそな英語も理解してくれ、予約した部屋の価格からしたら上等すぎる部屋をあてがってくれたり何かと親切にしてくれるのだった(東アフリカは西アフリカと違って英語圏だったので、あとから思えば旅のしやすさはあったと思う)。こうしてだんだんナイロビの現代の素顔が見えてくると、このガイドブックの記述はひどいのではないかと思えてきて、最後には怒りを覚えるまでになっていった。実際ナイロビの街を気に入るまでに数時間もかからなかったのである。で、その日の行動は以下のようになった。

 

わたしが滞在したホテルはその意味ではまさに7~8年前のガイドブックに示された地図の危険地帯のど真ん中にあったといっていい、なので最初はホテルのフロントの女性に教えてもらったATMに行くのにも、たった一本先の通りでものの5分のところであったが、恐る恐るといった感じで歩いていった。人通りは多く活気にみなぎっていた、そう、まず感じたのは活気だった。明るい陽射しもあったが、街全体が(つまり人々が)活き活きしているのだ、いやー、これがケニアか ! これがアフリカか !? このバイタリティは久しく我々が失ってしまったもの(ま、コロナ禍もあったからだが)わたしが目にしていなかったものだった。危険地帯特有の、あるいはスラム街特有の鬱屈した暗さのようなものは微塵も感じられなかった。kshを手に入れ、商店で飲み物・水などを買い物して、一旦ホテルに戻りケトルで湯を沸かしサービスのスティックコーヒーを淹れて、飛行機の残り物のパンとゆで卵の朝食をとってから少し仮眠。昼前に起きだして、それほど用心深くする必要はないかもしれないとわかったので、本格的なナイロビ探索に出かけることにした。かなり暑くは感じられたがトルコから来るとこの乾いた暑さ、乾燥気候は何とも心地よかった。写真とビデオを撮りながらの街ブラ、全く危険は感じられず、だんだんこの国の明るさと活気に惹かれていくのだった。

<以下写真参照、実はその衝撃的な街の風景はどうしてもビデオに収めたいと思ってほとんどスマホで撮ったいたのだった、なので残念ながらそれらはどう載せたらいいかわからないでいる。ビデオはそのあと日本に送るとすぐに反響があったのだが、ここではあまり写りの良くない写真で想像してください‥。>

ホテルの10階くらいから撮ったナイロビ北側郊外 2枚 ↑↓

中心部はホテルからは南側にあってすぐ近くだった

階下に降りると(表に出るとこんな感じ、ちょうどその辺りもマタツ(後述)の発着地で
黄色い線の入ったワゴン車はマタツ ↑↓ 2枚

これがケニアの衝撃の一つ、ビデオにとって日本に送った動画はこんなサイケ?というかファンキーなバスが何台も走ってて、それをやたら撮って日本に送信したらそれが好評だったのである。なので静止画では少ないが、そんなところからこの国の自由度は高いのではないかと思ったわけ、あとでもう何枚か出てくるかもしれない?? ↑↓

ホテルの近くにあったモスク(黄色い建物)この辺りは最も渋滞の激しい場所だったようで、ナイロビの渋滞も半端でなかった

確か最高裁判所 2枚 ↑↓ 官庁街の中心辺り、ケニヤッタインターナショナルビル
Kenyatta Intenational Convention Centerに隣接

ナイロビのシンボルタワー Kenyatta Intenational Convention Center
ケニヤッタ国際会議場 、わたしはおのぼりさんだったからたいていはこういう建物には
登ってみるのだが、今回は面倒に思えて入場はせず、下の写真は次の日写したもの ↑↓

ジョモ ケニヤッタ Jomo Kenyatta像 1964~初代大統領 建国の父

Nairobi City Council ナイロビ政庁 

国会議事堂付近 右側にジョモケニヤッタ

わたしは鉄道駅には興味があり、ナイロビ~モンバサ間の運行があるように聞いたのでナイロビ駅に行ってみたが、撮影はダメといわれ駅構内には入れなかった。なので鉄道についての詳細は調べられなかった。

この消防署はホテルの近くにあったのでわたしにとってはいい目印になったのである

2~3時間歩きまわると疲れて、ホテルに戻って休憩or仮眠ということになったが、おおよその位置関係もわかってきて、また、最初に感じた如くこの界隈はけっこう下街っぽくて賑やかなところであることがわかり食べ物屋さんも結構あったりで、夕食はホテルの脇にあった安食堂でアフリカらしい食事もできたが、一つだけここも問題があることがわかってきた。インドと同じビール問題、そうビールは安くなかったのと簡単に手に入らなかったのである。最初の一本は他のものと比べて高すぎたから諦めたが、この乾いた暑さの中では我慢できなくなって、その食堂の隣にあった、これもインドと同じあまり大っぴらに商いしてない酒屋で次の日ようやく手にするのだった。ま、早い話一日でナイロビのおおよその感じはつかめたのであった。

