独歩の独り世界・旅世界

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カンボジア~ミャンマーの旅 10,バガンBagan その1,バガン巡りはホースカート<馬車>で !!

 さて、バガンである。何回か同じことをいってきたが、おそらくミャンマー最大の観光スポットといってさしつかえないと思う。世界三大仏教遺跡のひとつ、バカンを見ずしてミャンマーを語ることなかれ、である。わたしはリピーターだったか、ここはその価値ありで、ま、そのリゾート気分もあわせて何度来ても良いところだと思っている。で、今回も前回に引き続いて馬車で見て回ろうと思っていた。前回は一人だったが、馬車だと一人も二人もその料金は変わらなかった。一日いくらである。金額は忘れたが、前回は確か三日間くらい借り切ったのではなかったか?で、できればそのときのホースカートマン(馬引き、御者)がとても好感の持てる男だったから、その男を探しだして、今回もわれわれのバガン案内を彼のホースカートでやってくれないかというのが、来る前からのわたしの希望ではあった。

 その男の情報は持っていた。名前とホースカート番号である。5年前のブログにそのときのことは書いてあると思うが、わたしはほとんど過去の自分の記事を読まないから、そこから辿ったわけでなく、彼の名前と馬車番号(そのとき彼はこの番号はずっと変わることがないといっていた)はとても簡単だったから、わたしには珍しく覚えていたのだった。彼の名前はTunTun、馬車番号は150番、それだけで十分だと思っていた。小さい村だからそれだけで探せると‥、、だからPyinsa Rupaに着いた日、ミャンマーのジョージマ君と親しくなってから、彼も商売だから、バガンはどんな予定で、どうやって観光するのと聞かれたとき、まず、滞在期間は3日(つまり3泊)の予定であること、第一日目にバガンの遺跡巡り、二日目は適当なツアーでもあれば前回いってないポッパ山Mt.Popaへ、三日目の夕方飛行機でヤンゴンに戻るので、ま、予備日というか予定を決めずのんびりするつもりだ、というようなことを伝えたのだが、そのときに、次の日のバガン巡りはできれば馬車で回りたいこと、更にもし探せるならその馬車はTunTunという男の馬車を希望したいのだが、彼を探せないかと聞いてみたのだった。が、その返事は微妙だった。ほとんどのことは即答の形で答えてくれるほど頭の回転が速い彼にしては、少し歯切れが悪かったのだ。彼はその男は知らない、ただホースカートマンは何人も知っているから、お望みなら明日の馬車は手配できます、といってくれたのだった。これはあとで知ったことだが、もちろんジョージマ君はTunTunをよく知っていたし、TunTunももちろんジョージマ君のことをよく知っていて、ほとんどの日本人客はジョージマ君のミャンマー名までは知らなかったのだが、われわれに彼の名前まで教えてくれたのだ。それは思ったとおりで、今や世界的な観光地になって街は発展途上にあるとはいえ、そこはまた小さな村なので、村民情報はほとんどそれぞれが共有していて、ましてや、お互い歳も近く、しかも同じ観光業を生業としているのだ、知らないはずはなく、逆に二人の間に何かあったのではないかと推測するに足る関係であったことを後に知ることになった。ま、それはおいおい語っていくことになると思うが、その時わたしは、ともかく明日の馬車は手配してくれるよう彼にお願いしたのだった。馬車一台一日のチャーター代は20000Kだった。前回のブログを読み返してないので、5年前の料金を確認してないが、ま、いずれにしろそれは、協定価格?決してぼったり、多少のマージンをとるというようなことはジョージマ君に限っては(このホテルは、といったほうが適切か?)ありえず、もちろんわたしもそれを更に値切るようなことはしなかった。ここで一つ付け加えておくならば、5年前にもっとも一般的と思われた馬車巡りは、今や新たに出現したEバイクにその座を明け渡していた。その当時も貸し自転車はあったが、そのときまだEバイク(電動自転車?)は見てなかった。これが一日5000~7000Kである。免許はいらず、自転車に乗れれば誰でも乗れて、砂地の多いバガン巡りもどこへでも自由自在に動ける。即ち必然的に馬車は減っていたのであった。