階下の安食堂 英語表記は有難く写真にあったBeef Stew with Ugaliを頼んでみた

Ugaliはこの辺り常食で、小麦粉やトウモロコシ・キャッサバなどの粉を練ったもの
  らしかったが、あまり口にはあわなかった。しかし150ksh(150円?)で食事ができる
ことを知ったったのは一つの収穫で、この日はヒールは我慢したが、だいたいの物価が
わかってきて、次の日からはビールを我慢するのはやめにした。

次の日も前日に引き続き写真を撮りながら街ブラしてるのたが、いい写真は撮れてない。この日は主にマタツ(この国の近距離、中距離移動の主力の足、ま、他の国でもそうだが乗合ワゴン車による移動がこの国でも一般的なようで、競争はけっこう激しそうだった。料金的にはさほど違いはなさそうで、各社それぞれの発着場所で呼び込み等でしのぎを削っていた)の乗り場を探しながらの街ブラだった。この後ケニアは2ヶ所への移動を予定していたので、そこへ行くマタツの乗り場を探して、その日情報を得ることができたのだった。

 

<以下は2/8の街ブラから>

ファンキーなマタツ何枚か ↑↓

 

Kamukunjiロータリー付近 ↑↓(下2枚) この近くにナマンガ行きマタツの発着場があった

Kenya National Archives ↑ ナイロビ中心街のど真ん中にある博物館・美術館、価値ある
ところだったと思うが今回はすべてパス 

大通りを挟んでKenya National Archivesの向かいに建つ円形のビルはHotel Hilton

この広い通りKenyatta Avenue界隈は高級店が並び、その南が官庁街になっている。北側東側は商業地区?少し庶民的になる、そんな一画にシティマーケット ↓ があった。

シティマーケット(右側の建物) 要は土産物・物産マーケットのようなところだった。
逆にいうとここ以外に土産になりそうなものを置いているお店は皆無だったのだ。 

なるほど楽しいところだったが、結局冷やかしただけ(ほとんどお土産を買わない男なので)、しかし(全ての)写真を見てもおわかりのようにこの時期まだ観光客turistの姿は皆無で
この市場でも旅行者を見かけることはなかった。このマーケットもこのコロナの痛手は大きかったことと思う。↑↓

 

何年か前の古いガイドブックだったが、どうも想定読者は変更がなかったようで、ケニアあるいは他の国々でもその東アフリカというタイトルのガイドブックには、それぞれの国のサファリがやはりmain targetだったようで、それに興味のないわたしは(もちろん動物の生態に興味がないわけではないが、あまりにも観光化されていることの反発と、お金と暇をもてあます身分だったらいったかもしれなかったが)端から縁のないことと諦めつつも、もともと山には興味を持っていたからやはりアフリカ一の高峰キリマンジャロの雄姿だけでも一目拝めたらという想いはあって、せめてその近くまでは行けないかと策を練っていた。キリマンジャロの所在はケニアではなくタンザニア内だった。今回タンザニアのVISAは取ってなかったのでタンザニアへの入国は意図していなかったが、国境を接するケニア内にあるサファリパーク・アンボセリ国立公園からは、それを眺められるという情報は得ていた、ならばサファリはしないがその公園に入れないか?あるいはその公園の周辺からは見えないのだろうか?等々思案していたが、しかしこういう条件付き(めんどくさい?)ツーリストは最も嫌がられる存在だから、ともかく現地に行ってみた方が早いだろうと結論し、その日わたしは、そのアンボセリ国立公園への玄関口であると同時にタンザニアとの国境ゲートのあるナマンガNamangaという街までいくマタツの出る場所を探していたのだった。マタツ乗り場の情報はもちろん古いガイドブックにも載っていたので簡単に見つけることができ、ついでにそこから戻った後に向かう予定にしたキスムKisumuというところに行くマタツの乗り場も探してすぐに見つけることができた。

そんなことで全く白紙で入国はしたもののおおよその予定は出来上がるとともに、最初は危険情報に惑わされたが、そのガイドブックから10年後の姿は、むしろ最初に脅かされた分余計に、思った以上の過ごしやすさとリベラルな雰囲気、つまりわたしが最高の理念としている自由な雰囲気をどこよりも感じさせ、何だ、いいとこじゃないか ! という印象に変わるのにほんと数時間もかからなかったのである。いや危険なんてとんでもない、昔はそうだったのかもしれないが、安全性はもとより混迷を脱却した自信からか、人々の明るさと活気はなぜかこの国の明るい未来を象徴しているようで、余計この国から目を離せなくなる予兆を感じていた。たぶんアフリカのリーダー国の一つになっていくのは間違いないだろうと思わずにはいられなかったのである(すでにそういう存在なのかもしれない、わたしが無知なだけ、いや我々は本当にアフリカの真実の姿はわかっていないのだと思う。ついでに補足させていただくと、この2014~2015年版のガイドブックにあったケニアの危険情報は、2007年の選挙時の大混乱時の状況を写し取ったものかもしれないとあとから気づいた??)。

なお、気候的要因(暑すぎず、寒くなることはないさわやかな気候)及び経済状況(物価の安さ)にもこの国の魅力を見出していた、その日の夕食も昨日と同じ食堂でfish & rice(150ksh=150円)は誠にうまかったのであった。

この夜はfish & rice しかしビールの持ち込みはできなかった ↑