 それを利用することはわたし一人なら可能で、たぶんそうしただろう。しかしツレはもちろん自転車は乗れたのだから、Eバイクも乗ればすぐに慣れたと思うが嫌がったのである。いや、それは後の話でこのときリピーターのわたしはそれでも馬車にこだわっていたのだ。バガン巡りは馬車で ! 、これは前回の記憶、そのときの御者TunTunが素晴らしかったことと、その快適さにわたしは魅了されていた。だからこそツレをここまで連れてきたのだ、少なくとも初日のバガン巡りに馬車以外の手段は最初から考えてはいなかったのだった。で、翌朝8時にはホースカートマン、ザゥルゥィンZaw Lwin君(horse cart No.140)は、ホテルの前で待っていてくれたが、たまたまその朝に、同じ値段でもう少し快適な部屋が空いたが移るかといわれ、部屋の引越しをして出発は8:30になってしまった。なかなか実直そうで、少し年配のザゥルゥィンはボソボソとした話し方だったが英語は通じ、バガン案内はベテランそうだったからすべては彼に任せることにした。といっても一応はその日の予定を予め確認はした。つまりそれによって彼は彼なりのコース取りを考えるかと思われたからで、そのために、前日にジョージマ君に伝えたわれわれの3日間の予定もあわせて説明はしておいた。それは、つまり明日はないであろうこと、ただ、もしかしたら三日目にもう一度お願いする可能性はなくはないこと、なのでできるだけメインのところはその日に回ってほしいこと、余計なことだったかもしれないがわたしはリピーターであることも伝えておいた。

 最初に訪れたところは、Shwe-leik-tooで、ここは馬車巡り(あるいはタクシー等)の最初に訪れる定番の寺院のようであった。というのはTunTunも最初につれてってくれたのがここだった記憶があったからで、ここはバガン全体が見渡せる、かなり高いところまで登れる数少ない寺院の一つであった。また、朝が早いからほとんど観光客がおらず、ほとんど貸し切り状態といった点でも、まず最初に強烈な印象を与えてくれる格好の場所であった。なので、そこではツレも暗い階段を登って上からの眺めを堪能できたと思う。たぶんそのとき初めて、バガンがどんなところか知ることになったと思われた。が、しかし、あいにくその日は天気が悪かったのだ。だからわたしが5年前にTunTunの馬車でここにきて、初めて登って目にしたときのバガンの感動を、ツレが呼び起こすことはなかったかもしれなかった。ま、それでもだんだんバガンというところがどんなところか、馬車巡りがどんなものかは感じとってくれたと思う。そのあともほとんど御者くんの回り方に任せることになったが、午前中に回れた主なところとしては以下であった。順番として次はティローミンロー Hti-lo-min-lo、そしてウパリU-pali-thein、その次が名もなき遺跡群というか、あとから地図で追ったがいまだに遺跡名はわかってないが、場所はわかっててウパリ側にあったところ、そしてMin-o-chan-thaは雨に降られ、そのあとがバガンの代表的寺院の一つアーナンダAnanda、それからタラバー門 Tharabha Gateをくぐってオールドバガンへ入り、インド寺院様式のマハボディ Maha-bodhi、むかしイラワジ川と教わったAyeyarwaddy Riverと船着場を見下ろすブーパヤーBu-paya、けっこう大きくてどこからも目立つゴドーパリィンGaw-daw-palin、といった具合で、名称不詳の遺跡群以外は、いずれもよく覚えていたところだった。それで午前の部は終わりで、さてどこで昼食をとるかになった。アーナンダの近くにけっこう地元の人たちの利用する簡易食堂のような店が何軒か並んでいて、前のときもそのうちの一軒でTunTunと食事を共にしていた。ま、その辺も御者くんは理解してくれて、そちらへ向かったが、悪天候だったからか、たまたま定休日だったのか、ほとんどの店は閉まっていた。漸く一軒開いてる店を見つけ、例によってミャンマー定食、もちろんこのときも御者くんも一緒に食べてもらった。

<午前に訪れたところの写真>

最初のShwe-leik-too(ここは日の出の撮影ポイントとしても知られている);6枚Img_1127_640x427
Img_1134_427x640Img_1137_427x640Img_1129_640x427Img_1133_640x427隣のティローミンローImg_1135_640x427遠くにタビィニュ?

ティローミィンローImg_1138_640x427

パリティエンImg_1140_640x427

名称不明(もちろんわたしが確認できてないということ、たぶんNo.2035~2044あたり)の遺跡群;4枚Img_1142_640x427Img_1145_640x427Img_1146_640x427Img_1148_640x427

Min-o-chan-tha;2枚Img_1150_640x427Img_1152_640x427隣のAnandaを臨む

Ananda;2枚、アーナンダは上部だけが新しくなって、光っているのが気になった。また、わたしがとった写真も昔のほうがよかった気がする。アーナンダの四面を飾る立像は四体とも異なっているが、これは南面の迦葉仏Img_1154_640x427Img_1156_427x640

マハーボディー;2枚Img_1159_640x427
Img_1161_427x640

川沿いの寺院ブー・パヤー;2枚Img_1162_640x427Img_1165_640x427

ゴードーパリン;3枚Img_1166_640x427
Img_1167_640x427Img_1168_640x427境内の向こうに考古学博物館


 最初の寺院の時点でほとんど記憶は甦っていたし、バガンの地図ももっていたから(ホテルでもらったか、買った?)、大まかの地理もわかっていた。なので、たぶんすべて行く予定にはなっていたと思うが、午後の部は一応以下を回ってくれるようリクエストはしておいた。そのうちのタビュニュ That-byin-nyu、シェグジーShe-gu-gyi、シュエサンドー Shwe-san-daw ダマヤンジーDhamma-yan-gyi、スラマニ Su-la-ma-ni はいずれも有名寺院だったから予定のコースだったと思うが、午後最初にいったMi-ma-Laung-Kyang はもしかしたらわたしのリクエストに答えてくれたものだったかもしれなかった(ここは前回つれてきてもらって気に入ったところの一つだった)。そのほかにもナッラウン Nat-Hlaung-Kyaung (唯一のヒンドゥ寺院)、そしてスラマニを最後に帰り道、名称不明ながら仏塔ナンバー370~394(小さいものを含めると数千に及ぶ仏塔群は、すべてナンバリングされている)あたりの寺院群によってくれ、馬車による仏蹟めぐりを終えたのであった。わたしの知る限り大きい寺院、有名寺院はすべて回ってくれていた。ツレもほとんど歩くことのない馬車による仏蹟巡りはけっこう楽しめたようだった。時間的にはまだ早く15時半くらいだったか?そのあとももう少し回ってくれということもできたかもしれないが、彼もよく気を遣ってくれ、よくやってくれたから早めに解放してあげることで、せめてそれに答えようと思っていた。それだけでなく、彼の人柄も良かったので、次の日はポッパ山を予定していたから無理だったが、最終日に一日ではなく半日強といった感じで、ミン・ナン・トゥ村Min-nan-thu-Village経由で飛行場までのチャーターを、もし15000KくらいでOKしてくれるならお願いするという約束までしてしまった。そんな話をしながらの帰り道、たぶん前に来たときの話をしていたのだと思うが、そのときのカートはNo.150で名前をTunTunといったが、知らないか?と聞いてみたのだった。正直者の彼は、直接の知り合いではないが、TunTunを知っている、といったのだ。そして、彼は今は御者をやっていない、彼は自分の車を持ってて、それで観光客を案内している、それで成功して金持ちになった、自分とは身分が違う、というようなことをいいだしたのであった。それは自分は街はずれに住んでいていまだ貧乏暮らしをしているが、街中に居住して成功を収めている彼を羨望ないしは嫉妬しているといったニュアンスの語り口だった。しかし、わたしにとってはそんなことより初耳のことばかりだったので、ちょっとした驚きであった。ということは彼は健在なんだ、そして今もこの街にいるということか、彼に連絡は取れるのか?と聞いてみるとケータイ番号は知らないが、彼の家は知っているというのだ。先ほど街中といっていたが、近いのかと聞くと、なんと彼は帰り道に寄ってあげるといってくれたのである。いや、彼<TunTun>の住まいまでわたしは知らなかったのだが、なんと市場から歩いても5分くらい、そのときはニャンウ村を走っている2本の大通り、川に近いほうがBagan-Nyaung U Rd.といい、もう一つをAnawrahta Rd.といったが、川から遠いほうAnawrahta通りを進んでいて、ホテルのあるBagan-Nyaung U通りへは途中でインレーからきたときのバスターミナルへ続くもう一本の大通り、Nyaung U-Kyaukpadaung Rd.とぶつかって(そのジャンクションにはSa-pa-da-Pagodaというのがあった)そこを左折して500mもいけばニャンウマーケットに行き当たり、そこからBagan-Nyaung U通りを行けば、ホテルはすぐだった。で、彼の家はそのSa-pa-da Pagodaを左折して市場までのその中間にあったのである。そこはニャンウの中心である市場からも近く、しかも大通りに面した一等地にあって、その時の帰り道の途上にあったのであった。

わたしがリクエストしたMi-me-Laung-Kyaungからの遠望、ここも眺めの良いところで、ここから撮った写真も前回のほうがずっとよく撮れていたと思う。その経緯も書いているはず、、Img_1169_640x427

そこからこのヒンズー寺院ナラッウンを通って、道はタビィニュに二通じていたImg_1170_640x427

タビィニュは大きな寺院で、僧院を抱えていた;5枚Img_1174_427x640
Img_1177_640x427Img_1172_640x427ここが正面か?Img_1175_640x427Img_1171_640x427この僧院は翌日再訪する

(この日の写真は実はここで途切れてしまった。このあと電池切れでカメラが作動しなくなったのだ。よって、この辺りは次の日また来ることになった、、)

 彼の家は商店を営んでいた。各種ticketの手配もやっていて、それらは同居の、しかも未婚の姉妹が営んでいるということをあとから聞いたが、その時やはり彼は不在だった。で、たぶんその妹さんらしい人と話しをすることができたのだが、一応、Zaw Lwin君を通して、来意を伝えてもらい、彼と連絡を取りたいというと、その場でケータイで連絡を取ってくれた。彼は完ぺきな英語を話すのがわかっていたから、電話口に出た彼に、5年前のことを英語で正確に話す自信はなかったし、そもそも覚えていてくれているかどうかさえ心許なかった。で、わたしの持てる英語力でそれなりに伝えたのだが、わたしの拙い英語力より彼の記憶力が優れていたといったほうが正しいように思う。彼はわたしの一言二言で完全にわたしを認識していた。そして、いつなら会えるかと聞いたわたしに、今晩帰るから、そしたら食事に招待すると、いかにも成功者らしい言葉が返ってきたのであった。ただ、そのあとがいけなかった。それはわたしの聞き取り力の問題で、つまり、彼が夕食を招待してくれる、といったのまでは聞き取れたが、7時半に会うことになったその場所が、彼の家といったのか、あるいはわれわれの泊まっているホテルといったのか(その前にどこに泊まっているか聞かれたのでそれは答えてあった)はっきりしなかったのである。ともあれ、当初の目的の一つは叶う方向に動いていた。その立役者がZaw Lwinであった。そのあと彼はホテルまで送り届けてくれたが、には最終日のチャーターを約束していたから、最後にtipは渡すつもりで、その時は特に心付けを渡さなかった。ところが、そのあと奇妙な展開になるとはだれも予測しておらず、Zaw Lwin 、TunTun、そしてわたしの関係は変な具合にもつれて、最終的にはZaw Lwin君が貧乏くじを引くことになったのだが、その話は次回、ということで‥、、